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「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」Ⅱ

2022年10月12日 | 地名・地誌

アヤメ語源考

◎語源は語呂合わせではない。

 多くの植物図鑑や書物には

◎「その葉が並列して立っている所から美しいあや(綾・文)がある」ところから「あやめ」と名付けた。

◎「文理または文目、つまりあやのある模様の意味で、葉がたくさん並び集まってあや目を描きだしている」

◎ 和名は「文目」の意味で、葉の芯が文目模様になっているからという。

などと書かれています。

 お偉い先生が「あやめ」は葉の並び方や葉の芯の模様が綾目に似ているから「あやめ」と言うのです、と言われると「そーなんだ!」としか言えません。

他にも「イヌノフグリ」「オオイヌノフグリ」と云う身近な植物があります。

    

イヌノフグリVeronica polita var. lilacina      オオイヌノフグリ(実)Veronica persica

和名の由来は、果実の形状が雄犬の「フグリ」、つまり陰嚢に似ていることから牧野富太郎が命名したそうです。当ブログが小学生の頃、この説明にどうしても納得できなかったことがありました。

アヤメもどうも納得できず当ブログのイメージ力のなさを悔いている次第です。

◎アヤメは文目ではない。

 「万葉集をみると、ァャメグサに対して安夜売具佐、安夜女具佐などの万葉仮名が当てられている。問題は、このうちの「メ」に当たる「売」及び「女」の文字にある。
かつて国語学者橋本進吉博士が万葉仮名で綿密に研究した結果、奈良時代の母音の数は現代 より多く、しかも一三種類の音に対して、それぞれ甲・乙二種類のグループの万葉仮名が当てられ、両グループの間の混用はまったく行われていないということが明らかにされた。

その説によれば、この現代の「メ」の仮名は次の甲・乙二つのグループに分かれているという。
甲――売、謎、畔、綿、馬、面、女など
乙――米、妹、梅、毎、時、味、日、眼など
しかも、このような甲・乙二種類の仮名は、特定の単語に限ってのみ使用されることを特徴としていた。

だから「売」とか「女」で表される「メ」の音は、文目の「目」の音とはまったく異なったものということになる。従ってアヤメの語源を文目とする説は学問的にはその根拠を失うことになる。

◎アヤメの語源は?

 奈良時代には、菖蒲(あやめ)鬘(かつら)と称して、五月五日の節会に、天子や群臣などが皆これを冠に結びつけたもので、これは菖蒲は、蓬(よもぎ)などとともに、悪魔を防ぐ霊力があるという中国古来の俗信によるものであった。

この儀式で親王や公卿たちに、菖蒲にのがヨモギを配して作った薬玉を渡し、舞いを舞って見せたのが菖蒲(あやめ)の蔵人(くろうど)と言う女官であった。

 奈良時代の宮中で華やかな役割を担ったのが漢女(アヤメ)であった。漢女は、中国や韓国から渡来した機織りに長けた女性で若くて眉目麗しく才長けた憧れの存在であったようです。

その様子は「枕草子・物見(ものみ)」に「菖蒲の蔵人、容貌よき限り選り出だされ」とあるように若くて美貌の女性がこの菖蒲の蔵人の役目を担ったようです。

 天候の不順や災害が頻発した奈良時代とは違い、平安時代は比較的平穏な時期が続き、菖蒲鬘の風俗も大きく変質し、アヤメ(菖蒲)も漢読みのショウブが定着し、ショウブ本来の霊力や薬効が薄れて、肉穂花序しか付けないショウブ(本来のアヤメグサ)の華やかさに欠けるより葉がショウブに似た美しい花を咲かせるアヤメ科アヤメが菖蒲の蔵人=漢女のイメージと重なり「あやめ」の名に転じたと思われます。

あやめ草→菖蒲(アヤメ)→ショウブ(ショウブ)と呼び習わされ、本来のショウブ→あやめ(漢女)に転じ、完全に「あやめ」と「ショウブ」が入れ替わってしまいました。

これは時代的には室町中期頃とされています。

地名との関連

 アヤメショウブ地名は前にも指摘したように宮廷貴族文化圏のごく限られた土地以外に成立は考え難いので、遠国、山間僻地にショウブ地名が存在するのは植物地名ではなく地形地名(細流・清水の古語)に由来するものと思われます。

 牧野富太郎著(原色牧野植物大圖鑑 離弁花・単子植物篇 北隆館)によると「アヤメが大群落をつくる所は必ずアヤメ平の名で呼ばれる」とあります。

しかし、この指摘には具体的な指摘される場所の記載はありません。地名辞典などで検索してもそれらしきものは見当たりません。

ただ、当ブログ:「ショウブ」地名考(4)「アヤメ」地名「菖蒲平(アヤメダイラ)(群馬県尾瀬ヶ原)」に見られるようにアヤメ類が全く生育しない地質にアヤメ平の地名があるのも牧野の指摘には矛盾があるように思われます。


「ショウブ」地名考(5)植物名「アヤメ」と「ショウブ」

2022年09月29日 | 地名・地誌

大変ややこしいことを書きます。

アヤメと呼ぶ植物とショウブと呼ぶ植物があります。無論両者は全く違う植物です。ややこしいことに両者の漢字表記は「菖蒲」です。フリガナがなければ「アヤメ」なのか「ショウブ」なのかは分かりません。

古代(万葉時代)アヤメは安夜売具佐、安夜女具佐などの万葉仮名で表記されていました。漢字表記は菖蒲(アヤメグサ)です。

アヤメグサ

当時のアヤメグサは現代のショウブ(菖蒲)のことを指します。

万葉時代のアヤメグサ・現在のショウブ。

ショウブはサトイモ科に属します。アヤメと混同されますが、花は写真のように全く鑑賞の価値のないものだが葉に芳香があるのが特色。その香りによって病魔を打ち払い災厄から逃れられるというので端午の節句の前夜にショウブの葉を束ねて軒下に吊るし風呂にも葉を入れて菖蒲湯として入浴する習慣が生まれた。

サトイモ科のショウブは全国の池や沼のふちなどに群生する多年生草本。地下茎は太く白色が普通だが赤味を帯びるものもある。葉は幅が1~2センチ、長さが70センチぐらいで剣のような形をしていてよう香りがある。

ショウブ(アヤメグサ)の花は現在のアヤメのようなものではなく大変地味なものです。

肉穂花序(ニクスイカジョ)と呼ばれ淡い黄色で小花を密生させて毛筆の先のような姿です。為にアヤメグサは花を愛でる観賞用ではありません。

肉穂花序(アヤメグサ)の花

万葉時代のショウブ(菖蒲)・現在のアヤメ。

万葉集にはこの地味なアヤメグサ(菖蒲草)12首に詠まれています。12首の内11首は大伴家持で残り1首も家持と縁の深い田辺福麿のものです。

奈良・万葉貴族の大伴家持らが何故この地味な菖蒲草を斯くも愛で歌に詠んだのかは偏にこの菖蒲草の薬効によるものです。

 和漢古典植物名精解(木下著 和泉書院)第8章 僻邪に利用された植物各種第1節 「あやめぐさ」(ショウブ科ショウブ)を引用します。

「第1節「ぁやめぐさ」(ショウブ科ショウブ)

「万葉集」に「あやめぐさ」を詠む歌は十二首ある。そのうち、十一首は大伴家持ほかの奈良時代の貴族の歌であるから「あやめぐさ」は当時の庶民にとって縁遠い存在であったといってよい。集中の「あやめぐさ」はすべて「かづらにする」あるいは「玉に貫く」と詠まれ、いずれも大陸伝来の習俗を反映し、後述するように、揚子江流域の荊楚地方に源流がある。具体的には僻邪植物を緒に貫いて環状に結び、手や頭に巻くか頭に載せて鬘につくった。

この風習を、大伴家持を中心とした一部の貴族の間で風流を楽しむ趣向と考える説もあるが、「続日本記」の天平十九(七四七)年五月庚辰(五日)に「是日、太上天皇詔して曰ふ、昔、五月の節には、常に菖蒲を用ひて鬘を為れり。此來、此の事已に停む。今より後、菖蒲鬘に非ざる者は宮中に入ること勿れ。」(巻第十七)という記述があるように、決して単なる風流とは考えられなかった。

当時は天候不順で災害も多かったから、厄払いなら何でも受容するような社会的状況があったのである。

平安時代になると、「延喜式」巻第四十五の左近衛府に「五月五日藻玉料 昌蒲艾」とあるように、菖蒲、艾などを五色の糸で結び垂らした薬玉に形を変え、続命縷・長命縷といって長寿を祈願する風習に変質し、貴族社会に広く流行した。

 奈良時代に大陸から伝わった風習が貴族社会に受容され五月の節句として時代の変遷に伴い変容をしながら今日まで受け継がれており、年中行事として広く社会に定着しています。

しかし、近世までは「あやめぐさは当時の庶民にとって縁遠い存在であったといってよい」もので況し山間僻地の生活する庶民とは全く関係のない代物であったに違いありません。

そのような「アヤメ(菖蒲)」が地名として成立するとは考え難いのが妥当だと思われます。

 

 

 

 

 

 

 


「ショウブ」地名考(4)「アヤメ」地名

2022年08月10日 | 地名・地誌

「菖蒲」表記の地名は、フリガナが無いと「ショウブ」と読んでしまいます。しかし、「菖蒲」を「アヤメ」と読む地名が沢山あります。地名辞典などを詳しく調べてみると「菖蒲」を全て「ショウブ」と分類しているものが結構ありました。しかし、ここに調べ直すとその中には「アヤメ」と読むところが結構ありました。

「ショウブ」地名は、当ブログ「ショウブ地名考」(1)~(3)で検証したように植物地名よりも地形地名、即ち、細流・清水の古語「ショウズ」に由来するとするのが地名学会の大方の見解のようです。

 ショウズ⇒ショウブに転訛し、漢字で菖蒲・塩生・勝風・正夫・庄府・庄布・小分・正部・勝負などと表記されたとされます。

一方、「アヤメ」地名はその語源となる由来は、植物の「アヤメ」以外無いようです。明らかに「アヤメ」地名の由来は植物の「アヤメ」と言うことです。

あやめ池(奈良市)

1925年(大正14年)大阪電気軌道(近畿日本鉄道の前身)が奈良県生駒郡伏見村大字菅原に遊園地を建設することを決定し、同年9月から工事に着工し、1926年(大正15年)6月に周遊道路・花菖蒲園・演芸場・小運動場などが完成した。この地に灌漑用の溜池があり、その堤にアヤメが美しく咲くことに由来してあやめ池と呼ばれていたことから「あやめ池遊園地」と名付けられた。

渓蓀原(あやめばる)(宮崎県都城市早水町)

東西八町、南北二町ほどの平坦な原野で土地が湿潤で古来から天然の渓蓀(アヤメ)のみが自生していたので渓蓀原と云う。(三国名所図会)

四・五月に咲くアヤメの色は常種より濃くてきれいで、他の地に植えても1年後には色が淡く変化して別種となるので庄内渓蓀と称された。早水池は噴泉でより滾々と噴出して涸れるときがない。旱乾の年には近隣村の人々の雩祭が絶えなかった。(日本歴史地名体系46宮崎県の地名ほか)

※:雩→あまひき(雨乞い)

綾目村(広島県御調郡御調町綾目)

御調川の支流山田川に注ぐ綾目川は当村北西の谷から流れ、流域に標高190~250mの台地を形成、古墳群がある。いずれも古墳後期の円墳。

地名由来の記述なし(日本歴史地名体系35広島県の地名)

菖蒲・菖蒲新田(アヤメ・アヤメシンデン)・菖蒲浜(アヤメハマ)(滋賀県野洲市中主町菖蒲)

 

明治22年(1889)町村制度により野洲郡中里村、兵主村が成立。昭和30年(1955)両村が合併し中主町となる。同32年(1957)中主村(一部守山市)の内吉川、菖蒲、喜合の三大字を編入し現町域が確立。

吉川村北方に開発された菖蒲新田は野洲川と家棟川の間の湖岸にありアヤメの繁茂する浜であったから菖蒲=アヤメ新田と名付けた。(日本歴史地名体系25滋賀県の地名)

菖蒲浜(アヤメハマ)は白砂青松の景勝地、水泳場に適し琵琶湖マイアミと呼ばれる。野洲川北湖岸、浜は低い砂丘地があり、防風林の松林が茂り「ハマゴウ」の群落がある。(日本地名大事典 3 近畿 朝倉書店)

※ハマゴウ:葉を線香の原料にしたことから「浜香」の名が生まれ、これが転訛してハマゴウになったといれる 。(Wikipedia)

あやめ浜(和歌山県湯浅町)

和歌山県有田郡湯浅町栖原(すはら)の海岸の北部一帯を指す。もともと低湿地が多くアヤメの群生地であったことから「あやめの里」と呼ばれた。(角川日本地名大辞典 30 和歌山県)

あやめ小路(京都市)

平安期に見える通りの名。菖蒲の咲く地帯を通っていたかとに由来する。(角川日本地名大辞典 26 京都府)

菖蒲町(埼玉県久喜市菖蒲町)※今日ではショウブ町と音読みしているが近世まではアヤメと読んでいた

鎌倉時代に菖蒲荘があり康正2年(1456)古河公方の臣・金田氏が菖蒲城を築く。けだし当地はがおよび沼沢地が多く、むかしは菖蒲類がよく茂っていたであろう。

江戸時代は脇往還の要地で宮宿とも称し、人馬の継立を行い2,7日の市も立った。その中心の街並みをアヤメ=菖蒲町とした。それが一般には菖蒲(ショウブ)と音読された。正式には明治10年(1877)まで戸ケ崎村と称しこの年菖蒲町と改称された。(日本地名大事典 5 関東 朝倉書店)

※戸ケ崎村菖蒲(下総国葛飾郡戸ケ崎郷)

江戸期~明治10年の村名。村内は上戸ケ崎、下戸ケ崎の2地区にわかれ、上戸ケ崎は町場化し菖蒲町と通称され「アヤメ」と読まれた。(角川日本地名大辞典 11 埼玉県)上尾市HP,喜久市HP参考。

菖蒲平(アヤメダイラ)(群馬県尾瀬ヶ原)

群馬県北西部尾瀬ヶ原の南方にある標高1920m内外の高原状の湿地。大小の池塘(ちとう)をもつこの湿原は山頂部に発達したものであるが泥炭層は薄く発達の経過についてはまだ知られていない。

「あやめ平」と呼ばれるがアヤメ・カキツバタの類ここには無いく地名の由来ははっきりしない。湿原上の植物はミズゴケ・タテヤマリンドウ・モウセンゴケ・キンコウカ・トキソウ・ツルコケなどがある。

 

 

 

 

 

 


「ショウブ」地名考(3)角川日本地名大辞典

2022年06月04日 | 地名・地誌

「角川日本地名大辞典」角川書店

 47都道府県別47巻(北海道、京都府は上・下巻)及び別巻2巻( 日本地名資料集成、 日本地名総覧)49巻からなる。編纂委員会委員長・竹内理三。

編集方針の基本は、「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている。(Wikipedia)

「ショウブ」地名の由来の解説については平凡社「日本歴史地名大系」とほとんど変わるものはないようです。

勝負

信濃国諏訪郡菖蒲沢村(現長野県諏訪郡原村菖蒲沢村)

 村名の由来は1,諏訪氏と武田氏が勝負した沢であるという説。

 2,湧水地に菖蒲が自生していることによる説。2の方が有力。

◎出雲国八束郡八雲村字勝負谷(島根県松江市八雲町字日吉)

 意宇川沿いにある谷。「雲陽誌」に永禄6年、毛利元就が出雲に進行した時、

 当地の尼子方の勇将山中鹿之助が毛利方の高野監物を討ち取ったという記事がある。

生歩、正部、少分

◎出羽国西置賜郡菖蒲村(現西置賜郡白鷹町)

 菖蒲は生歩、正部とも書く。

◎播磨国加東郡少分谷(現兵庫県加東郡少分谷)

 加古川支流東条川の上流。地名の由来は不詳だが菖蒲の生えた水沢の地という。

植物名地名「ショウブ」

◎伊賀国伊賀郡菖蒲池村(現三重県上野市菖蒲池)

 地名の由来は八幡社に菖蒲が生育していたこと、あるいは市場寺の池に菖蒲が生い茂っていたとも。

◎大和国添上郡菖蒲池(現奈良県奈良市菖蒲池町)

 地名の由来は「奈良曝」に「此町いにしへの池ニて菖蒲あまた生けるゆへに」とある。

◎陸奥国北津軽郡菖蒲川村(現青森県北津軽郡鶴田町菖蒲川)

 岩木川中流右岸の平野部に位置し、地名は菖蒲の繁茂する川原に由来する「鶴田町誌」。

◎土佐国土佐郡菖蒲村(現高知県土佐郡土佐山村菖蒲)

 鏡川最上流の山間部に位置する。「土佐山民俗誌」によると「セキショウ」の古名が菖蒲で地名は

 その自生地であることに由来する。

◎相模国高座郡菖蒲沢村(現神奈川県藤沢市菖蒲沢)

 水草菖蒲などが生える土地を開拓した「皇国地誌」。

◎武蔵国南埼玉郡菖蒲(現埼玉県久喜市菖蒲町)

 県北東部星川沿岸に位置する。地名は菖蒲の自生に由来。

地形地名「ショウブ」

◎甲斐国巨摩郡菖蒲沢(現山梨県北巨摩郡双葉町菖蒲沢)

 地名の由来は「細流」を意味する古語「ショウブ」にちなむ。

◎因幡国高草郡菖蒲村(現鳥取県鳥取市菖蒲)

 千代川中流左岸、その支流有富川が合流する地点。

 地名の由来は薬師寺の池のショウブに因むとも伝えっられる。

 細流を意味する「ショウズ」に関係する(地名の語源)

◎阿波国那賀郡菖蒲村(現徳島県那賀郡上那賀町菖蒲)

 那珂川上流の支流菖蒲河上流域に位置する。

 地名については、川菖蒲が多く繁茂していたためとする説。

 「ショウブ」は細流の意味で小さい谷川を集めた菖蒲谷川の地名化とする説がある。

◎相模国足柄上郡菖蒲村(現神奈川県秦野市菖蒲)

 秦野盆地の南西部四十八瀬川流域。

 地名は植物名とも細流を意味する「ショウズ」とも云われる。

 

 

 


「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅱ)

2022年04月21日 | 地名・地誌

前回の「日本歴史地名大系Ⅰ」で「ショウブ」地名の集計を掲示しました。

それによると菖蒲地名合計(A)=81,勝負地名合計(B)=16,ショウブ地名(C)=25で総合計は122です。

この122の内、地名の由来・伝承・地名譚・地名解が記載されているのは10カ所もありません。

以下、それらを順次検討します。

A).菖蒲地名

菖蒲沢村(但馬国朝来郡 現:兵庫県朝来市生野町)

菖蒲沢:国土地理院+兵庫県の地名Ⅰ

日本歴史地名体系・兵庫県の地名(Ⅰ)朝来郡生野町菖蒲沢村に地名伝承が記載されています。

よほどの知恵者がいたとみえて「判じ物」のような地名説話を考えたようです。

和銅年間に挑文師が綾織を伝えた。その事績を顕彰して綾目と云う地名を付けた。

綾目(アヤメ)→菖蒲(アヤメの漢字表記)→ショウブ(菖蒲の音読み)と転訛した。

※参考資料(上記の地名説話の基となったものです)

1)挑文師(あやとりのし)

 令制において、大蔵省織部司に属した技術者。大初位下に相当。定員四人。錦、綾、羅等の高級織物の織機の設計や    技術指導を任とした。また、地方に出張して機織りの指導にもあった。師の下に挑文生(あやとりしょう)八人が置かれ、品部が付属した。(国語辞典・小学館)

2)令義解・挑文師

 

令義解:織部司・挑文師 

3)続日本記和銅四年閏六月条

  

続日本記:元明天皇和銅四年閏六月・挑文師

4)生野史:菖蒲沢地名解

生野史:生野町円山菖蒲沢

※参考資料を検討して地名解を解読してみてください。

菖蒲ヶ谷(駿河国安倍郡松下組 現:静岡県静岡市葵区昭府町)

 安倍川左岸に位置し、松富上組、松富下組分かれていた。松下組は菖蒲ヶ谷とも呼ばれかっては花菖蒲を名産としていたことによる(安倍紀行)

菖蒲谷村(紀伊国伊都郡菖蒲谷村・現;和歌山県橋本市菖蒲谷)

 高野街道御幸道(京路)が通る。「此村の谷菖蒲多き歟、又は他所よりは宜きか村名是より起こるなるべし、村中地蔵寺の巽に当たりて菖蒲池といふ池あり、今は名のみにして菖蒲なし」(紀伊続風土記)

菖蒲谷(山城国葛野郡善明寺村・現:京都市右京区梅ケ畑善明寺村)

 善明寺村の中央を北から東西に一条街道(周山街道)が通じ集落が点在する。中世には梅ケ畑村に属し、禁裏供御役を勤仕して諸商売・公事役が免除されていた。特に「有菖蒲故名」(扶桑華志とある。

菖蒲谷産の菖蒲は毎年五月五日に禁裏の菖蒲湯に献上された。

菖蒲田浜(陸奥国宮城郡七ヶ浜村 現:宮城県宮城郡七ヶ浜町菖蒲田浜)

 江戸時代から明治九年まで湊浜、松ケ浜、菖蒲田浜、花淵浜、吉田浜、代ヶ崎浜、東宮浜を宮城七浜と呼んだ。塩竃村に含まれていたが独立性は強かった。その内の1ツ菖蒲田浜は昔この地にあやめが咲き乱れた所がありあやめヶ浦と呼ばれいつしか菖蒲田浜と書き表すようになったと云う俗談説がある。

菖蒲川(陸奥国三戸郡切谷内村 現:青森県五戸町切谷内)

 菖蒲川と粒ヶ谷地は元久年間(1204~06)佐々木京介・佐兵衛之介により開かれた土地と云う。

菖蒲川は佐兵衛之介の妻の名にちなむ地名とも云う。

B).勝負地名

清水沢村・勝負ケ町(陸奥国栗原郡清水沢村 現:宮城県大崎市古川水沢~栗原市古川水沢)

清水沢村:西は清滝村、南は小野村、東と北は荻生田村・高清水村(栗原郡高清水町)と接する。

清水の湧出する地が多いため村名となったという。(栗原郡旧地考)

一部省略

 (清水沢村村内)深渡戸(フカワタシド)と勝負ケ町は、前九年の役で源頼義が安倍氏を破った古戦場という。(栗原郡誌)

勝負沢峠、勝負沢(陸奥国=岩城国鹿沼郡南宇内村 現:福島県鹿沼郡会津坂下町宇内)

 南宇内村の南に陣ケ峰城址がある。越後の城重則が恵日寺(現磐梯町)領であった会津に侵入し高寺山付近に八館を築いた。その一の館といわれ、城重則は正暦2年(991)戦に敗れて、片門村で自刃したと伝える。勝負沢は恵日寺の衆徒が高寺を攻めたときに合戦があった所といわれる。

福島県河沼郡会津坂下町宇内(高寺山・勝負沢)

福島県大沼郡会津美里町東尾岐(戦場、勝負沢)

(日高神社)勝負川、大刀洗川(陸奥国  現:岩手県奥州市水沢日高小路)

弘仁元年(810)奥州三座の一として創建された。源頼義が戦勝祈願し尊崇された。

「封内風土記」に「日高川在日高妙見社辺、伝言、或号勝負川、源頼義父子征伐安倍貞任克之、濯剣此川、故曰勝負川」とあって、神社の西方に日高川があるが、源頼義父子がこの川で軍刀を洗ったので勝負川・大刀洗川とも称したという。

(槌山城跡)勝負谷(安芸国賀茂郡吉川村 現:広島県東広島市八本松吉川)

 吉川と原の境界にそびえる比高260mの急峻な山に築かれた大内氏の山城。天文二〇年(1551)落城した時の戦場と云う勝負谷の地名が残る

勝負谷古戦場 (伊予国宇摩郡金川村 現:四国中央市金田金川)

 轟城は天正期、阿波国三好郡白地城主大西備中守元武が居城し川之江城主河上但馬守を破り、土佐長宗我部氏・松尾城主真鍋氏と激しく戦って敗死。元武敗戦の古戦場を勝負谷といい試合場・大勝負・小勝負の地名が残る。(西条記)

C).正部などのショウブ地名

正部村(出羽国南村山郡東村菖蒲 現:山形県上山市菖蒲)

 正部村は菖蒲村とも表記される。

萱平川(カヤタイラガワ)と菖蒲川の合流点近く蔵王山の登山口。正保郷帳では菖蒲沢村とある。

天和二年(1682)正部山で金山を掘っている(上山三家看聞日記)

山形県上山市菖蒲(正部とも表記)

日本歴史地名体系に記載された菖蒲、勝負、ショウブ地名の由来は、上記の通りです。「・・・といわれている。」「との伝承がある。」の類で地名成立の検証をなされたものはない。「後付け」「語呂合わせ」の類ばかりです。

 

 

 


「ショウブ」地名考(2)日本歴史地名大系・・・(Ⅰ)

2022年04月01日 | 地名・地誌

日本歴史地名大系」平凡社47都道府県京都市の48巻、索引2巻の都合50巻)

谷川健一の発案により、戦前の「大日本地名辞書」を凌ぐ地名辞典編纂を目指し、計画が立ち上がった。各都道府県毎に、主に地元大学の歴史学者等の監修のもと編集委員会が組織され、その下で在野の郷土史家を含めた各地域の専門家が手分けして執筆に当たった。(Wikipedia

「総索引」から「ショウブ」項目を抽出すると下記の表のようになります。

この日本歴史地名体系は各都道府県ごとに一巻に編集され、項目ごとに解説されています。地名に関してその由来、伝承、地名譚などがあるものを列記し検証したいと思います。

 その前に本題から逸れますが余談を紹介します。

◎吉田東吾と大日本地名辞典

吉田 東伍(よしだ とうご)元治元年(1864年) - 大正7年(1918年) 新潟県出身。

「大日本地名辞書」の編纂者として知られる。歴史学者、地理学者(歴史地理学)。
日本歴史地理学会(日本歴史地理研究会)の創設者の一人。

琵琶湖周航の歌の原曲作曲者・吉田千秋。

 

 

 

 

 


「ショウブ」地名考(1)新日本地名検索

2022年03月27日 | 地名・地誌

「勝負谷橋」名前は橋が設置された場所の小字地名「勝負谷」に由来すると考えられます。そこで地名としての「勝負谷」について考えてみます。

「民俗と地名・民俗地名語彙辞典(上)」(三一書房)

【ショウブ、ショープ】

地すべりの災害の起りうる土地に住んでいる人々は、水が最大の誘因である場合が多いのだから、水の管理をきちんとすればいいわけである。その水路管理の場所をショウブ(菖蒲)とかショウズ(ショーズ)という。

昔は浄化の意味もあったのか、水路に菖蒲を野生させていたので、水路または水汲み場をショープといった。

〔小川豊『地名と風土』二巻〕

ショープは水路のこと。菖蒲谷、勝負谷と宛てた地名は多し。菖蒲はショーズやシズと同根で「細流」を意味する地名。

植物の葛潜も、そういう環境の名によっている〔『日本地名学』Ⅱ〕。

菖蒲の地名は、北海道以外の全国に多い。

菖蒲、菖蒲池(沼、沢、日、追、作、野、根、尾、越、峠)、勝負谷(平)、勝生、勝部、勝風、庄部、庄府、庄布

シ  川、生部、正部、正部谷(日、家)、相婦、小分谷、醤油谷価  〔『日本の地名』〕。

 勝負、菖蒲などは「ショウブ」地名であり表記として勝負、菖蒲、勝部・昭府・庄斑などなどで表記されています。

そしてこの「ショウブ」地名は北海道や離島などを除いた列島各地にみられるそう珍しくない地名です。

新日本地名索引全三巻・別巻地名レッドデーターブック(アッポク社)

国立科学博物館 金井弘夫(植物科学研究部部長) 編

国土地理院1/25,000地形図から全地名38万余件の読みと漢字 ・位置を収録したわが国最大級の地図地名資料。自然科学・博物学・文学・統計等の広い分野で活用されている。博物学全般にわたる基礎資料としても有効。

Aboc - アボック社 -新日本地名索引全三巻

大変な労作です。「落合」「相生」地名の分布を調べたことがありますが、国土地理院の地図を広げて虫眼鏡片手に定規でなぞって拾い出したことがあります。

それから比べれば格段に効率がよく便利なものです。

 新日本地名検索・五十音編から「ショウブ」地名を抽出しカウントしたのが下記の表です。

国土地理院1/25,000の地図上に200ヶ所「ショウブ」地名があります。

下菖蒲(山形・佐賀)、下正部(長野)、下正夫(徳島)、下菖蒲庭(福島)などの地名があります。

このように○○ショウブを抽出すればもっと多くの「ショウブ」地名が存在すると思われます。

即ち「ショウブ」地名は、それほど珍しくないことが分かりました。

更に縮尺の大きな地図であればもっと多い「ショウブ」がカウントされるかもしれません。

また、時代を遡った場合はどうなるのか興味のあるところです。

「勝負谷橋」で名前の由来で参考にした「小字地名」を全国に拡大すればかなりの数の「ショウブ」地名を採集することができるはずです。


勝負谷橋(9)橋の名前は地名が由来。

2022年03月06日 | 地名・地誌

「勝負谷橋」に関しての古い記録は見付りませんでした。又、説話や伝承もありませ。その為に橋の名前の由来を考えるには他の方策が必要となります。

 勝負谷橋(8)の調査データーによると、橋の名前は多くの事例から設置された川の名前、或いは地名(橋の両端の地名が異なる場合:両右方の地名から1字取り合成したりします)に由来します。

勝負谷橋は天竺川に架かっています。「勝負谷橋」(2)で検証したように「天竺川の由来については、流域にあった天竺山石 蓮寺からきた」ことから、設置された川「天竺川」は古代からの名称と考えられますから該当しません。

そうすると「勝負谷橋」は「勝負谷」と云う地名と考えられます。

豊中市史(旧版)の付録に「豊中市小字表」があります。

旧村の小字地名の一覧がが列挙されています。

「旧熊野村」57.勝負谷(しょうぶがたに)があります。

参考として旧桜井谷村少路13.菖蒲谷(しょうぶだに)と云う小字があります。

新修豊中市史・第1巻・通史Ι・豊中市大字小字図1~8

「勝負谷橋」の名前の由来は、設置場所の小字地名と考えるのが妥当と思われます。

 ※次回からは「勝負谷」から「ショウブ」地名を調べます。


勝負谷橋(8)橋の名前を調べよう。

2022年02月20日 | 地名・地誌

ネット上には「橋」に関する沢山の情報があります。

備前市のHPに面白い橋の名前が紹介されています。

「備前♥日生大橋」は公募によって決まったようです。

この「♥」印を何と読むのでしょうか?

最近は子供の名前も奇抜で我々には理解できない「きらきらネーム」が氾濫していますが橋の名前にも遂に「きらきらネーム」が進出したようです。

 冒頭にも記しましたようにネット上には数多くの「橋」に関する記事があります。国の機関(国土交通省各部署)、各都道府県、各研究機関、研究団体、個人、好事家など様々あります。

 「橋の名前」についてに限っても同じことで、その全てを閲覧するのはとてもできません。

中国地方整備局HPに「橋の名前の付け方には次のような方法があります。」

(1) 橋を架ける場所の地名や近くの代表的な地名、地域のシンボルとなるような橋名をつけます。普通は、地元の市町村と相談して決めますが、地区住民に応募してもらうこともあります。
 例:鳥取大橋、因幡大橋、河原橋など

(2) 橋の架かっている川の名前を付ける。
 例:千代橋、長江川橋など

(3) 橋を設計するときに決めた名前を橋名にそのまま使う。
この場合は、場所が分かりやすいように地名を付け、同じ地区に多数の橋がある場合には番号をつけることもあります。
 例:○○地区高架橋、第1○○橋、など

琵琶湖博物館フィールドレポーター201 7 年度第 2 回調査
「橋の名前を調べましょう 」 調査報告

(担当学芸職員北井 剛)

滋賀県内の「橋の名前の由来」の調査結果は、

※ 河川名、地 名、市町名を合わせたものが一番多くなりました。

   これらの中には「河の両岸の地名」の頭文字をとって名づけられた

   ものも含まれます。

滋賀県に限らず他地域でも同様であるようです。富山県在住の好事家のブログにも同じ結果が報告されています。

 市町村合併を繰り返し、行政区が大きくなってきました。その結果、昔から の地名が どんどん消えてしまいました。一方 、 橋は、 一度かけたら名前が変わること は 少ない ので 、その地域の歴史を色濃く残す こととなります。

 


勝負谷橋(7)京の五条大橋

2022年02月07日 | 地名・地誌

橋にまつわる「大勝負」は何と言っても牛若丸と弁慶の最初の出会いです。

「牛若丸」尋常小学唱歌 作詞、作曲:不明 明治44年(1911年)

京の五条の橋の上 大のおとこの弁慶は 長い薙刀ふりあげて牛若めがけて切りかかる

牛若丸は飛び退いて 持った扇を投げつけて 来い来い来いと欄干の上へ揚って手を叩く

前やうしろや右左 ここと思えばまたあちら 燕のような早業に鬼の弁慶あやまった

 

童謡「牛若丸」は、巌谷小波(明治を代表するお伽噺作家)の「日本昔噺」(全24編)シリーズ・第23編「牛若丸」(明治29年・1896年発表)を基に作詞・作曲されたとされます。

後世に語り継がれている「義経(牛若丸)」の物語は中世(室町初・中期に成立)した軍記物語「義経記(ぎけいき)」(作者不明)に準拠するとされています。牛若丸や弁慶の活躍した時代から約200年も後に完成したことになります。

「義経記」によると牛若丸と弁慶が最初に出会ったのは「西洞院通松原にある五条天神」となっています。

五条大橋と松原橋

 義経や弁慶の活躍した時代は平安時代末期(1100年頃)です。

現在の五条大橋は天正18年(1590)に鴨川の上流にあった橋を豊臣秀吉が今の場所に移築したもので、義経と弁慶が生きた時代には五条大橋はまだ存在していなかったのです。つまり、義経と弁慶の出会いの場所を五条大橋とするのは明らかに間違いだということなのです。

それでは当時の五条大橋は何処かという問題です。

平安時代の五条大路は松原通で清水寺参詣道で大変賑わった都の目抜き通りであったそうです。この地に架かっていた橋が五条橋であり、通りの両側に見事な松並木があったことから五条松原橋とも呼ばれていました

安土桃山時代,豊臣秀吉が方広寺大仏殿の造営に当たり,この地に架かっていた橋を平安京の六条坊門小路(現在の五条通)に架け替え,五条橋と称した。
そのため,この地の橋の名前からは「五条」が外れ,以後,松原橋と呼ばれるようになったとのことです。

勝負・決斗などの言葉から連想すれば、牛若丸と弁慶が五条大橋での出会いほどぴったりの出来事はありません。しかし、そんなメジャーな逸話がある五条大橋、松原橋は「勝負」を連想させる響きがありません。

 古代から源平合戦など幾多の歴史的分岐となった決戦の橋は「瀬田の唐橋」でしょうが、その名称に「勝負・決斗」の響きはありません。

橋の名前に限らず「関ヶ原の合戦」「巌流島の決斗」「一乗寺下り松の決斗」などなど勝負・決斗そのものが地名や事件の名称になることはないようです。

その点からすると「勝負谷橋」の名前の由来も「勝負」という出来事とは考えずらいように思えます。

 

 

 

 


「勝負谷橋」(6)日本最古の橋・猪甘津小橋。

2022年01月11日 | 地名・地誌
「勝負橋」に興味を持ち調べだしました。当初は大体のストーリを持って書き始めました。
先ず地元に伝わる伝承、民話、古老の伝える昔話、それらを記録した地元自治体史の記録を調べれば、由来由緒、あるいは間接的な何らかの手がかりがあるものです。
結論から言うと「勝負橋」については期待するものは見つけることができませんでした。「けちんぼ六さん」「川崎橋」の例のように範囲を広げて民話集や橋に関する資料なども調べましたが残念ながら直接或いは間接的な材料はありませんでした。
そこで郷土史を基本にはするものの方針転換して、別の面から「勝負橋」を検討します。
日本最古の橋
「日本書紀」仁徳十四年条「冬十一月為橋於猪甘津卽號其處日小橋也」(訳:十四年の冬十一月に、猪甘津に橋をわたした。そこで、そこを名づけて小橋といった。)この一文が書物に登場する最古の橋の記述といわれ、。
仁徳天皇の頃(5世紀、河内湖の時代※冒頭の地図参照)には、「小橋の江」と呼ばれた入江があり、そこに百済川(のちの平野川)が注いでいたと考えられます。
その河口付近は、人や物資を運ぶ船の盛んに出入りする港として栄え、「猪甘の津」と呼ばれていました。
その港には、上町台地にある高津の宮からの官道が通じていたわけです。そして、そこからさらに河内・大和方面への交通路をひらくために橋がかけられたというのが、この記録の意味するところです。

 猪甘津(いかいのつ)は、現在の大阪市生野区付近と想定され、周辺には猪飼野や小橋(おばせ)という地名が残っており、このあたりの土地は古くから開けていたようである。
小橋(小椅)は東成区東小橋。猪甘の津はここ猪飼野(現在の桃谷3丁目を含む一帯)がその伝承地です。
この周辺は小橋県(小橋村、木野村、猪飼野村、岡村)と呼ばれていました。東には百済川が流れ、ここに猪飼津橋が架かっつています。


猪飼野「猪甘」は、猪飼・猪養と同意で、朝廷に献上する猪を飼育していた猪飼部(いかいべ)の住居地であったと考えられている。この「猪」は、野生のイノシシではなく、渡来人が大陸から持ち込んだブタであるという説が有力である。
「猪甘津」は、旧平野川の河口付近にあった港で、そこに交通路としての橋が架けられたということである。これが文献上日本最古の橋である「猪甘津の橋」で、後の「鶴の橋」だと伝えられている。猪飼部は、飛鳥時代以降、殺生を禁ずる仏教の教えが普及するのに伴って消滅し、地名だけ残ったらしい
このあたりは、百済からの渡来人が多数居住したと考えられている。百済国は663年、唐・新羅連合軍に攻め滅ぼされ、百済から大勢の人が日本へ渡来し、百済王一族が難波に居住したことが、「日本書紀」天智3年条に“百済王善(禅)光王以て難波に居べらしむ”と記されている。その最初の居住地が今の天王寺の東部であり、この一帯に、百済郡ができたと考えられている。現在も地名が残っている。

鶴橋
文献上日本最古の橋が「百済川」(現在の平野川)に架けられ、通称「つるのはし」と呼ばれたことが現在の「鶴橋」の地名になったそうだ。
ツルがよく飛来したので「つるのはし」と呼んだそうで全長約36m、幅約2mの古代では大きな板橋だった。
1940年に旧平野川が埋め立てられ道路になり、1997年に橋があった近くにつるのはし跡公園が作られている。
公園には顕彰碑や「しのぶれど 人はそれぞと 御津の浦に 渡り初めにし ゐかい津の橋」という小野小町(825年頃?900年頃)がつるのはしを渡ったとき詠んだと言われる歌碑などが建てられている。
「つるのはし」の名の由来については、江戸時代の地誌『摂陽群談』に「むかし、この辺りに鶴が多く群れ集まったためという」と記されています。また一説には“津の橋”から訛ったものとも言われています。明治7年旧平野川を深く掘り直した際に石橋に掛け替えられ、同32年国庫補助により欄干付・長さ7間(12.7メートル)幅1間(1.8メートル)の石橋に改修されました。
その後、大正12年(1923)に鶴橋耕地整理組合の手によって新平野川が開削され、不要となった旧川筋は昭和15年(1940)に埋立てられて、つるのはしは廃橋となりました。
この由緒ある橋の名を後の世に伝えるため、昭和27年(1952)ここに記念碑を建て、当時の親柱4本を保存しました。なお、このつるのはし跡公園は旧平野川の流路の上に位置しており、公園入口前の道路上につるのはしがありました。


川崎橋・・「ぜにとり橋」と言われた橋。

2021年11月30日 | 地名・地誌
川崎橋は大川(旧淀川)架かる橋です。大阪市の公式HPによると「江戸時代このあたりの大川は、過書船・伏見船が往来し、四季折々には涼み船・月見船などで大そうにぎわったという。
対岸の備前島(現在の網島町の一部)は京橋口に接し、京・大和へ向かう街道に通じており、ここ川崎の地(現在の天満1丁目の一部)には幕府の材木蔵や城代および町奉行配下の役人宅、諸藩の蔵屋敷などが建ち並んでいた。両岸を結ぶ川崎渡しは元禄年間にはすでに存在していた記録がある。
 明治10年(1877)になり私設の木橋、川崎橋が架けられたが、同18年(1885)の大洪水によって惜しくも流失した。
その後、渡しが復活され人々に利用されてきたが、昭和20年(1945)には廃止されている。
このような由来から、かつての渡しや橋の名を世にとどめる本橋を「川崎橋」と命名した

現在の川崎橋は、中之島公園と千里の万博記念公園を結ぶ大規模自転車道の一環として昭和53年に架設された。
形式は高い塔から多くのケーブルを出し、桁を吊った斜張橋というタイプで、技術的にすぐれ、景観を重要視した橋として、土木学会の賞を受けている。



『ぜにとり橋」の言われ(大阪市公式HPから)
「江戸時代、大阪城京橋口から、幕府の役人宅や諸藩の蔵屋敷があった対岸の川崎(北区天満一丁目の一部)へは「川崎渡」が通っていた。
明治10年になってこの地に橋が架けられたが、私設の橋で通行料一人三厘を徴収したことによって、「ぜにとり橋」と呼ばれたらしい。
この橋も明治18年7月初めの大洪水によって下流の橋ともども流失し、以降再建されることはなかった。
「川崎」と云う地名

「旧町名継承碑」によると
「新川崎町」
 「当町は明治初期、西成郡川崎村の一部であったが、明治八年一二月新川崎町となった。同一二年二月北区に、同二二年四月市制の施行にともない大阪市北区新川崎町となった。昭和一九年四月天満橋筋二丁目の一部が新川崎町に編入された。同五三年二月住居表示の実施にともない新川崎町は天満橋一丁目・天満一丁目の各一部となった。当町域に明治四年四月大蔵省造幣局が創設され、旧天満一丁目が先に川崎町と称していたことと区分して、局敷地の全域に新の冠称が付けられたことの由来する。
平成七年三月  大阪市北区役所」とあります。

 川崎橋は、造幣局南門にあります。南門は普段は閉まっていますが、恒例の「桜の通り抜け」の時に一方通行の為『出口』として開放されています。

日本昔話「けちんぼ六さん」

2021年11月19日 | 地名・地誌
「日本昔話データーベース」(http://nihon.syoukoukai.com/modules/stories/index.php?lid=199)から引用します。
『あらすじ』
 東京の石神井川(しゃくじいがわ)に、今も下頭橋(げとうばし)という橋が架かっています。昔、この橋は江戸と川越を結ぶただ一つの木の橋として、とても人通りの多い橋でした。

この橋の周囲には大勢の乞食がたむろしていましたが、町の人々も乞食たちも仲良くおだやかに暮らしていました。この中に「六さん」という古株の年寄り乞食がいましたが、朝から晩までせっせと物乞いし、全く無駄遣いをしなかったので「けちんぼ六さん」と呼ばれていました。

ある日、六さんは一人ひっそりと死んでしまいました。
乞食仲間や町の人々が、六さんをねんごろに葬ってあげて住んでいた小屋を片づけていると、床下から小銭のたくさん入った壺が出てきました。
実は六さんは、若い頃に洪水で家族を流されたつらい過去があるので、
この橋を石の橋に架け替えようとしていたのです。

町の人々もこの意志を継ぎ、みんなで寄付をして、
この橋を立派な石の橋に架け替えました。
そして、道行く人にいつも頭を下げていた六さんにちなんで「下頭橋」と名づけました。
※1、「日本昔話」はYouTubede視聴しました。挿入の画像はYouTubeのものです。
※2、板橋区公式ホームページに「下頭橋」の項目があります。







「勝負谷橋」(5)江戸時代、豊中の村支配。

2021年07月27日 | 地名・地誌
「享保1 8(1733)年 に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。」
 現在の服部緑地公園にあった焔焇蔵は、幕末の村域でいうと長興寺村、石蓮寺・寺内村となります。これらの村は、天領、飯野藩の所領でした。
「豊中市は江戸時代にはどこの領地?」と聞かれたら「麻田藩」との答えが多いと思います。所が。豊中市史・新修豊中市史等に依るとそう簡単ではなくかなり複雑な状態であることが分かります。
見出しの「近世豊中の村々」に「幕末期豊中の所領配置図」を重ね合わせると下図のようになります。
天領、大名領、旗本領などが碁を打ったように複雑に入り乱れて配置されています。幕末の豊中には、4大名領、8旗本領、天領、一橋領がありました。
「大名領」
1)麻田藩
豊島郡に本拠を構える唯一の藩で、藩主は青木氏。豊島郡、川辺郡、備中に1万19石領有。幕末期、麻田村と箕輪村(一橋領・天領)を支配するだけであつたが、豊島郡では、麻田村の北側で接する轟木村(北)、宮之前村、石橋村、さらにこれらの村々に隣接する中之島村、今在家村(北 )、産所村、東市揚村、玉坂村、野村、井口堂村、畑村、上・下渋谷村を支配した。領地が地理的に連続している。小規模ながら領国的特徴を持っている。
2)淀藩
山城国淀藩10万2,000石。藩主は稲葉氏。豊中市域では上新田村の領有、他に摂津國島下郡15ヶ村1万1,000石を支配、いずれも稲葉家単独支配で地理的に一塊となっている。他に山城、近江、河内、下総、越後に1~2万石を領有。
3)半原藩
武蔵国榛沢岡部に陣屋を置いたので、岡部藩と称されたが、明治元年(1868)に本拠を三河半原に移し半原藩 となった。藩主は安部氏。石高2万石。
豊島郡では、半町村、北・南刀根山村、桜塚村、内田村、少路村、野畑村、柴原村、服部村、利倉村、曽根村、垂水村、合計3,900百余を領した。
このほか、丹波2,000石、三河6,200石、武蔵5,000石、上野1,600石があつた。摂津・丹波の所領を管理するために、野畑村に陣屋が設置された。
4)飯野藩
上総、安房、近江、摂津にわたって合計2万石を領し上総周准(スエ)郡飯野に陣屋を置いた。藩主は保科氏。豊島郡で14カ 村3,200石余、能勢郡4カ村1,000石余、川辺郡9カ村3,200石余、有馬郡 5カ村2,000石余を支配していた。
「天領」
幕府直轄領は郡代・代官支配であった。江戸時代のはじめころの豊中では、村上孫左衛門、長谷川忠兵衛が代官を勤めた。初期の代官は年貢請負的役割を持ち、支配地との結び付きが強かったが、徐々に幕府の官僚機構の中に組み込まれ、サラリーマン化していった。頻繁に交代も行われ、平均在職年数は6~7年ほどであつた。
「一橋領」
一橋家は田安家、清水家共々「御三卿」です。賄料領地として10万石を与えられた。一橋家の領地は武蔵 ・下野・下総・甲斐・和泉・播磨にわたったが、文政期(1818~30)に領地の交換が行われ、摂津が加わった。摂津では、豊島郡5,100石余・23カ村、島下郡3,800石余・10カ村、川辺郡5,800石・20カ村の領地を持った。地理的にまとまった領地支配が許されている。豊中市域では、箕輸村、原田村中倉、原田村梨井、原田村南町、原田村角を支配した。
「旗本領」
幕末期には、船越主計、船越柳之助、蒔田鐙太郎、大島雲四郎、大島雲八、大島鉄太郎、畠山飛騨守、鈴木正左衛門の8家の旗本領があった。
1)船越氏
幕末期、本家が船越柳之助家は、岡山村203石余、分家が船越主計家が原田村244石余、走井村94石余、利倉村6石余を領した。
2)蒔田氏
幕末期、蒔田鐙太郎熊野田村領主として現れる。
3) 大島氏
幕末期も野田村300石を領していた。
4)畠山氏
幕末期における、豊中市域の桜塚村、走井村、勝部村、福井村の4村416石余。
5)鈴木氏
摂津八部・豊島郡、常陸河内・信太郡において合計1,200石余を知行。

主な参考・引用資料:豊中市史、新修豊中市史ほか


「勝負谷橋」(4)大阪城鉄砲奉行支配焔焇蔵跡

2021年07月16日 | 地名・地誌
服部緑地公園の北東に「長興寺焔硝蔵場跡」の看板と碑があります。『新修豊中市史第1巻 通史1』 (豊中市)p650-656に「長興寺の焔硝蔵」の項があり。享保1 8(1733)年 に徳川幕府が当時の長興寺村・寺内村に敷地を確保して建設した。長興寺村・寺内村は幕領と譜代大名飯野藩保科氏領の相給村であり、焔硝蔵の敷地の多くは幕領であつたが、一部保科氏領の敷地もあつた。
『豊中の伝説と昔話』(鹿島友治)p50「煙硝ぐら始末記」には、蛤御門の変のころに、爆破されるのを防ぐために焔硝蔵の火薬を近隣の池に投げ込んだとの記載があり。また『新修豊中市史第7 巻 民俗』p245には、焔硝蔵の跡地は田になつたことと、江戸時代に火薬が神崎川の渡しから高川沿いに運ばれるときには、沿道では火を使うことが禁止されていたとの記載があり。