*科学するほど人間理解から遠ざかる第20回
快さを感じているというのは、「今どうしようとするか、かなりはっきりしている」ということであり、かたや苦しんでいるというのは、「今どうしようとするか、あまりはっきりしていない」ということであると最初にいきなり申し上げたあと、つぎのような流れでここまでおしゃべりしてきました。
第1部.快さと苦しさがそうしたものであることを補足解説する*1。
第2部.西洋学問では、なぜ快さ苦しさが何であるか理解されてこなかったのか確認する*2。
最後に、西洋学問では、快さや苦しさがどういったものと誤解されるのかを見て、この文章を閉じることにします。
みなさん、並木道のど真んなかに立っているいっぽんの大木を俺が見ているある一瞬をふたたびご想像くださいますか。
何度も申しますように、その瞬間に俺が目の当たりにしている大木の姿は、俺の前方数十メートルのところにあります。大木がその瞬間、俺に見えているというのはすなわち、たがいに数十メートル離れたところにある大木の姿と、俺の身体とがそのとき、「俺のしている体験(大木を見ているという体験)に共に参加している」ということだと言えます。
ところが西洋学問ではここで「絵の存在否定」という不適切な操作*3をなすというわけでした。その操作はこの場合、つぎのふたつからはじまると先に申しました。
- そのとき大木と俺の身体とが、それぞれ現に在る場所に位置を占めているのは認める(位置の承認)。
- しかし大木と俺の身体とを、「俺のしている体験に共に参加している」ことのないもの同士であると考える(部分であることの否認)。
するとどうなったか、覚えていらっしゃいますか。
「大木を見ているという俺の体験」は存在していないことになって、俺にはそのとき大木が見えていないことになり、見えていない大木と俺の身体とがたがいに離れた場所にただバラバラにあるだけ、ということになりました。
けれども実際、その瞬間、俺には大木が見えています。
そこで西洋学問では、そのとき俺に大木が見えていないということにするため、意識とか心とかコギトとかとよばれるケッタイなものをもちだしてきます。そしてその瞬間に俺が現に目の当たりしている大木の姿(ほんとうは俺の前方数十メートルのところにある)を、俺の心のなかにある映像にすぎないことにします、とは、先にも申しましたとおりです。
で、俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、見ることの叶わないホンモノの大木が実在していることにし、それを、ただ無応答で在るだけのもの(客観的なもの)と決めつけるとのことでした(この存在のすり替え作業を「存在の客観化」と名づけたのを覚えてくださっているでしょうか*4)。
このようにただ無応答で在るだけのものと想定されたホンモノの大木とはどのようなものか、ここでは簡単に結論だけを申しますと、それは元素(西洋学問では、見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしないものと考えられます)の集まりでしかないもの、です。
事のはじめに「絵の存在否定」と「存在の客観化」という不適切な操作を立てつづけになす西洋学問ではこのように、
- Ⅰ.俺が現に目の当たりしている大木の姿を、俺の心のなかにある映像であることにし、
- Ⅱ.俺の前方数十メートルの場所にはその代わりに、「見ることも触れることもできず、音もしなければ匂いも味もしない元素」の集まりでしかないホンモノの大木が実在していることに
します。そのホンモノの大木についての情報が、当の大木から、光にのって眼にやってきて電気信号にかたちを換え、以後、神経をつたい脳まで行って、そこで映像に変換され、心のなかに認められたのが、そのとき現に俺が目の当たりにしている大木の姿である。そう説くのが西洋学問の知覚論です。
いま、西洋学問では、俺が現に目の当たりにしている大木の姿が、俺の心のなかにある、「ホンモノの大木*5についての情報」と解される旨、確認しました。以上を踏まえて、快さや苦しさが西洋学問では何と誤解されるのか、見ていきます。
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