武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

青春流転(13)

2024年03月25日 04時54分50秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

11)暗雲

 九月。行雄は大いなる希望を持ってこの月を迎えた。 夏休みを自分の故郷などで過ごした学生達が再び大学に姿を現わし、キャンパスに活気が蘇った。 そんなある日、大川勇が警官隊の警棒で殴られ、相当な重傷を負ったという情報が耳に入った。

 大川は三井三池炭鉱の労働争議を支援するため、七月末から福岡県の大牟田市に行っていたが、警官隊と衝突した際に警棒で頭皮を割られ、鼻硬骨を砕かれたというのである。

 三池争議は前年の十一月から始まったが、この労働争議は「総労働」対「総資本」の対決と言われ、第一組合、第二組合、警察、右翼などが激突し、死傷者が出る流血の大闘争となっていた。 当然、日本中の関心を集めていたが、全学連も第一組合を支援するため闘争に参加したのである。

 大川はこの三池闘争に参加して重傷を負い、東京に戻って新宿のK病院に入院していた。 行雄はそれを知ると、前々からマル学同退会の意思とアナーキズム運動への参加を報告したかったため、見舞いを兼ねて大川に会おうと思った。

 早速、K病院を訪れて大部屋にいる大川に面会すると、彼は頭や顔に包帯を巻いて痛々しい姿を見せていた。 いったい何ヵ月の重傷なのだろうかと、行雄は思った。いたわりの言葉をかけると、大川は黙ったままうなずくだけだった。 一瞬、行雄はアナーキズムの話しなどは止めようかと思ったが、彼にだけは正直なことを話さなければならない。

 どうしようかと躊躇していると、大川の方から意外に元気の良い声で「その後、どうしてるの?」と話しかけてきた。 行雄は気を取り直して、最近の自分の考えや行動を語り始めた。 話し出すと、行雄は大川の容態のことも忘れて一方的にしゃべり続けた。

 アナーキズムの研究のことから、マル学同を退会したい気持などを一気に話してしまった。 大川は黙って聞いていたが、行雄の話しが終るとおもむろに次のように答えた。

「村上君、君とはとうとう離れていくことになりそうだね。残念だなあ。 ブントの解体を見るまでもなく、安保闘争後、僕達学生左翼は理論的にも政治運動的にも、混迷状態に陥ってしまったね。

 しかし、だからと言ってマルクス主義を捨てて、すぐにアナーキズムへ移るという行動が僕には分からない。 君が言う大杉栄やバクーニンのことなど、僕はほとんど知っていないが、君はまだ十分にマルキシズムを消化したとは思えないよ、失礼だけど。

 君は、レーニンの組織論の中に、スターリニズムの萌芽があるように言うが、僕には絶対にそうは見えないんだ。 われわれ革共同の中に、そのようなスターリニズムの勃興がありえるとするなら、僕らは全力でそれを阻止し、根絶していくだろう。 官僚的な権力社会主義の腐敗については、僕らはいやと言うほど、歴史的にも現実的にも見てきたではないか。

 もし万一、黒田さんや本多さんが、そのような権力主義的方法論に陥ったとするなら、僕ら自身がそれを許さないだろう。 僕らだって、組織の単なる“歯車”ではないのだ。自覚した主体性のあるマルキストとして、革共同を担って生きているのだ。 君の話しだと、前衛党やプロレタリアートの独裁そのものまでが、悪で間違っていることになるが、それは飛躍し過ぎる議論ではないのかな」

 大川はこういう話しをしていると、元気が出てくるようだった。声の艶(つや)もいつもの彼のものであった。 行雄は何かほっとした気分になったが、すぐに反論していく。 そして、二人の応酬が続いた。

「いや、前衛党絶対や、プロレタリアート独裁の理論こそ間違っていると思う。 僕らだって、レーニンは偉大で誠実な革命家だと尊敬している。実際、僕はレーニンが大好きだ。 しかし、彼の『ボルシェビキ以外は全て革命の敵だ』と断定する考えが、自由で創造的なアナーキズム的革命精神を、圧殺してしまったのが歴史の現実ではないのか。

 だから、プロレタリアート独裁に名を借りた、ボルシェビキの一党独裁になってしまったのだ。 それが、さらにスターリンの独裁、官僚的な権力社会主義の定着、そしてソ連社会帝国主義の誕生となっていったのは、極めて自然な展開だったと思う。 レーニンという個人の偉大さ、純粋さはこの場合、前衛党絶対の“神話”とは関係のないことだよ」

「しかし、外国の干渉や国内の反革命という、極めて危機的な状況において、ボルシェビキ権力、それに赤軍がいなかったら、果たして革命を守ることができただろうか」

「それはできたと思う。 現に、アナーキストのマフノー防衛隊や、クロンシュタットの水兵らは、ロシア革命を守る上で最も勇敢に、また最も効果的に反革命と闘い、それを撃破したではないか」

「しかし、スペイン革命の時には、アナルコ・サンジカリストが参加した人民政府は、フランコの反革命を倒すことができなかったではないか」

「それは第一に、スターリンの裏切りによるものだ。そんなことは君だって知っているだろう。 それより、僕が言いたいのは、“現実的”という名のもとに、理想を放棄してしまってはいけないということだ。 前衛党に疑問があれば、たとえそれが革命のために最も有効だと考えられても、前衛党を認めてはならないのだ。

 手っ取り早く革命をやるには、軍隊組織のような前衛党があればそれが一番いいかもしれないが、その軍隊的な前衛党は、革命が成功した暁には、それを守る口実で民衆の正当な要求を平気で弾圧していくのだ。 ソ連の場合が正にそうだったではないか」

「そうじゃない。 ソ連の場合は、トロツキーらボルシェビキ民主派の力が弱かったからだ。彼等の力が強かったなら、スターリン一派に乗じられることはなかったはずだ」

「いや、そのトロツキーだって反民衆的だったのだ」 「君はトロツキーまで否定するのか!」 「否定すると言っても仕方がないね。彼はクロンシュタットのコミューンを弾圧し、ペトログラードのストライキも粉砕したのだから」

「それじゃ、もう話しにならない。君のペダンチックで妄想的な革命論議は、もう聞き飽きたよ。好きなようにしたまえ。 ただ一つ聞きたいのは、君は本当に革命を望み、それをやろうとしているのかね」

「それは勿論そうさ。 だから僕や笹塚らは、これから全学連の中にも同志を見つけ、アナーキズムを徹底的に浸透させていこうとしているのだ」 「君らが革命家というより、革命の“研究家”にならないことを願うだけだね。要は、革命への意志と情熱、パトスだよ」

「いや、パトスだけではない。あくまでも理想の追求だ。 出発点に間違いがあれば、事は成就しても後で必ず変質や歪曲、腐敗が出てくるのだ。 たとえ僕らの運動が空想的だと言われようとも、理想は大切にしていかなければならない」

 ここで、大川は暫く黙ってしまったが、やがて次のように語った。「分かったよ。君がいずれ、アナーキズムの個人の自由を元にした無原則性に気がついて、再びわれわれの所へ戻ってくることを期待するしかないね」

「残念ながら、そういうことはないと思う。 ただ勿論、われわれも全学連の行動には積極的に参加し、君達とスクラムを組んでやっていくつもりだ。そのことだけは、約束してもいい」

 二人が論じ合っているところへ、看護婦が大川の検診にやって来たので対話は途切れてしまった。 行雄は暫く大川の様子を窺っていたが、容態はあまり良くないように思われた。特に、鼻硬骨を砕かれた部分の回復が遅れているようで、後遺症になるかもしれないと心配になってきた。

 看護婦が去っていったので、行雄が言葉をかけた。「だいぶ傷が思わしくないようだけど、早く良くなってね。 君には随分お世話になったものね」 大川は少し苦笑いしたようだったが、包帯に隠れて顔の表情はよく分からなかった。

 この後、彼はポツリとつぶやいた。「痛いし疲れたよ」 行雄は意外な言葉を聞いた思いがした。 大川が弱音を吐くのを聞いたのは、初めてではないだろうか。行雄は返す言葉がなかった。彼は大川に別れを告げると、また見舞いに来るからと言ってK病院を後にした。

 

 病院からの帰り道、行雄は一年近く前に大川に誘われて、全学連のデモに初めて参加したことを思い出していた。 いつも毅然として男らしい態度の大川、小さい身体なのに機動隊にも勇敢に立ち向っていった大川、行雄は彼が好きだったし尊敬もしていた。

 自分に革命とマルクス主義を教えてくれたのは大川だった。 行雄はいつも彼を兄貴分と思っていたし、その親切で優しい気立てに心を惹かれていた。 その大川がいま、重い傷を負って入院しているというのに、自分は彼とイデオロギー、信念を異にせざるをえなくなったのだ。

 寂しくやるせない気持に襲われるが、それはやむを得ないことだと行雄は思う。 敦子から精神的に遠ざかってしまった時と同じような感慨を、行雄はいま大川に対しても抱いていた。 敦子と大川はまったく異なる存在ではあるが、彼にとっては二人とも気高い存在であることに変わりがなかった。

 この一年間、自分は絶えず二人を仰ぎ見てきたような気がする。 一方はAFSのアメリカ留学生、他方はマル学同の同志であったが、二人とも自分がとても到達することができないほど、優れた人間だと思ってきたのだ。

 しかし今や、行雄は敦子とも大川とも離れ離れになってしまった。寂しさが募るばかりである。 しかし、しかし俺は正しい、間違っていないと行雄は自分に言い聞かせる。 俺が選んだアナーキズムは正しいのだ、俺はそれに殉じていくしかないのだ。悲痛な思いに駆られながらも、彼は己の道を信じるのみであった。

  大川の見舞いをしてから数日後、行雄はマル学同(マルクス主義学生同盟)に対して脱退届けを提出した。 届け出の中に、十数項目にわたるマルクス主義批判の文章を書いたところ、マル学同でもちょっとした反響を呼んだらしい。

 最後となる会合に出席した行雄は、前衛党の問題などについて自説を述べ立てたが、議長役の本多延嘉氏は渋い顔をしたまま何も言わなかった。 ただ数人の学生達が、アナーキズムのどこが良いのかとしつこく尋ねてきたので、その応答に孤軍奮闘という形で終始した。

 その直後、行雄は笹塚らと一緒に作っている「反逆の砦」第三号に、マルクス自身の人物像を取り上げた小論を掲載した。 その中で彼は、「若い頃のマルクスは“大詩人”になることを夢見ていたが、結局それが果たせず、思想で世界を征服しようと考えるに至った。 しかし、マルクス本人は『私は決してマルクス主義者ではない』と述べている」と書いた。

 また、マルクスが娘の質問に答えた「告白」と題するエピソードを取り上げ、この中でマルクスが『好きな男性の美徳は強さ、好きな女性の美徳は弱さ』と述べていることから、「マルクスは女権の拡張を善しとしない“家父長的”な性格の持ち主だったようだ」と書いた。

 行雄が好き勝手に書いた「マルクス所感」は、笹塚や瀬戸山を大いに喜ばせたが、これを読んだ黒田寛一氏ら革共同(マル学同の上部団体)の人達は、「こんな文章を書くのは女だろう」と言って“けんもほろろ”だったという。

 

 九月中旬になって、行雄は笹塚らと協力して早稲田大学に日本アナキスト連盟の支部を創った。 また、日比谷野外音楽堂で開かれた全学連の集会に出て、アナーキズムを宣伝するビラやパンフレット、「反逆の砦」などを配布した。 アナーキズムという、戦後ほとんど普及していない革命思想の宣伝物を手にして、学生達はもの珍しげに目を通していた。

 行雄は小躍りするようにビラやパンフを配っていった。 アナーキズム活動がここに始まったという実感が胸に迫ってくる。彼は大川勇のことやマル学同、革共同のことは完全に忘れてしまって、一アナーキストとしての自分の運動に喜びを感じていたのである。

 しかし、岸内閣が退陣し七月に池田勇人内閣が誕生すると、日本の政治風土はがらりと変わってしまった。荒々しい政治闘争の季節が過ぎ去ったかのようである。 池田内閣は「寛容と忍耐」をキャッチフレーズにして“低姿勢”を売り物にした。

 そして「所得倍増」や「高度経済成長政策」といった、耳ざわりの良い政策を次々に打ち出してきたため、国民はほっと一息つくような状況になってしまった。 それまでの岸内閣が警職法改正問題から日米新安保条約締結に至るまで、一貫して強硬な政治姿勢を示していたのとは、大きな様変わりだったのである。

 このため、全学連が池田内閣打倒の決起集会を開いても、集まる学生はせいぜい三、四百人しかいなかった。 あの巨大な安保闘争が嘘だったかのように、学生のデモ行進は少人数で“みすぼらしい”ものとなってしまった。一般の学生はほとんど参加していないのである。

 相対的に警察の警備は勝ち誇ったように、厳しく力強いものに感じられた。 ジグザグ行進を始めようものなら、警官隊がどっとデモ隊に襲いかかり、学生達の膝を蹴り上げ拳を振った。 行雄達は何度も路上に押し倒されたり、突き飛ばされたりした。

 こんな状況が続いて、学生運動は大丈夫なのだろうか。不安が行雄の胸をよぎる。 一般の学生がそっぽを向いてしまったことで、全学連にも暗い秋の季節が訪れてきたように感じたのである。

 

 しかし、行雄はアナーキズム運動にますます力を入れていった。 彼は“村田隆”というペンネームを使って、アナ連の機関紙「クロハタ」に寄稿したり、大学構内でも積極的にビラやパンフレットを配って歩いた。

 活動の資金が欲しいので、梅沢氏の了解を取り付けた上で、笹塚らと一緒に昔マルキストだったという某競馬新聞社長を訪問し、アナーキズムこそ人間解放の理想的な運動だと説いて、何万円かの資金をせしめたりした。

 蕨市に住む瀬戸山史子の家にもしばしば足を運ぶようになった。 彼女はいつも行雄を誘うので、よく自転車に乗って訪れたが、二人でアナーキズムを宣伝するガリ版を刷ったりした。 瀬戸山も自分が書いたアジビラなどを見せに、時々行雄の家にやって来たが、彼が筆を加えると、アジビラなどの内容が一段と先鋭で過激なものとなった。

 瀬戸山は行雄に好意を持っていたようだが、ある時、彼女の書いたアジビラがあまりに平凡で温和な調子だったので、行雄が激怒し、こんなものでは到底左翼学生をオルグすることはできないと厳しく難詰すると、瀬戸山は顔を紅潮させ涙ぐんで帰っていった。

 最も過激で極端であること、それが人間の純粋さの証明だと行雄は思っていたから、テロについても時おり考えるようになった。 彼はロシア帝政時代にテロを行なったナロードニキ(人民主義者)の純粋さに惹かれた。 思想的にはまったく傾倒しなかったが、その革命的情熱と英雄主義に魅せられたのである。

 石川啄木の詩「はてしなき議論の後」に出てくる「されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、‘V NAROD!’と叫び出づるものなし」とか、「ココアのひと匙」に出てくる「われは知る、テロリストのかなしき、かなしき心を」などの文に感動し、ナロードニキの心情に思いを馳せるのだった。

 行雄は本来、暴力そのものは好まなかったが、虐げられた民衆を救うための暴力は“義挙”であると考えていた。 マルクス主義も革命的アナーキズムも暴力革命を肯定しているが、テロリズムについては否定的である。

 しかし、内外を問わず、昔のアナーキスト達はしばしばテロに走っている。それは止むに止まれぬ心情から、我が身を犠牲にして行なう義挙ではないのか。 ある時、行雄はそういう考えを笹塚に述べると、彼は言下に「そんなテロは、大衆運動から遊離した自己満足の行動でしかない」ときっぱり切り捨てた。

 それから笹塚、瀬戸山と行雄の間で、テロをめぐる論争が始まった。 明治天皇暗殺計画とされる「大逆事件」の評価をめぐって、行雄は天皇絶対主義体制の下ではやむを得ない面があったと主張したが、笹塚はテロを行なおうとすれば、無関係の人達も一網打尽に処刑される典型的な例だとして、テロリズムを否定した。

 瀬戸山はテロにやや同情的ではあったが、アナーキズムは大衆運動として発展させていくべきであり、暴発的な決起は運動にかえってマイナスになると述べ、基本的には笹塚の見解を支持した。 行雄の主張の中には、人間の心情に根ざした美意識的な要素が際立っており、大衆的なアナーキズム革命論からかけ離れているように見えた。

 結局、行雄は笹塚らの考えに同調せざるをえなかった。 自分の考えは、どちらかと言えば英雄的な“一匹狼”のものであり、大衆的な革命運動からは程遠いものだと反省したのである。

  ところが、十月十二日、思いも及ばない事件に衝撃を受けることになる。 行雄は笹塚と一緒に午後、神田の古本屋街を歩いていたが、ある古書店の若い男が店のガラス戸に一枚の紙切れを貼っていた。 物見高い笹塚がそれを見に行くので、行雄は彼に付いていった。

 笹塚が叫んだ。「おい、淺沼が殺されたぞ!」 行雄もびっくりして紙切れをのぞき込むと、『淺沼社会党委員長、刺殺される』と書かれている。 「淺沼がやられたぞ、やられたぞ!」 笹塚が大声を張り上げるので、その若い男が不快そうにこちらをにらみ付けた。

 やられた、右翼に先にやられたと行雄は思った。 それにしても、いつもは滅多に興奮しない笹塚が、どうしてあんなに大声を出すのだろうか。笹塚はニヤニヤと微笑を浮かべ、まるで喜んでいるような風情だった。 アナーキストとはこういうものなのだろうかと、行雄も不快に感じた。

 淺沼委員長はその日午後、日比谷公会堂で行なわれた三党首演説会でスピーチをしていたところ、右翼の少年・山口二矢(おとや・十七歳)に脇差しで左胸部を二カ所刺され、近くの日比谷病院にかつぎ込まれたが、三十分余りで死亡したということである。

 その夜、行雄は笹塚に誘われ、新宿の小さなレストランでビールを飲んだ。 ビールをほとんど飲んだことがない行雄は、すぐに酩酊状態になってしまった。彼はうっ屈した気持を吐き出すように笹塚に話しをしていったが、それは酔っ払いが人に絡んでいく感じだった。

「テロはあるじゃないか! しかも、右翼に先にやられたんだ。われわれだって、やってはならんということはない!」 笹塚はいつもの冷静な態度に戻っていた。「テロなんか、所詮はマスターベーションだよ。 いいかい、村上君。こんな右翼のテロで社会党が弱まるものでもなければ、右翼が強まるものでもない。

 また、淺沼が殺されたからといって、われわれの革命運動は、いささかも影響を受けるものではない。そんなことは分かっているだろう。 右翼は淺沼をケレンスキーと見ていたようだが、もし彼がケレンスキーなら、われわれ革命派にとってかえって好都合じゃないか」

「そうは言っても、安保闘争後の学生運動はまったく低調になってしまった。 この辺で一発ドカンとやってやらなければ、われわれの運動自体も、ますます先細りになっていく感じがするんだ。こちらだって一発、テロをやってはならんという法はない!」

「おい、酔っ払ってるのか。君は本気でテロを考えているのか。 馬鹿なことを考えるなよ。テロをやれば、梅沢さんを始めアナ連の人達みんなに迷惑をかけるんだぞ。 少しは冷静になって考えろ。君はなにか焦っているようだな。

 テロにはテロというそういう考え方は危険だし、そんなことをしたら、われわれの運動は破滅してしまうぞ。 もし君がテロをするなら、アナ連を脱退してからやって欲しい。いいかね」 笹塚はそう言って行雄の反応を窺ったが、彼は何も答えなかった。

 笹塚はさらに続けた。「こういう時こそ、地道に着実に、われわれの運動を押し進めていくしかないじゃないか。 アナーキズムが本当に復権するまでには、まだまだ遠い、苦労の多い道のりが続くはずだ。

 だいたい、総理大臣や警視総監を何人殺してみても、喜んで後釜になる人間は沢山いるじゃないか。 一人、二人と殺すテロなんか、まったく意味のない馬鹿げたものだ。もっと大きな気持になって、アナーキズム運動を考えてくれよ。 革命なんか、そう簡単にできるものではない。さあ、もう一杯どうだ」

 笹塚が注ぐビールを行雄はまた飲んだが、やりきれない重苦しい気持が、ビールの苦さとともに心の底に沈殿してくる。 右翼に先にやられたという“敗北感”みたいなものが残るのだ。 その夜は、酒好きの笹塚に勧められるままに、行雄はビールを相当量飲んで家路についた。

 飲みつけないビールで酔っ払い、彼は意識が朦朧(もうろう)としていた。 自宅の近くにやって来ると、安心感から気がゆるんだのか、急に胸苦しさが込み上げてきて道端に嘔吐した。


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2 コメント

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三池争議の思い出 (ヒロシ)
2016-02-28 14:26:26
 私の所属する労働組合でもこの闘争を支援しようということになり組合員からカンパを集めて届けることになりました。どのくらいのお金が集まったのか忘れてしまいましたが、それを届ける役目が委員長のお名指しで私に回ってきました。当時すこしばかり元気のいいことを青年部の中で発言したりしていたので、それが目に止まっていたのでしょう。
 熊本から大牟田まで国鉄に乗って行きました。さて、現地について組合事務所を尋ねると組合事務所は2つあるのです。第1組合と第2組合。そのどちらに届けるのか委員長からはなにも聞いていません。迂闊なことに募金の趣意書にもその区別はなかったのです。私は迷わず第1の方へ持って行きました。職場に帰ってからその報告をしたところ、第2組合への差別ではないかと抗議が出て集会が大いに紛糾し、委員長が謝罪するという事態になったのでした。
 現今の労働組合に第1第2の区別はありませんが、第2組合の協調路線を引き継いで連合が生まれ、ストライキなどはタブーになってるようです。
三井三池闘争 (矢嶋武弘)
2016-02-28 15:11:50
熊本におられたのですか。それはお疲れさまでした。
私はもう革共同を離れていたので、三池には行きませんでした。元の仲間が数人行きましたね。街頭カンパは新宿あたりでやったことを覚えています。
今の労働運動は大きく変わったと思います。

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