「シルトの岸辺」を発見! | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

Silto_20200123210701  ← ジュリアン・グラック 作『シルトの岸辺』(安藤元雄訳 岩波文庫)「最大の長篇かつ最も劇的な迫力に富む代表作 宿命を主題に,言葉の喚起機能を極限まで追求し,予感と期待とを暗示的に表現して見せた」

 

 ジュリアン・グラック 作の『シルトの岸辺』を読了した。名作。本を漁りに書店に行き、ふと岩波文庫の棚で本書に目が行った。パラパラと捲って、いいという直感。知る人は知っているのだろうが、我輩には全く未知の作家で、まさに発見と言える。自分の真贋を観る目を褒めたくなる。


 本書の解説にもあるが、ブッツァーティ作の『タタール人の砂漠』 (岩波文庫)のカフカ的不条理を彷彿させるが、あのいい意味での素っ気なさを詩情溢れる情景描写や心理描写で、人の手にはどうしようもない運命の潮流に流され、避けがたい破局へ向かっていく様を丁寧に描いている。それなりに小説を読んできた吾輩だが、この味わいは初めて。年初からこんな作品に出合えて幸せである。

 

 つぶやきに、プールの話題があった。ふと思い出したことが。
 恥ずかしながら、我妻、ずっと泳げなかった。想像するに、ガキの頃、家族で岩瀬浜へ海水浴へ行き、海水浴場のはずの海岸の、あまりの急激な沈み込みに畏れをなした……トラウマとなった……と言い訳しておく。40歳、心機一転とばかりプール通い。最初は歩くだけ。泳ごうとしても、息継ぎができないので、10数メートルも馬力で進んだら、もうダメ、体を立てて喘ぐように息。そんなある日、テレビで木原 光知子さん(59歳という若さで亡くなっていたことを今、調べて知った。合掌!)の水泳教室を観た。

 

 番組の中で、木原さん、「息はね、吸うんじゃないの、吐くの。吐けば人間の体って、勝手に吸ってくれるの」と。吸うんじゃなく、吐く。これが、息継ぎに苦しんでいた自分のヒントになった。顔(頭)を水中に浸けている間は息を吐く。顔面(口や鼻)が水上に出たら、吸う(あるいは心肺機能に任せる)。それだけを心掛ける。そしたら、初めて、25メートルのプールを泳ぎきることが出来た! 感激だった。数ヵ月も通わないうちに、連続して一キロとなった。息はね、吸うんしゃないの、吐くの。絶好のタイミングでの絶好のアドバイスだった。

関連拙稿:「泳げたぞ!」「木原光知子さんの命日にちなんで

 

 我輩、毎年のように風邪を引くのは、不養生のせいより、呼吸法がなってないからかな。ただ、鼻呼吸が出来ず、口呼吸するしかないし、人前であからさまに口呼吸するわけにいかず、変則的な(いびつな)呼吸法になっていただろうことは否定できない。授業中は、常に地獄でした。口をうっすら開けて、静かに息をする。授業が終わる頃には顔が真赤だったはず。友と話す時も、口であからさまに息するわけに行かない。先生の話も友の話もまるで頭(耳)に入ってこない。というか、我輩に夜という睡眠時間帯がないので、日中は昼行灯。呼吸法以前の話ですね。

 

 過日、「アブサロム、アブサロム!」を読了した。フォークナー作品を読んで感じることがあるので、ひと言贅言しておきたい。本書でもそうだが(大概のアメリカ文学作品も?)、視野が白人と黒人との相剋に止まっていることだ。本書には(インディアンと俗称されている)先住民が、ほんの背景として一瞬姿が垣間見られ、誰に気付かれることなく(あるいは見てはならぬ存在、断固視野から掻き消さなくてはならない非存在として)物語の潮流から沈みこんでいく。

 

 そう、アメリカ(北米)文学がいつか果たさなければならない、永遠の課題として、アメリカ人(白人ら)が虐殺し抹殺を計った(ほぼ成功した)先住民の問題がある。奥の奥の院であり、闇の奥の闇が瀕死なからも息づいている。その課題は、中南米文学がその一端を果たすが、肝心の当の北米文学はまだほとんど文学の遡上に載せてはいないのではないか。