「分離唱」という名前について、同じような質問をよく受けますので、それについて佐々木基之先生から聞いた答えはありませんが、わたしなりの考えをまとめておこうと思います。
分離唱を体験された方も、この「分離」という言葉に戸惑う方が多いようです。
やっていることは「分離」と反対なのに、なぜ「分離」という言葉を使うのか、と。
最近では特に「統合」という言葉がよく使われるようになりました。
スピリチュアル業界で流行っていますね。
アレクサンダー・テクニークでは「じぶん全体」とか「全てを含んで」とか、よく使われていると思います。
「全体」とか、「ひとつ」とか、細分化されすぎて訳が分からなくなった現在、この情報は皆にとても必要なものだと思います。
でも、これって元々わたしたち日本人の持っていた感覚ではありませんか?
もしくは、これで苦しくなったことはありませんか?
まわりに「合わせる」ことに敏感になっている人の多いこと。
言葉は言葉そのものではなく、どう捉えるか、で意味が反転してしまうことがあります。
「全体」を意識するあまり、自由がなくなる。
「個」を意識するあまり、全体が見えなくなる。
わたしが思うには、「統合」「全体」という言葉を使う場合、根本には「私たちは個の存在である」という前提があると思います。
反対に、「分離」という言葉を使うとき、「私たちはひとつのものである」という前提があると思うのです。
これを音楽の「和音」「ハーモニー」に当てはめた場合、
音を重ねたものが和音、という考え方が主流にあると思います。
でも「分離唱」という言葉の裏には、ひとつの響きを作っている個々の音に氣づく、そんな意味があるのだと思います。「ひとつ」であるのは当たり前、という前提ですね。
言葉にすると「分離」が起こります。
細かくすればするほど、分離感は強くなります。
理解は言葉ではなく、「直感」を使え、と佐々木先生はおっしゃっていたのかな、と思います。
まさにスターウォーズ、「考えるな、感じるんだ!」の世界ですね。
ちなみに現在学んでいる魂合気、カタカムナ も「直感で理解する」、そんな世界です。
感性を磨く、現在のわたしの目標です!