MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1662 「言霊の幸はふ国」のリスク管理

2020年07月02日 | 社会・経済


 2011年の東日本大震災以降、日本列島はそこに暮らす人々の生活をかす、様々でしかも大規模な災厄に見舞われています。

 この1年ほどを見ても、国内に広がった豚コレラの蔓延や台風17号による風水害、そして今回の新型コロナウイルスの感染拡大など、政府や自治体は被害への対応に追われ、本来必要な少子化対策や教育問題、福祉の充実などの日常の行政課題に対応する余裕を失っている観もあります。

 思えば、これまでの日本で「政策」と言えば、(大きなイデオロギーの下で)国際政治や経済対策といった、市井の人々の生活とは少し距離のある存在として認識されてきたきらいがありました。

 しかし、現在の政治に求められているのは「明日の暮らしをどう守るか」といった、もっとミクロで現実的な切羽詰まったものとなっていると言って良いでしょう。

 戦後の日本において、「危機管理」というものがこれほどまでに重要視されて来た時代はないと言っても過言ではありません。

 その内容は、日常生活の基本となる(例えば)通勤や通学、買い物や食事の仕方にまで及んでおり、(これまで考えられなかった)政府や自治体が事細かにそれらを指図するといった状況を生み出しています。

 一方、政府や行政に対して厳しく「効率」を求め、最小のコストで最も大きな利益を得られるような(コスパの良い)政策を求めてきた日本の世論は、ここに来て一転「なぜPCR検査の体制を整えておかなかったのか」とか「他国に比べてICU病棟が少なすぎる」など、危機に対する準備を怠ってきたことを非難する声を上げています。

 また、消費税を2%上げるのに5年以上をかけた慎重な安倍政権も、こうした世論の動きを見て「国民全員に10万円」「家賃の3分の2を半年間給付」など、これまで考えられなかったような(ある意味乱暴な)対策を次々と打ち出しているところです。

 (ある意味「無責任」な)世論と政治との狭間で、日本における危機管理は一体どのようにあるべきなのか。

 神戸女学院大学名誉教授で思想家の内田樹(うちだ・たつる)氏は、いくつかの地方紙への寄稿(2020.6.11「最悪を想定しない国民性-危機管理と日本人」)において、危機管理というのは「最も明るい見通」しから「最悪の事態」まで、何種類かの未来についてそれに対応するシナリオを用意しておくことだと説明しています。

 この場合、(勿論)どれかのシナリオが「当たる」と、それ以外のシナリオへの準備は無駄になる。そういった「無駄」が嫌だという人は危機管理には向かないと氏は言います。

 (それは)リスクヘッジというものが、「丁と半の両方に張っておく」ことだから。しかし、そういう危機管理の「基本」がわかっていない人が、これまでの日本では政策決定を行ってきたと内田氏はこの論考に記しています。

 先の戦争で、軍の指導部では「わが軍の作戦が全て成功し敵の作戦が全て失敗すれば皇軍大勝利」という希望的観測で綴られた作戦を起草する参謀が重用され、「作戦が失敗した場合の被害を最小化するにはどうしたらよいか」というタイプの思考をする人間は嫌われた。

 現代でも、「最悪の事態にどう対応するか」という問いは日本人の思考能力を一気に低下させ、「プランAが失敗したら」という仮定そのものが一種の「呪い」として、「敗北主義」の名の下に忌避されるということです。

 「言霊の幸はふ国」である日本においては言葉には現実変成力あるとみなされ、古来、祝言を発すれば吉事が起こり、不吉な言葉を発すれば凶事が起こると信じられてきたと内田氏はしています。

 そういう国民性なので、経済が低迷してきたら「五輪だ」「万博だ」「カジノだ」「リニアだ」と憑かれたように「祝言」をなしていた。しかし、これらは決してビジネスライクな計算に基づくプランだったわけではなく、吉事が到来するように必死に祈っていただけだということです。

 日本社会における危機管理を論じる場合には、その前提として「日本人には危機管理ができない心性が標準装備されている」という事実を環状に入れておく必要があるというのが、この論考における内田氏の認識です。

 新型コロナウイルス感染拡大前の一時、日本では多くの人が漠然と「感染は日本では広がらない」と考え、メディアも他人事のように構えていた。そうした中で「東京五輪は予定通り開催されないかもしれない。なので、その場合にどうするか早めに対応策を考えておいた方がいい」と主張した政治家やジャーナリストを目にすることはほとんどなかったと氏は指摘しています

 それは、「予定通り開催される」という祈りを、「開催しない」という決定が下されるまで唱え続けるのが「日本流」だから。

 なので同様に、感染拡大に備えて、中国で感染情報が確認された早い段階から感染拡大に備えて人工呼吸器やPCR検査や感染症病床の確保を図らなかったことを、首相や知事の「不作為」や「怠慢」としてなじっても仕方がないと氏は言います。

 彼らは、「何の備えも必要なかった未来」を、「予祝」することで将来しようとしていただけだということです。

 今回のパンデミックへの日本人の対応は、結局のところ日本人に染み付いている無意識にも似た心性に基づき、同じパターンを繰り返したに過ぎないというのが内田氏の見解です。

 失敗したら「プランB」へ、それでもダメな時に備えて「プランC」を用意しておくというような自信の無さそうな政治家を、国民自体が求めていないということもあるでしょう。

 しかし、そろそろそのことに気づいてもいいのではないか。「気付かなければこれから先も同じことが繰り返されるし、いずれはそれが我が国の命取りにもなりかねない」とこの論考を結ぶ内田氏の視点を、私も大変興味深く読み取ったところです。



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