。。なあんてたいそうな表題を掲げましたが、他人からみてどうであれ、幸せを感じながら暮らしている今の個人的な想いを綴っています。
「出る杭は打たれる」とか「触らぬ神に祟りなし」とか、日本に住んでいた頃の私には、消極的な生き方を肯定することわざが印象的でした。
アメリカに移住して約30年を振り返って思う事。
社会人になって、持ち続けなければ成功できないと私自身が意識しているのは「向上心」と「勇気」と、「諦めずに何度でも立ち上がるしぶとさ」です。
この3つがある限り、たとえ「成功」していなくてもその過程にいると信じ続ける事ができるので、幸せを感じることができます。
出る杭は打たれるし、そこまで出っ張らなくても、「発言したら場を乱すから黙っていよう」とか「めんどくさいから足並み揃えておこう」と、自分の意見を言って反感をかってしまうリスクをとらずに成功した社会人を私は見たことがありません。あ、目的はないけれどただ場を乱す不平不満の感情表現を発する事も「自分の意見を言う」ことに含めてしまうとややこしくなりますが、ただ個人的な感情というだけでなく、論理的に突っ込まれても説明できる位考え抜いた想いを発言したら、たとえ自分の発言に対する反対意見がでても、後悔はしない気がします。
反感をかってしまうリスクをとってでも発言しなければ今以上の生活は期待できない、ただ自分の不平不満等の感情をぶちまけるだけの意見なら、無駄に敵を作るだけで改善効果は期待できない、しっかり言うべき時に意見を言わないで影で愚痴る事は恥ずかしい事、、、とそんな風に感じながら暮らしてきたので、「触らぬ神に祟りなし」というような言葉からはむしろ真逆な感覚ですね。。
自分自身の意思表示が大切なアメリカで社会人を始めた当初、私の発言に関するガイドラインとして心に残った主人からのアドバイスは「グラスハウス(ガラスでできたお家)の住人は、他人の家に石を投げるな」というものでした。若かりし頃の私は色々「気にしい」で、主人から見たら「ちょっとした事」ですぐ勝手に傷ついていためんどくさい奴だったので、生まれ育った環境や文化の違いから、日本にいたら10言わなくても4いえば察してもらえたような事を察してもらえない事に腹を立てたり、いちいち言葉に出さなければわかってもらえない事そのものが悲しかったり。。。
「ちょっと強く反論されたらめげてしまうような精神状態ならば、挑戦的な発言をするな」というアドバイスは、周りと比較して出っ張ってしまった杭は打たれてしまうとか、触ってしまったら無条件に祟られてしまうとかいう、自分ではコントロールの効かないものではなく、「自分自身の心の耐久性に見合わない言動を避けなさい」というこの言葉が、当時の私の心に響きました。
ガラスの家とは「もろい心」を現していますが、今は頑丈な防弾ガラスだってありますからねー。
誰かとの比較ではなく、自分の心の状態と相談しながら、身の丈にあった発言をすれば良いのだから、人目等を気にせずに暮らせるようになったら、色んな事が上手くいくようになりました。
そしてその過程を楽しめる余裕ができました