知りたい宮島

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知りたい宮島 2 伝統工芸他

2023年12月22日 20時51分51秒 | 貴方の知らない宮島

桟橋前の広場の前を過ぎると、小高い丘の麓に「加福食堂」が見えます、その横には階段があり、この階段の上が
1555年に厳島合戦が行われた時に「毛利元就軍は陣を構えた所」で15の廓があり、毛利軍約300名から500名がいた所です。(要害の地で宮尾の城跡と呼んでいます)
廓とは、城やとりでの、周囲を土や石などで築き巡らしてある囲い。を言います
この時元就は大将として、歴戦の重臣で熊谷信直(くまがいのぶなお)を差し向ける、信直は9月26日に宮尾の城に入る、この時陶晴賢軍は既に21日には、五重塔の横(現在の千畳閣の所)に陣を構える。
熊谷信直は元就の一の家老で、「歴戦の強者」として知られていた人物です。
陶軍は2万人 毛利軍は3千人ともいわれた、9月30日の夜陰、嵐をついて対岸の「火立岩(ほたていわ)」から兵を伴い、島の裏側、現在の「包が浦」に上陸、博打尾峠を越えて、陶軍の背後に迫り、10月1日 早朝4時に総攻撃をかけ、昼過ぎの2時には決戦が終わったという、日本三大奇襲戦の一つで
厳島合戦が行われた場所です。  「火立岩(ホタテ岩)」から対岸宮島に出兵と書きましたが、実際にはこの海峡は潮の流れが大変速く、ここから漕ぎ出したら、宮島に着くことは出来ず、遥か南の大竹市近くあたりまで流される事が、後の研究で解っています、夜陰に紛れ宮島に着く事は到底無理であった。実際には「草津港」から出発したと思われます。ここからだと、船を出せば潮の流れに乗って櫓を漕がなくても南下し容易に宮島に着く事が
出来た。どうもこれが事実の様です。しかし「火立岩」からの話がロマンがあっていいのではとの意見もあります。

この時「陶軍」は鉄砲隊がいた為(6丁あった)、元就軍は敵をけん制する為「射手」を200名乗船させていた。
元就はこの時、3日分の食料(煎り米等)と棚木1本 縄1束を全員に支給していた。
島に着いた時「元就」は後に引けないという事を「皆に知らすため」また「絶対に勝つ」と言う意思を鼓舞するために、乗ってきた船を全部帰したと言われています

この時の、合言葉が「勝」と言えば「勝・勝」と連呼した
陶晴賢は、高安ヶ原で自刃(35) 弘中隆兼・隆助 父子は2日間戦い、「駒が林」にて討ち死にする
(駒が林はフェリーから宮島山頂を仰ぐと一番高く見える山で裏側は焼く80mの断崖絶壁の山)

左のおでこに見える部分から下って目に見える所、更に登って鼻に見える部分が「駒ヶ林」になります

この時、陶晴賢は「何をおしみ、何をうらまん もとよりも この有様の 定まる身に」と詠んでいる
詳しいことは、「知りたい宮島15」を参照してください

その階段の横に
皇太子殿下行啓記念」の石碑を見ることが出来ます。

桟橋前の突き当り(海岸通りに入る前の所にあり)、大方の人が、知らないで通り過ぎる(お土産店のガイドさんもほとんど紹介しないで通り過ぎていきます)食堂の隣、「雁木(階段状の石段)の前にあります。
クリックすれば、拡大写真になります

階段と言いましたが、正式には「雁木(がんぎ)と言い、干満時にでも船を着ける事が出来る船着き場でした。
広島の「原爆ドーム」に近くの川沿いには幾つか見ることが出来ます。
これは、既に 崩御された「昭和天皇」が皇太子殿下の時、大正15年5月27日に宮島に参詣に寄られ
弥山頂上まで登山をされた時の「記念石碑」です。
弥山頂上付近には同じ様な石碑(四角い形をしている)が建立しています、どこにあるかさがして?
その年の12月25日、大正天皇が逝去(午前1時45分)され、2時間後には皇太子殿下から「天皇陛下」になられています。
更に言うと、明治18年7月31日には「明治天皇」が御行幸されています。
この時の「行在所」が大聖院の観音堂です。


観音堂の屋根瓦を見ると、「金色の菊の御紋章」が入っています。
また、明治27年9月15日には、明治天皇は広島大本営にこられました。
日清戦争において、広島に「大本営が設置」されたためです。
(明治27年7月~28年3月 日清戦争 広島に首都が225日間おかれる)

この時の大本営の参謀総長が、有栖川宮熾仁親王で後述の「朱の大鳥居」の「扁額」を書いた人です
大鳥居の近くには、威海衛戦勝記念碑(いかいえ)があります、よく見て探してください。
現在の威海市(いかいし)で山東半島の北東端の港湾都市で人口248万人、当時は清国の北洋艦隊の根拠地でした。

今上天皇と美智子妃殿下も、昭和53年10月5日に来島、参詣されています。
この時は、島の裏側にある「包が浦自然公園」が都市公園に指定、その除幕式に出席の為、来島されました。

特別史跡・名称 の石碑を見ることが出来ます。
大正12年(1923年)史跡・名称天然記念物保存法により、全島が「史跡・名称」に指定
その後
昭和27年 文化財保護法により、全島が「特別史跡・及び特別名称」に指定される
現在全国に、特別史跡(63ヶ所)・名称(36ヶ所) と名のつく場所は「36箇所」あり、その内同時に指定されているのは
宮島を含め「9箇所」となっています。更に国宝・世界遺産に指定されているのは。3か所(宮島。銀閣寺・醍醐寺三方院)のみです
関東で有名なのが、①小石川後楽園  ②浜離宮恩賜公園 です。
後に、文化財保護法は昭和29年(1954年)、昭和50年(1975年)、平成8年(1996年)に改定が
行われています。
昭和24年(1949年)1月26日早朝、奈良県斑鳩町の法隆寺・金堂が堂内より出火、金堂壁画(国重要文化財)
にあった「釈迦」「薬師」などの群像を示す大壁画4面、と各種「菩薩像」「を描いた小画の計12面の壁画
のほとんどの「色彩」を喪失する。この火災をきっかけに昭和25年「文化財保護法」が成立した
金堂壁画は焼けても「国宝」の上をいくという意味で至宝」と呼ぶ

特別史跡・特別名勝の碑を過ぎると、右手に海岸通り、左手に「みや離宮」のホテルを抜けますが、ここの通りの舗装をよく見ると
以前は「黒い色をした舗装道」が現在は「白っぽい舗装道」に変わっています。気が付きましたか、2018年の3月に変えました。
遮熱性舗装」と言い、道路の表面温度を約5度下げる事が出来るそうです。現在2020年の東京オリンピックに向け、東京でも工事を
進めています(マラソンランナーの為とも言われています。ヒートアイランド現象を和らげる、とも言われています)。
良い事と思いますが、問題もあります、それは地表から1.5m上の温度差は約1度しかないという事です。
小さな子供さん、ベビーカーでの来島者にとっては朗報と思いますけどね、
なお、みや離宮の前は、以前 九州の別府に向かう「定期航路」が発着する場所でした

大変大きな(長さ7.7メートル 幅2.4メートル)大杓子が、商店街通りにありましたが、現在はおもてなしトイレになっております。大杓子は現在etto宮島交流センター(元の宮島町役場です)正面玄関前に展示してあります。
おもてなしトイレの隣には、宮島郵便局がありますが、この正面には「明治時代の郵便ポスト(当時は色は黒)」が設置してあります。また宮島には
赤い丸い形のポストがあります。何か所あるか探してみて下さい


「大杓子」については、もとの宮島町役場跡地に建設の、etto宮島交流センターの正面に展示されています。
2021年4月1日に新しく、etto宮島交流センター(旧市民センター)がオープンしました。。
中には展望場所があり、眼の前に五重塔 千畳閣を見ることが出来ます。一度は立ち寄りたい場所です。

杓子について
誓真さん(俗名を木屋政次郎という)は、伊予務司(むし)城主、村上頼冬を祖先とする。
1662年(寛文2年)、木屋家初代の木屋太郎左衛門が広島の大工町に移住した
大工町は当時大工が多く、木屋家でも代々大工を営むようになり祖父の代からは
組頭を務めていた。
宮島に渡り光明院代16代住職「了単上人」の下で出家した。25歳の時光明院の隣地の
神泉寺の敷地内の「竹林庵」を住まいにし修行に勤めた。


誓眞大徳頌徳碑と誓真釣井を探してみて下さい
頼杏坪(らいきょへい)によって編纂された「芸藩通志」には以下のように記してある
「誓真といえる道心者、かつて種々の器物を作りし,木杓子尤も多し今も続けて作るものあり」
芸藩通志・・・・1825年(文政8年)に完成した安芸の国広島藩の地誌。
更には、頼杏平の「芸藩通志」には毎日200人以上の住民が 薪作りの為に山野に入り込んでいた。明治19年には
山肌の森林土壌は荒廃がその極に達していた。その後明治・大正・昭和と100年に及ぶ保護育成は森林の回復に大きく寄与する

神泉寺にあった「阿弥陀仏」は、東京西巣鴨にある大正大学礼拝堂に安置されている。
また[二位の尼木造]は宮島歴史民俗資料館に安置されている。

天明の大飢饉(1782-1788)による人々の困窮は宮島も例外では無く、誓真は自ら
托鉢をして回り得た財を投じて島内に10箇所の井戸を掘る、さらには道、石段を築いたり
と町のインフラ整備に尽力をしている。その功績は大いに評価され、1791年(寛政3年)
誓真50歳の時,広島藩から「賞銀」を与えられている。
1800年(寛政8年)、59歳で亡くなる。

1791年(寛政3年)4月、お役所から御触書が出された、主旨は「富くじの廃止」であるが
その中に「手仕事の産業は楊枝以外は何物も見当たらない」とあり、富くじ廃止により
島民の生活が困窮しないように手細工を宮島の産業にしていく必要がある。と言うものだ
廃止により、これらの配当金や藩からの扶持米(藩主から家臣に給与される米「俸米」)
が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られることとなる。
その為島民の多くは「山師」になり、手先の器用な者は杓子等木工細工の職人になる
「山師」・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人

大正~昭和にかけて、杓子職人は50人以上で推移する(明治30年には70名いた
大正15年・昭和元年(1926年)日本の人口は約6000万人、この時の杓子の年間出庫数
12、000万本。正月には家庭で新しい杓子を使う習慣があった為、12月は特に多忙であった。

明治以降の宮島杓子 1
寛政3年(1791年)当時は宮島のお土産と言えば「五色箸」と「色楊枝」のみで、厳島神社参拝者に
対する土産物となっていた。
安土桃山時代の天正年間(1573-1592年)から厳島神社で執り行なわれるている、御楊枝献上
の神事に準じて作られたもの。日頃から来島者が土産物として持ち帰る物が非常に少ない事を残念に
思っていた誓真は、役所からの通達もあり「杓子」を製作し、町民に模範を示した。ゆえにこの杓子を
「誓真杓子」と呼んだ
「五色箸」「色楊枝」・・・五色箸は箸に色をつけたもの、同じく色や飾りをつけた、色楊枝共々宮島土産となる
**御楊枝献上・・・現在でも厳島神社で1月4日に行われている。御楊枝とは白木の箸の事
「島のかおり」によると、明治22年の島内の様子は、
杓子職人「飯杓子」30名 匙杓子「さじ」13名(合計43名)いた
(その他、轆轤細工職人、竹木工、陶器工、彫刻工、塗り師工、全部で80人いた)
その後「芸備日日新聞」によれば
明治30年(1897年)になると、杓子工70名余で組合を作る(70名余の職人がいた

「島のかおり」・・・・・・・宮島の産業沿革史
「芸備日日新聞・・・・・明治21年(1888年)から昭和23年(1948年)まで刊行された。 広島の地方紙

明治37年(1904年)出版の「厳島案内記」によると
竹木細工190人、轆轤師100人杓子削(匙さじ類を含む)60人、産物店54戸
旅人宿42戸、大工職65人、渡船業者38人、飲食店30戸、案内者20人、穀物商18戸
彫刻職18人、樵夫(しゃふ)17人。   *樵夫(しゃふ)・・・きこり、森林伐採で生計を立る人

以上の事から、明治時代、島内には60人~70人の杓子職人がいた事が分かる
宮島での杓子の発達には「明治維新」が大きく影響している。
明治5年(1872年)、「冨くじ」が国内で全面的に廃止される。これにより配当金や「藩」
からの扶持米が打ち切られ、島民は経済的な自立を迫られた
その多くが「山師」になり、手先の器用な者は杓子等の木工細工の職人になる。

富くじ・・・・1700年頃江戸幕府が始めて寺社に限り公認し、許可された寺社が修復費用調達のの手段として
発売した。寛政3年(1791年)に一時廃止となったがその後復活し、明治になり全国一律禁止になる
扶持米・・・・主君ら家臣に給与される米
山師・・・・・・山林の伐採や立ち木の売買を取り仕切る人。

「島のかおり」には以下の様に記述あり
大正15年(1926年)昭和元年、日本の人口は6000万人、杓子の年間出荷数が約1200万本(約234、000円)。
(* 平均家族を4人とすると、約1500万世帯、この時1200万本の杓子であるから、約8割のシエアー)
当時正月には各家庭で新しい杓子を使用する習慣があった為、特に12月は正月を迎え多忙であった。
この時の「挽き物(主に盆)」は約40万組出荷で金額は約80万円(単価2000円)であった。
杓子は一把・二把と数える。 1把は200本   単価は400円/1把

明治~大正にかけて、宮島にあった杓子問屋は10軒前後、そのうち2軒が古く
1軒は「宮忠」・・・・初代宮郷忠兵衛の父親、宮郷保兵衛が「山師」との協力により、
材料を島外から持ち込む道筋を作る
1軒は「宮豊商店」・・・現在は饅頭製造元「ミヤトヨ本店」として営業
現在当主で5代目は宮郷武氏
昭和50年(1975年)問屋業を廃業、紅葉饅頭の販売を開始

当時の宮島の名物と言えば、「五色箸」と「色楊枝」のみで、日頃から来島者が土産物
として持ち帰るものが非常に少ないと残念に思っていた「誓真さん」は役所からの通達
もあり杓子を製作し町民に模範を示した。この杓子は「誓真杓子」と呼ばれた。

大杓子
昭和53年島根県出雲から、長さ13メートルケヤキの原木を1300万円で町が買
これを10mの長さにカット、2年乾燥、荒仕上げ、6ヶ月乾燥 その後制作にかかる
宮島で親しまれている唄に、「安芸の宮島、回れば七里、浦は七浦七福神」
の「浦は七浦七福神」から7.7メートルにした
杓子職人「羽山忠(ただし)」氏により制作された。顔の部分の3枚をつなぐ
ボルトを埋め込むための穴あけに苦労したとの事(制作は包が浦の作業場)
杓子完成後は桟橋をスタートして町内を練り歩いた

長さ7,7m 顔の部分上下2,7m 重さ2,5トン 材は樹齢270年の 欅
製作期間2年10ヶ月 製作者は 宮島細工共同組合 昭和58年(1983年)に製作
作ったはいいが、設置場所が無く、しばらくは「倉庫」に眠っていましたが、平成8年に
世界文化遺産に認定されたのを契機に現在の場所に展示されました。
現在、宮島島内に来島される方々をお迎えする「コンベンションホール」を旧宮島庁舎です。
高さを7メートル低くし(景観が良くなる)(2019年)に
オープンしました。

この「コンベンションホール」の一画に「大杓子」を展示します。それまでは商店街から一時倉庫に保管いたします。
跡地には「企業協賛による、トイレ」が出来上がります。これにより、今までご不便をかけていた「トイレ」の問題も
少しは解消するのではないかと思われます、なお観光案内所も同時に出来る予定です。ちなみに総工費は約1億2000万円です
宮島の伝統工芸である「宮島細工」を後世に残すと共に、杓子発祥の地である、宮島のシンボルとして製作しました。
江戸時代には「色楊枝」「五色箸」など土産物としてありましたが、それ以外には主だった「土産」はありませんでした。
宮島の恩人と言われる「僧誓真(そうせいしん)」が厳島弁才天がもっている「琵琶」の形から杓子を考案したと伝えられ、島民に作り方を伝授しました。
世界一の大杓子。伝統工芸である、宮島細工を後世に残すと共に、杓子(しゃくし)発祥に地である
宮島杓子の特徴は、飯粒が付きにくく、木の匂いが飯に移らず、又熱によって変形しない。
最初の土産は「色楊枝」「五色箸」、特に色楊枝は参拝者は必ず買って帰るといわれた
色楊枝・・・・頭には「厳島八景の灯篭」「鹿」「猿」「桜」などが細工されている。しかし明治30年(1897)頃に姿を消した

挽物(ひきもの)は県の文化財で、轆轤挽き=刳物(くりもの)=彫刻、と移る
この時宮島に「轆轤技術」を伝えたのが、「小田権六」で1848年から1854年まで6年伝える
光寺には小田権六の記念石碑があります、
又彫刻については、江戸時代末期に甲斐の国(山梨県)の彫刻師、「波木井昇斎(はぎいしょうさい)」
が木彫りの技術を伝えました。
明治20年(1888年)勧業博覧会で受賞し「宮島彫り」は全国に知られるようになりました。
宮島彫りは、「浮き彫り」「しずめ彫り」「線彫り」などがあります。

今 島内には「轆轤屋」が1軒あり、また 三代目で木工芸 日本工芸会会員の方の土産物店の店の奥で
材料から轆轤 製作まで一貫製作している「店」が1軒あります。探して?

海岸通りの「有の浦」に出てきました。




1枚目と二枚目は伊那路場所です、2枚目には13段の雁木が見えます。昔はこの場所には雁木が13段ありました(上卿雁木と言う) 後述しています、
3枚目と4枚目は同じ場所ですが、4枚目には「柵」を見る事が出来ます。本音では商店街にお客様を呼び込みたいとの願いがあった様です
なお、この道は現在「貴賓通り」と呼んでいます。
貴賓通りは、桟橋から商店街に向かうと、左折が商店街、直進が貴賓通りとなっています(貴賓通り入口の入り口が鉄柵があり、正月三が日は開きます)

その昔、厳島八景の一つに数えられたところです(有ノ浦客船)。
松原の沖に白い帆を張った多くの船の美しさを、                「つなぎよる たよりや有の浦波に 泊定むも 船ぞ数そう」 風早参議公長卿 と読んでいます。
参議・「勅を奉じ宮中の政事を参議する意なり」とある。大臣、納言に次ぐ重職で8人(少数精鋭)。 1185年(文治元)3月24日(新暦4月25日)決戦後、壇ノ浦で平家が源氏に敗れた後、入水した二位の尼(時子)の遺体が有ノ浦
辿り着いたと言われ、別名 「尼の洲」とも言う、島民は二位の尼(時子)の屍を「神泉寺」に弔い、二位の尼木像を祀っていましたが
廃寺となり、光明院に移されました。神泉寺は「時寺」とも呼ばれていました。(石碑あり)。安徳天皇(言仁親王ときひとしんのう)
現在は二位の尼の御霊は、三翁神社に祀られている。(木像は神泉寺ー光明院ー今は歴史民俗資料館に展示)
この時生け捕られた平家一門は、平高清(六代・妙覚で北条時政に捕まる)ら男38人(打ち首)、女官43人(女官は出家)
(六代)は一時出家して許されるが、頼朝の「頭は剃っても、心は剃るまい」と言う命令で殺された(14歳の時)

徳子(とくし 建礼門院)は生きて京へ送還され大原「寂光院」で安徳天皇と平家一門の菩提を弔った。
寂光院に幽閉された建礼門院に仕えたのが、「藤原信西の息女、阿波内侍あわのないし)」が日々の暮らしの足しにする為
洛中へ「柴売り」に出ていたのが、「大原女(おおはらめ)」 の起源とされる。

三種の神器
後鳥羽天皇即位、・・・安徳天皇が退位しないまま、後鳥羽天皇が即位したが、天皇の象徴である三種の神器が無いまま
治生を過ごした後鳥羽天皇にとって、この事は一種のコンプレックスになり、これを克服する為に強行的な政治姿勢を行い
これが「承久の乱」へと繋がった遠因になる。
後鳥羽天皇は太上天皇(後白河法皇)の院宣を受ける形で践祚(せんそ)し、その儀式は剣璽関係を除けば譲位の例
に倣って実施された。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、同様に神器のないままに実施された
既に上皇になっていた後鳥羽天皇は奇しくも三種の神器が京都から持ち出される前月に伊勢神宮から後白河法皇
に献上された剣を宝剣とみなすこととした。 太上とは、最上・至高の意味
践祚(せんそ)とは、天子の位を受け継ぐこと "院宣(いんぜん)とは天皇の発する宣旨に相当する
"
天皇が移動するときは必ず、八咫鏡(やたのかがみ)を安置した「内侍所(ないしところ)」と「宝剣」「勾玉」も共に移動しました。

壇ノ浦での戦いの模様
船は源氏方が3000艘、平氏方は1000艘で、唐船も少し混じっていた、(合計4000隻になるが、本当か?)
元暦2年(1185)3月24日朝、長門の赤間が関 壇ノ浦で陣を合わせた、間隔は3,58km(古代尺で30町余り)
源氏の船は潮に向かい押し返される、平氏の船は潮に乗って進む、平氏で阿波(徳島)の田口重能(しげよし)は
子息の教能(のりよし)を生け捕られ、仕方がないと思ったのか源氏に寝返った。
平氏は身分のある者は「兵船」に乗せ、「唐船」には雑兵を乗せて、源氏が唐船に攻め入れば取り込めて討ち取る
手はずであったが、この寝返りにより目算が狂う、源氏は大将軍が隠れ乗った兵船に攻め込んだ、
やがて四国・九州の兵も背き、天皇に弓を引き主君に太刀を抜く、源平の国争いも今日限りと見えた。
当日は午前すぎ西流れが最強となり、やがて東流に反転、同11時過ぎに最強に再び反転して午後5時過ぎ
西流が最強となった。
平氏は午前中から動き、当初東流にのって優勢だったが、源氏はよく防戦、午後3時過ぎから逆転した西流
にのって反撃平氏を壊滅させた。これは「玉葉」(九条兼実の日記)の「正午開戦、午後4時終結」と符号する。
鎌倉時代の歴史書「吾妻鏡」には、按察局(あぜちのつぼね)が安徳天皇を抱いて入水二位の尼
宝剣(雨の群雲の剣)を抱いて入水した、徳子(建礼門院)は傍で見ていただけとある。       
後に建礼門院(徳子)は、京都の「寂光院」で余生を過ごす。   
 天皇家は肉親を抱かない、お付(乳母・傅役(ふやく)に指示するだけ(宮廷の仕組み)
ちなみに、今上天皇陛下は3歳の時に親元から離され「傳育官(ふいくかん)」に育てられる
「愚管抄」では神璽(しんじ)、宝剣、安徳天皇を抱いて入水とある (宮廷の仕組みである)
語り本系」(覚一本)と、読み物本系」(吾妻鏡)の大きく分かれる
語り本系   「覚一本」(平家物語・琵琶法師により全国に?伝えられる)
 清盛の命令で焼き討ちされた、南部の寺院を復興する国家的事業の中で成立する
 内容・表現には異なる異本が数多くあるが、最も流布したのが「語り本の覚一本」である
読み物本系  「吾妻鏡」に代表される本
天皇が移動する時は必ず「八咫鏡(やたのかがみ)」を安置した「内侍所(ところ)と宝剣・勾玉も共に移動する
上卿雁木(石階段
明治維新前までは厳島神社でも最も重要な祭事、御鎮座祭に際し、安芸国府中(現在府中町)
から、勅使(奉幣使ほうべいし)勅使代行役を務める、上卿(しょうけい)が来島する時にここから上陸していた。
勅使・・・・天皇・皇帝・王 など 国の元首が出す使者の事を言う
上卿は棚守・祝師(ものもうし又は、ほうり)などと共に、厳島神社を司る主要な神職の一人である
御鎮座祭・・・・12月初申日(さるび)に行われる。市杵島姫命が神烏と共に御降臨され、御 鎮座地を探される
に辺り、この地を治める佐伯鞍職(さえきのくらもと)に神勅が下った 。
上卿屋敷・・・・現在の「林家」で、大聖院に向かう通りにある

ちなみに、江戸時代の広島藩の人口は以下のとおりである。
広島藩の人口 第8代藩主 浅野斉賢(あさのなりかた)の時代

文政12年(1829年)芸藩通志 刊  文政13年(1830年)58歳で死去

浅野藩は12代(浅野長勲ながこと)まで続く

   戸数   人口   牛数   馬数     船数  1戸の牛馬の保有数
広島藩  154.235  726.113   64.408   9.907    7.499

安芸国  113.630  546.635   41.639   8。717    6.404

厳島    1.028   3.734     0     0      79
 
豊後国  40,605   179,478   22,769   1,190    1,095

神の島と言われた「宮島」、一番最初に島に住み始めたのは、内侍(ないし、他の神社で言う御子の事 )で平安時代になります。
その後「社人」「供僧」は鎌倉時代後期に移住し始め、南北朝にほぼ完了しました。
  
なお「島で行なってはいけない事を書いておきます
  
厳島の禁忌
古くから島自体が「神」として祀られている。鎌倉時代、神職が住みつき、南北朝時代をこえるころから
商人を中心に人々が生活を始めたが、神の島へ住むのであるから様々な禁忌のもとで生活を強いられた。
厳島服忌令(宝永7年1710年)」は厳島の「禁忌」を集大成したものである、次の様な禁忌が示されている。
① 妊婦が産気づくと、対岸の大野赤崎に渡し、産後50日を過ぎるまでは島に帰ることを許されなかった
② 島の東西には血山(あせやま)が設けられており、月経中の女子や赤碕から帰ってきた人を当分ここ
   で過ごさせた。 イ、お産の場合は25日。 ロ 月経の場合は9日など、と定められていた
③ 死人が出るとただちに、神域を通らない様うにして赤崎に運ばれた。勿論墓は「赤碕」に建てたから
  島には「一基の墓」も無い。これは今も存続している。
④ 鹿は「神鹿」として古くより保護されている。かつては「鹿を殺した者」は屍を背に負い、引き回しの上
   追放された。犬は鹿の敵であり飼育を禁じられた

⑤ 農耕は「神体」へ鍬を入れる事として、許されなかったから、島民は生産に恵まれなかった。
  誓真と言う「僧」は大願寺弁才天の「琵琶」にヒントを得て「杓子」作りを島民に教えた。

商店街の出口には、大きな注連柱(石柱)があります。よく読むと判るのですが、海側の石柱には「回廊蘸影現龍姿(かいろうさんようげんりゅうし)」
山側には「華表柱深休鶴翼(かひょうちゅうしんきゅうかくよく)」と書いてあります。
「回廊蘸影現龍姿」とは潮が満ちてきた時の神社の回廊の海に写る影が竜神の姿に見える。
「華表柱深休鶴翼」とは大鳥居が海に深く建ちその姿はまるで鶴が羽を広げて休んでいる様に見える
「華表」とは大鳥居の事です。
厳島神社の三女人は「竜神信仰」より生まれた神。

ここで、観光客の皆様方から、必ずと言ってもいい程質問を受ける事があります。それは有の浦から対岸に見える白い建物の事で
「あの建物は何ですか?」と言う事です。
あの建物は「海の見える杜美術館」と言います。簡単に説明を致しますと、以下の様になります

海の見える杜美術館
瀬戸内海を一望する自然豊かな高台にたつ美術館です,「竹内栖鳳」を中心とした日本近代絵画、
ヨーロッパの香水瓶、中国清朝の版画や、日本前近代の物語絵巻などの特徴あるコレクション
を展示している。年に3〜4回の展覧会を開催し、コレクションを公開している。
創設者・梅本禮暉譽の「美術品は私有するべきものではなく、公のものとすべきである」
という理念に基づき、1981年「王舍城美術寳物館」として現在の地に開館し、2005年には、
「海の見える杜美術館」と名称を変更。

コレクション  
① 竹内栖鳳  ➁近代日本画  ③浮世絵  ④岩倉具視関係資料  ➄書跡 ➅中国版画
➆ 香水瓶  ➇物語絵
など 全166点の所有あり
以下 主なコレクション

1、日本 中世の伝来品  古画・天皇の書と古筆  35点
主なもの
奈良時代 3 点 聖武天皇(賢愚経 大聖武)
平安時代 6 点 平頼盛(紺紙金字無量義経断簡(宮島切) 
  平行盛(法華経一品、和歌二首懐紙)
鎌倉時代 1 点
室町時代 6 点
宋後期 1 点
南北朝時代1 点
桃山時代 5 点  千利休(消息)
江戸時代 12 点  狩野探幽(文殊菩薩2点)
   後陽成天皇(柿本人麻呂像自画賛)
計 35 点

2、日本・近世の絵画(1) 55点
江戸時代 51 点          狩野春雪(十二類絵巻、厳島図、厳島祭礼図)
            (厳島和歌浦図、厳島吉野図、他12点)
           喜多川歌麿(三美人図)
           鈴木春信(風俗四季歌仙 卯月 雲外郭公 他3点)
           歌川広重(道中膝栗毛 参宮道小ばた、他10点)
日本・近世の絵画(2) 与謝野蕪村(奥の細道画巻、他5点)
           丸山応挙(十二支図)
明治時代 4 点 小原枯邨(白梅に小禽、紅梅に鶯、向日葵、鶏)

3,日本・近代日本画と岩倉具視関係文書
足立美術館は「横山大観」をコレクションの中心としているが、
海の見える杜美術館では、「東の大観 西の栖鳳」と評された、竹内栖鳳の絵画
見ることが出来る。
江戸時代後半(文久3年) 塩川文麟(蘭亭曲水の図、司馬温公独楽園之図)
明治3年~20年     幸野楳嶺(孟母断機図、郭子儀図、他2点)
明治36年~昭和15年 竹内栖鳳(羅馬之図右隻、左隻、他10点)
江戸時代末期~明治初期 岩倉具視関係文書

4,中国版画
秦の時代(23点)
雍正10(1732年)年 (1点)

5、 ガラス工芸の美  香水瓶
1936~1999年 バカラ社製 3点
1912~2002年 ラリック社 4点
1846~1852年 タハン社  1点
1880年頃 ポシェ・エ・デユ・クルバル 1点

などをコレクション 展示しています。

宮島口から、車で7分位の距離にあります。

現在は、コロナの為休館となっています





















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