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知りたい宮島 18 清盛の生涯

2023年12月22日 20時43分54秒 | 貴方の知らない宮島
平清盛について
平清盛がどのような人物で、日本の歴史上どうゆうポジションにいて、どのような評価を得ていたのか。
  これにはまず、「武士」というものが何であったかを知る必要があるかと思われる。
  歴史上、清盛が活躍した時代というのは、「朝廷の政治」が藤原摂関家をはじめとする「貴族政治」。
  源頼朝による鎌倉幕府の「武士政治」の中間に位置する。この様な背景をもとに清盛について述べていきたいと思います。

1 平清盛は一言で言うならば、「今までの経済ルールを変えた人」と言える
平安の革命児・・・・300年以上途絶えていた外交を再開した人物

唐(618-907)で開発されたものがどんどん日本に入ってくる(東大寺の南大門も唐から入った技術)、
日本もその影響を受けざるを得なかった。
更に「(960-1279)の時代になると
「宋」は12世紀前半に北方民族(女真族)の侵略を受け国の半分を奪われる。
「北宋」は金(女真族の征服王朝)に華北(中国北部地域)を奪われ南遷した1127年以前
「南宋」は1128年以降を云う、首都は「開封(河南省東部に位置し、11-12世紀にかけては世界最大の都市
であるが、実質上の首都は「臨安(浙江省の省都、13世紀は世界最大の都市)
当時の中国は「南宋」が中心で、未来を先取りした様な高度な技術と経済権があり、まさに世界の中心であった
しかし、その頃の中国は激動の時代を迎えていた
「宋」は武器の為の「火薬」を必要としていた、
火薬は唐末9世紀の 中国で発明されたと推定され、それは硝石・硫黄・ 木炭粉を主原料とする
黒色火薬であった。しかし宋 代の中国には致命的な問題が存在した。それは、 火薬の主要原料であるが、
自然硫黄を産出する火山が 領域内にほとんど分布しない、
そこで、宋の人々が硫黄の有力な輸入先の一つ として目をつけたのが、火山国・日本であった。
そして、日本からの海を越える輸入を可能にした のが、宋代中国で大きく発展した海上貿易という 手段であった。
この日宋貿易で輸出され た硫黄の主産地の一つと考えられるのが、現在の 鹿児島県の硫黄島である。
(薩摩半島の南約40kmに浮かぶ、周囲14.5km、 人口110人余りの小さな火山島で採掘された硫黄 は、往時、
九州西岸の海上ルートを船に積まれて、 最大の対中国貿易港であった博多に集積され、
そ こから宋海商の貿易船で中国に運ばれた)
この時期日本では、平忠盛(清盛の父)は瀬戸内海の海賊を討伐、西日本に地盤を固めていった
日本からの硫黄の輸出をきっかけに「宋」との関係を深めていった。宋からは硫黄と引き換えに貴重な品々
を入手した。
「京都市考古資料館」には、当時の中国からもたらされた「舶来品」が多くあり、特に「四耳壺(しじこ)」においては
この原材料の石は非常に硬く、当時日本では見つかっておらず、大変美しく貴重なものであった。
貴族たちは我先にと、これらの品を求めた。
忠盛はこれら舶来品を上級貴族への貢物として公家社会に食い込んでいき、貴族の下働きに過ぎない
武士の身ながら朝廷で異例の出世を果たしていく。
 父の基盤を受け継いだのが、平清盛である。
清盛の名が世に轟くきっかけとなったのが「保元の乱(1156)」。清盛の活躍が天皇方に勝利をもたらし、
朝廷での厚い信頼を勝ち取る(この時清盛42歳)。更に3年後の「平治の乱」では
清盛が武力で鎮圧。戦いが終わっても院政をひいた後白河の周囲では諍いが絶えなかった。
その後清盛は後白河の為に私財を投じて「33間堂(蓮華王院)」を贈る。
その様子は、有力者の間でそつなく立ち回る様子が、後の歴史書「愚管抄」にこの様に書かれている。
 「清盛はヨクヨクツツシミテ アナタコナタシケルニコソ」  高僧慈円(じえん)の言葉
あちら、こちらに気を配り朝廷内で敵を作らぬようにした。

神戸大学名誉教授 高橋昌明氏によると、清盛について
周りからみて何てことない人間でも誉めてやる」「無名な人間に対しても高圧的な威張った態度を取らなかった」
その場その場に応じた、相手の立場で物が考えられる人間であった。

時代背景
宋との貿易により、源頼義は「土地」に軸足を置いていたが、平清盛は「貨幣」に軸足を置いていた。
平安・鎌倉・室町時代においては、西日本の武士は「経済重視」であった。
(武士が出てきたのが、仮に平安の中期として、これから江戸時代までの間、最初の武士と、
 終わり頃の武士が同じであるはずがない)
地理的に、日本の文化は「西より入ってくる」決して東から入って来ることはありえない。
つまり、西の方が東よりも先進地域にならざるを得ないと言う事である。
「西から 博多・京都・関東 」
田舎っぽい「源氏」
洗練された「平家」 と言えるであろう
保元の乱 1156年  清盛39歳の時、権力争いを原因とする二度の戦い、清盛は圧倒的な軍事力で
(後白河上皇と息子の二条天皇が政治の主導権を争った戦い)
平治の乱
(1159年) これを治め、「貴族社会」の頂点へと登り詰める。

* 清盛はなぜ多くの武士を抱えることが出来たのか?
平安時代・後期の武士の立場は大変弱く、番犬にも例えられるようであった。
   この時代の「武士」は・・・武芸に優れた下級貴族で天皇や上級貴族の身辺警護
や、下働きを行っていた。

  保元の乱 平治の乱については後段で詳しく述べていますので、参照してみてください。

① 平正盛(清盛の祖父・忠盛の父)もその様な武士であった。
しかし、正盛の時に大きな転機が訪れる。それは、「院政」である

         院政とは
    正一位 関白 上皇  法皇 表向きは天皇を引退していたが、天皇の父として
じゅういちい 従一位 清盛 太政大臣 大きな影響力を持つ
しょうにい 正二位
じゅうにい 従二位 平時子(じゅうにい)

しょうさんみ 正三位    指示を出す
じゅうさんみ 従三位
しょうしいのじょう 正四位(上下) 忠盛(父) 天皇 (子・孫の場合が多い(特に幼年期))
じゅうしいのげ 従四位(上下) 正盛(祖父)
      正五位(上下)
      従五位(上下)

三位以上は公家になる
新たな勢力「院」は、従来の勢力に対抗する為、
武士達を取り立てた

天皇    院
藤原摂関家    武士を積極的に登用した
武士

この様な時に「正盛」は白河上皇に取り入り土地を寄進する
*  これにより、正盛は従四位の下と言う異例の出世をする  *

② 父忠盛は、経済力で発展させた人で、経済力を得る為にした事は、「日宋貿易」をおこなう
日宋貿易により、中国の「白磁」などを輸入していた
当時は、 中国の「宋」より九州の「博多」に年に一度、船が訪れていた
(この時の取引形態は、博多に住む宋の商人が窓口となり、大陸との取引が行われていた、
 入ってきた物は「唐物」と呼ばれ、陶磁器や書物などであった)  一種の、宋・宋貿易

忠盛は「唐物」を都の上級貴族に献上した(大変珍しく・貴重性のメリットが多くあった)
文化的にも優れた貴重な品々であった
特に「白磁」(天目茶碗含)は貴族達の憧れであった。・・・日本人は唐物が大好きであった。
疑問? 忠盛は、献上ばかりしていて「儲け」はあったのか? なぜこれが経済力に繋がるのか
特に五つの国は「米」が取れ豊かな地が多かった
忠盛 唐物献上 貴族   ① 越前国
  国司命令 ② 尾張国
    ③ 播磨国
国司とは、今の県知事にあたる ④ 備前国
    ⑤ 美作国

これだけの事をしても、忠盛の地位は「正四位の上」と、父正盛より少し上がっただけである。
又、忠盛は「歌人」としても有名で華道にも通じる教養人であった、「貴族」としての教養も身に付け様としていた。
(武士よりも身分の高い者になるには、貴族の様な教養等を身につけていなければと思っていたのでは?)

室町時代は「唐物万歳」の時で、日本古来の「侘び、寂び」は和物であるが和物よりも唐物である、とにかく
何でも唐物が強かった時代である。
仏教も同じで、「中国方で何か流行っているよ、 らしいよ・・」 と言う感覚で入ってきている。
  疑問?  貴族がなぜ中国まで行って「唐物」を入れなかったのか、これは「科挙(かきょ)」に関連している。
科挙(かきょ)・・中国で6世紀以降行われた「官僚登用試験」の事で、今で言う「センター試験」の様な物。
* 日本の場合、貴族は貴族制(世襲制)が原則である為、貴族が日本を動かしていた、ここに下手に
貴族が交易(貿易)に手を出すと、貴族社会のシステムが崩れる為(実力主義になったら
貴族は困る為)いわゆる、日本に科挙(実力主義)が入ってくることになるのを防ぐ為である。
武士は貴族の考えなどには関係なく動き回ることが出来る
貴族は武士達がやっても自分たちを脅かすとは、思っていなかった



③ 清盛
清盛は、「正盛」「忠盛」と築いた、「財力」を元に兵を雇って「軍事力」を強化、このため
京の都で「最大の武士集団」となる。
39歳の時の保元の乱で朝廷内の権力争いに、武士の軍事力を入れ大きな戦闘力に発展
清盛は「存在感」を高める。
さらに、3年後の平治の乱では最大のライバル、「源義朝よしとも」を打ち破る、ここで清盛は
最強の存在へとのし上がる。(時代は貴族の世から、武士の世へと変えていく)
* 清盛は、時代の変化を捉え、経済力を蓄え、実行力を身につける。
* 更に言えば、この時代「貴族は情報を全て持っていた(占有していた)が、武士達には情報は
行渡らない、武士達は自分たちの力がどの位すごいのか、「力」が解っていなかった

2 清盛は仁安2年(1167)に太政大臣になるが,3か月後には家督を重盛に譲る。、
翌年、大病を患い、51歳で出家する。(名は静海「じょうかい」浄海「じょうかい」)した清盛は
向かったのが摂津の国「福原(現在の神戸)」。病気療養が目的としていたが、病が癒えても都には戻らなかった。
以後ここを拠点として本格的に「日宋貿易」に乗り出す、従来外国との貿易は太宰府(福岡)でしか許されて
いなかったが、南宋からの大型船が直接泊(みなと)に入る、「大輪田泊(兵庫港)」の人工島(経ヶ島)を築く。
(大きは、広さ一里36町 東京ドーム約8個分)。その一つとして残るのが、兵庫県神戸市の「来迎寺らいこうじ」
古くは築島寺(つきしま)と呼ばれていた。
しかし、清盛は私利私欲の為にした訳ではない、瀬戸内航路の整備により船舶の安全は保障され、貿易によって
もたらされた大量の「宋銭」は日本に「貨幣経済」を浸透させる契機となった。
宋が誇る「太平御覧(たいへいぎょらん)」中国でも限られた人にしか手出来ない貴重な書物で、
政治・経済・法律・文化などを網羅したアジアで最高の史書であった。

当時の西日本は国境無き西日本であって(博多にはチャイナタウンが出来ていた)、
この時代の「南宋」は世界最高の水準に達していて、後の江戸時代(400年後)にある物は「南宋」にあった。
(つまり当時の南宋のGDPの水準は圧倒的で日本がこのレベルに達するのは江戸時代になる)
このくらい南宋は世界に突出して発展した経済であった。

この時代、権力を握ろうと思うと、御所で「官位・官職」を上げてもらう必要があった。その為平氏の人達は
必死で公卿修行を行う(和歌・笛・琴・等々公家授業・等々)

① 日宋貿易である
中国 博多 大輪田泊
博多在住の宋の人
(博多網首「ごうしゅ」)が窓口であった(博多に住む宋人)
既に博多は「チャイナタウン」と化していた
これは宋人同士のやり取りとなり(宋・宋貿易)
儲けは日本に入らない(希望する物、量が入らない)

そこで、博多を経由しないで、新たな港、大輪田泊に港を作り、直接日本人が貿易の
相手をして自分たちが欲しいものを欲しい量だけ輸入する。
大輪田泊は播磨の国(知行国)であり、港は「経ヶ島(きょうがしま}」と言い、「石造りの人工の島」
で現在の、ポートピアアイランドの西側。埋め立てた石は200トン以上使用したとも言う

② 更なる改革、中国の貨幣 「宋銭」の導入である
(銅で出来ており、1枚が現在のお金に換算して、10円から100円くらい。大量に輸入する。
従来は? 米・絹などで物を買う・・・・物品貨幣であった
欠点は ① 重く運ぶのに不便
    ② 長期の保存に適さない
  ③ 価格にばらつきがある(絹などは製品に良否がある)
宋銭 お金を導入
① 価格が一定
② 簡単に数えることができる
③ 持ち運びが便利
④ 富として蓄えることが出来る。
これにより、不便な物品貨幣としての米や絹の価値は下がる。
一説として、宋銭導入により、物品貨幣を蓄えていた貴族は没落して言ったのではないか、
もし、そうであるなら 宋銭導入は平家と貴族の地位を逆転したのではないか?

1200年 25% これは土地取引における金属貨幣の使用された割合である。
1260年 55% 約120年間の間に、3倍近い使用率となっている。
1320年 75%

① 日宋貿易の権益に日本側も関れるようにする
② 大消費地である、都に近い港を作ることで貿易をさかんにする
③ 金属貨幣の導入で経済の発展を促がす
* まさに、日本経済を根本から変えようとする画期的な改革者であった。

3 実際には最初は宋銭は「船のバラスト」として使用したのではなかったか?
(最初の宋宋貿易のように中国人同士の貿易としては「銭」として使用していたが、その後は?である)

なぜ出家したのか?
太政大臣にまで登り詰めた「清盛」であるが、貴族社会(今の公務員社会)の窮屈さが嫌になって
いたのか? 50歳をすぎて、自分の好きなことをやりたい為に「神戸」に来た。とも言えるか?

出家した時の名前は「静海(じょうかい)又は清海(せいかい)」と言い
海は平穏であって欲しい(貿易には欠かせないから、常に海は平穏でないといけない、と言う意味か)
と言う気持ちから名前をつけたと思われる。

経済改革にまつわる不思議なエピソードとして、「経筒(きょうづつ)」がある
経筒はお経を入れておくもので、当時この経筒を土に埋める事が流行した
しかも この経筒は「銅製」であった。
長野県長野市の「長谷寺」には経筒が伝わっている(約900年前の物の一部)
経筒は「写経を収める為の筒」の事で、当時(平安時代後期)疫病や自然災害の為、救いを求める多くの人が
寺に経筒を奉納している。大切なお経を守る為、経筒は当時銅製であった。
この経筒の材料として「宋銭」が使用された。

経筒の成分 宋銭の成分
銅 69 % 銅 66 %
鉛 20 % 鉛 26 %
すず 11 % すず 6.7 %

その証文として、嘉応2年(1170)4月30日「紀李正家地売券」には、
広さ30丈の土地が、「絹11匹と銭一貫と交換されている」と記されている。
銭1貫は、宋銭1000枚のことである。

別府大学・文化財学科教授、金属分析の専門家で「平尾良光氏」の分析によると、 
古い時代の経筒は日本産の銅を材料として作られていた
② ある年代以降は中国産の銅を材料として作られている。
しかも、この時期には中国から銅が輸入された記録は無い(資料は無い)
つまり、清盛の頃に金属成分の変化が起こっている、これは何を意味していると言うと
宋銭」を溶かして作ったと思われる。
当時お寺では、仏具を作るのに、加工し易い「銅」を用いていた。お寺は一番多くの金属を使用した。
価値の無くなった銭を破銭(はせん)と言って、溶かして他のものに使用していた。
*本来は「溶かして」使用されていたが、仏具ではもったいないので「銭」として使用してみたのではないか
清盛は合理主義者であるから、使える物は何でも使おうとしたのではないか?
鎌倉の大仏さんも「宋銭」を溶かして作られていたことが判明した

そもそも日本では「和同開珎(わどうかいちん)」をはじめとする12種類の銭(皇朝十二銭)と呼ばれる貨幣が
発行されていたが、経済が発達していない為、人々は昔ながらの米・絹取引に戻っていった。
貨幣史を研究する伊藤啓介氏(総合地球環境学研究所、外来研究員)によると、清盛は時代の潮流を感じて
いたのではないか、早くも「宋銭」の重要性に気が付いて国家財政に組み込もうとしていた。と言う先進性
は素晴らしいものであった。
では、なぜ貨幣は定着しなかったのか
一言で言うと、「まだ社会経済が発展していなかったから。」と言える。
人夫達への賃金、官人達の給料は銭で支払われていた、しかし様々な品物が銭と交換できるまでには
経済が未発達であった。結果として銭をそれ程必要としていなかった。

中国では紀元前から金属貨幣を国家権力が造って流通させていたと言うシステムが出来ていた
宋の時代になってから経済の在り方が大きく変わってくる。銅銭を大量に造り民間にばらまく、これは必要が
あって造ったと言うよりも銭を流通させることによって商品として物を購入する経済システムを作ったのではないか。
宋の国は東アジア世界における「造幣局」のような役割をしていたのではないか。

北宋が登場して銭が東アジア全体として動く、それ流れに日本も乗る、
南宋においては(米を多く作り、運河も発達)取引量と速度が極めて活発化すると宋の貨幣経済にプラスに動く。

国にとって貨幣とはどの様な意味を持つものであろうか?
経済学のなかでは、貨幣が「税を納めるクーポン券」としての機能があるからで、最終的に「銭」で納税が出来る
事を価値の基礎にしている。
それでは、どの様にして税金を銭で払ってもらうのか、「まず先に政府が使え(スペンデイング ファースト」と言う
考え方がある。
日本国とか日本全体の政策を考える必要性が出てきたのではないか。
その事に目覚めたのが「清盛と後白河院」であったのではないか。

「治承3年(1179)、「百錬抄」によると、近頃誰もが病に悩まされている。皆はこれを「銭の病」と言う。
銭の病とは、肌に赤い斑点が出た、これが銭に似ているという事でこの様に呼ばれた。
それをすぐに銭と結びつけられる、このくらい一般的には銭は広がっていった。

困ったのは、荘園から直接得る米や絹に依存した貴族や寺社勢力達。宋銭の普及は資産の目減りを意味した。
この様な時、高倉天皇は「活価法(こかほう)」と言う法律の再検討を命じた。
活価法とは、主な取引の交換レートを定めた法律である。
  例えば、「米一斗は油一升」に相当するという様に
奈良時代から朝廷が定め、税金や荘園領主の財政を左右する重要な法律である。」
高倉天皇の考えは、米・絹に新たに「宋銭」を加えその信用を公認すべきではないかと言う趣旨であった。
中国の銭を日本で使いたい、と言う法令を天皇に出させようとすることを公認させる
(高倉天皇を動かしたのは清盛である)

宋では余った米や作物を銭に替え商売に精を出し国はかつてない程栄えている。
中国の人口は日本に比べ10倍、経済力も10倍以上ある大国。
宋銭が認められれば交易を一手に握る、平氏の力も増す。この時こそ平家が世を治める絶好の機会ではないか
と考える。
この様な時、断固反対したのが朝廷の「九条兼実」
「玉葉」の中ではこの様に言っている。
近頃入ってきた中国の銭など、私鋳銭同然であるから停止すべきである
兼実が反対するのは「鋳造権」を朝廷が持っているなら構わないが、「宋銭」が私鋳銭と同様である。と言う考え方
は「兼実」の考えと言うより、当時の公家達の極めて一般的な理念であった。

清盛にとっては
➀ 宋銭を公認させる
➁ 宋銭の公認を見送る
の選択肢があったが、清盛は「宋銭の公認を見送る」事にする、それは
活価法により決めなくとも、人々の間では宋銭が自然と広まればそれでよいのではないか

宋銭の価値とは、 ➀ 銅としての使用 ➁ 税金を納める為の手段や基準として用いる
これによって「宋銭」が銅としての価値を超える価値を持つことになる。、そうすれば宋銭の輸入を行う平氏に
とって、極めて大きな財政収入の源になる。
当時の宋銭は現代の「米ドル」の様なもので、世界通貨であった
平氏側が自らの財政基盤を強める為にも、又新しい経済の流通を考える上でも、財政上の宋銭の位置を
明らかにする必要がある。実態としては宋銭の流通を停止する事は出来ない状態であった。

治承3年(1179)8月30日、「大夫尉義経畏申記」によると、「市廛雑物活価法(いちみせぞうもつこかほう)」
(街中の雑多なもの)が発布され違反する者は取り締まれと言う内容。しかし活価法の内容について記す資料は
現存していない。
しかし、この時重大な事件があった。重盛の死亡(1179年7月)である。 対朝廷との関係でいえば
重盛は信望も厚かったので、重盛がいなくなる事は平家にとって政治的にマイナスであった

これに乗じて、反平家の勢力は後白河を抱き込んで謀略を巡らせることになる。重盛の領地を没収するなどして
平家に圧力をかける。
治承3年(1179)11月、清盛はついに挙兵、後白河法皇を幽閉し武力で朝廷の実権を奪う
ここに、日本初の「初めての武家による政治」が誕生する。
  「初めての武家政治」ではない。武家政治とは、武家による武家の為の政治であって、頼朝が実現する
  「初めての武家による政治「」とは、「朝廷政治を武家が行う」ことである。
  
それから1か月 清盛は後に安徳天皇となる孫に中国でも限られた者にしか手に出来ない貴重な書物を手に入れる
「太平御覧(たいへいぎょらん)」である。
政治・経済・法律・文化、などを網羅したアジアで最高の史書であった。
「将来この様な本を読みこなせる天皇になって欲しい」と言う願望から贈る。つまり、中国を含めた東アジア世界
に関心を持つ、つながりを持つ天皇になって欲しい」と言う希望・将来ビジョンが示されていた。
治承4年(1180)2月清盛の孫が僅か3歳で即位し安徳天皇となる。
6月には安徳天皇を福原に迎い入れここに新しい都とする「遷都」とした。

平家による新しい時代が始まるかに見えたその矢先、清盛は「熱病」に倒れた。
治承5年(1181)閏2月4日 清盛死去
その後朝廷は宋銭の使用を止めようと何度かの禁止令を出した。しかし平家が滅亡、清盛が死んでからも
宋銭の流通は止まる事はなかった
江戸幕府が「自ら貨幣を発行」するまで、およそ400年、宋銭は使われ続けた。


4 清盛没後わずか4年で平家が滅んだのはなぜか?
治承3年(1179年)清盛は更なる「独裁体制」を固める
① 平家の意向に反対する上級貴族(関白・太政大臣を含む)39名を解任
② 反対勢力が支配する国(知行国)を奪い、平家一門で独占する
全国の知行国のうち半数(32カ国)を独占、これにより「富」を独占する様になる
③ 過去400年間動いた事の無かった「都」を、福原に遷都(治承4年1180年)

この様なことにより、貴族や寺社から清盛に対して不満が高まり、内乱へと発展する事になる

関東では「源頼朝」が旗揚げをする。
更に「清盛は熱病で倒れる、さらに64歳で亡くなる。これにより、反平家の動きは盛んになる。
*清盛の父(忠盛)の奥さんは、藤原宗兼の娘(宗子)は後の池禅尼。その子供が平家盛(清盛の異母弟)
  家盛は鳥羽院の熊野詣で途中に病気が悪化し早逝する(26か27歳)。
    この家盛が頼朝によく似ていたとも言われ、その為頼朝を伊豆に送り殺さなかった。と言われている。
    藤原頼朝の流刑について、流刑先は伊豆半島の付け根あたりにある「蛭が小島(ひるがこじま)」と言う場所で、
    昔は詳細な地図などは無いから、部下から「頼朝は伊豆の蛭が小島に流刑しました」と聞けば、清盛は伊豆七島や
    小笠原諸島の離れ小島かなんかに流されたと思ったはずである。
    ところが蛭が小島と言う場所は現在の伊豆長岡温泉郷の真ん中に位置します。気候は温暖だし、食べ物は豊富で美味しいし、
    北条政子はそこにいたわけです。

わずか4年で滅んだのは・・・・ここには大きな落とし穴があった。
「物品貨幣」から「金属貨幣」へと変わっていった中で、清盛死後 金属貨幣の価値が大きく暴落
する出来事が起こったのである。
これは、養和元年(1181)の養和の飢饉である。西日本から始まった、大干ばつによる「飢饉」である。 
これにより「物」の価値が激変する、* 飢饉が起きた時には、食べるもの「お米」が一番大事である。
米の量が激減する事により経済には大きく影響した。
(「方丈記」には京都市中のみでも、42300人もの人が餓死よ記してある。)
いざと言う時に「食べる事の出来ない貨幣」はただの金属の塊りでしかなかった。(貨幣価値の下落)
ここに平家衰退のポイントがあった
なぜなら、平家の周りの武士達は資産を大幅に減らし、信頼関係も失墜し平家より離れていった
一方関東の「源頼朝」は武士達の支持を急激に集めていた
東鑑(とうかん)」「吾妻鏡(あずまかがみ)」には、関東の土地を「管理・分配する権限」は源氏が持っている
と記されている。 「東鑑・吾妻鏡は、鎌倉幕府の歴史書」である。
* 経済の力で「武士」を従えた、平家、しかし貨幣経済の失敗で兵力を維持できなくなった平家
(平家の経済ビジョンに対する反発・・・・経済戦争である)
* 源頼朝のやり方は対照的で、「源はあくまでも土地を味方の武士に保障する」と言う事で、関東武士
の心を掴んでいった。
頼朝は揺らぐことの無い土地の分配で兵力を増やしたい。まさに経済戦争であったのではないか

* 「源平合戦」と言うのは、まさに「経済はこうあるべきだ」と言う、思想の対立であった。だからこそ
絶対に相容れなかった、そしてどちらかが、滅びるまで終わらなかった。・・・壇ノ浦で平家は滅亡
源平合戦は、日本で最初の「全国的な内乱」と言える。

日本の歴史の中において平家と言うのは完全な悪役であった。  なぜか?
一言で言えば「開拓者(パイオニア)」の悲劇である、後の時代にはあたり前の事でも、最初にそれをやった人は
往々にして非難される、更には「その初めてやった事」と言う功績も忘れ去られる、それが歴史の法則であるが
だから、我々後世の人間は冷静に公平に功績を評価しなければならない。
* 平清盛はいったい何をしたのか?、・・・「初めての武家による政治」である。「初めての武家政治」ではない
・・・「武家政治とは武家による武家の為の政治」であって、これは源頼朝が実現した」
「初めての武家による政治」とは、「朝廷政治を武家が行う事」である。現代風に言うと以下のように解釈できる。
つまり、清盛は「同族会社」である、「日本朝廷株式会社」において、初めて「社長の一族」でない、労組み出身の
身でトップに立ったのであり、頼朝は会社を辞めて独立し「日本幕府株式会社」と作ったと言う事である。
*当時の武士の存在は、中央の朝廷で政治を行っている天皇や貴族にとっては極めて「卑しい」存在であった。
*武士を表す「サムライ」と言う言葉は、本来は「さぶらう(仕える)」と言う意味であった
朝廷の人々にとって、武士とは「犬以下」の存在であって、人間扱いしていないのである、朝廷の人々、特に
天皇のいます御所に入ることの出来る人間を「殿上人(てんじょうびと)」と呼ぶが、こうした殿上人から見れば
武士とは地下(じげ)つまり地面の上を這い回る虫の様なものであった、武士は人を殺し血を流す、まだ
兵農分離前だから田畑を耕すこともある、だから武士達は「ケガレ」ている、野獣が家に入ってくる事を許さない様に
殿上人達は武士を御所の上には上げなかった。政治はそこで行われるのであるから、それは武士に政治に参加
する権利が無いと言う事にもなる。
* ところが、初めてこの厚い壁を突破した男がいた、その男は、有り余る財力、それを背景にした武力、そして誰にも
好かれる様な個人的魅力を武器に、その頃の朝廷のトップ鳥羽上皇にいたく気に入られ、ついに武士としては
史上初めて殿上人の資格を与えられた、その男こそが、清盛の父、平忠盛である。
殿上人たちは忠盛を憎み殿中で「闇討ち」しようと思った。
* 公家たちは、なぜ武士を差別するのか?、 それは一言で言えば彼らが「ケガレ」ているからだ。
ケガレ」は日本独特の宗教的な感覚で、歴史辞典にも記載されているが「あらゆる不幸の根源」である。
「ケガレ」はどの様な時に発生するかといえば、「人が死んだ時」「動物を殺した時」である。この時代、
公家達は、たとえ自分の父親でも、死んだ後は「ケガレ」たものとして扱い、野山に捨てていた。
それくらい「ケガレ」を避けようとしていた人間たちが、こともあろうに神聖な御所を忠盛の「死のケガレ」
で汚すはずがないではないか。
忠盛が戦争を日常茶飯事とする武士であり「ケガレ」ていると考えたからこそ、昇殿させまいとしたのに、殿上で
殺してしまえば御所が「汚染」されてしまう。だからこそこれはいわゆる「袋叩き」にしようとしたのだ。
ところが忠盛はそうされまいと刀をぬいたままで御所に入った。公家一同は闇討ちを諦めたが、
逆にほくそ笑んだ。なぜなら、殿中で抜刀することは重大な犯罪だからだ。
殿上人達は、清盛の父忠盛が御所内つまり殿中で刀を抜いた事を理由に、鳥羽上皇(後白河法皇の父)に処罰
を要求した。御所で白刃を振り回すことなど許し難い、と言うのだ。
(江戸城では鯉口を三寸切る、つまり刀を10センチほど抜いただけで、完全に鞘(さや)から抜かなくとも、その身
 は切腹、お家断絶」と言うほど厳しくなった、忠臣蔵の浅野内匠頭はこのルールに触れた)
ところが、忠盛はにやりと笑い、白刃をよく見よと言った、刀と見えたのは実は竹に銀箔を貼ったものだった、
これでは罰する訳には行かない、この時鳥羽上皇は益々忠盛を気に入ったのである。
* 「この時代、日本の朝廷政治は破綻状態であった、と言うのも、まさにこの殿上人たち、つまり「上級貴族」が
 遊興にふけり、例えば徴税・公共事業・副史・治安維持といった中央政府が行うことを直接やろうとはしなかった
 では、誰が実際の行政を担当したのか、それは「中級貴族」であった。
 中級貴族にとって最大の希望は「国司」に任命され、その期間中にいかに蓄財するかと言うことだあった。
 地方政治はこうした中級貴族に「まる投げ」にされた。つまり彼らは最低のノルマを果たせば、あとは住民を
 いくら絞り取ってもよかったのである。、こうした蓄財に励んだ中級貴族の中で、最も成功したのが「平忠盛」
 あった。 例えば鳥羽上皇が、「大きな寺が一つ欲しい」といった時、本来なら国の公共工事として行われるべき
 巨大プロジェクトを、忠盛は「お任せください」と言って私費で建てて献上した。その寺を得長寿院(とくちょうじゅいん)
 と言う。今は廃絶したが往時には千躰の観音像があった。息子の清盛がそれを真似て、後白河法皇の為
 に作ったのが現在の三十三間堂(さんじゅうさんげんどう)である
 こうゆうのを当時は「成功(じょうごう)」と言ったが、こういう「功」があったからこそ忠盛は身分を越えて「殿上人」
 に抜擢されたのだ。その忠盛の父を正盛と言うが、正盛は鳥羽の祖父にあたる「白河上皇(後白河は曾孫(そうそん))
 に気に入られていた。そして白河の妻の一人であった祇園女御(ぎおんにょうご)。これこそが清盛の母であると
 平家物語は述べている。」
清盛・・・卑しい武家の息子があんなに優秀な訳がない、天皇家の血を引いているからこそ優秀なのだ」と言う
一種の差別意識があった事を見逃してはならない。 だから「卑しい武家の息子が大臣になるのは許せないが
上皇の落とし子なら仕方ないか」と言う感情が隠されていたのかも知れないし、逆に本当に落とし子であったから
こそ朝廷は清盛を優遇したのかもしれない。
確かなことは清盛は武将としても政治家としても優秀であったということである。
信長や秀吉以前に経済的センスのあった武将といえばまず、この清盛であろう
平家は主に西日本を根拠地とし、水軍を傘下に置き、交易を独占した。後に大輪田泊を造り「日宋貿易」に乗り出
したのも、交易がいかに巨万の富を産むか知っていたからだ。
平家の氏神(守護神)が安芸の国の厳島神社であるのも、平家が海の民であることを示している。
水中に浮かぶ龍宮城のような神社を整備したのは平家である。
清盛は「武士団」の長でもあった。
上級貴族は実質的な政治は全て下級の者に丸投げしていた、特に問題なのは、彼ら上級貴族には
国の安全を守るのは政府の責任」と言う考え方がまるで無かったことだ。
彼らは軍事や治安活動を「ケガレ仕事」として嫌悪した、上級貴族にとっては「有事を考える」ことすら悪なのである。
では、「なにも考えない」事で世の中は平安(平和)になったかと言うと、まったく逆で、政府(朝廷)が国民の安全を
守ることを放棄していたので、国民は武装し自分自身の手で生命・安全を守らなければならなくなった。
これが「武士」の起こりである。
彼らは農耕や牧畜で財を成し、それを守る為に武装した(国はたよりにならないので)
単に武器を持つだけでなく自分の身を守る為に武技を磨いた、そして滑稽な事に、朝廷や貴族たちも彼ら武士団
に軍事を「丸投げ」した。
だから、 朝廷内に相続争いが起こった時も、 彼らは武器を取らず、実際の戦いは武士団 にやらせた。
* これが 保元の乱(1156年)である。 (出家も退位もしていないので)
(崇徳天皇(すとく)と後白河天皇「まだ法皇にはなっていない」が権力の座を巡って争った事を認識)
後白河天皇方 平清盛 源義朝よしとも(「頼朝、義経兄弟の父」)
崇徳天皇方 平忠正(清盛の叔父) 源為義(義朝の父)


平家は叔父と甥 源氏は父子の戦い
結局武士同士の「代理戦争」となり、後白河つまり平清盛・源義朝が勝った。ここで後白河は前代未聞の命令を出す
敗者である、「忠正・為義」を身内の手で処刑せよ、と言うものであった
* 朝廷が重罪人を処刑にしなかったのは、①菅原道真のように祟られては困る(と言う迷信の為)。②「死刑」も
  「人殺し」であり、その様な ケガレ仕事 をすべきではない、と言う差別意識に基づくもの。
その結果、清盛は播磨守(はりまのかみ)になり、義朝は左馬頭(さまのかみ)になった。
しかし、清盛はともかく、父まで処刑させられた義朝は誰の目から見ても恩賞不足であった。ならばまたクーデター
を起こし、清盛を追い払って朝廷を独占しようと、義朝は考えたのである。
* この時の朝廷の様子は
勝者であった、後白河天皇が上皇となり、位を若い二条天皇に譲っていた。(引退ではない)
上皇(元天皇)・・・「法律外」の立場を生かして強大な権力を確保するシステム「院政」を実施する為
最高権力者は後白河上皇であって二条天皇ではない。(関白・大臣が口うるさいのでこの方が政治がやりやすい)
後白河の右腕となったのが、藤原信西入道(しんぜい)「藤原通憲(みちのり)」であった。彼は中級貴族であったが
妻が後白河の乳女(めのと)であった事を縁に出世、身分の壁を飛び越える為に出家して上皇の右腕になる
後白河ー信西のラインに清盛も加わっていた。これに対し後白河と男色関係があったと伝えられる寵臣(ちょうしん)
藤原信頼(のぶより)は、成り上がりの信西を嫌っており、院内で信西と信頼の二代派閥が出来た
この信頼側に、源義朝が接近する。
この様な状況下で清盛は「熊野詣」を行う。信頼と義朝はこの機会を狙い、留守中にクーデターを起こし、
上皇・天皇を手中に収め、清盛の官職と知行国(領地)を奪う。しかしこの上京を知った清盛は、都に戻るや否や
さっさと上皇らを奪い返してしまった。信頼が油断しているところを素早く突いたのである。
義朝は怒って「日本第一の不覚人」と信頼をののしったが時すでに遅し。こうして義頼は「賊軍」になってしまい、
しかも、集結した平家の集中攻撃を受け、戦いでも負けてしまった。義朝らは頼朝らと供に命からがら敗走する
* これが、平治の乱(1159)である。
その後、清盛は正三位(しょうさんみ)に昇進した。すでに殿上人ではあったが、三位まで昇ると今度は「公卿」
つまり公家の身分になる、卑しい武士階級の出身者が始めて公家の仲間入りをした。
そして、妻の時子の妹の滋子(しげこ)が、後白河の子を生むと言う吉事が重なり、清盛はとうとう公家でも最上位
と言える「従一位」の太政大臣にまでのぼり詰める。 (高倉天皇)
しかも、時子との間に生まれた「徳子」を、後白河と滋子の間に生まれた高倉天皇(徳子とは従弟同士)に嫁がせ
徳子が皇子(後の安徳天皇)を産んでからは清盛は天皇の外祖父と言う地位まで獲得した
清盛は正一位関白までは届かなかったが、これは藤原氏に代わって朝廷の実権を握ったと言っていい、
それに平家一門の殿上人は60人以上を数え、その知行国は全国60余箇所の半分の30カ国に及んだ。
まさに「平家に非ずんば、人に非ず」である、・・・・これを口にしたのは、「平時忠」である。
* 清盛の体制は磐石であった、それなのになぜ崩れたのか?
直接のきっかけは、朝廷に「後白河法皇」と言う「政治家」がいて、平家体制の崩壊を画策したからである。
後白河と言う人は、歴代の天皇の中でも傑物の一人と考えていい。特に平安から室町にかけての天皇制の特質
と言うべきかも知れないが、朝廷自体が自前の軍隊を持たず、戦争や警備はすべて武士団に「外注」と言う形
になる為に、政治家として資質のある天皇(あるいは上皇・法皇)はすべて武士集団をいかにして操縦するか
に腐心し、結局陰謀家になってしまうと言う事情があった。
そうした陰謀家が常に気にするのが、「勢力の均衡」である。この点、後白河の目から見ても平家の力は強くなり
過ぎていた。
清盛は安心していた、「義弟」である後白河が自分を裏切ることは無いと。
後白河は不安であった、「平家は大きくなり過ぎた」
(かつて、天皇家は藤原氏に「天下」を取られたことがあった、後白河はその轍を踏むまいと、思ったのか、最初の
 平家打倒の「陰謀」は、鹿ケ谷の密議(1177)である。クーデタ計画が漏れ失敗したが、しかしその背後に後白河
 がいることを知った清盛は「裏切られた」と激怒し、兵をだして、後白河を幽閉し、近臣達の官職は全て解いた。
 更に高倉上皇までも退位させ、徳子との間に生まれた「おむつの取れない」皇子を天皇の位に就けた。
 これが、安徳天皇である)
天皇は「平家出身」しかも反対勢力は全て封じ込めた、しかし、その時 平家滅亡の時が始まったのである。
* 強引な手法は反発を伴う、まして、朝廷や貴族の目から見たら「卑しい」武家出身でありながら、こともあろうに
「法皇」さまを幽閉するとは、恩知らずにも程がある。「あの成り上がり者め」。世論もこうなった。
清盛から見れば、「裏切った」のは後白河であったが、これが開拓者の悲劇であろう。後に武家が天皇家を圧迫
するのは日常茶飯事となった。後に足利義満・徳川家康らが代表選手か、でも彼らはそうそう悪人呼ばわりされてい
ない特に「天皇家」への「不敬」問題については、それが「あたり前」になっていたからで、それを最初にやったのが
清盛である。
* 天皇の命令は「勅(ちょく)」
上皇(上院)の命令は「院宣(いんぜん)」
皇太子・三后(太皇太后・皇太后・皇后) の命令を令旨(りょうじ)
* 清盛は更なる体制を固める為、後白河、それにもう一人の上皇となった高倉上皇、そして平家の血を
引く安徳天皇と一門郎党を連れて、1180年福原に遷都した。
しかし、この遷都は評判が悪かった、平家にとっては交易がやり易いというメリットの他には何のメリットも無く
京に置き去りにされた形の旧勢力、特に寺院や神社などの宗教勢力は平家を深く怨んだ。石橋山の合戦で大敗
しかし、特に大きな利権を持つ、比叡山延暦寺は平家に還都(かんと)しなければ、山城の国(京都府南部)と
近江の国(滋賀県)を武力で占領すると通告してくる。これら宗教勢力の反発や高倉上皇の病気も伴い、
3ヶ月後には還都(かんと)した。還都(かんと)は都を戻すこと
さらに今度は、南都の東大寺や興福寺が平家に対し反旗をひるがえす。清盛は僧兵を鎮圧したが、強風の為
奈良一帯は全て焼きつくされた。天平以来の東大寺の大仏も藤原氏の氏寺(うじでら)興福寺もことごとく焼失した
ここに至って、天下の憎しみは「仏敵」平家に集まった
さらに追い討ちをかける様に、最大の不幸が起こった。南部焼き討ちの翌年養和元年(1181)正月、
平家の 「切り札」 高倉上皇がこの世を去る、21歳の若さであった。
この様に、高倉上皇が先に死に、平家に批判的な後白河が生き残った、平家にはまだ安徳天皇と言うカード
があるが、治天の君・後白河に比べれば弱い、後白河は安徳天皇の祖父と言う家長としての権威で、天皇の首を
すげ替えることも可能だからだ、具体的には安徳から別の者に譲位させるのである。となると
安徳は上皇にはなるが、後白河がいる限り「ただの上皇」に過ぎない。治天の君ではないからだ。
つまり、高倉上皇の死によって、平家の政権基盤はガタガタになったのだ。
* その後清盛は、激しい頭痛が続いた後病状が急変し発病からわずか1週間で死亡(脳出血による死か)
源義経に「一の谷」「屋島」「壇ノ浦」と三連敗したのも、平家に優秀な総司令官がいなかったからである
清盛の死後わずか2年ごには、倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで清盛の孫・維盛が総大将であったが
10万の大軍が、はるかに少ない軍「木曽義仲(源義仲)」に惨敗した
頼朝の陣営には「義経」と言う軍事の天才がいたが、平家には逆に司令官になるべき人が誰もいなかった。
* しかも、大飢饉が襲った。「養和の大飢饉」と言う。清盛の死の直前から始まり何千人もの人が死んだ
一般の人々はどの様に思っていたのか、まず 奈良の大仏を焼いた祟りである、祟りで清盛も死んだ
天皇が代替わりしたが、平家の血を引く「安徳天皇」に「徳」が無いからこういうこと(飢饉)になるのだ。
偶然に過ぎないが、人々はそう信じていた、ならば清盛だけではなく安徳天皇も平家も滅ぶべきだと言う事になる。
* 何をすればよかったのか?
この時代は、時代の転換点でもあった、奈良時代以来曲がりなりにも維持されてきた「律令体制」が修復不能
なほどにボロボロになり、このままではいけないと誰もが思い始めていた時代でもある。
では、どの様に政治を変革すればいいのか? それは結局、頼朝が生後に成功した方法でもあるのだが
この国の生産の主体であり、軍事の担い手である武士が政権を握り、そして武士を主役とした、武士の為の
政治を展開すればよかったのだ。
* 清盛の政治は武士が「担当者」である政治ではあったが、「武士の為の政治」ではなかった。と言う事は
武士達は平家に不満を抱くということだ。こうなると、「武士出身」と言う事はかえってマイナスになる。
これが藤原氏なら「公家には武士の心はわかるまい」と言う事になるが、武士なら「武士のくせにどうして武士
の事をわかってくれないのか」と言う大きな不満につながるわけである。
奈良から平安にかけては、中国の「律令制」を取り入れて国の形を作った。がしかしその内、律令は日本に
合わなくなってきた、なぜならそれは「中国がベース」であるから。
どこが合わなくなったのか、「武士」である。
* 「武士」と言う中国にはない存在が日本を動かしている、「律令」はそんなものは「想定外」だから、武士が主役
の政治にはまったくフイットしないのである。ではなぜ中国では想定外の存在が日本で主役になったのか、
それは日本独特の「ケガレ思想」があるからだ。日本人は現実の政治、特に軍事や警察業務を他の事よりは
一段下の「ケガレ」と捕らえる傾向がある。中国でも、文官は武官より優位だが、少なくとも「武」は「官」の中に
入っている。日本でも平安時代は征夷大将軍・坂上田村麻呂と言う武官がいた。要するに、「公務員としての軍人」
と言う事だ。しかし平安中期以後、朝廷は軍事・警察業務を「ケガレ仕事」としてまったくやらなくなった。
かろうじて、都では、下級貴族に警察をやらせた。これが「検非違使」であり、「令外りょうげの官(律令には無い官)」と
言われている。 中国には武士はいない「武人」はいる、「三国志」の換羽(かんう)や張飛(ちょうひ)がそうだ、
しかし彼らも国を建てれば、将軍つまり武官として政権に入る。日本の様にまったく私的な「集団」である「武士団」
が朝廷から「外注」されて、軍事を請け負っていると言う変則的な形態はまるで無い。
だから清盛はどうしたらいいのかわからなかったのである、一体こんな体制をどうやって政権の中に位置付けるのか
そして、どうやって下層の武士をもこの体制に取り込んでいくにか、・・・
とりあえず、「モデル」が無いので清盛は前代の権力者である、藤原氏の真似をしてみた。
一門で高い官位を独占し、娘を天皇の后(きさき)として、生まれた子を次代の天皇にして権力を握る。
結果として、平家だけが武士階級の中で突出して甘い汁を吸い他の武士達は全て置き去りにされた形となった。
平家は武士出身であるにもかかわらす、その武士階級から支持を受けるどころか、かえって見放される結果を
招いたのである。ここで、もし武士の中から「武士の望む政府を作ろう」と呼びかける人が現れたら一体どうなるか
日本は武士が動かしているのだから、どんな政権でもこれには勝てない、だからこそ平家は呆気なく滅びたのである。

  




































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