小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

四年前の川崎中一殺人事件について考える(その2)

2019年02月06日 00時02分07秒 | 思想


 また、平均寿命が延び、そのぶんだけ大人になるのに時間がかかるようになったということがよくいわれます。もしこれが事実なら、法的な「成年」年齢を下げることは、一見時代の流れに逆行するように思われます。

 たしかに大人になるのに時間がかかるようになったというのは、ある意味で本当ですが、それは、平均寿命が延びたからではありません。そもそも何をもって大人になったというのか、あるいは何が人を大人にするのかというように考えていくと、これは社会的動物である人間の場合、単純ではないことがわかります。

 私は「大人」概念を、生理的大人、心理的大人、社会的大人の三つに分けています(詳しくは拙著『正しい大人化計画』ちくま新書)。
 これらは相互に絡み合う関係にありますが、文明が進めば進むほど、生理的大人と社会的大人とが乖離していきます。つまり生理的には思春期を通過すればすぐ大人になってしまうのですが、社会の仕組みが複雑になるにしたがって、学習期間が延び、親から経済的・精神的に自立するのに時間がかかるようになるのです。また、職業人や家庭人としての責任を果たせるようになるのにも長い期間が必要とされます。

 この事実は何を意味しているでしょうか。人間の成熟には、社会のシステムや制度のあり方に応じて時間がかかったり、逆に早まったりする可能性があるということです。

 さてこのことを、先の法的な「少年」と「成人」の境をどこに置くかという問題に当てはめてみましょう。くだんの少年は、「札付きのワル」であったことは間違いないようですが、それは生理的には立派な大人になっているのに、社会的な意味で大人として見なされていなかった、または大人になる気がなかった、ということと重なり合うのではないでしょうか。
 よく暴走族のOBなどが、後輩に向かって「いつまでもガキやってんじゃねえよ!」などと説教する例がありますが、この少年も、生理的な大人でありながら、社会的には「ガキ」でしかなかった、そのギャップがあまりに大きかったといえそうです。つまり、学校という間延びした現代版通過儀礼の場所と時間帯にまったくなじめなかったために、社会的な大人になるきっかけを失っていたのです。

 この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。

 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。

 以上が、少年法適用年齢を18歳にまで引き下げたほうがいいと考える理由です。


 (2)のネット情報の氾濫の問題についてですが、いまさらこの流れを押し戻すことはできないでしょう。しかもインターネットの普及のおかげで助かることがずいぶんあります。現にいまこの原稿を書いている私は、依頼があるまで今回の事件のディテールやそれがどう語られているかについてほとんど知りませんでしたが、知人が送ってくれたいくつものサイトによってその全貌をほぼ知ることができました。

 「知る権利」などという言葉はあまり使いたくありませんが(この抽象的な言葉をタテにとって悪用する人もいるので)、何かをより深く正確に知る必要がある場合に、紙による情報だけでは限界があり、時間や手間やお金もかかるので、信頼のおけそうなネット情報に頼らざるをえないというのは否定できない事実です。これを強く規制している国がどんな国かを思い浮かべてみれば、その恩恵の面を無視することはできません。

 独裁国家や巨大マスコミが意図的に、または意図的ではなくともその体質上、情報の操作や選択をして、真実が隠されたり捏造されたりするということはいくらでもあることですね。そういう疑いのあるとき、信頼のおけるネット情報はたいへん役に立ちます。

 しかしもちろん、ネットによるこの情報獲得能力の民主化には、よくない面もあります。
 1つは冒頭で述べたように、事件と直接関連のない不必要なプライベート情報がすぐに出回ってしまい、迷惑をこうむる人がたくさん出る可能性があることです。今回の事件でも、容疑者が逮捕される前に、「あいつがやったんじゃないか」という憶測情報が広く出回ったそうです。捜査に協力するという明確な意思をもって、警察に極秘にヒントを知らせるというのならいいですが、まったくそうではないので、たいへん困ったことです。これは一般に、風評被害の可能性が格段に高まったことを意味します。

 もう1つは、誰もが何かについての感想・意見・主張を瞬間的に発信できるので、問題をよく考えもしない感情的な表現がやたらと出回ることです。これは二重の意味でよくありません。
 第一に、発信者自身に冷静に考える習慣や母国語をきちんと使いこなす能力が身に付かず、その結果、精神的成熟が妨げられること。
 第二に、物事に対する単純化された把握がまかり通って、それが一種の「党派性」を形成し、異論に対して聴く耳をもたない非寛容がはびこることです。これが高ずると、全体主義的な権力にまで発展しかねません。歴史上、悪名高い全体主義というのは、皆こうした大衆社会の空気を基盤として生まれています。このほかにも、よくいわれるように、匿名性を利用してある人を集中的に誹謗中傷することができるという点も挙げられます。

 ではどうすれば、こうしたネット環境の悪い面を防ぐことができるか。これはたいへん難しい問題ですが、要するに発信主体、受信主体がそれぞれの立場で公共心を高めていく以外にないでしょう。それはある場合には、自主規制のかたちをとり、ある場合には発信者に対する批判や啓蒙のかたちをとることになります。しかしその場合でも、ネット環境で何が起きているかを知らないで済ませるというわけにはいきません。

 私たちはいま、情報倫理学ともいうべき分野を構築する必要に迫られているのですが、そのためにはやはりネットを大いに活用して現実感覚を高めなくてはなりません。これは、交通事故を減らす有効な手立てを考案するためには車の運転に慣れる必要があるのと同じです。
 今回の事件でもネット空間にずいぶん感情的・衝動的な表現が乱舞しましたが、あくまでもこれらの「敵」の姿をよく知ることを通して、ネット環境に対する成熟した理性的な態度を養うべきだと思います。


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5 コメント

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実際的な問題は (由紀草一)
2019-02-07 10:43:09
 今回の御記事に反応して、というよりは乗っかって、私も、「しょ~と・ぴ~すの会」の時には言ういとまがなかった愚見を述べたくなりました。ご迷惑かな、とも思いますが、どうぞご寛恕ください。

 まず、少年法の適応年齢を18歳未満まで引き下げることには賛成です。理由はお書きになっている通りです。

 同じ筋道で(かな?)、私は会の最後の頃にUさんがおっしゃったことに賛成します。
 犯罪者の心理に想像力や精神医学の知見を駆使して迫ろうとするのはいいですよ。この間の、秋葉原無差別殺人事件の犯人に関する発表のように。私は、文学愛好者として、こういうのは好きなタチです。
 しかし、犯罪が社会でどう扱われるべきか、というところでは。明らかに、加害者より被害者を優先させないといけないでしょう。なるべく被害にあわないように、不幸にしてあってしまったら可能な限り回復されるように考えないと。
 これにも難しい点がありますね。厳罰化には犯罪抑止効果があるかどうか、実証されていない、と。その通りでしょう。
 では、広い意味の教育、犯罪者に対しては更生プログラムですか、それにはどれくらい効果があるのか。実証データがあるなら見せていただいて、それからまた考えましょう。

 それで、厳罰化、というのとはちょっと別かも知れませんが、現在進行中の犯罪的行為にどう対処すべきなのか、個人的に一番気になっております。
 典型的なのは「いじめ」です。
 そう呼ばれるべき事態は、昔からあって、現在数が増えたとか、手口が悪質化した、という事実はたぶんないでしょう。しかしとにかく、それはある。
 この「解決」は、一般に考えられているのよりずっと難しいのです。今回取り上げられた川崎のケースなんて、さんざんいじめられてきた者同士が集まって、その中で最も弱い子がいじめられたわけですね。胸が苦しくなうようなできごとですが、こういうのもよくあるのです。めったに人死にまでは至らないだけで。
 こういう場合に、「いじめた側」を罰するだけで本当にいいのか、とは私も痛烈に感じます。感じますけど、何よりもかによりも、「いじめ」は止めなくてはならない。
 教育的な働きかけが不要だとは申しません。適切な「指導」のおかげで、加害者が心から悔いて、被害者に詫び、いじめが根絶されるなら、それに越したことはない。しかし、少なくともそれには時間がかかる。一か月か、半年か、それ以上か。その間、いじめられているほうはじっと耐えていかなくてはならないのか。そんな理屈は成り立たんでしょう?
 だから、強権を用いてでも、ひとまずやめさせなくてはならない。そのことが、また新たな問題を惹起するとしても。そのための、必要なら法整備まで、考えられなくてはなりません。

 ここで、おっしゃるように、ネット社会というものが、大きくせり出してきたわけですね。
 身近なできごとなんで、詳しくは申せませんが、いじめ加害者の実名がさらされた実例を知っています。この子たちはそれで「罰を受けた」とも言えるような。でも半面、これはネット社会での新たな「いじめ」だ、とも言えるようですね。
 こうして私たちはまた新たな負荷を抱えてしまったわけです。
 人の世は、すっきり全部解決、というわけにはなかなかいかんのですね。しかしそれだけに、私たちは、よたよた歩みながらも、「一番大切なこと」は見失いようにしたいものですね。

 長々と、どうもすみませんでした。
18歳未満にすることに反対 (F(発表者))
2019-02-07 11:20:05
 2月3日は「日曜会」で発表の機会を与えていただいてありがとうございました。
 時間の関係で、小浜さんの刑法適応年齢を18歳まで下げることに賛成というご意見については、懇親会で断片的に意見を述べるにとどまったので、コメントという形で私の意見を述べたいと思います。
 「参政権年齢が18歳以上に引き下げられたことと対の関係で考えるべきだ」ということですが、飲酒、喫煙、賭博を禁止する法律は年齢を引き下げない方向で検討が進んでいるようです。法律はその制定の目的に沿って個々に適応年齢を決めるべきであり、当該年齢の国民全員に国政参加の権利を与える選挙法の場合と、ごく一部でしかない非行を犯した少年を対象として健全育成をはかる少年法とではその目的が異なります。私は発表の中で、少年法の対象者の中核は恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった少年たちだと説明しましたが、そのような状況のなかで少年法の上限を下げるのは逆行していると思います。
 次に、「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです」は、非現実的な願望だと思います。保護者は生計を立てることなどに精一杯で少年を放任せざるを得ず、そのような環境の中で一般の高卒率が90%の中で非行少年の大半が中卒です。高卒でないため、仕事に就くのもアルバイトをすることも容易ではありません。そのような状況で「生き方が定まらずあてどなくさまよい」非行に嵌ってしまう少年に対して、「君は今日から大人である」と言うことで責任意識が芽生えるのでしょうか?
 しかも、現在、成人の場合、検送された事件のうち、64%が起訴猶予、30%が罰金刑で、残り6%が裁判にかけられますが、内4%には執行猶予が付きます。従って、少年法の対象を17歳まで下げた場合、今までは更生のため少年院で教育を受けていた少年の半数近くが、犯した罪の形式的な重さのみによって判断され、金を払ったり、執行猶予で放置されることになります。例えば、現行少年法では、覚醒剤事犯は初犯でも依存性が進んでいたりして再犯の可能性が高いと判断されれば少年院で教育を受けることになりますが、成人の場合、初犯や再犯でも執行猶予という形で放任されるのは報道されている通りです。
発表では、家庭裁判所や少年鑑別所の調査・鑑別の内容、少年院での教育の内容などを具体的に紹介する時間がありませんでした。しかし、少年法適用年齢を17歳に引き下げることになれば、これまで少年法の適用対象であった若者の50%近くを自己責任の名のもとに上述の制度から放出することになり、更にうまく機能していた制度自体も根幹を揺るがされ形骸化してしまいます。
発表の冒頭で、刑務所勤務の経験もある学者の「刑務所は、人が犯罪に陥るようになった原因を解決することはできない。貧困や虐待、社会的孤立の問題をすべてモラルの問題にし、自己責任として処罰の対象とする。犯罪という困った問題を個人の責任にして無理やり決着をつけている」という主張を紹介しましたが、「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張は、私には上述の「困った問題を個人の責任にして無理やり決着をつけようとする」態度にしか見えません。
私は小浜さんがその著書『13人の誤解された思想家』の中で、カントを「痩せた人間認識に基づく道徳主義者」と評している箇所を読んでなるほどと思いましたが、小浜さんの「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張の背景には、どのような人間認識、さらに現状分析があるのでしょうか?

意気込んで発表した分、その後の小浜さんのブログを読ませていただいて、趣旨が分かってもらえていないと思い、意気込んだ自分が情けないような気持ちになり、その気持ちの延長でコメントを書きました。

以上の私のコメントが、小浜さんの提唱する「情報倫理」に悖ることなく、理性的、建設的な議論のきっかけになればと思っています。

発表者(F)
由紀さんに対するコメント (発表者F)
2019-02-07 18:49:02
 「犯罪者の心理に想像力や精神医学の知識を駆使して迫るのはよいが、犯罪が社会でどう扱われるべきか、というところでは、明らかに加害者より被害者を優先させないといけない」という点について、発表者(F)の感想・意見を述べます。
 まず、私の発表が加害者より被害者を優先していると受け取られたとしたら、発表の仕方がまずかったと思います。被害者の問題については重視し大学の講義でもとりあげていますが、「しょ~と・ぴ~すの会」では取り上げる時間がありませんでした。
 Uさんの発言は、私の理解した限りでは、「自殺は他殺に転化しやすい。従って私は自殺を口にする人も受け入れない。無差別殺人は拡大自殺であることが多い。フランスではテロの犯人は射殺する。日本の警察は保護的だ」というような趣旨だったと思いますが、私も、死ぬのなら人に迷惑をかけずに1人で死んでほしい、被害の拡大を防ぐには射殺もやむを得ないと思います。しかし、それは、感情的な出発点に過ぎず、被害者や遺族の回復を図り、同種の犯罪を防ぐためには、冷静に犯罪の原因を探り、対策を講ずること、加害者に取るべき責任はきちんととってもらうことが必要だと思っています。
 また、由紀さんは、想像力や精神医学の知識を駆使して迫ることは一種の「文学」で、それと現実の社会は別物だという前提でおられるようですが、発表でも述べたように、私は想像力と現実は切り離せず一体だという考えです。従って、想像力や言葉の問題を解くことは現実の問題を解くことにつながると考えています。そのため、秋葉原無差別殺傷事件も、加藤自身が内省しているように、加藤の言葉の未成熟による認知や思考の歪みとして読み解きました。

 以上、由紀さんやUさんのご意見については誤解している点もあるかも知れません。
しかし、発表が、被害者の問題を軽視し悲惨な事件を虚構としてもて遊んでいるように受け取られたら、全く心外なので、コメントさせていただきました。
F様へ その1 (由紀草一)
2019-02-08 17:25:47
 せっかくいろいろおっしゃってくださいましたので、できるだけお答えしたいと思います。

 まず、少年法適応年齢引き下げ問題について。これは小浜さんの文中にあることで、Fさんも小浜さんに向かっておっしゃっているんですが、私も、一応「賛成」した者として、自分一個の意見を述べておきます。
 それにしても、Fさんがそんなにがっかりなさるとは、正直、意外です。この問題に関しては、他の参加者の方が熱弁をふるってくださいましたが、Fさん御自身の発表の主旨がそこにあったとは。
 最初の自由と責任をめぐる哲学的な考察もそうですが、何より、後半の題材である「秋葉原連続殺傷事件」の犯人は犯行当時25歳で、元来少年法の適応外の存在ではないですか。私は御発表は、このような度はずれた罪を犯す人間の内面に迫るものとして、興味深く拝聴しました。Fさんの他の機会の御発言から、少年法適用年齢の引き下げには反対なのだな、と推察はしておりましたけれど。

 それはそれとして少年法の問題は。
 「18歳から普通に刑罰を科せば、その連中(18~19歳)も社会的責任を自覚するだろう」
などと言えば、「まあほとんど、そんなことないんじゃない」との返しが予想されます。実際、その通りでしょう。
 しかし、社会的な責任は、個々人の「自覚」を最初に考えて定めるようなものではないのではないですか。それはFさんはよく弁えていらっしゃるのでは、と私は思っておりました。
 それというのも、最初の頃、何人かの哲学者の言説を引用なさいまして(これらは当日の発表資料で閲覧できます。「日曜会ホームページ」→「しょ~と・ぴ~すの会」→「現在までの記録」→第105回の題目下【案内文】の上の「当日発表資料」の順にクリックしてください)、中にこういうのがあったからです。

 デネットは自由と責任のプライオリティをひっくり返そうとする。他にもやりようがあったから責任があるのではなく、責任があるとみなしてよい理由があるときに、人々は他にもやれたんだ、自由があったんだと判断するのである。この際、本当に他にもやれたのかということはどうでもよい。(戸田山和久『哲学入門』)

 「どうでもよい」とまで言い切る(いくら他人の言説の紹介であるとしても)人は稀なので、印象に残っているのですが、これは今の場合に当てはめると、次のようになると思います。「理由」は社会が、より具体的には国家が定め、そのうえで刑罰などの「責任」を科す。それをどう「自覚」し、内面化するかは、個々人の問題である。これは「自己責任」などという以前の、ともかく個人(の考え)はあるんだとするなら、そうであるしかない。そして自覚云々の実際にはかかわらず、「理由」があるなら、個人は「責任主体」とみなされ、刑罰などの処遇を受ける。まあ確かに、そういうものでしょうね。

 具体的には。国民として投票権などの一定の権利が認められるなら、罪科などの責務もまた認められなくてはならない。これは、どれくらいちゃんと考えているかどうかは別として、一般に受け入れられている「理由」とみなしてよいのでしょう。私が上記に賛成する「理由」も、それ以外にはありません。
 ですから、Fさんでも、他の誰でも、「18歳の者に選挙権とか、憲法改正のための国民投票権なんて与えるな(そんなのほしいなんて思っている若者なんて、ほとんどいないようです)。その代わり、少年法はもとのままにしておけ」と仰るならば、敢えて反対はいたしません。

 ただ、御論も、会の時のお話も、上のようなところには力点はないのですよね。つまり、この場合普通に連想される凶悪犯罪者の罪科に関することは、言われていない。もっと軽い場合で。
 現在、成人の場合、逮捕されても、懲役・禁固刑になるのは1.7%程度。18~19歳の少年も同じようになるとしたら、いわゆる非行少年のかなりの部分が、罰金か執行猶予の処分だけで、あとは実質放置されると予想される。これはもう、厳罰化とは言えない。これはまた、少年院での教育を受ける機会を、かなりの割合で奪うことになる、と。
 お話は感心して伺いましたが、後で考えると、これは少年法というより、受刑者の処遇の問題と考えたほうがいいような気がしました。少年院での教育、ですか、厚生プログラムですか、が実際に再発防止にも役立つなら、成人にも施したらどうなのでしょう。社会防衛の観点から見ても、そのほうがいいですよね。それともそれは、成人には効かない、と実証されているのですか? 素人考えでは、それはないんじゃないかな、と思えるのですが。
 特に、御論にあった覚醒剤使用者の場合。これはもう教育というより治療と言うべきものを、本人任せにするより、刑務所ではなくても公的な機関で、強制的に施すべきなんではないか、と。この意見は他でも聞きましたし、なるほど、とも思いました。
 実は私は、公的な機関、つまり公権力(強制力があるなら、それは権力です)が、人間の内面の、モラルなどに直接関わろうとするのは反対なのですが、社会防衛、というのはこの場合は犯罪を、つまりは犯罪被害を減らすために役立つなら、多少は譲歩すべきだろうと思います。かつてのソ連みたいに、反体制派を精神病院に放り込んで、「治療する」、なんてことは何より防がなくてはならない、それは当然のこととFさんにも理解されているでしょうから。
 会のときには時間がなくて、少年院での教育については紹介するいとまがなかったということですので、今後は、広く世間に向かって、その内容と、それがどれくらい有効か、できれば(難しいでしょうけど)実証データを挙げて紹介なさったら。少年法を守るより、そちらのほうが大切だと思うのですが、如何?
F様へ その2 (由紀草一)
2019-02-08 23:57:36
 それでは私のコメントに対するコメントにお答えします。
 最初に、私が賛成した当日の発言には、「大量殺人」などの言葉はありませんでしたよ。それは他の方の発言で、しかもそのうえにまた、けっこう変形して受け取ってしまわれているような。これについては、後で当日の音声データをお渡ししますので、ご確認ください。
 次に、Fさんが「加害者より被害者を優先している」とは思いません。ただ、あのように、大量殺人者の人間性を深く掘り下げようとする試みの場合には、亡くなった被害者側への視線は限定せざるを得ません。それは誰がやっても、この私がやっても、そうなります。因みに、「罪と罰」でも「異邦人」でも、殺された側の事情や心理についてはほとんどなんの描写も説明もありませんので。
 もちろんこれは、広い意味の文学的な試みだから許される話。実際の社会で、犯罪をどう扱うという次元なら、被害者側に立って方策を考えるしかありません。それはFさんももちろん御存知のことだ、と存じております。
 ただ、ああいういろんな立場の人がいる会で、Fさんやら会全体が、被害者を無視している、無視してよいのだと思っている、と思われてはいけませんので、老婆心かも知れませんけど、被害者を忘れてはならない、と強調したくなったのです。

 とうわけで、私の「文学」と「現実」は別だ、という考えの基も伝わりましたかね。
 ただし私は、「想像力と現実は切り離せず一体」だから、「想像力や言葉の問題を解くことは現実の問題を解くことにつながる」というお考えをあるいは誤解しているかも知れません。もしそうならご指摘ください。
 御文の後のほうから推察すると、これは、加藤のような言葉や認知の歪みを理解すれば、それを矯正することもでき、だから将来類似の事件の発生を防止することに繋がる、ということですか? そうだとして。
 まあ、そうかも知れない、全否定はしませんけど、私とはちょっと目の付け所が違うと言いますか。いや、ちょっとではなく、Fさんと私の根本的な違いがここにあって、それはどうしても相容れないものかも知れません。それでもなお、対話は貴重ですから、存念を述べます。

 外国のより、日本の、それもわりあいと最近の、未成年犯罪者を扱った小説を例にしましょう。大江健三郎「セブンティーン」「政治少年死す」の連作には、驚嘆しました。進学校で落ちこぼれたひ弱な少年が、右翼テロリストになる過程を、この上なく精密に描きだしている。著者は政治上の思想信条からすれば主人公とは正反対の立場なのに、一種の「共感」を抱かなければ、とてもこうはいかない。
「共感」。会の時にもちょっと出ましたね。もちろん、現実に、殺人を犯すのも無理はないと感じる、なんて意味ではありません。またしても、念のために。
 また、現実と言えば、小説のモデルになった実在の青年の心理はこの通りだったかどうかなんて、保証の限りではないです。しかし、こういう人間はこの世の中にたぶんいる、いて不思議はない、そう思わせるだけの説得力はあります。おかげで私は次のことも説得されました。
 この主人公の論理や感性は、歪んでいる。しかしそれはそれとして完成している。そこに誰かが、密接に関わる、ことがそもそもむつかしいのですが、できたとして、その歪みを「矯正」して、犯罪を未然に防ぐ、なんてできるものか。
 無理じゃないかなあ。私のような凡庸な者にはできない、というだけではなく、原理的に、つまり誰にも、できないのではないか。こういうところでは人間は、どうしようもなく「個」なんだから。
 これは絶望的に思えますか? でも、この世の中から犯罪を完全になくすなんて、たぶんできないのだから、そんなんで絶望することはないだろう、と思います。それはまあ了解されるとして、それなら、文学的な想像力なんて、実際の役にはまるで立たんのじゃないか、という疑問が次に出ますでしょうか。
 そんなことはありません。人間の途方もない多様さ、奥深さを知るためには、かけがえのない効果があります。私は、特に教師や児童福祉司や警察官や裁判官など、人間を直接扱う立場の人には、これは弁えていてほしいと願う者です。「教育」とか「更生」とかの美名の下で、個々のかけがえのない人間性を破壊することがないように、です。

 もしまたご意見をいただけるとして、それは大歓迎なのですが、小浜さんのブログでこれ以上二人だけのやりとりを長々しくやるのは失礼にあたるかも、ですね。拙ブログにでも場所を移しますか?

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