脚立…風前の灯火? | 無精庵徒然草

無精庵徒然草

無聊をかこつ生活に憧れてるので、タイトルが無聊庵にしたい…けど、当面は従前通り「無精庵徒然草」とします。なんでも日記サイトです。08年、富山に帰郷。富山情報が増える…はず。

Tubaki_20201118203301 ← 椿の蕾。開花も間近か。サザンカは咲き始めているよ。

 

 ガス瞬間湯沸かし器が不調。電池はまだあるのに、点火しない。今日、庭仕事していて気づいたこと。水漏れしている可能性。いろいろ問題あるなー。

 

 秋日和の中 家の回りを散策。昨日の悪戦苦闘の痕を見て回った。小春日和に釣られてか、猫が隣家との間の小路で日光浴。先に進めなくなって後戻り。すると今度は 内庭の紅葉の枝でハトが日光浴。我輩 邪魔かなと家の中へ引っ込んだ。


 頑張ったわりに外見にかわりなし。やはり、幹の上部を伐採しないことには、藪のままなのだ。ところで、作業中、脚立から降りようとして足を踏み外して、小路の路傍に咲く石蕗の上に尻もち。石蕗たちか半ば押し潰されたままだった。可哀想に。我輩としては、後方へ転げ、何処に倒れるのか分からず、ああ、笹の上でなくてよかった。一瞬、背中に笹竹の切っ先が刺さるかもと覚悟した。笹竹たちも剪定鋏で切ったばかりだったのだ。
 脚立、もう降り切ったと思ってたら、まだ一段残っていた。焦った。後ろを振り返ろうとも思ったけど、笹のことを思い出し、イチかバチかで背中からそのまま倒れた。恐る恐る背中を触ったら、無事。よかったー、でした。ツワブキたちが被害を被った。心配なのは、脚立が倒れたり、落ちたりです。

 

 宇宙(まだ端緒に過ぎないが)の民間利用。地球環境は悪化の一途。最早、対策は間に合わないのか。宇宙へ活路を見出だすってことか。地球……故郷を見棄てる? 資源獲得競争の余地は地球外しかなくなった? 一部の有識者は地球表面には今世紀半ばには住めなくなると見切っている? 猛烈な台風、猛烈な降雨、あるいは旱魃、水や食料資源の枯渇や争奪戦。20万年前 さらに5万年前に、出アフリカしたように、出地球するのだろう。地球を脱出できるのは、金持ちや権力者、政治家たち?


 一般人がコロニーへ移住するとしたら実験的に。安全性が確認できたら富裕層が。さて、出アフリカならぬ出地球できない貧困層は、地球に置き去り。それこそ、出アフリカ出来なかったアフリカ人たちのように、過酷な環境下で生存闘争を繰り広げるのか、はたまた協力して生き延びるのか。今世紀半ばには白黒が見えてくるのかな。
 (富裕層を除く)日本人については、東南海地震や富士山の噴火、再度の原発事故で、壊滅的事態に見舞われそう。やはり、今世紀半ばには結果が出てるかも。

 

Kami ← シモーヌ・ヴェイユ 著『神を待ちのぞむ』(今村純子 訳 河出書房新社)「自分にとって「灯台のような存在」と言い、「ユダヤ人が教会のそとにあるかぎり、じぶんはカトリック教徒にはならない」という言葉に「息もできないほど感動」した須賀。不滅の輝きを放つ名作」

 

 シモーヌ・ヴェイユ 著の『神を待ちのぞむ』を読みだしている。恥ずかしながら、シモーヌ・ヴェイユの凄みを本書で初めて知った。主著(?)の「重力と恩寵」は未読なのだ。傑出した思想家だとは思うが、凡人の吾輩、彼女の身近には居られないな。


 「角川書店版 夏目漱石全集〈7〉」所収の「それから」読了。唐突な終わり方にびっくり。代助にとって瀬戸際の結末。読み手にとっても暗澹たる心境に置き去り。漱石は、本作品を書き上げて間もなく急性胃カタルで倒れた。漱石、結末をどうするか、相当悩んだのではなかろうか。

 

 本日も快晴微風。昨日の御褒美(?)に映画「はりぼて」を観に行こうかと思ったが、筋肉痛。映画館での鑑賞は苦手だし、自重。だらだら本を読んでるうちに、午後の3時。迎え酒ならぬ迎え庭仕事。隣家との間のでっかい杉の木の枝葉の伐採作業。低いところはともかく、例によって高いところは脚立に乗って。腕を伸ばして剪定鋏を片手に持って。昨日は作業し過ぎ。今日 作業の開始時間を遅らせたのは、日没(5時くらい)で作業を終わらせるため。バリカンでトラ刈りしたみたいな杉になった。でも、かなりスリムに。自己満足のやりきった感あり。
 これで当分、隣家から、お宅の杉の枝葉が風に揺れてウチの壁面を擦る、何とかしろの苦情も回避できるだろう。

 

今朝未明の夢:

 まさに丑三つ時に目覚めた。どうやら尿意のせいらしい。が、夢で起きたとも言える。稀に観るパターン。だが、もう何年にも渡って継続している。……場所は決まって(恐らく)首都高速道路の中。複雑に交差する路線。私達は気が付くと首都高速に迷い混んでいる。観ると沢山の人々も列を成して緩やかな登り勾配の道路の片隅を歩いていく。どうやら私は歩いたことがあるようだ。というのは、途中、別れ道に差し掛かり、多くが右手の道を行くのを、天の邪鬼かのように左手の道を選び、連れを従え進んだのだ。
 早いはずだった道だが、しばらく歩くと、工事現場に遭遇し先を進めなくなっている。多数が選んだ道のほうは みんな淡々と渋滞することなく進んでいる。自信があるかのように敢えて左の道を選んだばっかりに、我々は滞留してしまった。私は面目なく感じている。何とか右側の道の列に合流したい……ところで目覚めた。
 今回の夢は、今までとは若干パターンが違う。いつもは私一人なのに連れがいたこと。しかも、首都高速(?)の道の片隅を歩くのが多数だという点。なぜ首都高速の真っ只中を歩く夢を何度も観るのか? 記憶する限り、首都高速を歩いた体験など、ないはずなのだが。