もう20数年前になりますでしょうか。熊野へ行ったことがあります。熊野古道が世界遺産になっていない頃だったと思うのですが、熊野詣でが盛んだった頃の話(『平家物語』等)に惹かれて行ってみたくなったのを覚えています。熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)すべてを廻るつもりだったのですが、速玉(はやたま)大社へは行かず、熊野灘で子供を泳がせて帰ってきました。今思い出すと、ちょっと残念な気がします。
先日、家の中のものを整理していて、那智大社で買った牛王宝印(ごおうほういん)を見つけました。牛王宝印というのは神聖な紙とされ、この裏に文言を書き、誓約を書いた本文(前書)に貼り継いで起請文とします。この紙は諸方の神社仏閣から発行されていますが、紀州熊野権現のものは烏牛王(からすごおう)といわれて全国的に流行しました。牛王宝印に書いた部分は、前書(まえがき)に対して神文(しんもん)と呼ばれます。
なんて言ってもわかりにくいですよね。まず前書には相手に対して何を誓うかという、例えば「あなたに忠誠を誓います」とか、「謀叛は起こしません」とか、「その証に人質を送ります」とかいった具体的な内容を書きます。そしてそれに背いた場合に罰を蒙るわけですけれど、それが神様であったり仏様であったりするんですね。その神仏の名前を具体的に書いたものが神文というわけです。
信長も書いているんですよ。「條々」として箇条書きにした前書の最後「…聊(いささか)も相違有るべからず、若(も)し此旨(このむね)偽(いつわ)るにおいては」のあとに神文の部分が続きます。「梵天、帝釈、四大天王、惣日本国中大小神祇、八幡大菩薩、春日大明神、天満大自在天神、愛宕、白山権現…御罰蒙るべく候也、仍(よ)って起請件(くだん)の如し」とあって信長の花押(かおう)と血判があります。これは本願寺の顕如光佐(けんにょこうさ)に宛てたものですが、本願寺には手を焼いていたのでしょうね。
起請文の沿革は神代史にまで遡ることができますが、最初は請願の意味が強く、祈願的起請であったといわれます。それが時代とともに変化し、信義的起請となりました。過渡期はおよそ平安朝末期、世が乱れ、人の心が信頼できなくなったためでしょうか。
『平家物語』にも、義経が起請文を書いたというエピソードが出てきます。
「…これによって諸神諸社の牛王宝印のうらをもって、野心を挿(さしはさ)まざるむね、日本国中の大小の神祇冥道(みょうどう)を請じ驚かし奉って、数通の起請文を書き進ずといへども、猶以(なほもっ)て御宥免(ゆうめん)なし…」
これは義経が腰越で書いた書状ですが、起請文を書いても何をしても鎌倉へは入れてもらえませんでした。頼朝は猜疑心の強い人ですから、起請文など信用しなかったのでしょうね。悲しいことです。