つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

企画展「あそびの道具」に寄せて。

2024年04月21日 13時13分13秒 | 日記
                    
わが津幡町の施設「津幡ふるさと歴史館 れきしる」に於いて、
企画展「あそびの道具」が始まった。

<昔から、土地の風土や文化に根付いた多くの玩具が作られてきました。
 縁起物として子供に買い与えられたり、身近な素材で作ったりと、
 玩具の文化から子供たちへのやさしいまなざしが感じられます。
 木製のコマやガラス製のおはじき、
 手作りの木馬やブリキ製のおもちゃなどが中心であった昭和時代。
 そして平成に入ると電子機器を利用した遊び・おもちゃの道具へと様変わりしてきました。
 今回は、大切に使われたおもちゃや手作りのおもちゃなど、
 貴重なものをお借りできました。
 主な展示品は、手作りおもちゃ、動かして遊ぶおもちゃ、カードゲームやミニカー、
 テレビゲームなど263点余です。
 懐かしいおもちゃや今でも使っている、遊んでいるおもちゃがあります。
 時代によっておもちゃを使った遊び方が違っていること、
 移り変わってきていることを感じていただければ幸いです。
 どうぞごゆっくりご覧ください。>

(※   >内、企画展リーフレットより引用/原文ママ)



上記のとおり、展示室内には昭和を中心に明治~平成と、
近現代150年に亘り町民が使ってきた玩具の数々が並ぶ。
来場者の年齢・人生のバックボーンにより、
感情や感慨を抱く対象、度合いは違う。
よって、今投稿は僕(りくすけ)個人の視点で、幾つか紹介してみたい。



画像奥が「任天堂ファミリーコンピューター」(昭和58年)。
手前に陣取るのは「任天堂スーパーファミコン」(平成2年)。
両機共に稼働していて体験可。
遊んだ思い出の多い方にとっては、過去を追体験できるだろう。
--- 僕は「直撃世代」という事になるのだろうが、正直余り馴染みはない。
ファミコンが世の中を席巻していた1980年代半ば~90年代初頭、
漫画や本、映画、お絵描き、旅などに時間を費やしていた。



「木製トラック」と「ブリキ製飛行機」(共に昭和30年代)。
僕の子供時代(昭和40年代)、類する玩具はあったが少数派の感。
おもちゃの素材は、ビニールやプラスチックなど石油由来がメイン。
ソフビ怪獣人形、プラモデル、レゴブロックなどが遊び相手だった。



「凧」と「ゴム動力模型飛行機」。
年代特定はされてないが、昭和少年の僕はコレでよく遊んだ。
どちらも天候・風に影響を受けた事をよく覚えている。
往時の遊び場は基本屋外。
田畑など空が開けた場所が多く、自動車の交通量も少なかったのだ。





ハンドメイド「複葉飛行機・スクーター・三輪車・自転車模型」(竹製)。
ハンドメイド旧海軍艦船模型(戦艦陸奥・駆逐艦朝霧/空母加賀・伊号潜水艦)。
この2つは、今展示の白眉。
完成品はもちろん、部品一つ一つに至るまで手作りなのだから恐れ入る。
僕には到底真似できない。
見て楽しむ意味で玩具に分類されるかもしれないが、立派な「作品」である。
微に入り細に亘って、暫くしげしげと見入ってしまった。



「東京名家名物入電車案内双六(すごろく)」(明治43年発行)。
広告を兼ねた沿線マップのようなものと推測。
中央「上り」が皇居ではなく「宮城」と表記されているのも「時代」なのである。

---と、ここで少し話題は逸れる。
上掲の双六が世に出た頃、こんな詩文が発表された。

【長二(ちょうじ)は貧乏の家に生まれて
 おもちゃも持たずに死んでしまった。
 美しいガラス張りの店頭(みせさき)に、
 西洋のぜいたくな小間物や、
 赤、紫に、塗ったゴムまりや
 ぴかぴかと顔の映る銀笛(ぎんてき)や、らっぱや、
 なんでも子供の好きそうなものが
 並べてあるのを見ると、
 店のガラス戸を砕いて
 それらのものをめちゃめちゃにたたき壊してやりたくなる。
 隣に住んでいた、
 あの貧しかった、哀れな長二のことを思い出したときに。】

(※  】内、「おもちゃ店」/作:小川未明)

幼くも熱い友情。
若さゆえの衝動。
貧富と格差社会。
硝子張りの憧れ。
西欧への劣等感。
短い文面に込めた光景は実に多彩だ。

「おもちゃ店」が読売新聞に掲載された明治40年(1907年)。
日本は日露戦争後の恐慌にあえいでいた。
国家予算数年分に相当する戦費と多大な犠牲を払い大国に辛勝したが、
見返りが少なく国内景気がダウン。
乱暴に言うなら---暗い時代である。
詩文の語り手と友人(長二)に象徴される当時の少年少女とって、
おもちゃは希望や光明に思えたのかもしれない。



--- 閑話休題 ---

「津幡ふるさと歴史館 れきしる」の企画展「あそびの道具」は、
この後、七夕(2024/07/07)まで開催。
もうすぐ大型連休もある。
時間と機会が許せば、足を運んでみてはいかがだろうか。
同施設、直近は5月5日(日)ナイトミュージアムとして20時まで開館。
5月5日~11日は、児童福祉週間に即し親子来館は入場無料。
おススメである。
                       
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月日は百代の過客~大垣散策 昭和風味~

2024年04月17日 09時09分09秒 | 旅行
                           
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇2。
“偏った視点の街歩き”である。

今回の旅で草鞋を脱いだ大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野・北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
異名は「水の都」。
木曾川・長良川・揖斐川など木曽三川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
江戸~明治にかけ重要な交易ルートとして活用されていた。
また、地下自噴水も豊かで今も上水道の水源となっている。

一方、豊かな自然は、時として「脅威」にもなり得る。
大垣市も、度重なる水害に悩まされてきた。
水が付きやすい土地で発達したのが「輪中(わじゅう)」。
読んで字のごとく輪の中のことで「低地集落を堤防で囲んだ」のだ。

そして、戦時下の昭和20年、6度の空襲を受ける。
特に7月28日から29日にかけての第6回目の空襲は、苛烈。
上空に飛来した米軍の「B29戦略爆撃機」90機は、
100ポンド焼夷弾3000発、4ポンド焼夷弾17000発を投下。
多くの被害者を出し、広範囲が焼け野原に。
この時、国宝に指定されていた「大垣城」も消失。
(現在は昭和34年に再建された鉄筋コンクリート製の天守が建つ)

こうした経緯から、戦災復興を果たして以降の市街地が多い大垣は、
「昭和の面影」を留めているのではないか?
そう推測した僕は、スマホ片手にJR大垣駅周辺を歩き回ってみた。
以下、何枚かスナップを掲載する。
尚、画像は少々「フィルム写真」っぽく加工してみた。

























いかがだろうか。
旅人にとっては郷愁を誘う光景なのだが、やや寂しさも漂う。
少子高齢化、中心部の空洞化などを反映しているかもしれない。
勿論それは大垣に生活基盤のない異邦人の勝手な言い分である。





大垣散策中に店構えが気になった喫茶店を見つけ、モーニングサービスを楽しむ。
厚切りバタートースト、ゆで卵、フルーツを乗せたヨーグルトを、
コーヒー代だけでいただけるのだ。
モーニングは愛知県・一宮市の発祥と聞くが、お隣・岐阜にも普及しているらしい。

後で調べてみると、ここは大垣の人気スポットとの事。
開店は昭和38年。
店名「サンパウロ」のロゴは日本を代表するグラフィックデザイナーの1人、
「亀倉雄策(かめくら・ゆうさく)」氏のデザイン。
(1964年東京五輪のエンブレムとポスター
 1970年大阪万博、72年札幌五輪などのポスター
 NTTのシンボルマークなどを手掛けた)
店内の雰囲気は、やはり昭和風味なのである。
充実、美味しい朝食になった。
ご馳走様でした!



<むすびに>

今回、大垣市内の移動は徒歩に加え、無料のレンタサイクルを使わせてもらった。
再整備した放置自転車を活用した「すいとGO!(水都号)」だ。
晴天に恵まれた旅の空の下、あちこち見て回るには最適。
数時間もサドルに跨ったのは何十年ぶりだろう?
乗り始めの運転はおぼつかなかったが、すぐに身体が思い出し快適に過ごせた。
ほゞ初めての散策だったため、ほんの一端しか覗けていない。
次はより深い魅力を探してみたい。
また訪れたい町ができた。

さて、前々回、前回、今回の小旅行3回シリーズ、
タイトルは全て「松尾芭蕉」に由来している。
--- と言うのも、大垣は「奥の細道 結びの地」。
元禄2年(1689年)「芭蕉」は江戸深川を出発。
東北・北陸地方を巡ること150日あまり、
全行程およそ2400kmの旅を大垣で終えた。
大垣には“俳聖”にまつわるスポットも少なくないが、
そのあたりは回を改め「不定期イラスト連載」で書いてみたいと考えている次第だ。
乞うご期待。
                               
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夢は枯野をかけ廻る~関ヶ原にて~

2024年04月14日 21時45分45秒 | 旅行
                          
岐阜県西南部「西美濃の旅」続篇。

大垣市で一泊した僕は、隣接する「関ヶ原町」へ向けハンドルを切った。
関ケ原町は人口6000あまり。
岐阜県の西端に位置し、北は伊吹山地、南は鈴鹿山脈に囲まれている。
平野部でも海抜100m~200mの高低差があり、変化の多い地形が特徴。



ここでは、天下分け目の戦いが二度行われた。
一度目は古代日本最大の内戦「壬申の乱」。
二度目が、かの「関ケ原合戦」である。
取り分け後者は有名だからご存じの向きも多いだろうが、
簡潔にあらましを振り返るところから、筆を起こそう。

<戦場>
主戦場は、美濃国関ヶ原(現:岐阜県関ケ原町)。
東西およそ4km、南北2km、標高130メートルの関ヶ原台地で展開された。
岐阜と滋賀の県境に近く、現在も東海道新幹線や名神高速道路などが通るここは、
古くから北国街道、中山道、伊勢街道など主要街道が交わる「交通の要衝」。
周囲を大小の山に囲まれた盆地で、小さな集落と田畑や荒野が広がっていた。



<戦の背景>
戦いは、慶長5年(1600年)9月15日に行われた。
(※但し日付は「旧暦」。今の暦に直すと10月21日にあたる)
端的にいえば、天下人・豊臣秀吉死去に伴う「徳川家康」と「石田三成」との主導権争い。

<戦の全体像>
「東軍」---総大将「徳川家康」。
主に東国の大名を中心に、豊臣秀吉の子飼い福島正則や黒田長政など総勢7万4000。
「西軍」---総大将「毛利輝元」、実権「石田三成」。
西国の大名が中心で、宇喜多秀家、小西行長、小早川秀秋など総勢8万2000。

合わせて16万(20万説アリ)の将兵と、
2万5000挺あまりの鉄砲・大砲が配備され、激しい戦いを繰り広げた。
日本史上最大の野戦、世界史上初の大規模近代野戦といわれる。


(※関ヶ原七武将 ウォーキングマップを撮影/掲載)

<戦の推移>
西軍は、鶴が翼を広げたような陣形「鶴翼(かくよく)の陣」。
中央に位置する本陣が後ろに、左翼と右翼が最前線に立ち、
敵軍を両翼の二軍が挟み込んで戦うスタイル。
敵よりも兵力で勝り、敵を包囲する際に有利とされる。

東軍は、魚の鱗のように配置された陣形から名前が付いた「魚鱗(ぎょりん)の陣」。
寡兵で多くの敵と戦う際に用いられ、三角形のピラミッドの形に部隊を配置するのが特徴。
最前線で刃を交えた部隊を一定時間で引き、後続と入れ替えながら戦闘を継続する。
敵軍の中央突破に有効と言われる。

「三成」の巧妙な采配により、合戦当日は西軍が有利に布陣。
東軍は西軍に囲まれる立ち位置になり苦しい戦いを余儀なくされた。
戦端が開いた当初は、一進一退。
むしろ西軍が押し気味だったが、西軍には家康と内通してか傍観を決め込む大名も多く、
やがて、松尾山に布陣する小早川秀秋の「裏切り」によって均衡が破られる。
形勢は一気に東軍へ傾き、わずか1日で東軍の勝利に終わった。 



今回、関ヶ原観光をするにあたり、
同地観光協会の「せきがはら史跡ガイド」に申し込んだ。
土地勘がないうえに徒歩移動をするなら、
「分かる人」に連れて行ってもらうのが賢明と判断。
正解だった。
赤い陣羽織を着た方がガイドさん。
隣を歩くのはもう一人の同行者。
勿論お2人とは初対面で、2時間余りの道連れ。
名前も名乗らなかったが「歴史という共通言語」を解する者同士。
会話には困らず、楽しく充実したひと時を過ごすことができた。





やはり、自分の足で歩いてみたからこそ分かることがある。
地名にある文字「原」を辞書で引くと『草などが生えた平らで広い土地』と記載されるが、
実際は小さくない起伏が連なる「丘陵」に近い趣き。
歩兵の移動はまさに悪戦苦闘だっただろう。
合戦当日の地面は、前夜までの雨の影響で泥濘(ぬかるみ)。
陣笠、胴鎧、槍・刀剣、旗指物、携行食を身に着けて、草鞋履き。
大変さは想像に難くない。



騎馬も同様だ。
足元の悪さに加え、上掲画像のような「馬防柵」に行く手を阻まれた。
この頃の軍馬はサラブレッドに非ず。
タフネス、パワフルではあったが体格は大きくない。
更に前述したとおり、数多くの銃が導入され、数万人がひしめく戦場である。
縦横無尽に駆け回るのは難しかっただろう。



関ケ原の戦いから420年の節目にあたる2020年10月22日、
「岐阜県関ケ原古戦場記念館」がオープンした。
(コロナ禍の中、船出は何かと苦労したと察する)
この施設、見応え充分。
僕がアレコレ書くよりも以下リンクからご覧になった方がいい。
記念館公式HP 
記念館PV
おススメである。

少しだけ補足しておくならば「二段構えの体験型映像」は圧巻。
一段目は、大きな床面のスクリーンを見下ろし、
東西陣営の動きを俯瞰できる「グラウンド・ビジョン」。
人気講談師「神田伯山(かんだ・はくざん)」の名調子が気分を盛り上げてくれる。

続く二段目は、縦4.5m、横13mのワイド曲面スクリーンの「シアター」。
作品に合わせ、風や振動、光、音による「4DX」の演出が、
東西両軍激突の戦場に迷い込んだかのような気持ちにさせてくれた。

--- こうして資料を観覧し、古戦場を歩きながら僕は思った。
『やはり役者が違うな』と。
片や、天下人・秀吉の側近として頭角を現した優秀な官僚「三成」。
片や、戦国の辛酸を舐めサバイバルゲームを生抜いた武将「家康」。
2人を比較すると、役者の格は一枚も二枚も「家康」が上。
事前の根回し、攻守切り替えの勘所など卒がない。



しかし、戦いは偶発の連続で、丁半博打・オセロゲームの要素を孕むもの。
開戦まで「三成」による采配は見事で、戦いが彼のシナリオどおりに進み、
小早川秀秋の裏切りがなければ、西軍勝利の可能性は高い。
もしそうなっていたら---。
大坂で「豊臣(秀頼)」を中心に据えた政治が行われたかもしれない。
あるいは再び戦乱の世に逆戻りしたかもしれない。
いずれにしても、合戦の3年後に江戸開幕(かいばく)はなく、
僕たちの知るそれとは「異なる歴史」「異なる日本の姿」があったはずだ。



--- さて「関ケ原古戦場記念館」では“東西文化分け目”の展示も目を引いた。

『日本の東西では同じ食べ物でも、見た目や味が異なることがある。
 日本料理で重要な出汁は、一般的に関西は昆布ベース、関東は鰹ベースといわれる。
 昆布の主産地は北日本だが、海運が盛んになった江戸時代、
 「天下の台所」と称された大阪へ西廻り航路で直接入るようになったため、
 京・大坂の庶民に広まったともいわれる。
 かたや江戸を中心とする関東では、濃い味の鰹出汁が好まれた。
 江戸幕府は政治機能を江戸に移した後も、大阪を流通の集積地とした。
 関ヶ原の戦いの結果は、東西の味の違いにも影響を与えたのかもしれない。』
(『   』内、展示パネル原文ママ)

うどんか蕎麦か、餅は丸か角か、カレー肉、ところてんの味付け、うなぎの裂き方など、
関ヶ原を境にした流儀の違いの代表例に頷く。



そして、当日の昼飯である。
偶然通りかかり看板が目に付いた食堂、
「やまびこ路(じ)」でエンジンを切った僕は暖簾を潜った。



国道21号線沿い、東軍の6武将が陣を張った場所に構えた店内には、
合戦に登場する武将の提灯、陣旗、資料などを展示。
東の鰹出汁の蕎麦を食べようか?
あるいは西の昆布出汁うどんか?
悩んだ末に豆味噌で作るモツ煮込みメニュー、尾張の「どて丼」を注文。



味噌汁も赤だし。
これなら東西の角が立たないだろう?!
美味しゅうございました!

<次回へ続く>
                            
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さまざまの 事おもひ出す 桜かな~大垣紀行~

2024年04月13日 19時19分19秒 | 旅行
                                  
<はじめに>

正直、心身共に疲れを覚えていた。
令和6年能登半島地震に始まり、愛犬の死、災害ゴミ受け入れ業務---。
年が明けてから休まらない日々が続いた。
また先月まで寒さが長引いたことも、気を滅入らせた一因だったかもしれない。
しかし、幸い暖かくなってきた。
僕は、春の陽気に誘われ小旅行に出かけた。
行先は岐阜県南西部「西美濃」。
これから3回シリーズでその記録を掲載したい。

まず訪れた「大垣市」では、散際の桜が出迎えてくれた。



大垣市の位置は、岐阜県の濃尾平野北西部。
県庁所在地の岐阜市に次いで2番目の人口(15,000あまり)を有する。
面積206.57km²のうち「平成の大合併」で編入した旧・上石津町と旧・墨俣町は、
旧・大垣市の面積より大きく、更に飛地となっている。



大垣には「水の都」の異名もある。
かつては河川を利用した舟運(しゅううん)が盛んで、
明治時代に入っても重要な交易ルートとして活用されていた。
大垣〜桑名間を結ぶ「水門川」の船町港跡には灯台が建つ。
寄棟造りの「住吉灯台」は高さ8m。
港の標識・夜間の目印として天保11年(1840年)に建造(現存物は明治の再建)。
最上部の四方には油紙障子をはめ込み中央に燈火を入れた。
明治16年に小型蒸気船の定期航路が開設された折には、
年間1万もの船が行き来していたという。



地下自噴水も豊かで、上水道の水源になっている。
恒常水温13度だから、夏は冷たく冬は温かい。
また、適度な硬水で旨い。
その水を活かした名物菓子をいただいた。





JR大垣駅近く、寛政十年(1798年)創業「金蝶園総本家」。
そこで明治初期から作られている「水まんじゅう」。
たっぷりの氷を浮かべた湧き水に沈む様子は涼しげ。
餡(抹茶と小豆)を、葛、本わらび粉の皮に包んだ逸品。
食感ぷるぷる、つるん。
甘味あっさり。
大変美味しゅうございました。





続いて、城下町・大垣のシンボル大垣城である。

現在の天守は「復元」。
昭和20年(1945年)7月29日未明の「大垣空襲」により焼失。
しかし、国宝に指定されていたお陰か、
戦前に実測図と写真集を作成していたため、往時の容姿に近い形で再建された。
(※鉄筋コンクリート製)
噴水、池、花壇、ホールなどが整備された「大垣公園」は、
面積3.10haにすぎないが、かつては3倍以上の規模。
水堀を幾重にもめぐらせた堅城で、櫓の数は10を数える。
まさに要塞だったと言っていい。







慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原決戦では「石田三成」の本拠地になった。
当初、西軍は大垣城にて東軍に抵抗しようと考えていたが、
9月14日(新暦:10月20日)夜、主力部隊を関ヶ原に展開させる。
本戦の火蓋が切られる直前、東軍が大垣城を攻撃。
三の丸が落ちた。
翌日、西軍が敗れたことで城は敵地に取り残される格好に。
残る守備隊は引き続き籠城抗戦するも数日後に降伏、開城した。
つまりここは、関ヶ原の前哨戦であり、延長戦の舞台になったのである



天守内部は、甲冑・火縄銃・槍・弓などの武具類、
戦いの推移を表した地図・パネルなどの資料を展示。
中でも個人的に気になったのは「幻の大垣城決戦」である。



『石田三成が大垣城から関ヶ原に転進せず、もし大垣城決戦が行われていたら、
 どんな戦いになったでしょうか?
 関ヶ原合戦直前の大垣城一帯には、
 関ヶ原に転進した石田三成・島津義弘・小西行長・宇喜田秀家らの
 約30,000と、石田三成らの転進後も大垣城を守備した約7,500の、
 あわせて4万近くの兵がいました。
 徳川家康率いる東軍の総兵力は10万。
 数の上では東軍が優勢ですが、籠城するのに大垣城には十分すぎる兵がおり、
 また南宮山一帯(※1)には大垣城を後詰する(=後方から支援する)
 毛利秀元・長宗我部盛親ら約25,000の兵が布陣していたので、
 東軍もうかつに攻められなかったと考えられます。
 また、大垣城一帯は低湿地の輪中地帯(※2)で、大小多くの川が流れており、
 東軍は大垣城の水攻めを計画していたともいわれます。
 いずれにしても短期で決着がつくとは考えられません。
 東軍には徳川秀忠の徳川本隊や加賀の前田利長の到着、
 西軍も立花宗茂らの大津城攻撃軍や丹後田辺城攻城軍、
 豊臣秀頼を擁した毛利輝元の来援も全くないとはいえず、
 戦いの帰趨は混とんとしたものになっていたことでしょう。』

(『  』内、展示パネル原文ママ)
※作注1/岐阜県大垣市、垂井町、関ケ原町、養老町にまたがる標高419 mの山)
※作注2/わじゅう、低い土地を水害から守るため堤防で囲んだ集落、濃尾平野に多い)

時間の流れは常に一方通行であり、決して止まらない。
その意味で“歴史のif”は考えても詮無いが、
関ヶ原合戦は間違いなく日本史のターニングポイント。
僕たちが生きる今に影響を与えているからこそ、あえてifを問い、
ありえたかもしれない過去を起点に、現実とは違う現在を探ることは、
未来を描く際の研究になりえる(と思う)。
何より歴史ファンにとっては、実に楽しいひと時なのだ。



---さて、大垣城の石垣はなかなかのレアケース。
大垣一帯は河川の堆積によって形成された沖積地で、石材は産出されない。
そこで美濃の山から石を切出し、水運を利用して輸送した。
その山で産出されるのは、サンゴやウミユリなどの死骸が固まってできた「石灰岩」。
所々「化石」が含まれていることが分かる。
上掲画像は、我々人間など影も形もない遥か太古の海の生き物、
「ベレロフォン」という古生代の巻貝の一種だとか。

先ほど『時間の流れは常に一方通行』などと書いたが、
じっと見つめるうち、僕の脳は5億年の時を遡るかのような錯覚を覚えた。



今投稿ラストは、天守からの眺望。
ビルに隠れて見えないが、その先には「関ヶ原」がある。
次は、天下分け目の決戦場訪問記だ。

<次回へ続く>
                         
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小品、桜花爛漫の候。

2024年04月07日 09時30分00秒 | 草花
                      
桜の代名詞といえる「染井吉野(ソメイヨシノ)」が江戸時代に誕生した栽培品種で、
明治以降、接ぎ木苗により普及したクローンなのは有名なハナシだ。
その花を基準にした桜前線は北陸に到達。
今まさに盛りを迎えようとしている。





きのう(2024/04/06)撮影した、本津幡駅前の「一本桜」は5~6分咲きといったところ。
程なく枝一面に鈴生りの景観が拝めるだろう。
当駅は明治31年(1898年)春の開設。
周辺発展を祈念して植樹されたうちの唯一の生き残りだ。
毎年、その咲きっぷりを鑑賞するのは僕の楽しみの1つ。
個人的な「春の標準木」と捉えている。

また、大西山で咲く桜も見栄えがいい。
かつて花の背景にあった母校の校舎がなくなってしまったのは寂しいが、
忠魂碑やグラウンドとの取り合わせは昔のままだ。





さて、平安時代前期の歌人「在原業平(ありわらのなりひら)」が、こんな歌を詠んだ。

世の中に たえて桜の なかりせば 春の心は のどけからまし

『世に桜がなかったら、春を過ごす人の心はどんなにのどかだろう』
裏を返せば『桜が咲くのを待ちわび、人心は気もそぞろ』--- となる。

染井吉野の隆盛以前、江戸時代までの花見の対象はヤマザクラ。
1200年前の京都遷都当時から残る日記などまとめた年代記の中から記述を拾い上げ、
ヤマザクラの満開日を調べた大学教授によれば、
およそ1000年間は、太陽活動による気温への影響などから、
満開日が周期的に早くなったり遅くなったりしていたとか。
ところが、ここ100年は温暖化の気温上昇が要因となって、
満開日は10日~2週間程度早まっているとの事。

桜の木は、気温5℃以下の日が1ヶ月は続かなければ、
暖かくなったときに満開にならないという。
人為的な気候変動が冬を短くすれば、花の咲き方に差し障るかもしれない。
春の「桜花爛漫」は変わらずにいて欲しいものだ。
                             
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