ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

芭蕉と弟子の庵

2018-10-28 19:29:21 | 日記
 前回「京都御所」の話をしましたが、京都では他にも伏見稲荷や西本願寺、二条城等々いろいろ見て参りました。あちらこちらに台風の影響が残っていて西本願寺の唐門(日暮しの門)は見ることができませんでしたし、二条城の二の丸御殿の屋根に取り付けられていた菊の御紋も剥がれていました。菊の御紋が剥がれたあとに、葵の御紋が取り付けられていた跡が見つかったというのでニュースにもなりましたね。歴史を感じます。

 さて今回はもう一度嵯峨の落柿舎(らくししゃ)へ。ここは芭蕉の弟子向井去来(きょらい)の草庵(別荘)ですが、芭蕉もここで『嵯峨日記』を書いているんですね。「元禄四年辛未(しんぴ)卯月(うづき)十八日、嵯峨にあそびて去来ガ落柿舎に到(いたる)」で始まるこの日記は、四月十八日から五月四日までの半月あまりのことを記したものですが、ここに滞在しながら嵯峨野を散策したり、弟子たちが訪ねてきたりして楽しく過ごしたようです。

 落柿舎

 去来は芭蕉を滞在させるにあたり、障子の破れを直したり、庭の葎(むぐら)を引きむしったりして準備をし、草庵の一間を芭蕉の部屋としてくれました。部屋には机を用意し、机の上には硯、文庫、『白氏文集』、『本朝一人一首』、『世継(よつぎ)物語』、『源氏物語』、『土佐日記』、『松葉集』などを置き、重箱にはいろいろな菓子や酒の肴(さかな)を盛り、さらには銘酒一壺(いっこ)に杯まで添えてあるという歓待ぶり。芭蕉は清閑の境地を心ゆくまで楽しみました。

 そもそもこの落柿舎の名の由来ですけれど、去来の『落柿舎ノ記』によれば、草庵の庭には40本の柿の木があったそうです。ある時、都の商人が庭の柿を一貫文で買いたいといってきました。去来は承知し、代金を受取りましたが、その夜嵐が吹いて柿が全部落ちてしまったのだそうです。翌日訪ねてきた商人は呆然とし、不憫に思った去来は代金を返しました。以来、去来はこの草庵を落柿舎と称したようです。

 芭蕉がここを訪れた頃には近くに小督(こごう)屋敷跡があったようで、「松尾(まつのを)の竹の中に小督屋敷と云有(いふあり)。…彼(かの)仲国(なかくに)ガ駒をとめたる処とて駒留(こまどめ)の橋と云、此あたりに侍れバ…」と記しています。小督というのは『平家物語』に出てくる高倉天皇の寵姫。高倉天皇の正妻は清盛の娘徳子ですから、清盛は小督に婿殿をとられたといって怒るわけです。そこで小督は難を避けるために嵯峨へ隠れ住むことになるのですが、高倉天皇は笛の名手源仲国(みなもとのなかくに)に命じて小督を探させます。昔小督と仲国は琴と笛を合わせたことがあったので、その音色がわかるからです。

 嵯峨のあたりに馬を進めていると、やがて琴の音が聞こえてきます。それは紛れもなく小督の奏でる爪音だったのです。この場面の文学的描写は、後に黒田節にも使われています。「峰の嵐か松風か 訪ぬる人の琴の音か 駒をひきとめ立寄れば 爪音高き想夫恋(そうふれん)」。年配の方には馴染のある歌詞だと思いますが、想夫恋というのは曲名です。文字通り「夫を想って恋う」という曲なんですね。

 竹林


 話が少し逸れましたが、芭蕉は『平家物語』を愛した人ですから、小督の墓といわれるところまで行き、「うきふしや 竹の子となる 人の果(はて)」と詠んでいます。一時は高倉天皇の寵愛を得た人が、こんな藪の中の塵芥(ちりあくた)になってしまったと憂いているんですね。本当に人の命など、はかないものです。


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