さて本題の前にコロナに関する役立つ情報を
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新型コロナウイルス感染症について@神奈川県
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新型コロナウイルス感染症に関する情報(2020年4月3日更新)@横須賀市
横須賀市・横浜市公共交通各社の新型コロナウイルスに関する対応について
・横須賀・横浜地区の公共交通各企業のコロナ対策のリンク集です。利用者の協力をもとに3密を恐れず公共交通を利用しましょう。

・憲政史上最長在職首相の辞意
【全文】安倍晋三首相が辞意を表明 約1時間の記者会見で何を語ったのか【質疑応答】@BLOGOS20208/28より
安倍晋三首相は28日夕、首相官邸で記者会見を開き、辞意を表明した。
会見では辞任の理由として、持病である潰瘍性大腸炎の再発が8月中頃に確認されたことを説明。「病気と治療を抱え、体力が万全じゃないなかで、大切な政治判断を誤ること、結果を出さないことがあってはならない」と説明した。
2021年9月末まで自民党総裁3期目の任期が残るなかでの辞任となる。


 大叔父である佐藤栄作元首相の2798日を超えるの在職期間を誇った長期政権安倍政権の終わりが意外な形で訪れました。

【1】安倍政権の7年余りとは、日本史上の汚点である@web RONZA2020/8/30より
 安倍政権の7年余りとは、何であったか。それは日本史上の汚点である。この長期政権が執り行なってきた経済政策・社会政策・外交政策等についての総括的分析は、それぞれの専門家にひとまず譲りたい。本稿で私は、第二次安倍政権が2012年12月に発足し現在に至るまで続いたその間にずっと感じ続けてきた、自分の足許が崩れ落ちるような感覚、深い喪失感とその理由について書きたいと思う。こんな政権が成立してしまったこと、そしてよりによってそれが日本の憲政史上最長の政権になってしまったこと、この事実が喚起する恥辱と悲しみの感覚である。~中略~
 数知れない隣人たちが安倍政権を支持しているという事実、私からすれば、単に政治的に支持できないのではなく、己の知性と倫理の基準からして絶対に許容できないものを多くの隣人が支持しているという事実は、低温火傷のようにジリジリと高まる不快感を与え続けた。隣人(少なくともその30%)に対して敬意を持って暮らすことができないということがいかに不幸であるか、このことをこの7年余りで私は嫌というほど思い知らされた。


 安倍政権に反発し続けてきた所謂リベラル系の知識人たちは苦々しげにこの8年弱を振り返ります。

安倍政権を「評価する」が71% 朝日新聞世論調査@朝日新聞2020/9/3より
朝日新聞社が2、3日に実施した世論調査(電話)で、第2次安倍政権の7年8カ月の実績評価を聞くと、「大いに」17%、「ある程度」54%を合わせて、71%が「評価する」と答えた。「評価しない」は、「あまり」19%、「全く」9%を合わせて28%だった。


 一方で新聞社の世論調査を見ると70%以上の人たちがこの政見を評価しているとのことです。個人的な評価を言えばやはり金融緩和を中心としたアベノミクスで就職氷河期と言われるような雇用の最悪時代を脱却させ、株価を向上させたこと、なによりも8年近く安定した政権を運営したことそのものは大きく評価するところです。実際就職氷河期と言われた時代は橋本政権を除くと2年以内の短期政権ばかりであり、政治が不安定であったことが適切な手を打てなかったというのがある種の惨状を生み出したと言っても過言ではないでしょう。

・短期政権続出がもたらした昭和の戦争
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表:昭和戦前の首相在任期間(太字:現役衆議院議員以外、斜字:現役・退役軍人内閣総理大臣の一覧@wikipedia参照)

 不安定な短期政権の乱立が平成の悲劇である就職氷河期を生み出したとすれば、過去同じような事が起こった際には、何が起こったでしょうか?それは戦争、大戦争であり、あの敗戦です。日中・太平洋戦争の背景には平成同様、不安定な短期政権の乱立があります。昭和2年4月に成立した田中儀一内閣から、昭和20年8月に退陣した鈴木貫太郎内閣までの18年4か月間にできた内閣は実に16で1内閣辺り1年強、昭和11年3月成立の広田内閣からで考えると9年5か月で10内閣、1内閣辺りの期間は1年を切り、実に11か月となります。

第一次近衛内閣:昭和12年6月4日成立→昭和12年7月7日盧溝橋事件→日中戦争開戦
東条内閣:昭和16年10月18日成立→昭和16年12月8日太平洋戦争開戦

 そしてその不安定な時期でも1年以上続いた数少ない政権である第一、二・三次近衛内閣、東条内閣のうち第一次近衛内閣、東条内閣に関しては、成立してから2か月以内に日中戦争、太平洋戦争が始まっています。

新体制運動@Wikipediaより
新体制運動(しんたいせいうんどう)とは、1940年(昭和15年)、日本の近衛文麿首相が中心となり、同年の第2次近衛内閣による外交政策で日独伊三国同盟が締結され、アドルフ・ヒトラー政権率いるナチス・ドイツやベニート・ムッソリーニ政権率いるイタリア王国のナチ党やファシスト党を模して内政面で、国民組織を結成しようとした政治運動である。
日独伊三国同盟@Wikipediaより
日独伊三国同盟(にちどくい さんごく どうめい、独: Dreimächtepakt、伊: Patto tripartito)は、日本、ドイツ、イタリアの軍事同盟。1940年(昭和15年)9月27日にベルリンで調印された日独伊三国間条約(にちどくい さんごくかん じょうやく、旧字体:日獨伊三國間條約)に基づく、日独伊三国の同盟関係。ヨーロッパ戦争、日中戦争に参戦していない国(主にアメリカを想定)からの攻撃に対する相互援助を約した[1]。第二次世界大戦における枢軸国の原型となり、その後複数の枢軸側に与した国や友好国も加盟した。


 強いて例外があるとすれば第二・三次近衛内閣になります。この時期に戦時中の独裁政党である大政翼賛会が近衛氏の推進していた新体制運動によってできていますし、日本が所謂枢軸国に旗幟を鮮明にする日独伊3国同盟も第二次近衛内閣の副首相ともいえる松岡外相によって完成しています。この辺は少なからず首相・内閣主導で大きく戦争への流れが出来上がっています。引用はしていませんが日米戦に繋がる大きな出来事である南北仏印侵攻もこの時期に行われています。建前上の歴史では東条英機氏を中心とした軍部が日本ではナチスやファシストの役割を果たし、日本におけるヒトラーやムッソリーニのポジションは東条英機氏となっていますが、まじめに歴史を紐解くと近衛文麿氏の存在は決して東条英機氏に比べて小さかったとは言えないと思われます。

日米通商航海条約破棄:1940年1月26日
ナチス・ドイツのフランス侵攻によるフランスの降伏:1940年6月22日

 しかしこの近衛内閣の動きも言うほど能動的なものではないと思われます。背景には彼が首相になる前には破綻寸前になっていた日米関係とそれに伴う経済的圧迫、その反面でナチスドイツがヨーロッパでフランス・ポーランド等を屈服させた事により覇権を確立させたことがあります。それ故に「成功したドイツ」を見習い1党政治の大政翼賛会を作り、「成功したドイツ」と同盟を結んだと言えます。それを後押ししたのは「バスに乗り遅れるな」と言う言葉に代表される世論でしょう。そういった意味で近衛氏の行った事はこの昭和10年代の首相の主体的な行為としては最も大きいですが、言ってみれば世論とのコミュニケーション能力共感力にたけた政治家が世論に便乗して行った事でしかない訳で、大きな流れを主体的に変える政治力による賜物ではないと考えられます。
 近衛内閣を含む昭和10年代に成立した10の内閣の総理大臣は全て現役の衆議院議員ではない「選挙の洗礼を受けていない」基盤の弱い総理であり、そしてこの期間に日中戦争~太平洋戦争と言う戦争に突入し、敗戦を迎えています。これは政権基盤の弱い内閣なのに戦争に突入したというよりも政権基盤の弱い内閣だからこそ戦争への流れを止める決断が出来なかったからと言えるのではないでしょうか?

・新しい有権者のニーズを得られず政治の主役から没落した2大政党
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表:戦前の衆議院選挙における2大政党の議席獲得率(第20回衆議院議員総選挙@wikipedia等より作成)

 さて昭和10年代の首相・内閣を見てきましたが次に戦前の議会についてみていきましょう。昭和・戦前には翼賛選挙と言われた1942年の選挙を含め昭和10年以前に3回、昭和10年代に3回の計6回衆議院選挙が行われています。そして昭和10年以前の選挙では立憲民政党、立憲政友会の2大政党が90%以上の議席を得て、正に2大政党制と言った様相を見せ昭和10年代には社会大衆党を中心にその他の政党が伸びてきますが、それでも3/4以上の議席を2大政党で得ていることがわかります。しかし1932年を最後に終戦までこの選挙では圧倒的な支持を得てきた2大政党から首相が出ることはありませんでした

1932年2月総選挙犬養内閣組閣→5月515事件
1936年2月総選挙岡田内閣続投→2月226事件


 その背景には何があったか、歴史でも習うと思いますが、515事件や226事件のようなテロ・クーデター未遂事件があります。ただこれらの事件は共に選挙直後と言っていい時期に起き、結果として被害を受けた内閣側に世論の支持が集まらなかったことが共通項として挙げられます。言うなればこの2つの事件は世論を調べる場としての選挙、及び選挙の結果選ばれた議員の機能が大きく低下していることをあからさまに示した事件と言うわけです

日本の選挙@Wikipediaより
1919年(大正8年) - 納税要件緩和[13]。納税条件が3円以上に引下げ。小選挙区制を導入[13]。
1925年(大正14年) - 納税条件撤廃。満25歳以上の男性全員(総人口の20.12%)に選挙権付与(狭義の普通選挙・男子普通選挙)。中選挙区制を導入[13]。

治安維持法@Wikipediaより
治安維持法(ちあんいじほう)は、国体(皇室)や私有財産制を否定する運動を取り締まることを目的として制定された日本の法律。
1925年(大正14年)に治安維持法(大正14年4月22日法律第46号)として制定された。その後、1928年(昭和3年)6月29日公布の緊急勅令(昭和3年勅令129号)で修正が加えられた。さらに1941年(昭和16年)にも全面改正(昭和16年3月10日法律第54号)され、1945年(昭和20年)10月15日に廃止された。~中略~
1925年(大正14年)1月、日ソ基本条約が締結されソビエト連邦との国交が樹立されたが、第1次加藤高明内閣(護憲三派内閣)で司法大臣の横田千之助が2月4日に急逝した。その後任に小川平吉が就任し[3]共産主義革命運動の激化の懸念などをもって治安維持法の制定を推進し、4月22日に同法が公布、同年5月12日に施行された[4][注釈 1]。

三・一五事件@Wikipediaより
三・一五事件(さん・いちごじけん)は、1928年3月15日に発生した、マルクス主義を忠実に実践するため非合法の無産政党の設立および第三インターナショナルの日本支部を目的として設立された日本共産党等の活動員数千名を検束、検挙された者が約300名、治安維持法に問われただちに市ヶ谷刑務所に収監された者が30名にのぼった事件である[1][2]。
社会大衆党@Wikipediaより
戦前の無産政党は長く離合集散を繰り返していたが、1931年7月に労農党・全国大衆党・社会民衆党合同賛成派が合同し、全国労農大衆党が結成された。これがきっかけとなり、さらに1932年7月24日に全国労農大衆党と社会民衆党が合同して、社会大衆党が結成された(安部磯雄委員長・麻生久書記長)[5]。こうして、無産政党の統一が実現した。立憲政友会と立憲民政党に対する、いわゆる「第3極」であった[6]。


 何故このような事態に陥ったかを考える前にまず昭和戦前の選挙を考えるうえで最も重要な選挙・結社に関する制度変更についてみていきます。この辺は教科書や授業で習ったことと言う人も多いと思います普通選挙導入と治安維持法です。普通選挙導入によりそれまであった直接納税3円以上と言う区切りが撤廃され所得の低い有権者が急増します。一方治安維持法により共産主義導入を目指す政党は非合法とされ三・一五事件等弾圧を受けました。その為合法的なものも含め無産系政党の立ち上がりが遅れ、合法無産政党が合同し社会大衆党が成立するのが1932年の総選挙後で、有権者たちに現実的な選択肢として表れるのは1936年の総選挙以降となります。
【中古】 昭和経済史 / 竹内 宏 / 筑摩書房 [ハードカバー]【宅配便出荷】P18より 昭和恐慌  昭和4年(※1929年)7月、田中内閣総辞職のあとを受けて浜口民政党内閣が成立、井上準之助が蔵相に就任すると早速、金解禁の準備がはじめられた。浜口内閣は金解禁や軍縮促進を中心とする十大政綱を発表したが、この中には”財政の整理緊縮”と”非募債・減債”が含まれ、旧平価解禁のためのデフレ政策の実行を明らかにした。これとともに、金輸出再開によって流出が予想される在外正貨を補充するため欧米に一億円のクレジットを設定した。~中略~
このような古典的な経済学の教科書どおりの考えかたにしたがって、浜口内閣は昭和4年11月(※アメリカブラックマンデーは10月24日)に決定し、翌5年1月に実施したのである。  しかしこれが、昭和恐慌の発端となった。
その結果、”娘の身売り”、”青田売り”等の言葉に代表されるような窮状が農村に生まれた。これに悲憤したある若者は青年将校運動や右翼のテロリズムに走り、他の若者は共産主義アナーキストになって地下運動に潜った。

新聞資料 東北大凶作 無明舎出版より
飢えを巡って悲惨・人と熊との闘争@東京日日新聞昭和6年
共作に悩む農村から奪われゆく娘たち@東京日日新聞昭和6年12月25日
凶作地の農民から配給米に矢の催促2月分の配給を未だ行わぬ「選挙利用」非難起る@東京日日新聞昭和7年3月19日
7万余に達した凶作地方救済児童文部省の調査完了@北海タイムス昭和7年4月2日
死に瀕する児童2千町村に徹底的救療を促す@河北新報青森版昭和7年5月20日
豚も痩せゆく借金1人当たり千円鶏卵1銭は何を語る@東京日日新聞昭和7年6月5日
この悲惨事!売られた娘千五百凶作が本県農漁村に及ぼした影響@東奥日報昭和8年5月13日
東京駅に涙の一家夢に描いた南米移民@東京日日新聞昭和9年11月11日

五私鉄疑獄事件@Wikipedia@1930年公判開始
帝人事件@Wikipedia@1934年起訴


 その間2大政党がきちんと新しい有権者である必ずしも富裕層でない層に寄り添うような政策を出せていたら良かったのですが、立憲民政党による第2次若槻内閣は世界恐慌の最中に金解禁を行い大きなデフレをもたらし、特に農村は「娘の身売り」「欠食児童」の言葉に代表されるような窮状に陥りました。またその後成立した立憲政友会犬養内閣は蔵相高橋是清によるリフレ政策で景気の回復そのものは行いましたが窮状に陥っている農村に対し明確な救済策を行いませんでした
 それどころか帝人事件・五私鉄疑獄事件に代表される様な政治家・高級官僚の汚職事件(ただし帝人事件に関しては関係者全員無罪ででっち上げと言われている)が度々報道され厳しい生活を強いられている人たちの神経を逆なでしていきました
 そういった意味でこの時期の選挙は多くの有権者にとって「支持できない立憲政友会と立憲民生党しか選択肢がないので支持はしないが相対的にましな方に投票する」と言う選挙だったのではと推察されます。その為元老西園寺公望をはじめとする首相を選択する人たちにとって選挙によって選ばれた多数派政党による内閣は選択肢から外れていったのでしょう

・昭和の「希望は戦争」~1940年体制の意味する事~
野口悠紀雄@Wikipedia より
1940年体制
1990年代以降に続いた長期不況に関して、その原因が戦時中に構築されたシステム(「1940年体制」)の非効率さにあると主張した。1940年体制とは、日本的な企業、経営、労使関係、官民関係、金融制度など日本経済の特徴とされる様々な要素が、1940年頃に戦時体制の一環として導入されたとする概念である[11]。


 こうして日本は安定感のない政治体制によって悲惨な戦争に突入した訳です。しかしこの戦争は結果は絶望的なものでしたが隠れて戦後の経済発展につながる様々な仕組みや制度を作り出したと思います。その象徴的な言葉が評論家野口悠紀雄氏によって提唱された「1940年体制」です。日本は日中・太平洋領戦争の敗戦により、憲法改正と言う根本的な改革が行われたはずですが、1940年体制、1955年体制と言う言葉は聞いたことがあってもその憲法改正が行われた1946年体制、1947年体制と言う言葉は少なくとも私は聞いたことがありませんし、皆さんも聞いたことは無いのではないでしょうか

国家総動員法@Wikipediaより
国家総動員法(こっかそうどういんほう)は、1938年(昭和13年)第1次近衛内閣によって第73帝国議会に提出され、制定された法律。大東亜戦争(日中戦争)の長期化による総力戦の遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる(総動員)旨を規定したもの。中略
同法によって国家統制の対象とされたものは、以下の6点に大別できる。
労働問題一般 - 国民の産業への徴用、総動員業務への服務協力、雇用・解雇・賃金等の労働条件、労働争議の予防あるいは解消
物資統制 - 物資の生産、配給、使用、消費、所持、移動
金融・資本統制 - 会社の合併・分割、資本政策一般(増減資・配当)、社債募集、企業経理、金融機関の余資運用
カルテル - 協定の締結、産業団体・同業組合の結成、組合への強制加入
価格一般 - 商品価格、運賃、賃貸料、保険料率
言論出版 - 新聞・出版物の掲載制限
法律上には上記統制の具体的内容は明示されず、すべては国民徴用令をはじめとする勅令に委ねられていた。このことから、同法をナチス党政権下のドイツ第三帝国による1933年(昭和8年)制定の授権法の日本版になぞらえる説もある[26]。


 そしてこのこの1940年体制を作り上げた背景には何があったのでしょうか?野口悠紀雄氏の言葉を借りるなら戦時体制になるのですが、もう少し詳しく書くなら「戦争を推進するため」と言う大義名分が政治力がない内閣でも必要な政策実施を可能にしたことです。具体的な法律を挙げるならば第一次近衛内閣で成立した国家総動員法が代表です。この法律がある事で法律を作るのでなく天皇による勅令と言う形で政策実施が可能になりました。言うなれば議会等による議論をある程度無視して政策実施が可能になったわけです。

小作料統制令@Wikipediaより
小作料統制令(こさくりょうとうせいれい、昭和14年12月6日勅令第823号)は、1939年12月6日に国家総動員法第19条に基づいて制定された勅令。同年12月11日に施行された。
第二次世界大戦開戦直後の1939年9月18日に出された俗にいう「九・一八停止令」(「賃金統制令」・「価格等統制令」)を小作料に対しても適用したものである。
小作料の料額・種別を1939年9月18日現在のものに固定し、変更には地方長官(知事)の許可を要すること、農地委員会が地主・小作人双方の同意を得て適正な小作条件を決定し、また地方長官が不適正な小作条件の是正を命じる権限を持つことが定められた。~中略~
とはいえ、明治以来ほとんど規制が行われてこなかった小作制度の根幹にメスが入った初めての例であり、戦時経済を名分として翌年の米穀管理規則などの地主に対する国家の統制が実施される先がけとなった
食糧管理法@wikipediaより
大東亜戦争の最中の1942年(昭和17年)2月21日に、東條内閣によって制定された。内容は、食糧の生産・流通・消費にわたって政府が介入して管理するというものであり、目的は食糧(主に米)の需給と価格の安定である。


 そして皮肉にもこの戦時体制は515事件や226事件の原動力となった農村の疲弊を解決していきました。良い例えではないかもしれませんが戦争の時代を取り扱ったドラマで戦争中に農村で「食べられない子供」や「食べられない為に都会に春を売りに来る少女」と言うのは登場人物としてお目にかかった事はないと思います。その背景には農村を苦しめた2つの要因、地主による過酷な小作料と市場によって買いたたかれる農産物価格と言う2点の解決が図られたことにあります。
 実効性に疑問があるとはいえ、阿部内閣による小作料統制令は明治以来初めて小作制度の根幹にメスを入れました。それが政治力の強い政権でなく物価の統制や日米通商航海条約破棄問題に揺さぶられ4か月強で退陣した弱小政権によって行われたというのは戦時体制と言う状況の生み出した大きな政治力を感じさせます。
 また東条内閣で始まった食管制度は戦後の昭和を通じて農家の方々が「とにかくお米を作れば食べていける」状況を作ったという意味で戦後の日本をきちんと回していくのに大きな貢献をした政治的レガシーとなったわけです。

第4章 昭和時代(1)(戦前、戦中期)@一般社団法人日本職業協会より
 しかし、満州事変や上海事変が起こり、昭和12年には支那事変に拡大する。国をあげての戦時体制の整備が始まり、各般の行政もそれにそって展開されていった。不足する労働力の確保や需給の混乱を防ぐための労務統制が進められた。労働者保護の行政についても大きな改変があった。~中略~
 昭和13年に商店法が、同14年には工場事業場就業時間制限令が実施された。前者はこれまで行政の枠外にあった商店労働者の保護を図ろうとするもので、特筆さるべきことであった。後者は労働力の保全を目的とし、16歳以上の男子職工の就業を1日12時間と制限したもの。成年男子の労働時間の基準が、初めて定められたわけである。昭和16年には労働者年金保険法が制定され、労働者の年金制度が創設された。~中略~
 昭和13年、産業報国連盟が官民各方面の参加を得て結成された。これを機会に、事業場単位に産業報国会の設立が進められる。産業報国会は、能率増進、待遇、福利、共済、教養などの問題について労使が懇談し、教養、保健、福利、共済、慰安等の事業を行うものとされた。戦時労務統制が次第に確立され、さらに労使一体を主眼とする産業報国運動が浸透していくと、組織的な労働争議の発生は著しく減少した。


   また救済されたのは農村だけではなく、都市部の労働者にとっても労働時間の基準が初めて定められたり、年金制度が整備されたり、欧米の主流の形とは違うものの、労使で話し合う事で待遇等を改善する仕組みも導入されました。言うなれば戦争と言う異常な状況を利用して働き方改革が行われた訳ですが、逆に戦前には平時の政党政治では労働者も小作人も救済できず、それが戦争を導き戦争と言う枠組みで救済するしかなかったとも取れるのではないでしょうか

・平成の「希望は戦争」が訴える事
「丸山眞男」をひっぱたきたい 31歳フリーター。希望は、戦争。より
 戦争は悲惨だ。  しかし、その悲惨さは「持つ者が何かを失う」から悲惨なのであって、「何も持っていない」私からすれば、戦争は悲惨でも何でもなく、むしろチャンスとなる
 もちろん、戦時においては前線や銃後を問わず、死と隣り合わせではあるものの、それは国民のほぼすべてが同様である。国民全体に降り注ぐ生と死のギャンブルである戦争状態と、一部の弱者だけが屈辱を味わう平和。そのどちらが弱者にとって望ましいかなど、考えるまでもない
 持つ者は戦争によってそれを失うことにおびえを抱くが、持たざる者は戦争によって何かを得ることを望む。持つ者と持たざる者がハッキリと分かれ、そこに流動性が存在しない格差社会においては、もはや戦争はタブーではない。それどころか、反戦平和というスローガンこそが、我々を一生貧困の中に押しとどめる「持つ者」の傲慢であると受け止められるのである
terakei


   安倍首相が退任を表明する少し前、の8月中旬は終戦記念日がある関係で様々な戦争に関する論説が出てきます。その中には戦争をいかに防ぐかと言った論説もあります。憲法改正反対など様々なことが言われますが、一番大きいのは厳しい思いをしている人たちを経済的・尊厳的に救済していく地道な努力を忘れない事ではないでしょうか?上は13年前に話題になり、その後就職氷河期で苦しんだ世代の人たちに大いに共感をもって迎えられた檄文です。「持たざる自分にとっては戦争は望むべきことである」、この言葉とそれに共感していく人をいかに減らすか、言い換えれば尊厳や経済的に「持たざる者」を以下に減らすかそれこそが戦争を避けるための道であり、就職氷河期を終わらせ、働き方改革を実施した安倍首相の努力はその意味で一定の評価ができることではないでしょうか?
 願わくはそれを引き継ぐ人にも同じ努力を期待しつつ今日は筆をおきたいと思います。