小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

和親条約も修好通商条約も不平等条約ではなかった――中級官僚の粘りと努力――

2019年12月15日 01時03分08秒 | 思想



仕事の関係で、幕末の外交史を調べる機会がありました。
従来の通説では、このときの日米条約が不平等条約だったという理解がまかり通っています。
どの教科書も、領事裁判権(治外法権)を認めたこと、関税自主権がなかったことの二点を挙げて、その不平等性を説明しています。

しかし条約締結時には、領事裁判権は押し付けられたのではなく、むしろ幕府のほうで望んだのです。
なぜなら、外国人の犯罪を当時の幕府の法で裁くことにすると、列強がその法そのものに強力に介入し、彼らの思うがままに変更されてしまう恐れがあったからです。
また、領事裁判権を規定した条文では、同時に、日本人が外国人に対して犯罪を犯した場合には、日本の法律によって裁くとされています。
つまり開国を認める以上は領事を置くことを認めなくてはなりませんから、それを承認した上での条文の規定としては、公平で対等の考えに立っているわけです。

関税自主権については、当時の幕府にはそもそもそういう概念がありませんでした。
修好通商条約では、ハリスとの交渉の結果、輸入税20%、輸出税(国内品の輸出の際、こちらが価格を上積みできる)5%と決まりました。
清とイギリスとの条約では、輸入税5%ですから、これと比べると、いかに有利な関税率を獲得していたかがわかります。
しかも日本の場合は従価税、中国は従量税です。
従量税では、国内がインフレになった時、適切な対応ができません。
もちろん、アヘン輸入禁止の条項も明記されています。

後にこの二つを不平等であるとして、陸奥宗光や小村寿太郎がたいへんな努力を重ねて改正交渉に当たったのは事実です。
しかしそれは、日本がしだいに国力をつけるに及んで、欧米における国際慣行の知識を取り入れ、列強に伍するために「不平等の解消」という目的意識を定めるようになったからなのです。

そのほか、両条約をよく読んでみると、ごく一部を除き、公正な条項に満ちていることがわかります。
ごく一部とは、片務的最恵国待遇を認めたこと、通貨の交換レートを同質同量によって決めるとされてしまったことの二つです(後者については後述)。
いま条文のそれぞれについて詳しい言及は避けますが、特筆すべきなのは、列強の脅威に取り巻かれる中でよくもこれだけ対等な条約を結ぶことができたな、という点です。

そこには、最初の交渉相手が新興国のアメリカであったこと、当時の覇権国イギリスが、アロー戦争やセポイの反乱で日本を攻略する余裕がなかったことなどの外的な要因が働いていたでしょう。
しかし見逃してはならないのは、直接の応接に当たった幕府の中級官僚たちの高度な国防意識と交渉能力、不当な要求に対しては一歩も引かないという強い気概です。
林復斎、水野忠徳、岩瀬忠震(ただなり)、川路聖謨(としあきら)、永井尚志(なおゆき)と言った人たちです。

ここでは、ペリーとの交渉の全権を務めた林復斎の毅然たる態度と、通商条約調印のわずか10日余り前に外国奉行に着任した水野忠徳の、通貨交換レートについての必死の努力について述べましょう。

林復斎とぺりーの交渉は、すったもんだの末、横浜村に決まりました。
林は、薪水食糧、石炭の供与、漂流民救助は了承しましたが、交易は拒否しました。
ペリーがモリソン号事件を引き合いに出し、また漂流民に対する日本の非人道的振舞いを非難したのに対し、林は、「日本が三百年にわたって平和を守ってきたのは人命尊重の証拠である、大洋で救助できなかったのは大船が建造できないためであり、近海での難船は救助してきた、また漂流民は長崎に送り丁重に扱って本国に送還している」と反論します。
*ちなみに、日本の漂流民を乗せたモリソン号を追い払ったのは、文政年間に定められた「外国船打払い令」が効力を持っていた時代のことで、その後、アヘン戦争によって危機感を募らせた幕府は、天保薪水給与令を出して、外国船への態度を寛容なものに戻します。
さて、ペリーが交易の利を説き、貴国はなぜ交易に応じないかと迫ったのに対して、林は、「我が国は、交易をせずとも自国の産品で事足りている、貴官の目的は人命の尊重と難船の救助であろう、交易はこの目的と関係ない」とやり返します。
これで、ペリーは交易の件を引っ込めるのです。
また、林が儒者たる倫理観を見せて、漂流民の救助、扶養に要した費用は弁済する必要はないと説くと、
今度はぺりーのほうから、「お礼をしないわけにはいかない」と申し出ます。
林は「お礼なら受け取る」と答え、金銀の形をとることになります。
当時は、商品の授受のほうが、交易に結びつきやすいと考えられたようです。
またペリーの「お礼」の申し出も、それをきっかけに通商の道を開こうとしたのではないかと想定されます。
「お礼」が金銀の形で決着したので、通貨の交換レートを決める必要が生じるのですが、ペリーが同質同量を主張したのに対し、林らはこれを拒否します。
ペリーはなぜ拒否するのかわからなかったようで、後に派遣する使節と話し合ってもらいたいと答え、この件はペンディングとなります。
なおペリーはここで「使節」と言っているので、「領事」とは言っていません。
また、ペリーが役人(領事)を一人置きたいと要求すると、林は「応じかねる」と答えています。
さらに、条約書の交換に際して、林は「外国語のいかなる文書にも署名しない」ときっぱり宣言します。
最後に、ペリーが、「1年後、自分が来られるとは限らないので、下田で細目を決めたい」と言い、林が50日後に下田に赴くと答えます。
するとペリーは、「その間に箱館を視察したい」と言って、横浜での会合は終わります。

漂流民についても双務性が貫かれています。
アメリカ草案では、「アメリカ人漂流民救助の経費はアメリカが支払う」とだけなっていたのですが、「アメリカ人及び日本人が、いずれの国の海岸に漂着した場合でも救助され、これに要する経費は互いに支払わなくてよい」ことになりました。
これも、対等性を日本が強調した証拠でしょう。また通商(自由貿易)につながることを警戒したとも考えられます。

横浜での交渉で、下田におけるアメリカ人の遊歩距離は7里以内と決められました。
下田に帰ったペリーに、応接係は、7里よりも狭い範囲に関門が設けられており、また外出には付添人をつけると説明します。
ペリーが条約違反だと抗議すると、関門は自由に通過してよいし、付添人は監視ではなく、アメリカ人を護衛するためだと答えます。
監視の意味もあったと思いますが、このあたり、なかなか巧妙なやり取りですね。
ペリーはしぶしぶ了解します。

さてここからが面白いのです。
ペリーは箱館に「視察だけしてくる」と言ったのに、じつは松前藩と細かく交渉しており、遊歩距離10里あるいは7里(下田なみ)で納得させていました。
林らはこのペリーのウソを見破ります。
松前藩ではペリーとの交渉記録「箱館対話書」が書かれており、それがペリーの下田帰還よりも前に下田に届いていたのです。
ペリーは狼狽を隠せず、こんな短期間にどうしてわかったのかと聞きます。
林らは、飛脚の仕組みを説明しペリーを驚かせます。
林は、「1里程度の範囲なら、この場の交渉で決めてもよい」と畳みかけます。
結局、箱館は5里で決着しました。
この遊歩距離の取り決めは、蝦夷地への侵入を阻止するとともに、後の通商条約で、外国人の進出を阻み国内市場を防衛したという、大きな意味を持ったのです。

次に、ハリスとの交渉における、金銀の交換比率についての水野忠徳の必死の努力について。
先に述べたようにペリーもこれについて「同質同量」を主張しましたが、ハリスも同じことを、もっと強く主張しました。
彼らにとって、それは当然のことと思われたのです。
しかし水野らはこれと違う主張を繰り返します。
結果的にこれは成功せず、ハリスの剣幕に押し切られてしまうのですが、水野らの主張のほうが正しかったことが後に判明します。
これについて述べる前に、締結されてしまった修好通商条約の5条を掲げておきましょう。

条約5条:外国通貨と日本通貨は同種・同量での通用とする。すなわち、金は金と、銀は銀と交換できる。ただし、日本人が外国通貨になれていないため、開港後1年の間は原則として日本の通貨で取引を行う。(従って両替を認める)

問題の本質はどこにあったのでしょうか。
当時日本の通貨は金と銀。その名目上のレートは一分銀4枚で一両小判。
しかし寛政以降、1分銀は幕府の財政を補うために改鋳を重ねて質を落とし、幕末に流通していた天保一分銀は、銀の含有量が三分の一に減らされていました(出目)。
つまり銀とは言っても、実際には紙幣と同じように一種の「管理通貨」だったのです。
これは幕府と国民との信用関係によって成り立っていました。
そこで水野は、日本は金本位制であると断り、一分銀は名目上の価値しか持っていないことを説いたうえで、1分=1ドルのレートを主張しました。これなら、1メキシコドル4枚=1分銀4枚の交換となり、それを一両小判と兌換すればよいので、公正さが維持できるはずです。
ところがハリスはこれをまったく受け入れず、金銀の交換比率を同質同量にもとづくことをあくまで主張し、通商条約第5条にそれが盛り込まれてしまいました。
同質同量とすると、銀地金に等しい1メキシコドル銀貨は、天保一分銀3枚の重さに相当します。
したがって、ハリスにとっては、交換レートは1メキシコドル=3分ということになり、それ以外の公正な取引は考えられなかったのです。
しかし、もしたとえば1000円と書かれた紙幣と10ドル銀貨(などというものはありませんが、仮にあるとして)とを同じ重さで交換するとすれば、1000円札を何枚積み上げなくてはならないでしょうか。
同じように、純銀の3分の1しか銀を含んでいない一分銀を同量のメキシコドル1枚と交換するために3枚の1分銀を手渡すことは、日本側にとっては不当以外の何ものでもありません。
正確な意味での同質同量ではなく、3枚合わせて1メキシコドルの3分の1しか銀を含んでいないいからです。
しかしハリスや後に着任するイギリス公使オールコックは、1分銀が国内では名目価値しか持たないことを理解しませんでした。これは、金属主義の弊害と言えるでしょう。

ところでアメリカ人(またはイギリス人)Aが通商条約に従って4枚のメキシコドル(=4ドル)を一分銀と交換すれば、彼は4×3=12枚の一分銀を手にします。
そこで、Aがそれを日本国内の金銀両替所にもっていけば、4分=1両ですから、3枚の一両小判を手にすることになります。
一両小判の地金としての価値は4ドルに相当します。
したがって、これを海外に持ち出し、金地金に変えて売却すれば、3×4=12ドルを得ることになります。つまり、ほとんど労せずして、原価の3倍の売り上げを得ることになります。



これを繰り返せば、もうけは莫大となるでしょう。
利にさとい外国商人がこのからくりを知ったため、連日両替所に長蛇の列ができました。
このため金貨が大量に流出したのです。
しかし経験的に「もうかる」と知っていることと、「名目価値と実質価値の違い」を理解することとはまた別です。
実際、ハリス自身もこのからくりを利用して、ひそかに小判をため込み利殖に走っていました。

水野忠徳は、長崎奉行時代にオランダ人との取引を見て、天保一分銀が名目だけでしか通用していないこと(1分銀=1ドル)を知りました。
彼はハリスの同質同量交換説に対して、執拗に反論します。
しかしハリスは聞く耳を持ちませんでした。
そのため、安政二朱銀の発行を献策し、開港した地域に限って通用させて金の流失を防ごうとしました。(一朱の名目価値は4枚で一分)
安政二朱銀は、銀の実質的な量目(重さ)が1ドル銀貨の約半分で、これ2枚で一分銀1枚に相当します。
したがってこれ8枚とメキシコドル4枚とが両替可能となれば、一分銀4枚と同等になり、1ドル=1分という思惑通りのレートが実現することになります。
これは、量目においてメキシコドルと釣り合っているのですから、正当な交換です。
ただ1分銀の名目的価値だけが今までどおり国内で通用するという違いがあるだけです。
しかしこの試みは、諸外国の外交官から条約違反だと猛抗議を受け、わずか22日間で通用を停止させられます。

いっぽう、当時の日本の金銀比価は約5:1、欧米では約15:1だったので、ハリスは、国際基準に合わせて小判の価値を3倍にすることを提案します。
しかしそんなことをすれば、物価が3倍に跳ね上がるとして、今度は水野らが猛反対します。
一般に国内で通用している銀貨の価値が相対的に三分の一に下がってしまいますから。
しかし幕閣もハリスも、マクロ経済に暗く、結局勢いに押されてハリスの提案を受け入れます。
そのため実際に国内物価は3倍以上に高騰してしまいました。

水野はワシントンでの条約批准(1860年・万延元年)の際には、閑職に左遷されていたので、使節の一人、小栗忠順(ただまさ)に交換レートの件を託します。
しかし小栗は国務長官に相手にされませんでした。
ただしその後訪ねた造幣局では、金の秤量についての正しさを認めてもらったのです。
しかし時すでに遅し。
また、イギリス公使オールコックも本国に帰ってから、大蔵省の役人の説明により、水野の主張の正しさを認めます。
執筆中だった『大君の都』の最終章に、前段との矛盾を顧みず、その事実をきちんと記しているそうです。
経験的にではありましたが、水野のほうが、ハリスやオールコックよりも、通貨の本質を理解していたのです。
つまり、政府と国民との間で信用さえ成り立っていれば、それが不純な銀だろうが紙幣だろうが、何でも構わないのだ、という本質を。
列強の威力と幕府上層部の経済的な無知に負けてしまった水野は、さぞ悔し涙を飲んだことでしょう。

ところで、最後に本稿のテーマとは直接関係のない疑問を一つ。
安政期の金の流出について、どの歴史教科書にも次のように書いてあります。

当時、金の銀に対する交換比率は、日本では1:5、外国では1:15であったため、外国人は銀貨を日本に持ち込み、金貨(小判)に換えて持ち出した。その結果、大量の金が流出した。

この論理は、それだけとしては、理解できます。
日本では、5グラムの銀が1グラムの金に相当し、外国では15グラムの銀が1グラムの金に相当します。
そこで、15グラムの銀を日本で金と両替すれば、外国の3倍、つまり3グラムの金が手に入ります。
だから外国商人たちは、大量の銀を日本に持ち込んで金に換え、それを持ち帰って原価の3倍の売り上げを手にできたというのですね。

しかしこの話は、先ほど長々と説明してきた、条約による「同質同量の交換」に基づく「1メキシコドル銀貨=1分銀3枚」という話とは直接つながりませんね。
一方は金と銀との交換比率の内外での違いの問題、他方は銀と銀との交換レートの問題。
教科書には、後者の問題が記述されていません。

もし両方とも正しいのだとすれば、筆者の考えでは、両者を組み合わせることで、驚くべきことになります。
というか、金の流出は、想像をはるかに超えたものだったという話になるはずなのです。
いま、簡単のために、1ドル銀貨1枚が1グラムだったとしましょう。
すると、銀貨4枚は4グラムですね。
これを条約に従って日本で金貨(小判)と両替すれば、3枚の小判(金貨)を得ます(上図参照)。
3枚分の金貨は、外国での金と銀の交換比率に従えば、1グラムの金を15グラムの銀と交換できます。
そうすると、3×15=45枚の銀貨、すなわち45グラムの銀を得ます。
つまり、4グラムの銀が、45グラムの銀に化けたことになります。
言い換えると、4ドル⇒45ドルとなります。
何と3倍に化けるのではなく、45÷4=11.25倍になる理屈ではないでしょうか。

こんなオイシイ話はない。
もちろん、運送などの必要経費、小判を金地金に変える時に伴う目減り、金から小判自体を鋳造する時の含有比率や歩留まりなどはあるでしょう。
それにしても、大量の銀貨を持ち込めば持ち込むほど、そうしたコストの割合は少なくなります。

正直なところ、筆者はこの考えが正しいのか間違っているのか、自信がありません。
どなたか、専門的な方のご教示を仰げれば幸いです。

*参考文献
加藤祐三『幕末外交と開国』
井上勝生『幕末・維新』
佐藤雅美『大君の通貨』


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1 コメント

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Unknown (無飼)
2019-12-19 13:34:54
真善美の探究【真善美育維】

【真理と自然観】

《真理》
結論から言って, 真偽は人様々ではない。これは誰一人抗うことの出来ない真理によって保たれる。
“ある時, 何の脈絡もなく私は次のように友人に尋ねた。歪みなき真理は何処にあるのかと。すると友人は, 何の躊躇もなく私の背後を指差したのである。”
私の背後には『空』があった。空とは雲が浮かぶ空ではないし, 単純にからっぽという意味でもない。私という意識, 世界という感覚そのものの原因のことである。この時, 我々は『空・から』という言葉によって人様々な真偽を超えた歪みなき真実を把握したのである。


我々の世界は質感。
また質感の変化からその裏側に真の形があることを理解した。そして我々はこの世界の何処にも居ない。この世界・感覚・魂(志向性の作用した然としてある意識)の納められた躰, この意識の裏側の機構こそが我々の真の姿であると気付いたのである。


《志向性》
目的は何らかの経験により得た感覚を何らかの手段をもって再び具現すること。感覚的目的地と経路, それを具現する手段を合わせた感覚の再具現という方向。志向性とは或感覚を具現する場合の方向付けとなる原因・因子が具現する能力と可能性を与える機構, 手段によって, 再具現可能性という方向性を得たものである。
『意識中の対象の変化によって複数の志向性が観測されるということは, 表象下に複数の因子が存在するということである。』
『因子は経験により蓄積され, 記憶の記録機構の確立された時点を起源として意識に影響を及ぼして来た。(志向性の作用)』
我々の志向は再具現の機構としての躰に対応し, 再具現可能性を持つことが可能な場合にのみこれを因子と呼ぶ。躰に対応しなくなった志向は機構の変化とともに廃れた因子である。志向が躰に対応している場合でもその具現の条件となる感覚的対象がない場合これを生じない。但し意識を介さず機構(思考の「考, 判断」に関する部分)に直接作用する物が存在する可能性がある。


《思考》
『思考は表象である思と判断機構の象である考(理性)の部分により象造られている。』
思考〔分解〕→思(表象), 考(判断機能)
『考えていても表面にそれが現れるとは限らない。→思考の領域は考の領域に含まれている。思考<考』
『言葉は思考の領域に対応しなければ意味がない。→言葉で表すことが出来るのは思考可能な領域のみである。』
考, 判断(理性)の機能によって複数の中から具現可能な志向が選択される。


《生命観》
『感覚器官があり連続して意識があるだけでは生命であるとは言えない。』
『再具現性を与える機構としての己と具現を方向付ける志向としての自。この双方の発展こそ生命の本質である。』

生命は過去の意識の有り様を何らかの形(物)として保存する記録機構を持ち, これにより生じた創造因を具現する手段としての肉体・機構を同時に持つ。
生命は志向性・再具現可能性を持つ存在である。意識の有り様が記録され具現する繰り返しの中で新しいものに志向が代わり, その志向が作用して具現機構としての肉体に変化を生じる。この為, 廃れる志向が生じる。

*己と自の発展
己は具現機構としての躰。自は記録としてある因子・志向。
己と自の発展とは, 躰(機構)と志向の相互発展である。志向性が作用した然としてある意識から新しい志向が生み出され, その志向が具現機構である肉体に作用して意識に影響を及ぼす。生命は然の理に屈する存在ではなくその志向により肉体を変化させ, 然としてある意識, 世界を変革する存在である。
『志向(作用)→肉体・機構』


然の理・然性
自己, 志向性を除く諸法則。志向性を加えて自然法則になる。
然の理・然性(第1法則)
然性→志向性(第2法則)


【世界創造の真実】
世界が存在するという認識があるとき, 認識している主体として自分の存在を認識する。だから自我は客体認識の反射作用としてある。これは逆ではない。しかし人々はしばしばこれを逆に錯覚する。すなわち自分がまずあってそれが世界を認識しているのだと。なおかつ自身が存在しているという認識についてそれを懐疑することはなく無条件に肯定する。これは神と人に共通する倒錯でもある。それゆえ彼らは永遠に惑う存在, 決して全知足りえぬ存在と呼ばれる。
しかし実際には自分は世界の切り離し難い一部分としてある。だから本来これを別々のものとみなすことはありえない。いや, そもそも認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう?
言葉は名前をつけることで世界を便宜的に区分し, 分節することができる。あれは空, それは山, これは自分。しかして空というものはない。空と名付けられた特徴の類似した集合がある。山というものはない。山と名付けられた類似した特徴の集合がある。自分というものはない。自分と名付けられ, 名付けられたそれに自身が存在するという錯覚が生じるだけのことである。
これらはすべて同じものが言葉によって切り離され分節されることで互いを別別のものとみなしうる認識の状態に置かれているだけのことである。
例えて言えば, それは鏡に自らの姿を写した者が鏡に写った鏡像を世界という存在だと信じこむに等しい。それゆえ言葉は, 自我と世界の境界を仮初に立て分ける鏡に例えられる。そして鏡を通じて世界を認識している我々が, その世界が私たちの生命そのものの象であるという理解に至ることは難い。鏡を見つめる自身と鏡の中の象が別々のものではなく, 同じものなのだという認識に至ることはほとんど起きない。なぜなら私たちは鏡の存在に自覚なくただ目の前にある象を見つめる者だからである。
そのように私たちは, 言葉の存在に無自覚なのである。言葉によって名付けられた何かに自身とは別の存在性を錯覚し続け, その錯覚に基づいて自我を盲信し続ける。だから言葉によって名前を付けられるものは全て存在しているはずだと考える。
愛, 善, 白, 憎しみ, 悪, 黒。そんなものはどこにも存在していない。神, 霊, 悪魔, 人。そのような名称に対応する実在はない。それらはただ言葉としてだけあるもの, 言葉によって仮初に存在を錯覚しうるだけのもの。私たちの認識表象作用の上でのみ存在を語りうるものでしかない。
私たちの認識は, 本来唯一不二の存在である世界に対しこうした言葉の上で無限の区別分割を行い, 逆に存在しないものに名称を与えることで存在しているとされるものとの境界を打ち壊し, よって完全に倒錯した世界観を創り上げる。これこそが神の世界創造の真実である。
しかし真実は, 根源的無知に伴う妄想ゆえに生じている, 完全に誤てる認識であるに過ぎない。だから万物の創造者に対してはこう言ってやるだけで十分である。
「お前が世界を創造したのなら, 何者がお前を創造した?」
同様に同じ根源的無知を抱える人間, すなわち自分自身に向かってこのように問わねばならない。
「お前が世界を認識出来るというなら, 何者がお前を認識しているのか?」
神が誰によっても創られていないのなら, 世界もまた神に拠って創られたものではなく, 互いに創られたものでないなら, これは別のものではなく同じものであり, 各々の存在性は虚妄であるに違いない。
あなたを認識している何者かの実在を証明できないなら, あなたが世界を認識しているという証明も出来ず, 互いに認識が正しいということを証明できないなら, 互いの区分は不毛であり虚妄であり, つまり別のものではなく同じものなのであり, であるならいかなる認識にも根源的真実はなく, ただ世界の一切が分かちがたく不二なのであろうという推論のみをなしうる。


【真善美】
真は空(真の形・物)と質(不可分の質, 側面・性質), 然性(第1法則)と志向性(第2法則)の理解により齎される。真理と自然を理解することにより言葉を通じて様々なものの存在可能性を理解し, その様々な原因との関わりの中で積極的に新たな志向性を獲得してゆく生命の在り方。真の在り方であり, 自己の発展とその理解。

善は社会性である。直生命(個別性), 対生命(人間性), 従生命(組織性)により構成される。三命其々には欠点がある。直にはぶつかり合う対立。対には干渉のし難さから来る閉塞。従には自分の世を存続しようとする為の硬直化。これら三命が同時に認識上に有ることにより互いが欠点を補う。
△→対・人間性→(尊重)→直・個別性→(牽引)→従・組織性→(進展)→△(前に戻る)
千差万別。命あるゆえの傷みを理解し各々の在り方を尊重して独悪を克服し, 尊重から来る自己の閉塞を理解して組織(なすべき方向)に従いこれを克服する。個は組織の頂点に驕り執着することはなく状況によっては退き, 適した人間に委せて硬直化を克服する。生命理想を貫徹する生命の在り方。

美は活活とした生命の在り方。
『認識するべき主体としての自分と, 認識されるべき客体としての世界が区分されていないのに, 何者がいかなる世界を認識しうるだろう? 』
予知の悪魔(完全な認識をもった生命)を否定して認識の曖昧さを認め, それを物事が決定する一要素と捉えることで志向の自由の幅を広げる。予知の悪魔に囚われて自分の願望を諦めることはなく認識と相互作用してこれを成し遂げようとする生命の在り方。


《抑止力, 育維》
【育】とは或技能に於て仲間を自分たちと同じ程度にまで育成する, またはその技能的な程度の差を縮める為の決まり等を作り集団に於て一体感を持たせること。育はたんなる技能的な生育ではなく万人が優秀劣等という概念, 価値を乗り越え, また技能の差を克服し, 個人の社会参加による多面的共感を通じて人間的対等を認め合うこと。すなわち愛育である。

【維】とは生存維持。優れた個の犠牲が組織の発展に必要だからといっても, その人が生を繋いで行かなければ社会の体制自体が維持できない。移籍や移民ではその集団のもつ固有の理念が守られないからである。組織に於て使用価値のある個を酷使し生を磨り減らすのではなく人の生存という価値を尊重しまたその機会を与えなければならない。

真善美は生命哲学を基盤とした個人の進化と生産性の向上を目的としたが, 育と維はその最大の矛盾たる弱者を救済することを最高の目的とする。

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