つばた徒然@つれづれ津幡

いつか、失われた風景の標となれば本望。
私的津幡町見聞録と旅の記録。
時々イラスト、度々ボート。

成りあがり。~ 勝山太夫。

2020年06月21日 09時30分14秒 | 手すさびにて候。
能登には「和倉(わくら)温泉」。
金沢の奥座敷「湯涌(ゆわく)温泉」。
加賀の「粟津(あわづ)、山代(やましろ)、山中(やまなか)、片山津(かたやまづ)」など、
石川県には多くの温泉地がある。

僕が子供だった頃 --- 平日夕方の「アニメ再放送枠」では、よくそれ等のCMが流れていた。
その中に「湯女の背流し」をアピールする温泉宿が。
ほんの1~2秒程度、薄衣の女性が手桶の湯を男性客の背中へかけるカットを含み、
ムード歌謡風の男声コーラスで屋号を告げるそれは、
子供心に随分艶っぽく映ったものである。

ほんの手すさび手慰み。
不定期イラスト連載、第百四十四弾は「勝山太夫」。

「徳川家康」が「豊臣秀吉」から、関八州を拝領し(押し付けられ)江戸に入る。
天正18年(1590年)の事だ。
これを機に開発が始まり、
「家康」が天下人になった開幕後も、工事ラッシュは続いた。

江戸湾の埋め立て、河川改修、上水道の整備などに従事するため、
各地から数万人にのぼる労働者が集まってきた。
彼等のニーズに応えた商売が盛んになる。
即ち屋台(外食)、長屋(住居)、遊郭(風俗)、そして湯屋(銭湯)などがそれだ。

労働を終えた男たちが、汗を流し、英気を養うのは「湯女」のいる「湯女風呂」。
そこでは女たちが、体を洗ってくれ、密かに男心も慰めてくれた。
夕刻、釜の火を落とした後は、金屏風を並べ、屋内を座敷にリメイク。
手拭を三味線に持ち替えた湯女たちが、小唄を歌い酌をする。
昼夜二重営業の社交場は、吉原を脅かすほどに人気を集めた。
そして、一人のスターが誕生する。

名は「勝山」。
現在の東京~埼玉~神奈川に跨る「武蔵国」出身。
良家の子女として生まれたが、成人を迎える前に父親と大喧嘩。
家を出て、流れ着いた江戸の湯女風呂で働く。

長身で均整の取れたプロポーションに、整った目鼻立ち。
オリジナルの髷を結い、派手な縞柄・広袖の長着姿。
腰に大小の木刀を差し、外八文字(※)で闊歩する様子は耳目を集め、
男も女もこぞって“勝山スタイル”を真似したという。
更に、歌舞音曲に優れ、和歌や書も嗜むなどマルチな才が、憧れの的に。
つまり、彼女は会いに行けるアイドル、ファッションリーダー、タレントだった。

しかし、その人気が絶頂を極めた時、思わぬ転機が訪れる。
風紀粛清を掲げ、お上が江戸全域の湯女風呂を禁止。
「勝山」は失業の憂き目にあう。
だが、これほどの人気者を放っておく訳もなく、程なく吉原デビュー。
たちまちトップランクの花魁「太夫」に登り詰めた。
インディーズから古参メジャーレーベルへ移籍した途端にメガヒット!
2軍選手が、1軍に上がるや大活躍!--- といったところか。

ところが、大門暮らし3年目の明暦2年(1656年)、
「勝山」は、突如姿を消す。
母の訃報に触れ、供養のため巡礼の旅に出たと言われているが、
暗殺説、病死説も囁かれ、詳細真偽は不明である。

(※外八文字:時代劇の花魁道中で見かける、足を内から外へ大きく開く歩行法。)

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