武弘・Takehiroの部屋

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天は人の上に人を造り、人の下に人を造る

2024年03月09日 14時47分53秒 | 思想・哲学・宗教

<以下の文を復刻します。>

「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」というのは、福澤諭吉の著書『学問のすすめ』に出てくる有名な言葉だ。
 この言葉は福澤自身のものではなく、アメリカの独立宣言から引用したものだというが、日本では福澤自身の言葉のように受け取られている。それほど人々に行き渡った名言として価値のあるものだ。
 この言葉には“万民平等”という意味があり、福澤は同じ書で「人は生まれながらにして貴賎上下の別はない」としている。ただし「学問を勤めて物事をよく知る者は貴人となり富人となり、無学なる者は貧人となり下人となる」と述べ、学問を修めることを勧めているのだ。明治初期の新しい時代の幕開けには、まことに相応しい言葉であったと思う。
 
『学問のすすめ』の前置きから入ったが、それは題名の「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る」が、正反対の言葉だからである。あえて有名な著書の言葉をもじったものだ。
 ここで私が言いたいのは、もちろん“万民平等”に反対するものではない。人間は機会均等であるべきであり、それは近代社会の基本となるものだ。そういう考えは、憲法の「基本的人権」の平等にも生かされている。
 ただし、私が言いたいのは「平等」とは何かということだ。近代社会の理念を人間個人間のことに捻じ曲げるつもりはないが、人間個人は生まれながらにして「不平等」なのである。
 ここで言う不平等とは、人間は身体も心も能力もそれぞれ全く異なるという意味だ。例えば、私よりはるかに頭の良い人もいれば、はるかに身体能力が優れた人もいる。これは生まれながらに仕方がないことだ。
 私がどんなに努力しても、ある学問分野では絶対に追いつけない優秀な人がいるし、またどんなに身体を鍛錬しても遠く及ばないスポーツ選手がいるということだ。当たり前ではないかと言うだろうが、それが現実であり真実なのだ。
 
つまり、ここで言いたいのは、人はそれぞれ全く違うということだ。誰ひとり同じ顔はしていないし、誰ひとり同じ体型の者はいない。そのことを深く認識すべきである。顔や体型ばかりでなく、心も頭脳も全て違うのだ。それが“個性”というものだろう。
 ところが、人間というのは得てして、他人(ひと)の真似をしたがったり、他人に追随しようとする。それはその人の勝手だが、人それぞれ個性があるということを忘れてはならない。人は生まれながらに個性を持っているのだ。
 国家や社会では「格差」や「差別」は良くない。それは解消するよう努力すべきだし、またそういう方向で色々な施策が講じられる。
 しかし、人間個人においてはそれぞれが全て異なるのだから、むしろ、その違いを尊重していくべきである。それこそが個性の尊重というものだ。近代国家・社会の理念である「平等」というものは、人間個人間では全く当てはまらない。社会や国家の理念を、個人間のことに当てはめようとするから“混同”が起きるのだ。
 
個性の尊重こそ最も大切なものである。それぞれの個性が十分に発揮され花開くことが最も望ましい。昔の“金太郎アメ”ではないが、誰を見ても同じ考え、同じ価値観を持つようになれば、それは一種の「全体主義」である。
 全体主義とは、言葉を変えれば「天は人の左に人を造らず、人の右に人を造らず」ということになる。ここで全体主義の善し悪しを論じるつもりはないが、個性が尊重される社会は「天は人の左に人を造り、人の右に人を造る」ということになるのだ。(あるいは「天は人の前に人を造り、人の後ろに人を造る」でも良い。)
 人にはあらゆる面で上下があるように、あらゆる面で左右があるはずだ。諸々の“上下左右”の中に人間は存在する。これは人間の身体や心、特性や能力について言っているのだ。そうした中で人々は個性を生かさなければならない。
 個性が尊重される自由な世の中、社会こそ最も理想的なものだと考える。 (2010年5月19日)


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松倉さんも個性? (keitanこと宮瀬渓香)
2019-02-12 15:51:11
残念で痛ましいことですが、松倉悦郎元アナウンサーが器物損壊か何かの容疑で逮捕されました。
矢嶋さん体制が引き起こしたとか阿呆なことはいいません、責任は当人にあります。
しかし彼が久米宏さんの賭けに触発されたのか――そんな訳ないか…――頭を丸めて僧侶になられたことを初めて知り、少しそこにフジテレビの問題があるのではないかと思うのです。
頭を丸めれば個性派兼常識人として皆が認めてくれるよ――そういう甘い姿勢がAKB48にも何年か前に現れているように思います。
そしてそれが思う程に認められなかったと気づく時に犯罪などのようなことになる。
そも、個性とは何なのか?
人は皆違って皆良いと本当にいえるのか?
そのようなことをそれぞれの個性で煮詰めない限りはフジテレビの再生はないでしょう。
私は今、テレビを全く観ない暮らしをしています。個人視聴率95%のフジを信用できず、その代わりとして近年に95%になったテレビ朝日をも信用できないからです。更には小川ちゃんもいなくなるし、テレビは本当に虚無に成り果てていると思います。
個性以前の話 (矢嶋武弘)
2019-02-13 12:17:40
松倉元アナの逮捕にはびっくりしましたね。非常に残念なことです。
これは個性云々の問題ではありません。個性以前の話で、良識の問題です。
私は彼を個人的には知りませんが、報道によると多少 認知症的な面もあるようですね。重ねて残念なことです。
テレビについては、何も言わない方がいいでしょう(笑)

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