異世界こぼれ話 その十四 「ハイズヴィル事件(完結編)」 | Siyohです

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音楽とスピリチュアルに生きる、冨山詩曜という人間のブログです

1888年10月21日、マーガレットはニューヨークにあるオペラハウス「アカデミー・オブ・ミュージック」で、全てはトリックだったと震える声で暴露し、その後、調査員の立ち会いのもとでラップ音の実演をしました。

(当時の新聞。「Pranks the spirits play,(霊たちの悪ふざけ)」という見出しが見えます)

 

真ん中に小さなテーブルが置かれているだけのステージに、最初に出てきたのはリッチモンドという歯医者です。彼はスピリチュアリズムを攻撃する側の急先鋒として、有名な人でした。彼は二つ折りのスレートを持って出て来て、それを開いて、何も書かれていないのを見せてから、テーブルに置きました。スレートというのは、持ち運べる黒板みたいなものです。彼は若干のスピーチをしてから、もしかしたらスレートに霊からのメッセージが書かれているかもしれない、と言い出しました。再び見せられたスレートには何かが書かれていて、リッチモンドはそこに、いかさまやペテンは暴かれなければならない、といった内容が書かれていると説明したのです。

 

彼はさらに不思議なことを見せて、それからすべてはトリックだったと打ち明けて、その種明かしを始めました。その後、マーガレットが呼ばれ、彼女は靴を脱ぐと、ストッキングで覆われた足を松で作られた音響板の上に置きました。なお、この日の舞台に立ったのはマーガレットだけで、ケイトは客席にいました。そして、今までのラップ音はすべて、足の親指の関節で鳴らしていると説明すると、ラップ音はすぐに鳴り始めました。この状況は当時のたくさんの新聞に載っていますが、ニューヨーク・トリビューン紙によると、その音量は段々と増大し、壁を上って、アカデミーの屋根全体に響いたそうです(ホント?)。マーガレットはケイトと一緒に、その後も各地で実演を続け、さらに、スピリチュアリズムはすべてウソだったという手記を発表し続けました。

 

ところが一年半後、マーガレットはそれらの発言を撤回します。さて、フォックス姉妹に何があったのでしょう。この発言の背景を探るために、姉妹三人の人生を簡単に追ってみましょう。

 

19世紀は科学の恩恵がどんどん民衆に行き届き、みんな迷信なんか捨てて科学の世界に邁進しようという時代でした。それだけに、こうしたスピリチュアリズムの流行に科学は否定的です。そして教会もまた、こうした運動を快く思っていませんでした。伝統宗教にはそれぞれの死後の世界観があります。つまり、勝手に死後の世界と連絡を取り合って、そうした世界像を崩されてはたまらないのです。さらに、教会の言葉を信じ、彼女たちを悪魔扱いする人たちまで現れてしまいました。

 

実はマーガレットは、ツアーの際にひどい目に会っています。マーガレットはハイズヴィルの事件当時、10〜15歳くらいだったと思われます。当時のいろいろな人が彼女とケイトの年齢を、違うように言っているため、正確な年齢がわかりません。母親の手記を採用するなら15歳ですが、何より、マーガレット自身が自分の本「The Love Life of Dr. Kane (ケイン博士との愛の人生)ー1866」の中で、「1852年の秋、13歳になる頃」と書いているのです。


ちなみにこの「The Love Life of Dr. Kane」は、マーガレットと、その婚約者だったケイン氏の間で交わされたラブレター集です。この本に関してはまた後で触れます。

 

さて、年齢の話に戻りますが、母親と娘の間ですら、これだけの食い違いがあります。また、ケイトはケイトで、ある機関誌に記事を寄稿した際、当時の彼女たちは7歳と5歳だったと書いています。まあ、年齢の問題にはこれ以上踏み込まないようにしましょう。とにかく、ツアーに出ていた1850年当時、マーガレットは多感な年頃だったというのは間違いありません!

 

レアたちは1850年11月、ニューヨーク州のトロイを訪れていました。そこで、彼女たちのデモで感激を覚える人たちがいる一方で、それらは悪魔の仕業だとする人たちが現れたのです。そして、R・M・ブートン氏の家に身を寄せていたマーガレットのところへ、暴徒と化した群衆が迫ってきました。暴徒となっていたのは下層階級の人たちで、上層階級の人が裏で糸を引き、マーガレットを殺すように言っていたようです。幸い、ブートン家の警備は固く、暴徒たちの目的は達成されませんでした。なお、レアと母親も、これほどではないものの似たような騒ぎに、1863年7月のニューヨークで巻き込まれています。

 

この出来事でトラウマを抱えていたであろうマーガレットには、婚約者のケイン博士がいました。その彼は、彼女にスピリチュアリズムなんか止めてほしいと言っていたのです。そして1857年、ケインが亡くなると、彼女は翌年、カトリックに転向し、霊媒の仕事をほとんどやらなくなってしまいます。ちなみに彼が亡くなったときマーガレットは、結婚の約束をしていたので遺産の一部を貰う権利があると、遺族に言いました。しかし遺族はそれをまったく認めないので、ケインに結婚の意志があったことを証明するために出したのが、前述の本です。というか、よくこんなものを出せたと思いますが。それは彼女が当時、有名人だったことの証拠なのでしょう。彼女はその後、婚約者の姓を名乗り始め、遺族と法廷で争いながら、酒を結構飲むようになっていきます。

 

レアは1851年に、ラップ音騒ぎがきっかけで家族同然となったキャルヴィンと結婚しました。しかし彼は、1953年に亡くなってしまいます。それでもレアは再度、1858年にダニエル・アンダーヒルと3度目の結婚をします。そして1885年には「The Missing Link in Modern Spiritualism(近代スピリチュアリズムの失われたリンク)」という本を出版し、ハイズヴィル事件の後に彼女の身に起きたことを公表しました。彼女には経済的な不安はなく、霊媒としての人生を順調に歩んでいたようです。ちなみに彼女は、酒浸りの生活を続けるマーガレットとケイトを助けようとはせず、むしろ、その自堕落な生活を強く戒めていました。

(レアとダニエル・アンダーヒル。暴露のあとで同年12月にキャプロンがレアにインタビューした記事に載っていた写真)

 

一方ケイトは、最初の頃こそパトロンに恵まれ、職業霊媒を続けていました。しかし、スピリチュアリズムがカルトになりかけて、人々が何も正しく理解しようとしないのに疲れていたようです。1865年に両親が亡くなると、ケイトはそれをきっかけに酒浸りの生活になってしまいました。それでも、1872年に結婚してからはちょっと落ち着いてきたようですが、1881年に夫は亡くなってしまったのです。

 

1879年2月に、「The Medium and Daybreak(霊媒と夜明け)」という機関誌に、ケイトが寄稿した記事があります。その記事で彼女は、「自分たちが引っ越してくる前にもラップ音が聞こえたと言うけれど、そんなことはない」「当時、私たちが家から去ると、ラップ音は鳴らなかった」と言い、ラップ音を鳴らせるのはマーガレットと自分だけであることを強調して、自伝を出版しなければならないと述べています。当時の資料は、宣言した人たちのサイン入りでたくさん残っていますし、手紙類もたくさん残っています。そして、ケイトがこの記事で述べていることは、それらの資料と完全に相反しているのです。

(ケイト・フォックス)

 

この記事を読んでいると、もしかしたら彼女は、どこか自己顕示欲の強い人だったのではないかと感じます。そして夫が亡くなり、あるとき、酒浸りのケイトに子供は育てられないとレアは判断し、彼女はケイトから養育権を取り上げようとしました。その結果、二人の子どもは児童虐待防止協会によってケイトから引き離されました。しかしマーガレットがその子供を連れ出して、イギリスの後見人に預け、とりあえず落ち着くのですが、このときマーガレットとケイトは、共同してレアに復讐する決意をしたと言います。

 

こんないざこざの中で、巷のスピリチュアルブームを快く思わないスピリチュアリズム反対派が近づいてきたのです。

 

そして、マーガレットとケイトは、1500ドルと引き換えに嘘の発言をしたのです!

 

まあ、しょうがないですよ。マーガレットは亡くなった婚約者一筋、ケイトは夫を亡くしていて、二人とも酒浸りの生活で、生活も楽ではありませんでした。しかもマーガレットにとってみれば、スピリチュアリズムは暴徒に襲われた記憶がある、婚約者がやめろと言っていたものです。この告白をした頃の1500ドルは、今で考えると460万円くらいの価値。ぼちぼちの金額です。それに、ラップ音はでっちあげだと示せば、憎っくきレアの立場を貶められますし。

 

結局、マーガレットとケイトは、どこかお客様だったのではないでしょうか。わけも分からずにスピリチュアリズムなんてものに巻き込まれ、続けていても悪いことが結構起きる。そして実際にマーガレットはリタイア。ケイトだって、執拗な反対派がウザすぎると思っていたことでしょう。霊媒業を始める時に、すでにそれなりの年齢になっていて、霊たちからの言葉を受けて決意したレアとはやはり違うのでしょう。今回更に詳しく調べるまでは、マーガレットとケイトは残念な女性だと思っていましたが、ここまで来るとちょっと同情心も出てきました。二人とも旦那さんが生きていたらまた違ったのでしょうね。。。

 

マーガレットは一年半後に前言を撤回し、当時生活が窮乏していたこと、姉への強い反感から精神不安定だったことなど、いくつかの言い訳をしています。その後、生涯通じてマーガレットとケイトは、ラップ現象は事実であったと主張し続けました。マーガレットの死を看取った夫人の話によると、ニューヨークの貧しいアパートの寝室の天井や壁、床から、死ぬ間際までラップ音が鳴り続けたそうです。