ひとひらの雲

つれづれなるままに書き留めた気まぐれ日記です

式部の結婚

2020-02-02 19:28:08 | 日記

 前回でも一部『源氏物語』を取り上げましたけれど、『源氏物語』の魅力は後世の今でも生きています。ではその作者である紫式部についてはどれくらい知られているでしょうか。彼女については学者によってさまざまな説があり、生没年もはっきりしませんし、結婚生活についても諸説あります。どれが正しいかということは専門家にお任せしますけれど、ここでは今井源衛(いまいげんえ)氏の『紫式部』を参考にして、彼女の結婚生活について見ていきたいと思います。マニアの方を別にすれば、彼女が結婚し、子供を産んでいたことはあまり知られていないようです。

 紫式部図

 今井氏の説によれば、彼女が29歳の時、またいとこにあたる藤原宣孝(のぶたか)と結婚しました。宮仕えに出る前のことです。宣孝は式部より20歳前後も年長で、すでに数人の妻があり、上は26歳にもなる子供もいたのですから、式部は最初気乗りしなかったようです。求婚を受け入れずに父為時(ためとき)の任地越前へ赴きました。

 宣孝の人柄を示すエピソードが『枕草子』の「あはれなるもの」の段に記されています。「あはれなるもの」は「感嘆するもの」くらいの意で、親孝行の子とか鹿の鳴く音等があげられていますが、その中に身分のよい若い男性が御岳(みたけ)に参詣するために精進している様子というのがあります。そして参詣する時は目立たぬ身形(質素な服装)に変えていくものなのですが、右衛門の佐(うえもんのすけ)宣孝は「つまらぬことだ。清浄な衣を着て詣でるのに何の不都合があろうか。『身形を悪くして参詣せよ』とは御岳の神様もおっしゃるまい」といってひどく派手な服装をして出かけました。道行く人はあきれた様子で見ていたのですが、果たしてひと月ほどして宣孝は筑前守(ちくぜんのかみ)に栄転します。清少納言たちは「彼の言うことに間違いはなかった」と噂をしましたが、これは「あはれなること」ではないと書いています。

 宣孝は派手好きで男らしいところもあり、検非違使としては鳴らした人物だったようです。女性に対してもまめな性格だったらしく、越前へ去った式部に対して何かにつけ手紙を送っています。越前へも行くといいながら来ない言い訳に何だかんだといってきたのを、式部は「いつまでお待ちになっても雪解けはありませんわ」と手痛く歌で返しています。そうした歌や手紙での応酬が繰り返され、式部も都が恋しくなったのでしょうか。すでに三十路に近い年齢でもありましたし、宣孝との結婚を決意したようです。今井氏の説によれば長徳4年(998年)頃、式部は宣孝と結婚しました。翌長保元年には娘の賢子(かたいこ)も生まれています。

 式部の場合嫁入り婚ではなく通い婚でしたから、新婚時代も歌での応酬は続き、相変わらず式部は強気でした。「あなたの妻となったのですから、予想していたよりももっと良い女だと思って頂きたいわ」とか、「あなたは早くも私にお飽きになったようですわね」、「浮気などしてお前に心配はかけないからねとおっしゃったのはどなたでしたっけ」等々気性の強さが窺われる歌も多く存在します。それでも結構幸せな新婚生活を送ったようですが、それも長くは続きませんでした。3年にも満たないうちに宣孝は急死してしまうのです。疫病が原因ともいわれていますけれど、憎まれ口をきいていても、やはり式部の悲しみは一入(ひとしお)でした。「見し人の 煙となりし 夕べより 名ぞむつまじき 塩釜の浦」。

 こうして式部の短い結婚生活は終わりを告げますが、その後式部は宮仕えに出、ご存知『源氏物語』が世に出ることになるわけです。宣孝の死がなければ、式部が宮仕えをすることもなかったかもしれませんし、『源氏物語』が世間に広まることもなかったかもしれません。ちょっと運命的なものを感じますね。

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