武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

青春流転(15)

2024年03月25日 04時56分13秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

12)挫折

 文学部自治会での主流派の敗退、池田内閣打倒デモの末期的な衰退と、行雄にとっては周りの学生運動が何もかも上手くいっていなかった。 アナーキズムに賛同してくれる学生も皆無と言ってよかった。 左膝の負傷はその後回復してきたが、痛みはなお残っていたので、歩く時に気になって仕方がなかった。 加えて、彼は時たましか家に帰らず、クラスメートのアパートに泊まり込んだりしていたため、家族との交流も途絶えがちになっていた。

 そんなある日、行雄にとって信じがたい出来事が起きた。自宅で療養中の大川勇が自殺を図り、未遂に終ったというのだ。 その情報を笹塚から聞いた時、彼は脳天をハンマーで打たれたようなショックを受けた。 あの大川が・・・いつも毅然として自信に満ちあふれていた、あの大川が自殺を図るとは・・・

 行雄はすぐに、三ヵ月ほど前に彼を新宿のK病院に見舞ったことを思い出した。 あの時大川は、三池闘争で警官の警棒で鼻硬骨を砕かれて入院していた。頭皮も割られていたので顔や頭を包帯で覆っていたが、あの重傷がもとで自殺を図ったのだろうか。

 そういえば、別れ際に大川は「痛いし疲れたよ」と、彼らしくない弱音を吐いていたことも思い出した。 大ケガによる自殺未遂か・・・笹塚にその原因を聞いても、知らないと答えるだけだった。

 分かっているのは、大川は睡眠薬のブロバリン錠を相当量飲んだが死にきれず、その後ロープで首を吊ろうとしているところを、不審に思った家人に見つかり、幸い一命は取り留めたということである。

 それにしても大川は、行雄がK病院に見舞った時、アナーキズムに対して昂然とマルクス主義を擁護し、革共同・マル学同の一員として、闘う決意をあからさまにしていたではないか。 あの強気と闘争心に満ちた大川が、どうして自殺しようとしたのか。まったく信じられないことである。

 K病院で彼と別れる際に、また見舞いに来るからと言ったことを思い出し、行雄はにわかに大川の家を訪問しようと思った。 笹塚から情報を聞いた翌日、行雄は新宿区大久保にある彼の自宅を訪れることになった。大川の家には、高等学院時代に数回訪れたことがある。

 玄関のチャイムを鳴らすと、白髪で小柄な大川の母親が出てきた。「あの、大川君の友人の村上です。 以前、何度かお邪魔した者ですが、大川君をお見舞いしたくて伺いました」 行雄が恐る恐るそう言うと、母親は「あら、村上さんね、覚えていますよ」と親しげに答えた。

「大川君の具合はいかがですか?」と聞くと、彼女の表情が厳しくなった。「本当にご迷惑をおかけしました。 勇は寝ておりますが、ケガや睡眠薬の後遺症と、それに精神的にすっかり参ってしまって、とても皆さんにお会いできる状態ではないんです。 あなたの他にも、何人かお見舞いに来て頂いたのですが、皆さんにお引き取りして頂きました。

 せっかくお越し頂いて恐縮ですが、勇が元気になってから来て頂けないでしょうか。 まだ、ろくに口もきけない状態なんです。端で見ているだけでも辛くて・・・どうぞ、今のところはそっとしてやって下さい」 大川の母親は涙ぐんでいた。

 行雄には彼女の心中が痛いほど察せられた。「分かりました。それでは、大川君が元気になってから、また伺います。どうぞ、お大事にして下さい」 彼はそう言うと会釈し大川の母親と別れた。

 胸に込み上げてくるものを、行雄は抑えることができなかった。 それは、あの六月十五日、女子大生(樺美智子)の死を聞いて国会構内で泣いた時以来のことであった。 自分の親しかった元同志、元戦友がいま傷つき倒れている。

 行雄はこのところ、全学連の活動家が何人も挫折したり、廃人のようになっているという話しを聞いていた。 国学院大学のKDが、つい最近自殺したことも自治会の仲間から知らされていた。彼は六月十五日の国会突入事件の時に、警官隊の警棒で頭皮を割られている。

 また、少し前になるが、東京大学のTKが三池闘争から帰った後、持病の喘息の発作に襲われ死亡したことも聞いていた。 他に精神に異常を来したとか、行方をくらませて帰ってこないとか、何人もの活動家が受難したという噂を耳にしていた。

 しかし、それらは行雄が直接知っている学生ではなかったので、やや他人事のように思っていたが、大川の場合はまったく違う。 自分に革命とマルクス主義を初めて教えてくれた人間、かつて自分が最も敬愛していた学生運動の先輩なのである。その彼がいま廃人のように横たわっているとは・・・その胸中をどう察すれば良いのか。

 行雄は重苦しい気持になっていた。 しかし、どういう精神状態になっていたかは知らないが、自分は大川のように自殺しようなどとは絶対に思わないぞ、死んでたまるもんかという思いに固執した。 しかし、そういう想念が頭をもたげてくること自体、行雄は危機的な状況に追い詰められようとしていたのである。

 

 学生活動家の相次ぐ悲報は、行雄に「人間とは何か」「人生とは何か」を考えさせる一つの契機となった。 また、学生運動の末期的な衰退は、どうしても運動そのものに疑問を抱かせるものとなった。 そして、もっと大きな問題は、アナーキズム自体への疑問となって現われてきたのである。

 行雄は相変わらず、アナーキストとしてビラやパンフレットを配ったり、「クロハタ」に寄稿したり、「反逆の砦」を刊行したりと活動を続けていたが、アナーキズム全般をも研究するようになっていた。

 彼がアナーキズムとして理解していたのは、いわゆる「革命的アナーキズム」で、これは、マルクス主義と同じように、プロレタリアートの階級闘争を通じて社会革命を目指すものである。

 ただ、マルクス主義と違う点は、個人の自由と相互の連帯を重視するから、プロレタリア独裁やレーニンなどが主張する「前衛党」の理論に反対するのである。 バクーニンがいみじくも言った「社会主義のない自由は特権であり、自由のない社会主義は隷属である」というのが根本なのだ。

 ところが、アナーキズム(無政府主義)の中には、この革命的アナーキズムの他に様々な思想があることを知って、行雄は戸惑ってしまうのである。 プチブル階級を主体として漸進的な社会改革を目指す、プルードンらの思想はまだ受け入れやすい。

 しかし、絶対自己の存在である「唯一者」を主張する、マックス・シュティルナーの個人主義的アナーキズム、キリスト教的人間愛によって「地上における神の王国」を創ろうという、レフ・トルストイの思想などが含まれていることを知って、行雄は混乱してしまった。

 革命的アナーキズムだけではいけないのか。革命のみが正義ではないのか。 個人主義的なものや、キリスト教的な無政府主義のどこが良いのか。考えていくうちに、行雄の頭の中は混乱していくばかりである。 この革命的アナーキズムへの疑問は、彼にとって極めて重大な意味を持っていた。それは、革命そのものへの疑問へと繋がっていったからである。 

 行雄は以前K病院に大川を見舞った時、彼から「革命の研究家」にならないようにと、注意されたことを思い出した。 しかし、自分はどうやら革命の研究家になろうとしているのではないか。 あの時、大川はたしか「要は、革命への意志と情熱、パトスだ」と言っていた。 そうすると、自分は革命への意志と情熱を失いつつあるのだろうか。

 行雄はそう自問してみると、学生運動の衰退、反主流派への敗北、家族との不和、アナーキズムへの一般の無関心、活動家の相次ぐ受難など、嫌気がさすことばかり起こっていることに思い当たるのだ。 自分は革命運動そのものが嫌になってきたのではないか・・・いや、そんなことはない、絶対にそんなことはないと否定してみる。

 しかし、アナーキズムの中で、どうしてマックス・シュティルナーやレフ・トルストイの思想が気にかかるのだろうか。 安保闘争の真っ最中だったら、そういった思想などは歯牙にもかけなかっただろう。 俺は革命から逃れようとしているのではないか・・・いや、絶対にそんなことはないと否定してみる。 俺はそんな“卑怯者”ではないと、行雄は自らに言い聞かせた。

 しかし、この半年間、自分が声を大にして、革命を呼びかければ呼びかけるほど、一般の学生からますます孤立してきたように思われる。 自分は、この一年以上、自己の利益など少しも考えたことはなかった。 全てを、他人の幸せや解放のために捧げてきたつもりである。他人から賞讃されこそすれ、非難される理由はまったくないはずだ。

 ところが自分は、他人の幸せを願い、革命や理想の社会を追求して行動しているのに、多くの人から妨害され非難されているではないか。 これほど“割りに合わない”ことがあるか! 自己の利益のために行動して、妨害されたり非難されるのなら話しは分かる。 それはエゴの追求に対する、当然の報いとして甘受しよう。もっとも世の中は、大多数の人が自己利益の追求に終始して、ほとんど責められたり非難されていないのが現状だ。

 ところが自分は、純粋に他人の幸せばかりを願って行動しているのに、どうして非難されたり弾圧されるのか! この社会は、自己の利益のために行動する方が良いというのだろうか。他人の幸せなどは、どうでもいいことなのだろうか。 そう考えていると、行雄は“卑怯者”にはなりたくないが、革命運動に嫌気がさしてきた自分を初めて認めざるをえなかった。

 このような状況の中で行雄は、革命だけでなく「人間とは何か」「人生とは何か」「世界とは何か」を真剣に考えるようになった。 革命的アナーキズム運動を続けながらも、彼は日に日にその傾向を強めていった。

 

 ある日のこと行雄は、瀬戸山史子から在日韓国人H氏と結婚したという知らせ(葉書)を受け取った。 H氏はアナ連にも所属している工場労働者で、何度か顔を合わせたことがある。彼は物静かで口数が少なく、いつも含み笑いを浮かべていて、何を考えているのか分からないようなタイプの人だった。

 瀬戸山とH氏が結婚するとは予想もしていなかったので、行雄が笹塚に事情を聞いてみると、彼もまったく“寝耳に水”ということだった。 瀬戸山はこのところ、行雄や笹塚の運動からやや遠ざかっていたので、何かあったのだろうかと思っていたら、突然の結婚通知だったのである。

 二人は興味をそそられたので、早速瀬戸山と学生会館で会った。彼女の話しだと、H氏と新婚旅行に出かけていたという。 瀬戸山はタバコを吹かしながら、とても楽しい旅行だったと“のろけた”調子で語った。 二人が、結婚生活や今後の暮し向きなどを聞いても、彼女はまったく気にしていないという風情だった。

 瀬戸山は「別れたくなったら別れる」と言ったので、行雄はびっくりした。彼は結婚観については古風な考えを持っていたので、彼女の自由奔放な生き方に驚愕したのである。「じゃあ、同棲みたいなもんだな」と笹塚がニヤニヤ笑いながら聞くと、瀬戸山は「まあ、そうね」と軽く答えた。

 史子が何ものにも囚われないアナーキストだとは知っていたが、行雄は改めて彼女の天衣無縫な人格を思い知らされた感じがした。 これが史子の生き方であり、人生観なのだろうか。あるいは世界観かもしれない。 行雄はいま、自分の前に不思議な女性がいるような気がしてならなかった。

 それから三人は雑談を交わしたが、アナーキズムにおける「多様性」について行雄が話し出すと、笹塚と瀬戸山はそれは当然だと答えた。 いかなる権威も強制も認めないこの思想は、それが発現される際には、いろいろな形を取って当然だと言うのである。

 シュティルナーやトルストイの思想も、それぞれ特有の形で発現されてきたもので、なんら問題ではないと言うのだ。 それならば、われわれがいま行なっているアナルコ・サンジカリズムなどの革命的アナーキズムは、絶対的なものではないのかと行雄が質すと、笹塚らは「それは選択の問題だ」と答えた。

 要するに、何を“主体”として考えるかということなのである。 革命を主体として考えるのか、あるいは個人なのか、人間愛なのかで形は様々に変ってくると言うのだ。 聞いていると分かったような気持になるが、このアナーキズムはなんと多様性に富んでいて、不可解なものだろうかと思ってしまう。

 この世の中には、絶対的な思想などというものはないだろう。思想自体も発展していくに違いない。 しかし、笹塚らが言うように「選択の問題」ということになれば、行雄にとって、それは「疑問や混迷」以外の何ものでもなくなるのだ。 革命的アナーキズムが絶対だと思っていたのに、アナーキストによれば「選択の問題」ということになる。 三人で話しているうちに、行雄は何が主体で、何が理想なのか分からなくなってしまった。

 

 その後、行雄の混迷は深まった。 仮に革命的アナーキズムの理想を放棄したら、自分は果たして生きていくことができるのだろうか。 革命こそ理想であり、正義ではなかったのか。 それが単なる「選択の問題」というなら、客観的な真理というものはどういうものなのか。

 考えれば考えるほど分からなくなり、行雄は懐疑論と不可知論の“泥沼”にはまっていくような感じがした。 搾取され虐げられた人々を解放する革命こそ、唯一絶対のものと思っていた自分が、様々な逆境によって心が揺らぎ始め、アナーキズムの多様性を良いことにして、革命運動から脱落していくような予感を抱いた。

「世界とは何か」「人間とは何か」「人生とは何か」・・・多くの疑問が一遍に噴き出してきた。 自分の心の動揺が原因で、行雄は「人間とは不可解なものだ」と考え始めた。そういう自分を通して、人間そのものへの疑問が湧いてくるのだった。

 現実の人間とは多種多様ではないか。 顔がそれぞれ違うように、考え方や思想もそれぞれ異なっている。 アナーキズム革命などは、ほんのごく一部の人間だけが信奉しているに過ぎないではないか。 そんなものは、ごく一部の人の正義でしかないと考える。

 しかし、理想を放棄することは、行雄にとって耐えられないことだった。 この一年以上にわたって、彼はひたすら革命を目指してきた。 人類解放の理想のために、全身全霊を打ち込んで行動してきたはずである。そういう生き方を放棄することは、挫折以外の何ものでもない。 そんなことはできるはずがない。

 行雄は思い上っていたかもしれないが、自分は間違いなくエリートだと思ってきた。 真のエリートとは、己の生命や財産、安全といったものを犠牲にして、人類解放のために全てを捧げる人のことを指すのだと思ってきた。

 ところが、そういう生き方をすればするほど、現実社会の風当たりや弾圧が強まってきたのである。 真のエリートとは、いかに孤立し弾圧されようとも、それに屈することなく理想に殉じていく人を言うのだろう。そういう意味で、自分はこれまで頑張ってきた。

 しかし、それも今や限界に達してきたのではないのか。 自分は様々な逆境にもはや耐えられなくなってきたのではないか。理想を放棄するのも耐えられないが、現実の受難はそれ以上に苦悩を強いているのだ。 行雄は煩悶に煩悶を重ねた。

 ここでアナーキズムを放棄することは、革命を裏切ることである。挫折・転向して卑怯者になることだ。 かつて大川らが、笹塚のことを「革命のジプシー」と呼んだように、自分もジプシーの烙印を押されることになるだろう。 しかも、いまアナーキズムを捨ててしまえば、それに代る納得のいく思想は他にないのだ。 断崖から真っ暗やみの海に飛び込んで、自分は果たして生きていくことができるだろうか。

 行雄は悩み抜いた。 しかし、アナーキズムは「人間の不可解さ」に、なんら明快な解答を与えてくれるものではなかった。むしろ、アナーキズムを知ることによって、彼は人間の不可解さやその多様性を認識してしまったのである。

 

 煩悶を重ねた結果、ついに行雄は決心した。 十二月下旬のある日、彼は渋谷の某所で開かれた日本アナキスト連盟の研究会に、笹塚や瀬戸山と一緒に出席した。 この日は、大杉栄の著作とスペイン革命の歴史がテーマとなり、アナルコ・サンジカリズムについて討論が行なわれた。

 会が終る頃になって、行雄は発言を求めて切り出した。 「僕は、もう半年以上にわたってアナーキズムを研究し、皆さんと行動を共にしてきました。 しかし、結論から言うと、僕は結局何も分からなかったのです。 分からないというより、ますます多くの疑問や不可解な点が出てきたのです。

 一体、僕らには何が分かっているのだろうか。 この社会の矛盾や、賃労働と資本の論理、アナーキズム革命の正しさなどは知っているかもしれない。 しかし、真理とは何か、世界とは何か、また人間とは何かということについて、どれほど分かっているだろうか。ほとんど何も分かっていないのではないか。

 そこで、自分は何も知っていないということを、まず知るべきだと思います。 その上に立って、世界とは何か人間とは何かといったことを、問い詰めていくべきだと思います。 こう言うと、懐疑論者や不可知論者と思われるかもしれないが、一生かかってもいいから、世界とは人間とは自分とは何かを、探究していくべきだと思うのです。

 そうでなければ、本当に客観的で正しい立場から、この世界や社会、人間の問題を解決していくことはできないと思う。 皆さんには申し訳ないと思いますが、この際、僕はもう一度原点に返った気持で、自分自身のことや世界のことなどを見つめ直していきたいと思います。

 その結果、再び革命的アナーキズムが真理だという結論に達すれば、また皆さんの所に戻ってきます。 とにかく僕はいま、自分独りだけになって考えてみたいのです。従って今日限りで、アナ連から脱退することにします。 皆さん、いろいろ有難うございました」

 行雄は一気呵成にそう言うと、肩の荷を下ろしたように、ほっとした気持になった。 笹塚には事前にアナ連脱退を告げていたが、彼は、もう一度考え直したらどうかと尋ねてきた。 しかし、行雄は自分の考えを変えることはできないときっぱり断った。 気まずい沈黙が一時続いたが、笹塚が再び口を開いた。

「村上君の決意は固そうだ。 僕は強いて彼を引き止めようとは思わない。彼は彼の“軌跡”にのっとって動いているのだ。 しかし、村上君は必ずまた、われわれの所へ戻ってくると信じている。それが彼の軌跡だと思っている」

 笹塚の発言に対して、誰も何も言わなかった。主宰者の梅沢正之氏も沈黙したままである。 アナーキストとはそもそも自由な人間だから、他人のことは気にかけず放任しておくのだろうか。 笹塚と瀬戸山を除いて、誰も気にしないという様子だった。 それが幾分、行雄の気持を楽にした。彼はアナ連の人達に別れを告げて、一足先に研究会を退席した。

 

「革命」から解放されたという気持で、行雄は渋谷の街頭に出た。風がかなり強く吹きつけ、冬の寒さが身に凍みる思いだ。 空腹感を覚え、行雄はラーメン店に入って醤油ラーメンを貪るように平らげた。身体が暖まったので、店を出ると繁華街をぶらぶらと歩き始めた。

 クリスマスが近いせいか「ジングルベル」の音色がどこからか聞こえてくる。 道行く人達は、なにかせわし気に歩いているように見えた。酔っ払った数人のサラリーマンが、哄笑しながら通り過ぎていく。 行雄はふと、自分は解放されたのに独りぽっちなんだと思った。歩いているうちに、なんとも言えない寂しさが込み上げてきて、思わず涙があふれそうになった。

 しかし、俺は間違っていないと思う。 俺はいまアナーキズムに別れを告げてきたが、それは革命から脱落したり変節したのではなく、逆に革命を乗り越えてきたのだ。 俺は敗北したのではなく、新しく生まれ変わろうとしているのだ。行雄は何度も自分にそう言い聞かせた。

 しかし、渋谷の繁華街をふらつく間に、彼は全ての思想や信念から、自分が宙ぶらりんになってしまったように感じた。限りない“虚無”の不安が迫ってくるように思えてならなかった。 いま歩いている自分が、底知れない虚無の中を彷徨っているように感じられた。

  行雄は堪らなくなって喫茶店に飛び込んだ。座席に身を沈めると瞑想に耽った。 俺は革命思想をアウフヘーベン(止揚)したのだ。革命を裏切ったり、それから逃げたのではない。 俺はマルクス主義を、そしてアナーキズムを乗り越えてきたのだ。闘いと思想遍歴の果てに、俺はいまこうした自分になっているのだ。 俺は決して間違っていない。彼は繰り返し自分にそう言い聞かせた。

 しかし、自分はこの先どうなるのだろうか。真っ暗な宇宙の果てに放り出されるような気がする。 そこは暗黒の虚無が支配し、救われない自分が限りなく漂っていくような感じがする。俺は果たして救われるのだろうか。救われないまま終ってしまうのだろうか・・・

 言いようのない不安が行雄の心に襲いかかってきた。彼は震える思いでそれに耐えようとした。 これから、俺は全力を尽くして、自分に光明を与えてくれる思想を探していかなければならない。救いの思想を手にしなければならない。 そうでなければ、俺は真っ暗な宇宙の果てに孤児となって死んでいくだろう。

 しかし、そういう救いの思想があるのだろうか。 自分がこれまで全存在を賭けてきた、革命思想に代わるものが果たしてあるのだろうか。 そう考えていると、行雄は悲観的にならざるをえなかった。現実にいま、なんの救いの思想もないのだ。彼は打ちひしがれたように座席に身を沈めたまま、不安におののいていた。

 

 学生運動から一切身を退くと、行雄はようやく浦和の自宅に落ち着くようになった。 彼の両親は、息子が毎日帰宅するのを喜んでいたが、以前より一層無口で、青白い顔付きになった彼の身を心配していた。実際、行雄は日に日に憔悴していった。

 安保闘争の頃の情熱とエネルギーに満ちあふれていた行雄とは、まるで別人のように弱々しく、ふさぎ込んだ人間に変っていた。 両親や兄が、気晴らしに旅行でもしたらどうかと勧めても、行雄はまったく耳を貸さなかった。彼はうつ病患者のように悲し気で、いつも物思いに耽っていたのだ。

 行雄には、自分が変節や裏切りをしたという意識はなかったが、挫折したという気持は痛いほど感じていた。 そうだ、俺は挫折し転向したのだ。一昔前、俺は革命から転向した人間を、心の底から憎み軽蔑していた。 転向した者は卑怯者であり、殺されて地獄に落ちればいいと思っていた。

 しかし、今や自分がその転向者になってしまったのだ。 転向とは、変節や裏切りと同じ意味を持つのではないのか。どんなに自己弁護しようとも、アナーキズムに代わる正当な思想を持たない限り、俺は単なる挫折した転向者で終ってしまうのだ。

 行雄は徹底的に自分自身を責め、苦しめた。革命思想から解放されたと思った瞬間から、彼はこれまでに経験したことのない、精神的苦痛に悩まされることになった。 どうにでもなれ! ただ俺は苦しむしかないのだ。苦しみ、もがき、悶えることしかできないのだ。そう思う毎日が続いていった。

  大晦日の晩。 行雄は、これまで大切に保存していた革命運動の機関紙や雑誌、パンフレットなどを全て燃やすことにした。 マル学同時代から親しんできた「探求」や「前進」、アナーキストだった頃に投稿した「クロハタ」、笹塚らと心を込めて作った「反逆の砦」などを全て庭に運び出した。

 行雄はそれらにマッチで火をつけた。火は見る見るうちに書物を呑み込み、焼き尽くしていく。 めらめらと燃え上がる炎に、一枚一枚のページがめくれるように包まれ、やがて灰になっていく。 燃えろ、燃えろ、もっと燃えろと思った。

 行雄は、この一年以上の自分の革命人生が、いま炎と灰の中に空しく消え失せていくのを感じた。 なんとも“やるせない”苦い思いを彼は噛みしめていたが、それと同時に心の奥底に、ある種の解放感を覚えた。

 書物を焼きつくした炎は、やがて弱々しく消えていく。それと同時に、革命に燃えた自分の情熱も跡形もなく消えていくのだ。 心に残るのは、ただ灰になった革命運動の思い出という、亡骸(なきがら)だけなのだ。 冬の冷たい風が行雄の頬をかすめ、足元の灰を吹き飛ばしていった。これで全てが終ったのだと思いながら、彼は長い間、庭にたたずんでいた。


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4 コメント

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内面の具象化 (ヒロシ)
2016-02-29 12:05:24
「革命」から解放されたという気持で、行雄は渋谷の街頭に出た。風がかなり強く吹きつけ、冬の寒さが身に凍みる思いだ。 空腹感を覚え、行雄はラーメン店に入って醤油ラーメンを貪るように平らげた。
 この行以下数行の描写がいいですね。街にジングルベルが鳴り、サラリーマンが哄笑しながら通り過ぎる。それは挫折した青年の心を具象化した風景なのです。読者はこういうところに感銘を受けます。
ねちっこい文章 (矢嶋武弘)
2016-02-29 15:08:13
貴兄の批評を受けて読み返していますが、ねちっこいと言うか、しつこい文章ですね。
でも、あの当時のことを思い出すとやむを得ません。
そんなことありませんよ・・ (ヒロシ)
2016-02-29 17:23:42
 博識聡明な貴兄にはすでにご承知のことかもしれませんが、和辻哲郎は30歳のときに「古寺巡礼」を書きましたが、あまりに思い入れが深く未熟な文章だとして、これを恥ずかしく思い作品を絶版にしようとしますが、それを止めた人がいます。名前をわすれましたがその人の言によれば「その時にしか書けない文章」ということでした。おかげで古寺巡礼は遺りました。
 「青春流転」にも同様のことが言えるとおもいます。60年安保闘争の中に青春時代を過ごした世代の者には鮮やかに往時の記憶を蘇らせてくれるし、今を生きる励みにもなります。また子や孫の世代には我々世代の生き様を伝えることにもなり、大変貴重です。
 シールズの若者達の活動との対比で「敷き布団の役割」ということが言われますが、これはまさに敷き布団の役割をはたしています。過去の経験はけして無駄なことではなくそれを下敷きにして掛け布団があります。今の闘いは掛け布団です。
 私は小説として成功していると思います。
その時にしか書けない文章 (矢嶋武弘)
2016-03-01 05:02:26
和辻さんエピソードは初めて知りました。
「その時にしか書けない文章」というのは確かにありますね。
もう一度書けと言われても書けません。そういう意味で、文章はその人の歴史、遍歴、軌跡を表すものだと思います。

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