武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

過去の記事(19)

2024年04月16日 03時23分01秒 | 過去の記事

⑲ 『大統領制』を導入せよ。 新しい「国立追悼施設」を建立せよ。 無駄な参議院。 終戦の日を「平和の日」に。 40年前の古新聞。 野中広務さんのこと。 ネット企業は「電話受け付け」も行なえ!(それに批判的なコメントも掲載)。

『大統領制』を導入せよ

日本の国政は「議院内閣制」によって成り立っているが、戦後、この制度がややもすると不透明で不信を招く事態を生じている。いわゆる“永田町政治”とか“密室での談合”と言われるものだが、国民の預かり知らない所で、一国の総理大臣が決まるというケースが何回か起きてきた。
議院内閣制ではこれは当然のことで、国会に多数を持つ政党・与党が内閣を組織するわけだから、与党内の話し合いや調整でいくらでも首相を決めることができる。もちろん、与党である自民党は総裁選挙を実施して、新総裁を担いで国会での首班指名に臨むこともできる。これらのことは今までさんざん見てきたのだが、ともすると、民意(国民の意思)が反映されているのかと疑いたくなるようなケースも少なくない。
それは、与党内の派閥の合従連衡だったり、違う政党との連立だったり、時には密室での談合で事実上決まったりするなど、民意とはまったく関係ない所で首相が決まっていくのだ。それでも良いと言う人も大勢いるだろうが、私はこうした議院内閣制に非常な疑問を持っている。
こうした「間接民主主義」によって国政のトップを決めるやり方は、アメリカや韓国、フランスなどで行われている「直接民主主義」による大統領選挙とは、余りにもかけ離れているのだ。これで民意がきちんと反映されるのだろうか。
前にも述べたように、国会議員だけの選挙や話し合いによって首相を決めるやり方は、往々にして不透明・不審なことが起こり得る。国民の疑惑を招く事態もあった。従ってもう何十年も前から、こうした不信や疑惑を解消し、政治を本当に国民のものにするために「首相公選制」の実施を唱える声が延々と続いている。
6~7年前には、当時の小泉純一郎首相が「首相公選制を考える懇談会」を内閣に設置し、首相公選制を真剣に議論したことがある。その頃は世論調査をすると、国民の圧倒的多数が首相公選制を支持していた。あの頃の熱気はどこへ行ったのだろうか・・・

首相公選制の行き着く先は『大統領制』である。国民の直接投票によって国政のトップを決めるのだ。大統領制を導入するにはもちろん憲法改正が必要だが、この制度は21世紀中に必ず実現すると考える。21世紀のいつ頃実現するかは分からないが、“流れ”は完全に、首相公選制から大統領制へと向かっている。
これは要するに、今の議院内閣制に国民の多くが疑問と不信を抱いているからだ。その理由は前にも言ったが、国民が直接、自己責任において国政のトップを選ぶというのが最良の方法だからである。
私は昔、首相公選制や大統領制を危険だと思っていたことがある。それは、ヒトラーや横山ノックのような人間が、単なる“人気投票”で選ばれてくる危険性があると思っていたからだ。しかし、今は違う。たとえ、どのような人物が国政のトップに選ばれようが、それは民意を直接反映したものであり、民主主義がより徹底されることを意味するからだ。国民一人一人が「自己責任」において、国政のトップを直接選ぶことにこそ民主主義の真の意義があるのだ。
さて、大統領制を実施すると、大統領が独裁化したり暴走するのではと懸念する声があるが、そんなことは全く“杞憂”である。それこそ、憲法改正において議会と大統領の関係、権限や役割などについて明文化すれば良いのだ。
それよりもむしろ、国民に直接選ばれた大統領は、国家の「元首」かどうかという問題が生じてくるだろう。私は、公選された大統領は当然、日本国の「元首」だと考える。その場合、天皇は“元首”ではなくなる。天皇は“象徴”ではあっても“元首”ではないのだ。
日本の場合、この元首問題が必ず生じてくる。しかし、この問題は後日、天皇制との関係で改めて論じることにしよう。 本日はこれにて終了する。(2008年9月11日)

 

新しい「国立追悼施設」を建立せよ

国の追悼施設というのは、日本国民だけでなく外国の人たちも快く参拝してくれるものが好ましい。諸外国ではよく無名戦士の慰霊施設というのがあって、わが国の要人も一般の日本人も快く参拝するケースが多い。
こうした点から考えると、靖国神社は国の追悼施設としては全く不適切である。なぜなら「国家神道」を奉じるこの宗教法人は、相当数の日本人にとっては良いとしても、外国の元首や要人らがお参りするには全く相応しくないからだ。これまでに、どれほどの外国人が靖国神社にお参りしただろうか。ほとんど皆無であろう。

こういうことを言うのは、国の追悼施設は完全に“無宗教”であることが望ましいのだ。そうすれば、どんな宗教を持った国の人だろうが、気兼ねなしに快く参拝できるのである。例えば、アメリカのアーリントン国立墓地は「キリスト教」を全面に打ち出しているものではない。主に軍人を埋葬しているそうだが、無名戦士や故ケネディ大統領のお墓もあり、昔お参りに行ったことがあるが、まるで公園のような佇まいで、どんな外国人も気軽に訪れることができる観光スポットという感じだ。全く宗教性がないのである。
これに対して、靖国神社は国家神道だから、参拝形式がどうの玉串料がどうのといった神道の掟(おきて)に縛られるので、外国人はとてもお参りできるものではない。しかも、靖国神社は先の大戦を「自存自衛の戦争」と位置づけているから、ほとんどの外国人はこれに反発して参拝なんかはするはずがない。
先の大戦が自存自衛の戦いなのかどうかは、日本人でも様ざまな見方があるので、ここでその議論をするつもりはない。そんなことを始めれば切りがなくなるので止めよう。要は「国家神道」を全面に打ち出した靖国神社は、国の追悼施設には不適切なのである。もとより、ここにお参りするのは各人の自由だから、参拝したい人はどんどん行けば良いのである。A級戦犯合祀問題がどうのといった話は別である。

さて、国の追悼施設は完全に“無宗教”であることが望ましいから、私は率直に言って、今の「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」(東京・千代田区)がそれに最も相応しいと考える。この墓苑は1959年(昭和34年)に国によって建てられ、先の大戦の戦没者35万人余りのご遺骨が納められている。これらのご遺骨は身元不明で遺族にお渡しできないものばかりなので、いわば日本の“無名戦士の墓”と言ってよいものだ。
この戦没者墓苑を拡充するなどして、新たな国の追悼施設を造ろうという考えが以前からあるが、私はこれに大賛成である。完全に無宗教であるから、一般の日本国民も外国人も気軽に参拝できる。お参りの仕方はもちろん自由だから、参拝形式がどうの玉串料がどうのといった問題はない。
さらに言わせてもらえば、私はこの追悼施設が21世紀の日本を象徴する「平和の祈念塔」であってほしいと願うものである。戦没者墓苑は「平和公園」になっても良いし、とにかく平和国家・日本の象徴になってほしいと願うのである。そうなれば、ここが「鎮魂・不戦・平和」の祈りの場所となるだろう。

最後に一言。 日本の首相や要人、はてはわれわれ一般の日本人が外国の追悼施設に自由に参拝しているというのに、外国の元首や要人がその“答礼”のためにお参りしようとしても、それに相応しい追悼施設が日本にないということは、外国の人たちに対し失礼ではないか! 新しい無宗教の国立追悼施設を、早急に建立すべきである。(2008年9月24日)

 

無駄な参議院
  
参議院なんて“無用の長物”“盲腸”みたいなものだが、昨日の参議院予算委は面白かった。民主党の3人の閣僚が予算委員会に遅刻したのだ。 どんなに“無駄な場所”でも、政府提出の予算案を審議するのだから、閣僚が遅刻しては駄目だ(笑)
 3人の閣僚は平謝りに謝っていたが、事務方の連絡ミスで遅刻したらしい。前代未聞のことではないか。
 与野党を問わず、参議院議員らは参議院をバカにするのか、軽視するのかと怒っていたが、それは日ごろの劣等感や被害者意識の裏返しではないのか。
 特に予算案は衆議院で可決されれば、参議院が否決しようがどうしようが必ず成立するのである。だから、参議院の審議などははっきり言って“ムダ”なのだ。
 そんな審議をするより、予算を前倒ししても早く執行してくれた方が、景気回復や経済の活性化にどれほど良いかは誰もが知っている。
 しかし、憲法で参議院の存在が認められているから仕方がない。早く「一院制」になって欲しいと願っているが、憲法改正もいつになるかさっぱり見通しが立たない。
 
参議院は自分の存在をアピールするために、予算の「自然成立」だけは避けようとする。それは与野党共にそうだ。自然成立する期限の数日前に必ず採決する。
 つまり、参議院の意思で予算を成立させましたよという所を見せたいのだ。しかし、そんなものは「形式」だけであって、参議院がどうしようが衆議院で決まった予算は必ず成立するのだ。まあ、屋上屋(おく)を架しているようなものだ。
 こんな話をしていると、7月の参院選が何か空しいものに感じられる。以前は「参院選をボイコットせよ!」と勇ましい文を何度も書いたことがあるが、どうでもいい感じになってきた。
 むしろ、衆参ねじれ現象が起きた方が、参議院の意味があるのかもしれない。しかし、それもどうでもいいことだ。参議院に年間500億円近い費用がかかるが(関連費用を入れるとそれどころではない)、そんな税金の話よりも、無駄な参議院をどうすべきかもう一度考える必要があるのではないか。(2010年3月4日)
 追記・・・地方議会(都道府県・市町村)は全て1つだ。国会のように2つもあるか!!

 

終戦の日を「平和の日」に 

今日8月15日は「終戦記念日」だが、日本に平和が回復した日でもある。戦没者を追悼し慰霊するのは当然だが、同時に平和への決意を新たにする日でもある。
固い話だが、政府は1982年4月の閣議で、本日を「戦没者を追悼し平和を祈念する日」と定めた。その趣旨から言っても、終戦の日は「平和の日」でもある。国民の休日にしてはどうか。
いろいろな思いが交錯するが、私はあえて1943年(昭和18年)10月21日の「出陣学徒壮行会」の映像を添付しておきたい。これを見るたびに、いつも胸が締め付けられるような思いをする。
あまりにも有名な“学徒出陣”の映像だが、大勢の学生が戦地で斃れ帰らぬ人となった。あの戦争は何だったのか。終戦の日に、もう一度「平和」について考え直したい。 (2011年8月15日)

 

40年前の古新聞

<以前書いた記事をいろいろ読んでいたら、古新聞の話が目についた。40年前にタイムスリップした感じになったので、過去の記事を「現時点」に置き換え、一部修正して復刻したい。懐かしい気分になってもらえれば幸いである。 (2011年9月3日)
 
1) 妻が家の中の模様替えをしていたら、古い新聞が何枚か見つかった。箪笥の引出しの中に敷いてあったというので、見せてもらったら40年も前の新聞だった。 一目見て驚いたのは活字が極めて小さいのだ。今の活字と比べると半分程しかない。当時は、よくこんな小さな活字を読んでいたものだと思ってしまった。それだけ、今の新聞は読みやすくなっているのだろう。
 黄ばんだ新聞は、1971年(昭和46年)4月5日と6日のものだった。破れないように注意深く広げて読むと、なかなか興味深く面白い記事が多く載っていた。「カドミウム(注・イタイイタイ病の原因)、日本総汚染」だとか、統一地方選挙で、佐藤栄作首相や成田知巳社会党委員長ら各党党首が、応援演説で全国を駆け回っている記事が出ていた。
 埼玉県版を見ると、埼玉県警の亀井静香捜査二課長(注・今の国民新党代表)が“きれいな選挙”を実現しようと呼びかけている。 雑誌などの広告欄には「女性自身」の見出しに、元銀座ホステス(27歳)が、西田佐知子さんと結婚した関口宏さんについて、「私に女の悦びを開いてくれて去って行ったヒロシ・・・でも、少しも彼を恨んでいません」などの記事が載っている。
 そうかと思うと外信面では、拡大するベトナム戦争や、ソンミ村での米軍カリー中尉による村民大虐殺事件の裁判、西パキスタンと東パキスタン(現在のバングラデシュ)の関係悪化などの記事が出ており、懐かしいと同時に興味を惹かれるものがあった。
 
2) テレビ欄は今、ほとんどの新聞が最終ページに載せているが、当時は真ん中辺のページに出ていた。 放送開始時刻は一番早いのが午前6時で、終了時刻は一部を除いて24時台と今より相当短いものである。 おかしいのは、ほとんど全ての番組名の前に「カラー」と銘打っていることだ。 これなら、モノクロ番組の前にだけ「白黒」と表示した方がすっきりすると思うが、完全にカラー化していなかった証しだろう。
 番組も懐かしいものが数多く載っていた。 フジテレビが「夜のヒットスタジオ」の他に「スパイ大作戦」をやれば、日本テレビは「ナポレオン・ソロ」で対抗し「11PM」で締めている。 TBSがゴールデンタイムで「キックボクシング」をやれば、NETテレビ(現在のテレビ朝日)が同じくゴールデンで「プロレス中継」で対抗している。 また、NHKは朝の新連続ドラマ「繭子ひとり」(山口果林主演)を大々的に宣伝している他、東京12チャンネル(現在のテレビ東京)はゴールデンにボクシング番組を組んでいる。(以上、月曜日の番組表)
 
3) 経済面の株式欄は今のと比べると極めて侘びしい。 現在の株式欄はほぼ2ページにわたっているが、この当時は1ページの3分の1ぐらいのスペースに、東証1部・2部の全銘柄が納まっているのである。
 求人募集の欄ではクラブやキャバレー、喫茶店、サロン、レストラン等の女子募集の広告がヤケに目につく。 クラブやキャバレーの日給は3000円程度が最も多い。女子事務員の月給は、大体3万5千円から4万5千円が相場といったところだ。 また、週刊誌は80円から100円ぐらいで、単行本も大体380円から500円ぐらいである。 
 今と比べれば全てのものが3分の1から4分の1の安さで、これは当然の事だが、はたして暮し向きが良かったのかどうかは分からない。 しかし、日本経済は伸び盛りの頃だったと思うので、将来に対する期待感は今よりあったのではなかろうか。
 そんなことを考えていると、この年は自分が結婚した年だと思い出した。40年も前のことは詳しく覚えていないが、若かったことは確かだ。その若さは今の自分にはない。しかし、気持だけは若くありたいものだと思う。

 

野中広務さんのこと

 1) 私は自分の半生において、仕事上何百人という政治家と付き合う機会があったが、野中広務さん(自民党元幹事長)ほど印象に残っている政治家も珍しい。 この人の“親分”である故金丸信さんも実に印象深かったが、両人は対照的な雰囲気を持っていた。
金丸さんは今時の政治家には稀だが、ほのぼのとした春風のような雰囲気があった。 これに対して野中さんは、非常に鋭い刃物のような趣(おもむき)があった。 印象は極めて対照的だが、両人とも気配り(心遣い)の面では、どんな政治家にも優るものを持っていたと思う。また二人とも温情家であった。
さて、両人の人柄のことはともかくとして、最近、北朝鮮問題について二人は厳しい批判にさらされている。 金丸さんは既に他界されているので、ここであれこれ言うつもりはないが、野中さんは現役の国会議員で自民党の実力者だから、一言触れざるをえない。

  過日、テレビを見ていたら、北朝鮮による拉致被害者の家族の一人が、野中さんや社民党の土井党首、自民党の中山正暉議員らのことを悪し様に罵っていた。 つまり、これらの議員は、拉致被害者の家族がいくら救援を頼んでも、何もしてくれなかったというのだ。
特に野中さんは、被害者の家族に対して、極めて侮辱的な発言をしたという。私には信じられないことだ。 私が知る野中さんというのは心が温かく、弱者や被害者の立場の人には、ことのほか優しくて親切な人であったはずである。
北朝鮮問題は、極めて難しい局面を持つものである。 それぞれの政治的な立場から、政治家はアプローチしていただろうし、いろいろな戦略、思惑、事情があったに違いない。 しかし、被害者の家族から、あのように激しく非難されるというのは、政治家・野中広務氏に何があったのだろうか。 再び言うが、私には信じられないことである。非常に複雑な思いがする。

 2) 野中さんが“悪役”呼ばわりされているので、私はあえてこの場を借りて、彼のことを語っていきたいと思う。 別に同情するわけではない。この政治家は、私にとって最も印象に残る人物だったからである。
もう10年以上も前のことだが、私はたまたまテレビ局(フジテレビ)の電波企画部という所に異動になったので、旧郵政省などによく行くようになった。 専門的な話しは止めるとして、私が移った部署は、要するに放送など、電波行政全般を担当する所だったのである。
そのうちに、自民党にも野党にも電波行政を担当する議員がいることが分かり、自民党の十数人の議員の内に、野中広務という人がいることを知った。 この時、私は初めて野中氏の名前を知ったのだが、彼は一般的にはまだ全く無名の議員だったと思う。
ある日のこと、私は野中さん(当時は自民党総務局長)の部屋を初めて訪れた。 何を話したかよく覚えていないが、選挙や政局の話題だったと思う。そこで私が感じたのは、彼はとても率直で明快、歯切れが良いということだった。私はいっぺんに彼が好きになった。

  それからというもの、私はしょっちゅう野中さんの所へ行くようになったが、一度会社の上司にも紹介しなくてはと思い、ある時、T常務とA局次長を誘い一席設けることにした。 招待する側は儀礼上、当然菓子箱の一つぐらいは用意するわけだが、びっくりしたのは、野中さんの方も京都のお菓子を3つ用意してきたことだ。私は政治家を何十回も接待したことがあるが、招待される政治家がお土産を持ってきたというのは、野中さんが初めてだった。 この人は、なんと気配りのきく人なんだろうと思ってしまった。
私は野中さんに可愛がられたのだろうが、その後、彼から随分情報を得ることができた。旧郵政省を始めとする電波関係の貴重な情報を、何度となく彼から教えてもらった。 そのため、会社では上司の覚えが良くなったようだ。 この点では、今でも野中さんに深く感謝している。

 3) ところが、それから2年余りして、思わぬ事態が到来した。 高知県の経済グループが、フジテレビをキー局とする新しい民放テレビ局を地元に開設しようというので、野中さんを中心に陳情を始めたのだ。
テレビ局ができるというのは、その地域にとって大変良いことである。 まず若者が喜ぶし、文化格差の是正、地域の活性化、雇用の創出等々、どれを取っても素晴らしいことである。従って、高知県の橋本大二郎知事は、先頭に立って熱心に工作を進めた。
どうやら橋本知事は、実兄の国会議員・橋本龍太郎氏(当時の自民党総裁)になんとかして欲しいと頼んだようだ。 勿論結構な話しなので、橋本氏は自分の派閥(小渕派)に所属する電波関係の野中氏に「やって欲しい」と持ちかけたようだ。この結果、野中さんを中心に高知の新局作りの運動が進むのだが、困ったことには、我々フジテレビとしてはいい迷惑で、バブル経済崩壊後の苦しい環境の中で、キー局に大きな負担がかかる新局などは、とてもやる気にはなれない。

  社内では営業を中心に、新局に猛反対する声が続出してきた。 こう言っては失礼だが、高知県にネットワークのテレビ局ができても、キー局にはほとんど何の経済的メリットもないのだ(専門的な話しは控えるが)。 本来積極的であるべき電波企画部の私自身でさえ、新局には反対なのである。
ところが、“天下国家”のために新局作りに熱心な旧郵政省も、勿論野中さんの力を頼りにしていた。そこで、野中さんが前面に登場してきたのだ。 これまで、電波の情報源として親しくさせてもらった私は、今度は会社の利害に直接関係のあることで、彼と対峙しなくてはならなくなった。

 4) それからというもの、野中氏との間で虚々実々の駆け引きが繰り広げられた。 会社の利害に関することだし、専門的な話しだから内容は控えるが、とにかく野中さんは新局作りに一所懸命だった。私はそれに抵抗した。 しかし、結論から言えば、我々は新局作りに合意せざるをえなかった。野中さんの軍門に下ったのである。
その間の攻防戦は、私のサラリーマン人生において最も充実したものだった。私は死ぬまでそれを忘れないだろう。 そして、一旦新局作りに合意すると、あとは私もそのために夢中で働いた。 こうして、高知に新しいテレビ局が誕生したのである。(現在の「高知さんさんテレビ」。 なお、新局ができたことで地元の経済グループから、相当額の謝礼金か政治献金が野中氏に渡ったことを付言しておく。)そういう意味で、野中さんは一生忘れえない政治家である。 しかし、昨今は腹心の国会議員・鈴木宗男氏が逮捕されたり、前述したように北朝鮮問題で批判の矢面に立たされている。

  北朝鮮問題については、現在いろいろな噂が出ている。 仮にも野中さんが国益に反するような行動をするなどとは、私は勿論絶対に信じたくないが、一国民として非常に気になる。 そして、拉致被害者の家族の方々が、大変な憤りを持っていることを忘れてはならない。
野中さんが執筆した「私は闘う」(文藝春秋)という本には、松本サリン事件(1994年)が起きた時の自治大臣・国家公安委員長であった彼が後日、犯人扱いされた無実の河野義行さんに対し、最高責任者として深くお詫びするくだりがある。 誠に率直で男らしく、胸に迫るものがある。
野中さんはそういう人である。 政治家として、北朝鮮による拉致被害者や家族に対しても、そうあって欲しいと願わずにはいられない。 現場の一線を退いて“隠居”暮らしをしている私は、もう二度と野中さんには会えないだろう。 しかし、決して忘れることのできない政治家なのである。 (2002年11月26日)

 

ネット企業は「電話受け付け」も行なえ! (それに批判的なコメントも掲載)

ヤフーだけではないが、インターネット関連会社はどこも電話受付をしていない。全てメールで済ませるのだ。仕事の性格上 分からないではないが、インターネットが社会的な地位を確立したことは、同時に社会的な責任も負うということだ。
テレビや新聞、出版社などのメディアはメールはもちろんのこと、電話受付サービスも行なっている。社会的に認知されればそれは当然のことで、責任を果たしているのだ。 ところが、ネット関連会社は自分が特別で偉いと思っているのか、電話受付を全くやっていない。一流の企業だというのに、まるで“ペーパーカンパニー”か暴力団関係会社みたいではないか!
インターネットは今や立派なメディアである。テレビや新聞以上に影響力を持つに至ったのなら、当然、社会的な責任も果たすべきである。私の言うことが間違っているだろうか。電話受付には人員も要るし、時には好ましくない電話もかかってくる。しかし、テレビや新聞などのメディアは皆それを行なっている。つまり、社会的な責任を果たしているのだ。
メールのやり取りだけでは、利用者や国民の微妙な声や要求、注文などを聞くことはできない。それとも、そういうものを嫌がっているのか。 監督官庁がどこだか知らないが、政府はインターネット関連会社に「電話受付」を義務付けるべきである。そうすれば初めて、社会的な地位にふさわしい責任が果たされるだろう。

 

なお、私の主張に批判的な意見も寄せられたので、参考のため以下に掲載しておこう。

☆「インターネットをメディアの一種だとか考えているから、そういう御意見になるのでしょうが。 テレビや新聞と比較する事が、そもそも次元の違いに気付いていない盲目さを暴露していると思いますよ。私たちが生活している現実社会には、テレビも新聞も電話会社も電話機もありますが、インターネット社会の中には、インターネットテレビや動画サイトやニュースアプリなどもありますが電話は不要なんです。 現実社会とつなげようとする人だけが必要と思うだけで、メールやチャットがあれば用は足りますでしょ。 IT弱者は参加しなくても良いのですよ。」(2019年4月15日、某氏より)


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