武弘・Takehiroの部屋

万物は流転する 日一日の命
“生涯一記者”は あらゆる分野で 真実を追求する

青春の苦しみ(2)

2024年03月30日 04時28分22秒 | 小説・『青春流転』と『青春の苦しみ』

2)新学年

 新学期。桜の花の満開と同時に新しい学年が始まる。 学生達が集まってくると、大学のキャンパスはおのずと活気がみなぎってくるが、一年前の安保反対闘争が盛り上がっていた頃に比べれば、平穏なたたずまいを見せていた。

 ただ、大隈侯の銅像前などには、相変らず全学連の立て看板が並べられ、数人の活動家が演説をしたりビラを配っていた。 行雄が何気なく立て看板を見ると「マル学同、全学連執行部を掌握!!」「全学連、反帝・反スターリニズム路線を確立!!」などという荒っぽい文字が目についた。

 行雄がかつて所属していたマル学同(マルクス主義学生同盟)が、ついに全学連のヘゲモニーを握ったのである。 彼は一年前、大川勇らとともにマル学同で活動していたことを思い出した。 あの頃は、マル学同の主張を学生達に浸透させようと必死に努力したが、ブント(共産主義者同盟)系の社学同(社会主義学生同盟)の勢力が強くて、なかなか思うようにはいかなかった。

 そのマル学同が全学連の執行部を掌握するとは・・・隔世の感がする。 安保闘争の総括でブントが崩壊したことにより、社学同系の活動家が多数、マル学同に合流してきたというのだ。

 しかし、いまの行雄にとっては、そんな全学連のことはどうでもよいことだった。彼はもう学生運動などはまったく眼中になかったので、見覚えのある活動家を避けるようにして、文学部の校舎へと足を速めた。

 過去一年間、彼はほとんどまともに講義を聴いていなかったので、なにか“新入生”に戻ったような気分で小教室に入ると、中には数人の学生しかおらず、男子は行雄の他にもう一人いるだけだった。 春の陽光が小教室の後方に差し込んでいて、室内はのどかな雰囲気に包まれている。

 大柄な中野百合子が、親友の渡辺悦子となにやらヒソヒソ話しをしている。 眼鏡をかけた勉強家の堀込恵子は、フランス語の辞書を開いてなにか調べているようだ。彼女はクリスチャンで、このBクラスではフランス語に最も堪能だと言われていた。

 行雄が席に付くと、顔の浅黒い剽軽(ひょうきん)な感じの宮部進が声をかけてきた。「村上君、久しぶりだね。元気でやってる?」 「まあまあ、元気でやってるよ。君の方はどうなの?」 行雄が問い返すと、宮部は「うん、僕もまあまあだ。春休みは九州旅行に行ってたけどね」と答えた。

 行雄が九州のことに話題を向けると、宮部は冗舌になって旅行の話しをいろいろし始めた。 彼は失敗談などを面白おかしく話すので、三人の女子学生もいつの間にか宮部のお喋りに聞き入っていた。

 彼が別府の温泉旅館で、若い仲居さんが気に入って言い寄ったが、すげなく断られた話しなどをすると、中野や渡辺が声を上げて笑った。 宮部の話しはやや誇張されていたようだが、求愛に絡む雑談はクラスメートの気持を和ませるものがあった。

 そんな話しをしているうちに、今日の講義の担当であるM教授が開始時間に十分ほど遅れて教室に入ってきた。 白髪、痩身で小柄なM教授はフランス象徴詩が専門である。本日の教材は、ボードレールの「悪の華」の一節だった。

 象徴詩は難解で行雄には良く分からなかったが、辞書をめくりながら「悪の華」を追いかけていく。 こんな詩をやっていても退屈になるだけだと思いながらも、彼は淡々とした気持で講義に付いていった。

 途中でM教授は教材から外れ、ボードレールの人生や愛人関係などのエピソードを語り始めた。こういう時は、難解な詩から解放されてほっとする。 詩人のデカダンスな生活ぶり、混血女性との交わり、禁治産者になるほどの浪費癖、アヘン中毒、梅毒症状など、晩年は廃人同然になるボードレールの生きざまには、興味が尽きないものがあった。

 やがてまた詩の講義に戻ると、辞書をめくりながらのやるせない時間が過ぎていく。 こんな授業を受けていても、自分の人生には何の役にも立たないと行雄は思う。たまたま仏文科に入ってしまったのだから、仕方がないかと思いながら、うんざりして後方に目をやると中野百合子の視線とばったり合った。

 彼女の方も退屈していたようでニコリと微笑んだ。行雄も軽くうなずき、また手元の教材に目を移す。そしてまた時間が淡々と過ぎていく。 もうそろそろ授業も終りそうなものだと思っていると、ようやくM教授の講義が終了した。

 こうした平凡な日々が続くことになり、行雄は新たな学生生活に充実感は持てなかったが、他にやることもないので講義を真面目に聴くしかなかった。 仏文科Bクラスには五十人ほどの学生がいるのだが、教室で顔を合わせるのは多くても十人程度で、皆が適当にノートを回し合ったりしていた。

 平凡な学生生活は、かつて行雄のような左翼の活動家が、「日常性への埋没」と言って軽侮していたものだろう。 しかし、彼はそうした日常生活に埋もれていくしか他に道はなかったのである。やや退屈ではあったが、彼はそれなりに勉学を続けていった。

  春たけなわの頃になると、行雄は暇を見つけては自転車で荒川べりに出かけた。 草むらに横たわって周りの景色をぼんやり眺めていると、ここで森戸敦子や革命運動のことなどを思い浮かべていたのが、つい昨日のことのように思われてきた。

 あの頃は希望と充実感に満たされていたように感じていたが、今はそういうものはない。 ただ心の安らぎと、将来への漠然とした期待があるだけだ。自分の将来については、はっきりとした目標が何一つあるわけではなかった。平凡な学生生活を続けていくうちに、おのずと進路が定まってくると考えるしかなかった。

 運命論や決定論、汎神論を知るうちに、行雄は、将来とは「なるようにしかならないもの」と思うようになっていた。 思考自体がまったく受動的になってしまったのである。自我の意識が極めて希薄になっていたと言えよう。

 しかし、彼はそれで良いと考えていた。 大いなる運命に自分を委ねることが間違っているとは思わない。どのような運命であろうとも、それを泰然自若として受け入れる生き方こそ、堂々として男らしいのではないか。 今さら“じたばた”しても仕方がないという考え方だった。

 

 そうしたある日、行雄が向井の家を訪れたところ、母校であるM中学の卒業生名簿を作ることに協力して欲しいと頼まれた。 向井は大学の理工学部に在籍していてそれ程忙しくはなかったが、一人でやるには手に余るので協力してくれということだった。

 彼は中学時代の二年先輩のA氏から頼まれたのだが、A氏はいま就職活動などで忙しく、後輩の向井に名簿作りをお願いしてきたという。 行雄もA氏のことは知っていたし、中学時代に自分も生徒会長をやっていたので愛校心というものはある。それに親友の向井からの依頼なので協力することになった。

 早速、向井と手分けをして、M中学の卒業生約二千人の名簿作りを始めたが、これは結構手間のかかることであった。 所在不明の卒業生も少なからずいたので、人づてに所在を確認するため、行雄は暇を見つけては自転車で浦和市内を駆け巡った。休日は朝から晩まで自転車のペダルを踏んだ。

 彼が確認したものを向井が古い名簿を元にして整理し、新名簿の原稿をまとめていった。 行雄が活動的だったのに対し、向井は事務的で几帳面なタイプなので、この分業はスムーズに進んだ。

 浦和市内を駆け回っていると、行雄は全学連時代の忙しかった自分を思い出した。 あの頃の連日のデモや警官隊との衝突に比べれば、手間ひまはかかってもこれは大したことではないと、自らを励ました。 自転車で駆け回っているうちに、この名簿作りは誰にでも喜んでもらえると思うと“やりがい”を感じたし、それに毎日、やや退屈な講義ばかりを聴いているよりはマシだと思った。

 こうして二ヵ月余りをかけて、行雄と向井は卒業生名簿の資料を全て整え印刷所に出した。「行雄君、よくやったね。君の行動力は凄いよ」 向井にそう言われて、行雄は満更でもない気分だった。 確かに自分には、名簿作りに全力をあげて取り組んだという充実感がある。これは安保反対闘争以来のものだと思った。

 名簿の製本の段階で、表紙のカラーは黄色にすることを行雄が提案すると、向井も心良く応じてくれた。 彼は別の色を考えていたようだが、行雄が献身的に活動したことを認めて譲歩したようだ。 黄色は、行雄にとって「理想」を意味するカラーだったのである。

 七月上旬、二人はM中学の新井教諭の了解を取り付けて、ほとんどの卒業生に名簿を郵送することができた。 どうしても所在が分からない卒業生は、十人ほどしかいなかった。こうして、行雄と向井の無償の行為は終ったのである。

 

 夏休みに入ると行雄は、第一学年の期末試験で単位を落とした課目の補習授業を受けることになった。 落第した五課目の中から、彼はS教授の「法学概論」を選んで授業に出席した。 大学で最も広い教室には何百人もの学生が詰めかけていたので、行雄は、自分と同じ立場の者が大勢いると思い安心した。

 補習授業は丸々七日間行なわれたが、連日超満員の学生を前にして、講義を続けるS教授の表情はいかにも満足げに見えた。 行雄も今度ばかりは落第してはならないと思い、真面目にノートを取っていった。

 講義の最後に、S教授は「これが私のいつものやり方です」と前置きして、日本国憲法の前文を朗々とした力強い声で読み上げていった。 前文の中ほどに至って、S教授の声は一段と高まる。

「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した!」

 S教授の頬は少しずつ紅潮してきて、蒸し暑い真夏の気温のせいか額には汗を浮かべていた。 前文の最後にきて、彼の太い声は広い教室の隅々にまで響き渡った。 「日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓う!」

 朗読を締めくくった時、S教授は太った上半身を折り曲げるように前にかがめ、余韻を噛みしめているようだった。 彼は暫く間を置いてから、今度は低い声で「どうも、ありがとう」と言うと、ゆっくりとした足取りで教壇を去っていった。

 超満員の学生の間から期せずして拍手が湧き起こり、それが教室全体に広がっていくと、行雄もつられるように拍手をした。 S教授の“名調子”に、学生達のどよめきと明るい笑い声が暫く続いた。 この後の「法学概論」の追試で、行雄は今度こそを取ることができた。

 

 太陽が有り余る光と熱を降り注ぐ真夏、行雄は市民プールに何度も行くようになり水と戯れた。 一年前の真夏はマルクス主義かアナーキズムかの選択をめぐり、連日文献を読み漁って思い悩んでいたが、それに比べると余りにも平穏な夏休みである。しかも、自由な時間がたっぷりあるのだ。

 彼は急に旅行がしたくなり、母から小遣いを沢山もらうと東北地方を一周することになった。 息子がまともな学生生活を送るようになったので、行雄の両親は安堵してどんどん小遣いを出してくれるようになった。 特に国義にとっては、息子が過激な学生運動をすることに比べれば、金の問題などは大したことではなかったのだろう。

 行雄は国鉄の周遊券を買うと、東北地方を十五日間かけて旅行した。 裏磐梯、金華山、平泉、三陸沖、恐山、十和田湖、男鹿半島、羽黒山等々、これといった名所や景勝地を次々に訪れ、帰宅した時には小遣いを使い果たすほど旅行を満喫した。 すっかり日焼けした彼は、生き返ったような気持になったのである。


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