*科学の目には「快いか苦しいか」は映らない第3回
説2では、快さを、快さ(快情動)と快さの「感じ」のふたつに分け、また、苦しさのほうも、苦しさ(不快情動)と苦しさの「感じ」のふたつに分けたうえで、快さと苦しさ(快情動と不快情動)を、行動まえのウォーミングアップと定義づけます。
箇条書きにするとこうなります。
ⅰ.行動を、脳によって「身体機械」に引き起こされる出来事であることにし、好物への接近行動と、敵からの逃避行動のふたつから成るとする(行動を二分する)。
ⅱ.情動(快情動+不快情動)を、脳が「身体機械」にさせる、行動まえのウォーミングアップであることにする。
- 快さ(快情動)を、脳が「身体機械」にさせる、好物への接近行動まえのウォーミングアップであることにする。
- 苦しさ(不快情動)を、脳が「身体機械」にさせる、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップであることにする。
ⅲ.「身体機械がしているウォーミングアップの様子を知らせる情報」が、電気信号のかたちで、「身体機械」各所から発したあと、神経をつたって脳まで行き、そこで、その「情報」が情報Aに当たるときは、快さの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるいっぽう、その「情報」が情報Bに当たるときは、苦しさの「感じ」というマークを脳につけられて分類されるということにする。
- 情報A:「身体機械がしている、好物への接近運動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」
- 情報B:「身体機械がしている、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップの様子を知らせる情報」
(この説2は、下記の本に載っているものです)
この説2、めちゃくちゃじゃないですか? 何ひとつとしてまともなところがないような気がしません?
なかでも特に気にかかるのは、こんな説をとったんじゃあ、恐怖や驚きで身がすくむっていう誰でも知っている当たりまえのことすら捉えられなくなるってことですよ。
イカつい人間に絡まれて、恐怖で身がすくんだ覚え、みなさん、ありません? それとか、いきなりモノカゲから車、自転車、もしくはひとが飛び出てきたのにびっくりして身が固まったってこと、みなさん、ありませんかね?
恐怖を感じたり、驚いたりすると、身が固まるじゃないですか。緊張しても、ね? けど、この説2を信奉すると、恐怖や驚きや緊張をまったく逆に解することになるじゃないですか、ね?
この説2では苦しさ(不快情動)を、敵からの逃避行動まえのウォーミングアップと定義づけるってことでしたよね(前記ⅱのふたつ目)? したがって、暴漢に襲われて恐怖を感じているというのは、この説2にしたがうと、暴漢という敵からの逃避行動まえのウォーミングアップを「身体機械」がしている状態ってことになります、ね? つまり、恐怖を感じていればいるほど、ウォーミングアップがしっかりとれているということになって、その後、暴漢という敵からの逃避行動をよりスムースにとれるってことになるじゃないですか、ね?
よって、説2の信奉者は、レイプされたひとや、レイプされそうになったひとが、「怖くて逃げられなかった」と打ち明ける*1のを聞いて、こう考えることになるじゃないですか。
「恐怖を感じていたのなら、スムースに逃げられたはずだ。なのに、なぜ逃げなかった!」
こんな説2なんか、とてもじゃないですけど、とれるわけありませんよ。
さて、快さと苦しさについて先日、長々と書いた文章の要旨を、ここまで、遠い目をしながらふり返ってきました。
(先日、長々と書いた文章はこちら)
思い返したのはつぎの3点でした、ね?
- 快さとか苦しさというのは何なのか。
- 西洋学問では、なぜ快さや苦しさが何であるか理解できないのか。
- 西洋学問では快さや苦しさをどういったものと誤解するのか。
今日、見たのは3でした。説をふたつ見ました。
その途中で(説1を見ているところで)、快いか苦しいかといった区分はみなさんにとってとても大事なんだって確認したじゃないですか。その区分は、みなさんにとって、健康であるか、病気であるかといった区分に当たるんだ、って。みなさんは医学に、快いか苦しいかといった区分を気にしてほしがっているんだ、って。
でも、見てきたように、医学には、快いか苦しいかといった区分は目に映らないわけですよ。
みなさんはこのことをどう思い為しますか、ね?*2
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前回(第2回)の記事はこちら。
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