*科学するほど人間理解から遠ざかる第18回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しさを感じているというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると俺が理解するに至った道筋を、その道の出発点からたどってきました。
その道筋を簡単にふり返ってみます。
- 出発点.物を見るとはどういうことか確認しなおす。
- 第2地点.存在同士が、応答し合いながら共に在るのを確認する。
- 第3地点.存在同士が、「応答し合いながら共に在る」というのは、「今をどういった出来事の最中とするか」という問いに俺が身をもって答えるということであると確認する(問いの読み替え1)。
- 第4地点.さらにそれが、「今どうしようとするか」という問いに俺が身をもって答えることであるのを確認する(問いの読み替え2)。
- 第5地点.「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」のを快さを感じていると表現し、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」のを苦しさを感じていると言うのだと理解する。
快さと苦しさをこのように俺が理解するに至った昔話に、みなさん、ここまで長らくつきあわされてこられました。
なぜそんな酷い目につきあわされてこられたのか。
これまで西洋学問では快さや苦しさが何であるか理解されてこなかったその理由を明らかにするためでした。
いまやみなさんはきっとこうお考えのことでしょう。
もし筆者(俺のこと)のこうした昔話がそれなりに信頼するに足りるものなら、西洋学問では前記の〈出発点〉、もしくは〈第2地点〉のどちらかの確認でヘマをしでかし、その結果、〈第5地点〉にたどりつけなくなった、ということになるんじゃないか、と。
〈第2地点〉から〈第5地点〉まではエスカレーター式で、〈第2地点〉の確認を済ませば、あとは自動的に〈第5地点〉まで行けます。だとすれば、〈出発点〉か〈第2地点〉の確認で躓いたことになります。
どうでしょう、みなさん、図星でしょうか。
もしそうご推測なら、俺はみなさんと考えがおなじだと胸を張れますが、いかがでしょう。
西洋学問では、物を見るということについて確認する最初の段階でいきなり躓き、快さや苦しさが何であるか理解するところまで以後たどり着けなくなったというのが、俺の見立てです。
これから、その躓きを見ていきます。
以前の記事はこちら。
第1回(まえがき)
第2回(まえがき+このシリーズの目次)
第3回(快さと苦しさが何であるか確認します。第7回②まで)
第4回
第5回
第6回
第7回
第8回(西洋学問で快さと苦しさが何であるか理解できてこなかった理由を確認します。第19回③まで)
第9回
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第11回
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