知っていたけど、考えていなかったことのひとつは、感受性と脳の関係についてです。
音楽の話などを友人としたときに、「感受性が」、「感性が」などと言っていた気がしますが、果たして自分はどう捉えていたのでしょう?
生来その人に備わっているもの、その人の持っている感覚、変わらないもの、的な発想をしていたと思います。
他人がどのように感じているのかなんて、実際はわからないものですが、音楽や芸術はその辺りを楽しんでいるように思えます。
その人がどう感じて、どう伝えるのか、それを受け取った人はどう感じるのか。
カタカムナで使う「相似象」という言葉は、「フラクタル」とも言うようですが、宇野多美恵さんの文章では、ものを説明するときに言い換えるのも、「相似象」であると言っています。
私たちは似たようなもので言い換え、その本質を伝えるのに「相似象」を使うと。
音楽やその他の芸術もそう言うものではないでしょうか。
さて、わたしがとても感動したのは、以下の宇野多美恵さんの文章です。
生物の脳とはどういうものなのか、脳と感受、思考との関係をわかりやすく説明されています。
そもそも、生物の脳は、感受したものを判断し、適切な行為を指令するものである。(本来は、感受がなければ、脳は働き出さない。)
早い話が、美しい風景や珍しいものを見た者(感受した者)は、それを言葉でいろいろ説明できる。しかし、どんなにうまく説明しても、他人にそれを見させる(感受させる)ことはできない。おいしいものも、どんなにうまく説明しても、他人にそれを味わせる(感受させる)ことはできない。
しかし、美しい風景やおいしいものなら、実際にその場に連れて行き、食べさせるなどして、経験をさせればわからせることはできる。(百聞は一見にしかず。)ところが、思想の経験は、いくら教えられてもわからないばかりか、その人に会い、その人の言葉を直接に聞いたとしても、自分が実際に体験しない限り、本当にわかることはできない。
自然の動物は、皆、感受に基づいて、脳が働くという「順序」で生きている。感受なしに脳が働くということは無い。
しかるに、進化した人間の脳は、今、直接の感受がなくても、他人から教えられたり、自分の過去の経験の記憶など、内外環境の刺激によって、いくらでも働くことのできる能力を持ってしまった。(実際に見なくてもわかった気になり、本当に体験しなくてもわかった気になれる。)
感受から脳の成長が始まる、ということをわたしは見落としていた気がします。
脳の指令のことばかり、意識が行ってしまいがちでした。
だから、感受することは、生物としては、大なり小なり常に行われているんですね。
ただ、それ以上の進化が起こったこと、それによって失ったものがあることを次に述べられているのですが、これはまた次の機会にまとめようと思います。
(とはいえ、ほとんど引用しただけですが。しかし、宇野多美恵さんの文章はなかなか手に入りにくいので、自分のためにここに残しておこうと思います。)