一意 | Let's play!

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アレクサンダー・テクニーク教師 かつみの日常のブログです。

魂合気の大野先生から、またまた為になるお話を伺いました。

把握しきれていないのですが、わかるところまでじぶんの言葉にしてみようと思います。

 

武術では「一意」(多分この漢字で良いと思うのですが)、という言葉があるそうです。

 

いち い [2]【一意】(三省堂大辞林)

 ( 名 )

意味や値が一つ確定していること。

 ( 副 )

ひたすら一つの事にだけ心を集中するさま。 「 -学問専念する」 「勘次は-只仕事の手後れになるのを怖れた/土 節」

 

 

 

合気でうまく行かなかったとき、大野先生が「一意を置くんだよ。」と言われました。

 

「いちい?」

と聞いたことのない言葉でしたが、どうやら武術系で使われるもののようです。

調べてみましたが、どうも大野先生の言うこととはピントがずれている気がします。

 

わたしは、これはアレクサンダー・テクニークで学んだものとすごく近いと思いました。

もしくは、わたしが学んできた言葉よりも、ずっと腑に落ちます。

 

わたしたちが動きを作るとき、手をどうやって動かす、とか足をどうするとか以前に、

「こうしたい。」という意図があります。

それを、私たちの学校で学んだ時には「ウィッシュ」、Wish、「望み」と呼んでいました。

 

どんな無意識の動きであっても、「こうしたい」というものが無ければ、私たちは動きませんよね。

「痒い」とかだって、立派な理由です。

それが無ければ、ただの機械になってしまいますよね。

 

からだはその願いを叶えるために協力してくれます。

 

ただし、現実はずっと複雑です。

「こうしたい。」という思いを辿ってゆくと、元の願いから遠くなってしまっていることもしばしば。

 

例えば

「大きい音を出したい。」

 

どうして?

「大きい音が出ないから。」

 

なんて会話をしていたら、自分の本当の望みにはなかなか出会えません。

でもずっとそのことだけを考えていたら、大きい音を出すことが自分の目的になってしまって、

自分の望む音楽を表現することすらどこか遠くになってしまっていることもしばしば。

 

頭の中、脳味噌はとっても忙しく働いているのです。

「大きい音を出すには」とか、「手をこういうふうにして」とか。

こんな状態では、からだが協力するには忙しすぎる。

 

現実にこんなことありませんか?

たくさんの細かい指示をいろんな人からもらって、行き先がわからないこと。

学校で、会社で、

受け取る方は混乱してしまいますよね。

 

 

そしてその時大野先生が付け加えたのは、

「念を置いちゃダメだよ」

という一言でした。

 

「一意」と「念」を組み合わせて教えてくださるのは、絶妙です。

「念」というのは重たくて、執着しているもの。

 

「頑張ること」が大切だと思い、わたしはこの「執着」は良いものだと思っていた時期があります。

それと「努力」を組み合わせて考えていたと思うのです。

いやそれが、自分の「執着」だとは思っていなかったです。

 

それは自分を不自由にしていました。

 

本当の願いと、からだとこころの自由。

実はこれだけなんじゃないかなあ、と思います。

 

 

その場、その時の一瞬にしかない「願い」を「一意」と呼んでみたらどうでしょう?

それはすごく「軽い」思いだと思うのです。

 

だからわたしは「一意を置く」という言葉に感銘を受けました。

 

 

わたしは、わたしたちが忘れかけている何かは、とてもアレクサンダー・テクニークと同じものだと感じています。

この探求はやめられません。

 

 

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