武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

青春流転(7)

2024年03月25日 04時49分08秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

7)全学連

 十一月に入ると、行雄の決意と行動はますます明確なものになっていった。 その月の中旬には、高等学院三年生の修学旅行が予定されていたが、彼はこれをまったく意味のないものと考え、旅行を拒否することにした。

 大川にも自分の考えを明かすと、彼も行雄に同調して修学旅行をボイコットすることになった。二人で旅行ボイコットの文書を作成すると、行雄がそれを持って担任の船山教師に提出した。 船山教師は渋い顔をして、ボイコットを思いとどまるよう繰り返し行雄を説得したが、彼の意志が極めて固いことを知ると、諦めざるをえなかった。

 自分が担任しているクラスからこうした生徒が出てくるのは、教師にとって辛いことだったに違いない。 しかし、行雄にとって修学旅行などは、学生運動や革命運動にとってまったく意味がないばかりか、無駄なものでしかなかった。 まして、ぬるま湯につかっているような学院生活の締めくくりの旅行など、馬鹿々々しくてとても参加する気持になれなかったのだ。

 そんな旅行に行くぐらいなら、貴重な時間を少しでも利用して、まだ読んでいないマルクス主義の文献を、どしどし読まなければならないと思っていた。 そうしたある日、大川が行雄を誘ってきた。

「今日は君を、非常に優れたマルクス主義者のところへ案内したいんだ。 黒田寛一(ひろかず)という人だが、僕らはクロカン、クロカンと呼んでいる。 とにかく面白い人だから、ぜひ一緒に行ってみよう。きっと参考になると思うよ」

 行雄がクロカンとはどういう人かと聞くと、大川によれば、黒田氏は若い頃、皮膚結核などに冒されて旧制高校を中退したあと、独学でマルクス主義を研究してきたということだ。 今では日本共産党を離れて、革共同・革命的共産主義者同盟を創立し、活動しているとのことだった。

「村上君、この革共同というのが、このまえ説明したように、共産党やスターリニズムを乗り越え、新しい前衛党として、日本の社会主義革命を推進していく母体となるべきものなのだ。 とにかく、僕がいろいろ説明するよりも、まずはクロカンのところへ行ってみよう」

 大川に強く勧められて行雄も同意した。 その夜、二人は高田馬場駅で降りると、早稲田大学の近くにある某蕎麦(そば)店の二階に赴いた。表向きは大学の「近代文学研究会」の集まりという形で“クロカン・ゼミナール”が開かれており、三十人ほどの学生達が出席していた。

 その場で行雄は、黒田氏の著作である「社会観の探求」という本を買わされ、講義を聴くことになった。 黒田氏は登山帽をかぶり、黒いサングラスをかけていた。大川に聞くと、彼は皮膚結核の影響でほとんど視力がないということであった。

 しかし、黒田氏の声は明るくて弾んでおり、なんの屈託もないという様子だった。 目がほとんど見えないためか、何人かの学生が代わる代わる「社会観の探求」の一節、一節を読み上げていく。

 すると黒田氏は、「これはだなあ、マルクスの『資本論』の○○○ページの四行目に出てくるくだりを、分かりやすく書いたものなんだ。 つまり、マルクスはここにおいてだなあ、×××ということを言っているんだよ。 はい、次を読んで」といった調子で、楽しそうに講義を進めていく。

 ドイツ語や難解な用語がやたらに飛び出してくるので、行雄にはよく意味が分からなかったが、この人が日本の社会主義革命の新しい“教祖”だというので、耳をそばだてて懸命に聴き入った。

 黒田氏は最後に、「今日はこれで終りだ。 何度も言うようだが、その本の序文に書いてあるように、結局は『マルクスに帰れ』ということだ。 マルクスの原点に帰れば、日共・スターリニストどもが、どれほどインチキで間違っているかがよく分かるはずだ」と結んだ。

 原点に帰れということか。 行雄は“クロカン節”に目が回るような思いだったが、もっと多くのマルクス主義の文献を読破していかなければならないと痛感した。 黒田氏の講義が終ると、リーダー格と見られる数人の学生が、現実の学生運動や労働運動の報告と情勢分析を行なった。

 この中で、ひときわ雄弁で、自信に満ちた態度の男が行雄の注目をひいた。 「あの人は、なんていう人なの?」行雄が傍らにいる大川に聞くと、彼は「ああ、あの人は本多延嘉さんといって、革共同の書記長さ。 議長の黒田さんと一緒に革共同を支えている人だ。早稲田大学新聞を編集しているのも本多さんだよ」と答えた。

 本多さん・・・がっちりした体格で赤ら顔、目がギョロリとしていて見るからに貫禄があった。 後日、歴史の皮肉と言おうか、黒田氏と本多氏が革マル、中核両派の指導者となって、血みどろの抗争を繰り広げるとは、この時、行雄は勿論のこと誰も想像もできなかっただろう。

 のちに1975年(昭和五十年)3月、行雄がFテレビ局の報道記者をしていた時、その本多氏が革マル派の手によって惨殺されるという事件が起きた。 この事件ほど、行雄を震え上がらせたものはなかった。

 当時、中核、革マル両派の内ゲバは日常茶飯事のように受け止められていたが、双方の殺りく戦がそこまで及ぶとは信じがたいことであった。 特に行雄にとっては、革共同という極左団体から離れて十数年もたっていたため、記憶に残っている人と言えば、黒田氏や本多氏ら十人程度しかいなかった。

 その内の一人、本多氏が、手斧で頭を割られ血まみれになって惨殺されたことは、中核派も革マル派もない“古き良き時代”を知っていた行雄にとって、身も心も震え上がる衝撃的な事件だったのである。

 中核、革マル両派の血みどろの内ゲバが拡大していくにつれて、そんな陰惨で醜悪な抗争は早く無くなればいいのにと平凡に思っていた行雄にとって、本多氏の虐殺事件は、そうした期待がいかに浅はかなものであるかを、嫌と言うほど思い知らせるものであった。

 中核、革マル両派の抗争は、もはや救いがたいところにまで来ていたのである。 同じ社会主義革命を目指し、「反帝国主義・反スターリニズム」という同じ理念の下に行動している“同根”の両派が、どうしてここまで近親憎悪のように争わなければならないのか。

 双方の戦略・戦術論、組織論など、相容れない部分があることは分かっていても、その徹底的な憎悪、敵意には驚き呆れるものがある。 何がそうさせたのか。人間性の欠如なのか。論争が始まった時点で、なんらかの妥協や歩み寄りはできなかったのか。

 しかし、両派の対立、抗争は日一日と深刻なものとなってゆき、ついに決定的な分裂を起こしたのである。 そうした分裂の過程で、破局をなんとか食い止めようという努力が、当事者の間で十分に行なわれたのだろうか。

 相違点よりも一致点に希望を託して、大同団結をなんとしても保とうという、真面目な努力が行なわれたのだろうか。 革共同の大分裂という悲劇的な進行の中で、人間性のあふれる論議、本当に建設的な論争が展開されたのか。

 そうした点について、行雄は部外者だったから何も知らない。 しかし、1959年(昭和三十四年)11月の段階においても、黒田氏と本多氏の間に微妙なニュアンスの相違があったことは、それとなく感じられた。

 その頃でも黒田氏は、「あんな街頭行動などに、君達は行かなくてもいいんだ。なによりもまず勉強だ。マルクスに帰って勉強することだ」とよく言っていた。 こうした発言こそは後年、中核派が革マル派のことを、大衆蔑視の上に立ったセクト主義、非実践的な理論物神崇拝と攻撃する背景にもなっているように思われる。

 しかし、黒田氏の方から見れば、やたらに派手な街頭行動ばかりしたって、主体性のあるマルキストになれるわけでもないし、革命のための前衛党建設には少しも役に立たないという風に思えたのかもしれない。 さらに当時、全学連の過激な行動をリードしていたブント・共産主義者同盟への対抗意識が、黒田氏にあったことは明らかである。

 それに比べると、本多氏の方は当時から、学生運動や労働運動の現状報告、情勢分析を絶えず行なっていたから、実践活動への配慮という面では、黒田氏より気を使っていたに違いない。

 いずれにしろ、当時の革共同は、マルクス主義の理論面を黒田氏、実践活動の面を本多氏がそれぞれ統括する形で、上手くまとまっていたと思われる。 そうした中での“クロカン・ゼミナール”というものは勢い活気があって、若い学生達を刺激するには十分な魅力があったようだ。

 初めての“クロカン・ゼミ”への出席が終ると、行雄は大川に、またぜひ連れてきて欲しいと頼んで家路についた。 夜もとっぷりと更け十一月の風がやけに冷たく感じられた。しかし、夜空に散らばっている星々はキラキラと白い光を放ち、彼の心を清々しくしてくれる。

 俺は今、たしかに理想を見つけたのだ。 この理想は、あの星々のように美しく俺の心の中に輝いている。革命・・・俺はそれ以外に生きる道はない。 行雄はふと、何ヵ月か前に敦子の家から帰る途中、夜空の星を仰いで歓喜の絶頂に浸ったことを思い出していた。

 しかし、あの時の星と今の星は違っているように思えた。 あの時は愛の星だったのだろうが、今は理想の星なのだ。そして、今の星の方が、より美しく輝いているように思えてならなかった。

 

 十一月中旬になると、高等学院の同期生達は九州へ修学旅行に出発していった。 行雄と大川はその間、補習授業を受けることになった。 その授業に出てびっくりしたのは、修学旅行用の積立金を遊びに使い果たした放蕩な生徒達が、十数人も一緒にいたことだった。 彼等と行雄達が共に授業を受けているのは、教師にとって異様な感じがしただろう。

 授業は午前中だけで終り、午後になると行雄は大川に連れられて、全学連書記局や駒場の東京大学教養学部などへ出向いたりした。 二人にとっては先輩である全学連の闘士達と話し込むのは、とても有意義であり楽しいことだった。

 ただ行雄が困ったのは、家に帰ると父母や兄が、修学旅行のボイコットについてうるさく詰問してくることだった。 あんな旅行は意味がない、それより他にすることは沢山あると言って彼は矛先をかわしていたが、最後にはとうとう、自分は全学連の運動に専念することになったと白状せざるをえなかった。

 父や兄は、政治のことは政治家に任せて、高校生は学校のことだけを考えていればいいのだと、繰り返し行雄を説得した。 しかし彼は、全学連が学生の組織であり、自分はまだ高校三年だが、年が明けて大学に入れば自動的に全学連の一員になると、理屈をこねて抵抗した。

 父達は、それなら少なくとも大学に入るまでは、全学連の運動に参加しなくてもいいではないかと反論してきたので、ついに行雄はやむなく、日本には社会主義革命が必要なのだと、本心を明かしてしまった。

 すると父達は、革命なんか必要ではない、現在の体制こそ自由で民主的なのだと逆襲してきたので、議論は平行線をたどったまま延々と続くのだった。 父は最後に、それではもう来年から学費などは出さないぞと脅してきたので、行雄が、大学なんか行かなくてもいい、革命的労働者になって働いていくと抗弁すると、父は物凄く怒った。

「お前は親不孝者だ! 親の心子知らずとは、お前のことだ」と怒鳴り出した。 “明治生まれ”の国義はいたって頑強なのである。いつまでたっても埒(らち)が明かないので、行雄はとうとう「よく考えてみるよ」と言って、その場を取り繕った。

 しかし、彼は自分の部屋に戻ると早速、十一月二十七日の全学連の統一行動へ向けて、またアジビラを作ったり、マルクス主義の文献に読みふけったりしていたのである。

 

 そういう日々を送っている時、九州へ修学旅行に出かけた同期生の一人が、旅先の宮崎で首を吊って自殺するという事件が起きた。 その生徒はどうして自殺したのだろうか。原因はもちろん行雄には分からなかったが、そのような悲劇的な旅行に参加しなくて良かったと彼は思った。

 自殺した生徒は何を思い悩んでいたのだろうか。 その生徒は“生きがい”を見つけ出せないまま、あの世へ行ってしまったのか・・・行雄はあれこれ考えてみたが、自分には革命という理想がある、大義がある、そのために“生きがい”のある日々を送っているのだという自負の念を新たにした。

 九州の修学旅行から、高等学院の生徒や教師は暗たんとした気持で東京へ戻ってきた。 それに比べて行雄は、燃えるような闘志を抱いて来るべき闘争に立ち向かおうと、意気軒高とした気持になっていた。

 

 丁度その頃、早稲田祭が大学で行なわれていたが、行雄はある日「時事問題討論会」を傍聴しに出かけた。 数十人ほどの学生が、当時最も関心を集めていた日米安保条約改定問題をテーマにして議論を闘わせていた。

 ほとんどの学生が安保条約とその改定に反対していたが、どのように改定を阻止するかという方法論と戦術については、いろいろの意見が出ていた。 ある者は、社会党などを中心とした国会内の闘いで阻止すべきだと言うと、他のある者は、総評を中心とするゼネストなどで院外闘争を盛り上げるべきだと主張した。

 全学連の果たすべき役割についても、千差万別と言っていいほどいろいろな意見に分かれていた。 学生達の議論を聞いているうちに、行雄はなんとも言えない“もどかしさ”を感じてきた。こんな議論をいくら繰り返していても、仕方がないではないか。 要は行動だ、行動が必要ではないのか。

 行雄はたまり兼ねて挙手をし発言に立った。 「僕はまだ高校生でしかありませんが、これまでの議論を聞いているうちに空しさを感じてきます。 安保改定に反対であるなら、われわれ学生は自分達のできる範囲で、反対の意思をはっきりと行動で示すべきだと思います。

 社会党や総評の行動については、彼等の判断ですれば良いのであって、われわれ学生は、自分達のできることを最大限にやればいいではありませんか。 つまり、大学では授業放棄のストライキをやり、学外では全学連の統一行動に参加していけばいいと思うのです。

 二十七日には、安保改定阻止の第八次統一行動が行なわれます。 われわれはそれに積極的に参加し、全学連として力一杯の闘いを繰り広げようではありませんか。もうここまできたら、あとはわれわれが国会に突入し、安保改定阻止の断固たる決意を全国民に知らしめるべきだと思います。

 全学連としては国会に突入するしかありません! それがわれわれにできる最大限の闘いだと思います。 もういくら議論をしていても仕方がありません。要は行動です。行動が必要なんです! われわれは断固国会に突入しましょう!」

 アジ演説をしているうちに、行雄はだんだんボルテージが上がってきて、自分が興奮気味になってきたのを覚えた。 傍らでニヤニヤ笑いながら聞いている学生の姿を認めたが、彼は訴えたいことを全て言い切ったと思うと、爽やかな気分で討論会から退席した。

 

 十一月二十七日。 この日も行雄は、午前中に高等学院に通じる道路の電柱に、アジビラやポスターを貼っていった。 夕刻になって彼は、中学時代からの友人である都立K高校生の斎藤正裕を誘って、安保改定阻止統一行動に参加した。 

 国会正門近くのチャペルセンター前にやって来ると、路上にはすでに何千人という労働者、学生が集合して決起集会を開いていた。 社会党の淺沼稲次郎書記長、総評の岩井章事務局長らが次々と挨拶に立って演説していた。

 やがて全学連の代表も挨拶に立ち、「われわれは今日こそ国会構内に突入し、安保粉砕の決意を日本中に知らしめようではないか!」などと、激烈なアジ演説をぶった。 行雄は先日、早稲田祭の討論会で自分が行なったアジ演説を思い出し、一瞬身が引き締まるのを覚えた。

「本当に国会の中へ入るのかい?」隣にいた斎藤が行雄に尋ねてきた。 「知らないよ。だけど、全学連が先頭に立って入ろうと思えば、できないはずはないさ」と行雄は答えた。 チャペルセンター前の路上には、さらに多くの労働者、学生が集まってきて、その総数は一万人を優に超えているようであった。

 小春日和の暖かい残照を受けながら、決起集会は次第に熱気を帯びていった。 やがて、デモ行進に出発する時刻になった。行雄は斎藤としっかりとスクラムを組む。 高校生グループは大学生達の後に付いていくことになっていた。 今日は国会をぐるりと回るデモコースの予定だったが、国会正門付近で、早くもデモ隊と警察の機動隊が激しくもみ合う音が聞こえてきた。

 罵声が飛び交ったり、規制に当たる警察のマイクの音がスピーカーからやかましく響いてきた。 デモ隊の群集がひしめいているので、前方の状況がどうなっているのか分からなかったが、行雄達の高校生グループはまたたく間に国会正門の方へ押しやられた。

 ふと見ると、何百人というデモ隊がすでに国会構内へなだれ込んでいるではないか。 行雄や斎藤が唖然とするうちに、後ろからのデモ隊の圧力で、高校生グループも国会正門から構内へやすやすと入ってしまった。 なんと簡単な国会突入だろうかと思っていると、その後も、まるで漏斗(じょうご)に水を通すように、労働者達のデモ隊が続々と国会構内に入ってくる。

 機動隊は構内のはるか遠方に退いてしまったので、デモ隊は誘導されているように楽々と構内に入ってくるのだ。 国会突入がこんなに容易にできるとは行雄には信じがたいことであった。 警察がわざと入れたのではないかと思われるくらいだ。

 行雄はなんの緊迫感もなく、斎藤達とスクラムを組んで広々とした国会構内を練り歩いた。 次から次に構内に侵入してきたデモ隊の数は、すでに二万人に達しているだろうか。赤旗が林立し、それらが取材に来ていた報道陣のライトに映え、見るも壮観なデモ行進が続いた。

 やがて、構内でも決起集会が開かれたが、社会党の淺沼書記長や総評の幹部は、これでわれわれの国会請願デモの目的は達せられたから、解散しようと呼びかけた。 しかし、学生達は「沼さん、若い頃に帰れ!」「われわれはここに座り込んで闘うぞ!」「全学連の大抗議集会を開け!」などと、喚声をあげて解散しようとしない。

 全学連の清水丈夫書記長らがマイクを取ろうとすると、社会党、総評の事務局員らが体を張って必死にそれを妨害した。 国会突入デモは、社会党・総評幹部の思惑をはるかに越える事態になっていたのだ。

 結局、全学連の代表は演説することができず、学生達はまたスクラムを組んで、国会構内をデモ行進した。 その頃にはもう夜の帳(とばり)が降りて、取材のテレビカメラのライトが眩しいほどにデモ隊を照らし出していた。

 学生達は、固く閉ざされた国会の正面玄関の前にたむろしていたが、総評傘下の組合員達は続々と国会の外へ流れ解散していったので、構内に残ったのは全学連の学生だけとなった。 彼等は「インターナショナル」などの革命歌、労働歌をうたい、暫く気勢を揚げていたが、すでに目的を十分に達したということで引きあげることになり、新橋駅へ向ってデモ行進することになった。

 行雄は斎藤と終始スクラムを組んで行進したが、新橋駅に着くと、斎藤は総括集会を避けるようにして先に帰ってしまった。 駅周辺で開かれた集会では、全学連のリーダー達が次々に立ち、今日の国会突入デモの成果を誇らしげに総括していた。 それが終ると、行雄は大川達と一緒に、例によって四十円のラーメンを食べて帰宅した。

 

 翌朝、行雄は新聞を見てびっくりした。 昨日の国会突入デモを伝える記事が、写真入りで各紙の一面を大きく飾っているではないか。なんの苦もなく楽々と国会に侵入できただけに、新聞がどうしてこうも大げさに報道するのかという驚きが、第一印象であった。

 しかし各紙とも、国会突入デモを「乱入」と表現し、非常識な行為と決めつけて批判的に報道していた。 それと同時に、社会党、共産党、総評なども、全学連の行動を遺憾であると非難していた。 彼等によれば、全学連の国会突入デモは“跳ね上がり”であり、安保改定阻止国民会議の統制を乱すものだということだ。

 しかし、行雄にとっては、そうした既成政党やマスコミの批判はどうでもよいように思えた。 それより、やる気になれば国会突入でもなんでもできるという自信と、新たな闘争心が込み上がってきた。 俺達が力を合わせて闘えば、安保改定なんぞ吹っ飛ばしてやれるという思いであった。

 それから数日して、斎藤の手紙が行雄に届いた。「君達のやっていることは、よく分かる。岸内閣の反動性と闘っている君達の闘争は、正義の戦いだと思っている。 十一・二七国会突入デモの時、社会党、共産党、総評は、全学連の燃え上がるような闘争を自らの手で抑圧しようとした。

 全学連のリーダーがマイクを取ろうとして、逆に押さえ込まれたあの時の情景は、涙の出るほど悔しいものであった。 僕は、国会構内での指導部と大衆との間のあの亀裂を、決して忘れることはないだろう。 しかし、僕は見ていたが、君達の学友の何人かは、あの国会の正面に小便をかけたり、唾を吐いていた。

 あのような行為が果たして許されるだろうか。 国会は、われわれ国民の意思を表明する、神聖で権威ある場所ではないのか。 君達の安保改定阻止の気持はよく分かるが、全学連の闘争そのものは、なにか無法なものに流されていくような気がしてならない。

 そうした無法な闘争方針が、果たして目的のために正当化されるだろうか。 僕にとっては、はなはだ疑問だと言わざるをえない。 よって、僕はもうこれ以上、君達の闘争についていくことはできない」

 斎藤からの決別の手紙だった。 行雄には成る程と思われる点もあったが、彼がやや些細なことに囚われているような気もした。 しかし、斎藤は斎藤であり、自分は自分でしかない。彼の正義と自分の正義は、違うとしか言い様がないのだろう。それは仕方のないことではないか。

 行雄は斎藤の手紙を気にはしなかったが、残念には思っていた。 しかし、彼はマルクス主義の理論をすぐに思い起こし、国家というものは自らの暴力を警察や軍隊によって正当化し、その他の暴力を無法にしているが、これは権力者の勝手な“こじつけ”であると考えるのだった。

 安保改定阻止国民会議は、その後の統一行動について、全学連に対し厳しい態度で臨むようになった。 十二月十日の第九次統一行動で、全学連はやはり国会デモを行なおうとしたが、国民会議によって参加を拒否され、やむなく日比谷野外音学堂で決起集会を開いたあと、街頭デモをするしかなかった。

 この日、十一・二七国会突入デモを指揮した理由で、全学連の清水書記長らが逮捕された。 安保反対闘争は、年末にかけて一時的に下火となってきたが、こうした状況の中でも、行雄自身はマルクス主義によって“理論武装”し、闘争心は日増しに強まっていった。

 全学連が国民会議から疎遠にされ、斎藤のような友人が自分から離れていっても、革命への信念は確固たるものになっていったから、彼は少しも寂しいとは感じなかった。 相変わらず“クロカン・ゼミ”に出席したり、社会主義の文献を読みあさる毎日が続いた。 こうして行雄にとっても、彼の同志達にとっても、来るべき激動への不気味な胎動を秘めたまま、一九五九年は幕を閉じていったのである。


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