MEMORANDUM 今日の視点(伊皿子坂社会経済研究所)

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♯1580 コロナウイルスと生存戦略

2020年03月31日 | うんちく・小ネタ


 気が付けば、朝夕の通勤電車でマスクをしていない人を見かけることは稀になり、車両の中に少しでも咳をする人がいれば周囲の人が(眉をひそめて)次々と離れていく状況も珍しくなりました。

 お母さんたちはマスクやトイレットペーパー、消毒薬などを買いだめするために近所のドラッグストア回りに余念がなく、学校が休校になって(仕方なく)午前中から公園で遊ぶ子供の声がうるさいと、お年寄りたちのイライラも募るばかりのようです。

 テレビのリモコンを手繰っても、昼間のワイドショーは新型コロナウイルスの話ばかりで、今日は何人感染したとかどこそこの国では何人亡くなったとか、オリンピックが延期になったとか経済がダメになりそうだとか、そんな暗い話ばかりが聞こえてきます。

 視聴者の不安の煽るメディアの姿勢にも問題はあるのかもしれませんが、何より世間の話題がコロナ一色に染まってしまったとで、この問題から目をそらす、意識を外すことができない人が増えてしまっているような気がします。

 冷静に考えれば、(少なくともこの日本では)例年この時期に流行しているインフルエンザや食中毒などで亡くなる人の方がよほど多いことがわかります。

 しかし、新型コロナは何しろ「新参者」で目に見えない間に次々感染が広がったり、お年寄では重症化の可能性が高かったりという特徴があることから、あたかも「死のウイルス」のように忌み嫌われるようになっています。

 しかし、そんな中でも鷹揚に構えている人が(少なくとも一定数)いるのは事実のようです。

 先日の週末には、近所の公園では大勢集まってお花見をしている若い人たちのグループをいくつも見かけました。3月22日にさいたまスーパーアリーナで開かれた格闘技K1の試合には、6500人もの観客が集まり熱い応援を繰り広げたと報じられています。

 なにも「こんな時期に出かけなくても…」と思っても、(お年寄りから若者まで)海外に向け観光旅行に出国する日本人は現在でもたくさんいるようで、彼らの感染が帰国後に発見される例が後を絶たないのも事実です。

 先の見えない状況に直面してパニックになる人、「たかが風邪だろう」と大して気にならない人と様々な反応が見られる日本ですが、3月30日の「週刊プレイボーイ」誌のコラム「真実(ほんとう)のニッポン」に、作家の橘玲(たちばな・あきら)氏が「神経症傾向が高いと買い占めに走る」と題する興味深い一文を寄せています。

 新型肺炎騒ぎのなか電車に乗ると、マスク姿の乗客に交じってマスクをせずに吊革につかまりスマホをいじっているような人をしばしば見かける。こういうときにパーソナリティの多様性を改めて実感すると、氏はこのコラムに記しています。

 近年の心理学では「性格」は大きく5つの独立した要素に分かれ、それぞれが「正規分布」すると考えられているというのが氏の指摘するところです。

 代表的なパーソナリティのひとつである「神経症傾向」(いわゆる「不安感」)についても例外でなく、世の中には極端に不安を感じやすい人と同じくらい極端に不安を感じない人がいると氏は言います。

 こういうタイプは(極端に不安な人ほど)目立たないので普段はあまり気づかれないけれど、最近の感染症騒ぎのような非日常の状態では(こうして)可視化されるということです。

 ここで気になるのは、なぜ「不安感」には人によって(かなりの)ばらつきがあるのかということ。橘氏はその理由を「進化論的には、2つの異なるサバイバル戦略があるから」だと説明しています。

 こうした(相反する)ふたつの生存戦略が並立するのは、環境によってどちらが有利かが異なるからだというのが氏の認識です。

 捕食動物が少なく食料の多い地域なら、「不安感の低いひと」は圧倒的に有利であるのは言うまでもありません。多少の不安があってもどんどん冒険をして、新しい食べ物を見つけたり、新天地に勢力を広げたりすることができるでしょう。

 一方、トラやライオンがうようよしている地域で生き残るのは、「不安感の強いひと」だというのものよく分かります。すぐに危険を察知できるようアンテナを高くして、先手先手で安全を確保することで生き延びていく(守りの)戦略だということです。

 そして、長い進化の過程で、人類はいずれの環境にも適応できるよう神経症傾向のパーソナリティが正規分布するようになったというのが橘氏の見解です。

 現在ではヒトを襲う捕食動物は(少なくともそこらには)いないし、先進国では戦争や内乱もなく、殺人件数も減って世の中はとにかく安全になった。ところがヒトの遺伝子はそう簡単には変わらないので、いまでもサバンナの猛獣におびえていた頃と同じように強い不安を感じる人が一定数生まれているということです。

 こうしたことから、神経症傾向が高い人は現代社会ではとても生きづらい状態に置かれていると橘氏はこのコラムに綴っています。

 「不安感の強いひと」は、些細なことでも「このままでは死んでしまう」という生存の脅威に突き動かされ、不安を鎮めるためにどんなことでもしようとする。症状も出ていないのに「検査してくれ」と保健所に怒鳴り込んだり、感染症予防とはなんの関係もないトイレットペーパーやティッシュペーパーを買おうと長い行列をつくったりするのは、概してこのタイプの人たちだということです。

 さて、それでは、こうした「不安がちな」人たちは、この安全な現代社会の中このままただ淘汰されていく(無用な)存在なのかという疑問もわいてきます。

 もしも、万が一この先、新型コロナウイルスが社会に蔓延し人類の人口の半分ほどが失われるような状況になったとすればどうでしょう。そこで生き残ることができるのは、いつもマスクをし、手洗いをしてきた「不安感の強い人たち」ばかりとなっているかもしれません。

 そうなれば、(人類全体でみれば)人間という種は現在よりもずっと不安がちな、心配性でパニックを起こしやすい性質に変化しているかもしれないけれど、生き物として生存戦略とは概してそういうものかもしれないと、私も橘氏のコラムから感じたところです。


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