ヲシテ文献 にあるヰクラムワタとヰツイロの関係について

これまで ヲシテ文献 にあるヲシテ哲学(縄文哲学)の核であるカミの仕組みについて、数学者岡潔による「2つの心」とある科学者が述べた「別の次元軸にかかる実体」などとの比較によって考察して来ました。その結果、5月頃までには精神科学の概要がわかりました。

概要を示したのが次図です。2019年5月10日の記事「物質的自然 は映像である 」を参照ください。

図1

ただし、この図では「ムワタ」の詳しいことがわかりません。人は何故に「物」がわかり、欲求が生じるのかがわかりません。そこで、 ヲシテ文献 に示される次の2つについて考察しました。

  1. ヰクラムワタ ヲ ネコエ ワケ
  2. ヰツイロノ ハニモテツクル モリノカミ 、 ミメカタチ

この2つの文は、いずれもホツマ辞典:池田満著展望社刊p226にある「ヰクラムワタヲの構成表-1」に示されています。この構成表は概要であり、それぞれの働きと組み合わせはよくわかりません。ヲシテ文献のみを参考に考察しても限界があると感じます。


ヲシテ文献 に示される哲学がまさに本当であるならば、他の資料にも同じ構成があるはずです。それと、ヲシテ文献が焚書され漢字を国の文字と定めてから千年以上の歴史があります。現代の日本語には、渡来系の文化が層状をなしています。ですから、ヲシテを直接に私たちの国語とするには無理があります。ですから、冒頭に示した岡潔の言葉やある科学者の言葉を参考に現代の言葉で精神科学を再構成すべきだと感じます。


ホツマ辞典に示された構成表には、「ヰクラ、ムワタ」のほかに、「アラミタマ、ニコタマ、タラノヒ、ココロバ、ミヤビ(アワレエダ、ナサケエダ)、タマノヲ、ハ(シム)、ネ(シヰ)、フクシ、ヨコシ、ナカゴ、キモ、ムラト(イロ)、ワタ、ムワタ(ヰワタ)」の言葉が配置されています。その関係は複雑です。詳しくはホツマ辞典を参照ください。この複雑な関係の内、タマ+シヰというのはわかりました。ミヤビ(アワレエダ、ナサケエダ)もわかりました。ヰクラについては、図1に示したとおり既にわかっています。

ムワタとヰツイロの関係がわかりません。これを図2にしました。

図2

タマは、岡潔が述べた第2の心に等しいと考えます。シヰは強いるのシヰで、生命維持の欲求です。シヰには5つのイロからなると考えます。イロというのは人が持つ「願い」というべきものです。生命維持の欲求は5つあるのではないかと考えます。これらは「層」をなしていることになります。ベースにタマがあり、その上に欲求の源である5つのイロがあります。さらにヰワタ(5つの物がわかる)があります。このタマと「ヰワタ(ヰツイロ)」をムワタと数えると合理的です。こうしてタマ+シヰの構成があって、欲求を持ったタマシヰになります。下層から「タマ ヰツイロ ヰワタ」とあって、その括りによってシヰあるいはムワタと呼べば数の整合がとれるはずです。


補足10/25 シヰは岡潔の云う私わたくしという心で、5つのイロ(願い)から成ると考えます。ワタは五感の元とでもいうもので5つあります。5つのイロと5つのワタで私の心(シヰ)ができると考えます。都合、タマ+(5つのイロ:5つのワタ)で「タマ+シヰ」と考えます。これでヰツイロとムワタの関係がわかります。ヰツイロはヰワタと相まって、「五感でわかる」が備わると考えます。そのベースにあるタマがあります。だからムワタと数えるのではと考えます。まだ、疑問はありますが、現状そう考えます。


岡潔は第1の心について次のように述べています。「【1】2つの心」より。

人には、ここから何時も言わなきゃ仕方ない、心が2つある。心理学が対象としている心を第1の心ということにしますと、この心は前頭葉に宿っている。それから、この心はわたくしというものを入れなければ金輪際動かん心です。その代り、一旦、私というものを入れたら、「私は悲しい、私は嬉しい、私は愛する、私は憎む、私は意欲する」と、丸で笑いカワセミのようにうるさい。

私という心は、「笑いカワセミのようにうるさい」というのは、池田満氏による解説にある「シヰ」に等しいです。シヰは「欲しい欲しい」のシヰです。「強いる」のシヰです。 また、岡潔は第2の心について、次のように述べています。

第2の心。心は2つしかないのです。1つじゃない、もう1つある、第2の心。この第2の心は頭頂葉に宿っている。この心は無私の心です。私のない心。どういう意味かと言うと、いくら入れようと思っても私というものは入れようのない心です。それから、この心のわかり方は意識を通さない、じかにわかる。

これは ヲシテ文献 にあるタマに相当すると考えます。第2の心は、ヲシテ研究者である池田満氏によるタマ+シヰのタマに等しいです。第2の心がタマ第1の心がシヰと考えます。

動画1 2:30~ 以下に書き下します。

行き来の道という。タマとシヰがくっついている。タマは宇宙の源から来る。シヰというのは「欲しい欲しい」という生命欲求。「強いる」のシヰ。タマは心の主体。シヰは生命維持の欲求。それが結びついてタマシヰになる。タマシヰができたところに地球上の物質が集まって人体になる。人の生命が尽きると物質が離れて行って、タマシヰは分解し、タマは大宇宙の中心に戻っていく。「欲しい欲しい」のシヰは地球上に残る。それが生まれ変わりのこと。そうして、人は何回も生まれ変わってくる。

で、上記にわかる「人が持つ心の仕組みと働き」をまとめて次図に重ねようと考えます。

図3

映写機の一方が「ア」で、もう一つが「ワ」です。スクリーンが「ウ」に相当します。これでカミの仕組みの内に人の心の仕組みと働きを示すことができるはずです。図1と図2に示す内容を図3に重ねることはできますけれども、わかりやすく示すことはかなり難しいです。もう少しかかります。

 

冒頭の1.と2.の文の概略の意味です。ただし、管理人による解釈です。

2.ヰツイロノ ハニモテツクル モリノカミ 、 ミメカタチ

モリノカミのモリは、子守のモリのようです。我々が居る自然と解釈します。ミメカタチとは見た目と姿形のことと解釈します。ハニモテツクルのハニは固体の意味ですが、ここでは物質の元とでもいう意味かと思います。別の次元軸(E軸)を考えると「E軸上の実体」とでもいう意味になります。 ヰツイロは、上記の通りです。 まとめますと以下になります。

自然の観た目や姿形は、5つからなる生命維持の欲求が持つ実体から作られている。

このように解釈する根拠は岡潔の言葉から来ています。「【3】西洋の唯物主義」より。

大正9年に亡くなった山崎弁栄という上人がありますが、その人は心について大変詳しく云っていますが、その人の云うところによると、本当に実在しているのは心だけである。自然は心があるために映写されている映像にすぎない。そう云ってるんです。

下線は管理人による。 自然より先に心があり、その心があるために映写される映像だということです。心の仕組みと働きがあって初めて自然が成り立っているのです。だから、自然は人が持つタマとシヰにある働きによって現れている映像なのです。空間があって物質があるのではありません。先にあるのは心です。

1.ヰクラムワタ ヲ ネコエ ワケ

タマとシヰの仕組みと働きによって「ムワタ:物がわかる」があり、その上で「物と物の関係がわかる」があります。それがヰクラです。ヰクラとムワタをネコヱ(恐らく音素:聞き取れる最小単位。単独では意味はない。)にわけることによりヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)が出来上がっているという意味になります。

表1 出典:日本ヲシテ研究所

別の次元軸(E軸)にある心の仕組みと働きによって、現れた物や事を素直に「態(母音)と相(子音)」に分けたのです。 人は言葉によって思考します。心の仕組みと働きに合致した言葉(ヨソヤコヱ:アワウタ)によって思考する人は、最も健全であることを意味します。


参考まで。「現代日本語の語種分布」によれば、現代日本語の中で、和語(あるいは大和言葉)の占める比率は「33.8%~53.9%」だとされます。和語の元はヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)です。現代日本語を元に戻すことは不可能ですけれども根幹がわかれば、次第に増やすことはできるはずです。

それと、現代日本人と縄文人におけるDNAゲノムでの共通性は12%だとのことです。遺伝子情報より言葉の方が比率は維持されているということです。「日本人の祖先は縄文人か弥生人か DNAの分析進む」を参照ください。

如何に日本語の元となるヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)が堅牢であるかを物語ります。今後、3つの科学を象徴するミクサタカラ(タマ=精神科学、カガミ=社会科学、ツルギ=物質科学)が整備されるならばヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)の重要性が認識されるはずです。

 

追記10/23 以前も引用した「二河白道(にがびゃくどう)の図」にある「二河白道の譬え」には、「六根、六識、六塵(じん)、五蘊(うん)、四大」とあります。四大は、現代においては無意味ですので無視しますと、数は「五か六」です。つまり、仏教でのとらえ方として「心は5か6に分類される」ということです。漢字を使うと意味は曖昧さを増しますのでわかりにくくなります。 ホツマ辞典にも詳しくされていますけれど、矢張りわかりにくいです。2016年頃より考え続けてきた心の仕組みと働きは、何とかまとめられそうです。 映像として物質とは何かという根幹まで遡っていかねば物質科学は決してわかりません。

それと、二河白道の譬えに出てくる善導大師について、「失われたミカドの秘紋:加治将一著祥伝社」に面白いことが書かれています。この本に書かれている論理はほとんどが漢字の由来などを分解してこじつけているに過ぎません。余りに突飛な話しが多いです。それでも幾つかは納得します。

雲鸞という人がいて、その弟子が道綽(どうしゃく)です。そのまた弟子が善導です。p331から一部引用します。

一般には善導大師と呼ばれており、この人物が日本の法然や親鸞に、多大なる影響を与えた日本浄土教の父です。善導は唐の都、長安に出て『阿弥陀経』十万巻を写経し・・・

という経緯があります。親鸞の名の由来です。

「日本の親鸞は、パキスタン人、天親とトルコ系、雲鸞から一文字ずつ拝借した合体名ですね」

などとあります。上座仏教(小乗仏教)と大乗仏教はまるで異なる部分が多いとあります。この大乗仏教の成立の過程に西洋からの影響があるとこの本の大意は述べています。その証拠が書かれています。p276から。

「斉の都は臨淄りんしです。しかし、この古代都市が妙というより、これは仰天でありましてね」

望月は咳払いをして座り直し、遺跡を発掘した結果、実に驚愕すべき事実が浮上したのだと語った。

調査団の編成は、東京大学植田信太郎、国立遺伝学研究所斎藤成也、中国科学院遺伝子研究所の王瀝おうれきら日中合同である。彼らは周の春秋時代、すなわち紀元前五百年前後の臨淄遺跡を注意深く発掘、調査した。

結果を発表したのは二千年で、内容は強烈だった。

臨淄遺跡から発掘された人遺伝子(ミトコンドリアDNA)は、現代ヨーロッパ人に非常に近いことがわかったのである。

下線は管理人による。かなり前に「中国大陸には早くからヨーロッパ人種が居た」という記事を何処かで読んだ記憶がありました。ネット上にありました。それが「5 秦朝のユダヤ人 2/2」という記事です。

図4 出典:上記リンク先

同書より仏教の伝来にかかる伝搬図を引用します。

写真1 出典:上記図書p327より。

詰まるところ、中国大陸にはインド発祥の仏教が入ってくる以前にヨーロッパ人種が居て、そこには古いキリスト教(景教)の影響がすでにあったということです。そうした思想を含んだ仏教が日本に伝わったということです。経緯は複雑でしょうけれど、押し並べて云えばそうなります。

ずっと以前からの疑問です。キリスト教にある「天国と地獄」は、あまりに仏教の「極楽と地獄」に似ています。つまり、仏教の極楽地獄はキリスト教の天国と地獄から影響を受けたのではないかと考えてきました。 どうもそれは本当のことのようです。本によれば、それが浄土教です。納得です。池田満氏の著書のどこかにも景教の文字があった記憶があります。天照大神は女性で一神教の体をなしています。後から歪められたと考えられます。

この追記で言いたいのは、「心の仕組みと働きについて、仏教に根拠を求めることは間違い。」ということです。以前、仏教は多くの人手を渡ってきたので手垢が付いていると書いた記憶があります。よくわからずに書き加えた人がいたかも知れません。自分のあるいは主の思惑によって書き換えたかも知れません。それより、遙かに原意に近いヲシテ文献を読み解いた方が合理的です。 それともう一つ。恐らく「人類は時代とともに進化する」という発想は間違っているように思います。

 

追記10/24 「仏教の極楽地獄はキリスト教の天国と地獄から影響を受けた」に関して、池田満氏のブログに関連する記事がありました。『宇宙の創始の事「天地創造」』より一部引用します。

『古事記』はキリスト教的であるという事は、『定本ホツマツタヱ』 の始めの方をお読みいただいたらすぐ解る事であると思います。『ホツマツタヱ』の2アヤ~5アヤぐらいまでの、『古事記』の対応する箇所で即判明します。

『ホツマツタヱを読み解く』にも少しは述べました。『古事記』の成立した奈良時代には、遣唐使の行った長安には大秦寺が、空海(弘法大師)などの逗留地のまさに1km程にも離れてない目と鼻の先にあったのです。遣唐使は西暦630年から、空海の渡った西暦804年までで、18回も渡海してます。景教の影響が、及んでくる事を、これは無かったということはどうしても考えられない状況がここにあります、ね。

8世紀初め頃に書かれた『古事記』、ここには、天之御中主神を主神にして、整然と役目が定められた形で、「神」達が並びます。どういう「神」があって、どう言うように祭っていったら良いか? のテーマに依る記述です。拝むためにどうするか? 「神」様の解説本です。

たった4か月間で書いたのだと、序文で太安万侶が自慢してます。これが『古事記』です。

でも、本当は、翻訳前のヲシテ文献には、アマテルカミはご存生であられまして、雲上の「神」ではなかったのでした。

「カミ」は尊き偉大な指導者の意味でしたので、雲上の「神」は誤訳だったのでした。『古事記』の最大の誤謬は、生き(生命)のあった人物の息を殺してしまって、「神」に祭り上げてしまったことでしょう。

池田氏によれば、人皇として即位した神武天皇の頃より、”神頼む”行為が盛んになってきておりました。それが渡来系の人たちによってもたらされたということしか考えられません。

図5 出典:ホツマ縄文日本のたから池田満著(管理人が一部加筆修正)

ヲシテ文献にある「カミ」は、最大の敬称であり、指導者の意味だと云います。敬称たる「カミ」とたたえられる指導者は、「トのヲシテ」を実践して、皆を率いていました。 「トのヲシテ」は、岡潔が云った「わからないものに、関心を集め続ける。情的にわかっているものを知的に言い表わす行為」です。岡潔は、こうして文化はできていくと述べています。 その姿は、「”神頼む”行為(祈祷:呪術)」と区別が付きません。しかし、似て非なるものです。

”神頼む”行為は景教から来ており、浄土教でもあります。それ以前に、神武天皇の頃から渡来系の人たちによって日本に広まってきたということです。記紀により天照大神が一神教的なものにされた理由もそれです。

この”神頼む”行為は、支配者にとって都合のよいもので、政治経済に不可欠です。その極致が純消費たる戦争です。改めて表1 ヨソヤコヱ(48音韻:アワウタ)を見てください。日本語の元であるヨソヤコヱには”神頼む”要素は微塵もありません。 日本語が堅牢なのは、心の仕組みと働きを元にヨソヤコヱを整えたからです。心の仕組みと働きを決して蔑ろにしてはいけません。管理人は、同じ島国であるフィリピンの歴史と比べてしまいます。

 

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2010年より研究しています。
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