マスコミの伝えるところによると、苦労人のように思えます。
確かに、そんなところはありそうです。
選挙に勝つのに必要な、三つのバン
「地盤」はありませんでした。
代議士秘書からのスタートでした。
「看板」も無かったわけですね。
代議士の秘書として働き、一つひとつ積み上げたものでしょう。
さて、肝心な「カバン」は、どうだったのでしょうか?
上京後、お金の面では苦労していたようです。
2年間ほど働いて、(大学)入学金等を捻出したようです。
法政大時代にも、様々なアルバイトを経験しています。
私も多くのアルバイトを経験しているので、よくわかります。
苦学生であったことは間違いの無いところでしょう。
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(以下、WIKIより)
父から農業大学校への進学を勧められたが断り、高校卒業後上京する。
「東京へ行けば何かが変わる」と夢を持ち上京したが、秋田時代と変わらぬ日々を板橋区の段ボール工場で過ごし、現実の厳しさを痛感して2ヶ月で工場を退職。
その後は大学進学を志すようになり、朝は築地市場、夜は新宿の飲食店でアルバイトをして生活し[13]、上京から2年後に「授業料が最も安かった」という理由で法政大学法学部政治学科へ進学する[14][13]。
横浜市会議員
1975年、政治家を志して相談した法政大学就職課の伝で、OB会事務局長から法政大学出身の第57代衆議院議長中村梅吉の秘書を紹介され、自由民主党で同じ派閥だった衆議院議員小此木彦三郎の秘書となる。
1983年、小此木の通商産業大臣就任に伴い大臣秘書官を務める[17]。
1987年、神奈川県の横浜市会議員選挙に西区選挙区から出馬し、初当選。その後市議を2期務めた。
横浜市政に大きな影響力を持っていた小此木の死後、当選回数わずか2回にも関わらず、小此木の事実上の代役として、秘書時代に培った政財官の人脈を活かして辣腕を振るい、高秀秀信市長から人事案などの相談を頻繁に受けるなど、「影の横浜市長」と呼ばれた[8]。
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「地盤」「看板」「カバン」の三バンを備えた安倍ソーリとは、明らかに違いますね。
コツコツと努力しながら、
一つひとつを積み上げていったものでしょう。
もし、期待できるとしたら、この部分だと私は思います。
簡単に手に入った物は、簡単になくなります。
が、
コツコツと努力して掴んだ物は、そんなに簡単には手放さないものです。
そして、
官房長官として、安倍ソーリを支えてきたその辛抱と手腕の原点は、
この部分にありそうに思えるからです。