小浜逸郎・ことばの闘い

評論家をやっています。ジャンルは、思想・哲学・文学などが主ですが、時に応じて政治・社会・教育・音楽などを論じます。

前記事についてのFさんのコメントに対する返答

2019年02月09日 20時26分56秒 | 思想


F様

2月6日付の拙ブログに対して、真摯なコメント、ありがとうございます。
また2月3日には、有意義な発表をしていただき、感謝しております。
お返事が遅くなり、申し訳ありません。
じつはここ数日、野暮用に追われていたのと、一度出来上がったコメントを、掲載時の操作ミスで飛ばしてしまったので、今頃になってしまいました。
なお、初めはコメント欄にお返事を書こうと思ったのですが、書き込み欄が小さくて書きにくいのと、重要な議論なのでできるだけ多くの人の目に触れた方がよいと考え、ブログのメイン画面に掲載することにいたしました。
諒とされんことを望みます。

さて、刑法適用年齢を18歳以上に下げるべきだという私のブログの文章に対するFさんの反論は多岐にわたっているので、こちらからも一つ一つ反論を試みます。
その前に、Fさんが反論対象としている私の文章の該当部分を再現しておきます。

この現代版通過儀礼としての学校は、成績の良い子、勉強意欲のある子にはそれなりに意味をもちますが、そういうモチベーションをもたない子には、通過儀礼として機能しません。しかし一方、現代日本の社会制度は、高校を通過しなければほとんど社会人として承認してもらえないことになっています。必ずしも違法行為に走らなくても、生き方が定まらずあてどなくさまよう若者は、現代日本には溢れかえっています。
 ですから勉強に向かない子には、早く何らかの制度的、システム的な大人化への道をあてがったほうがよいのです。高校全入などはやめて、勉強嫌いな子には職業訓練を施したり、実際に仕事に就かせて稼ぐことの意味を覚えさせる。
 少年法を改正して法的な「成人」年齢を引き下げるというのも、大人化への道を明確化させる工夫の一つです。君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです。有り余る力があるのにぶらぶらさせておくのは、国民経済的見地からいってももったいない。
 現在、選挙権年齢を18歳に引き下げるという流れが固まりつつありますが、この流れとの絡みも重要です。これはたんに形式上の統一を図るという意味にとどまりません。大人としての権利や自由を獲得することは、同時にそれに伴う義務や責任を引き受けることでもあります。運転免許取得可能年齢(18歳)のことを考えればわかりやすいでしょう。車を運転する自由の獲得は、同時に道路交通法を遵守する義務と責任を身に負うということです。


さて私からの反論です。

まず、「法律はその制定の目的に沿って個々に適応年齢を決めるべきだ」というFさんの意見についてですが、これには原則的に賛成します。
ですから私は、飲酒喫煙解除年齢が20歳以上になっていることには反対しません。
また原付免許年齢が16歳以上になっていることも諸般の事情から見て妥当だと思います。
私は、これらの形式的な不整合を一致させるべきだと主張しているのではありません。
しかし、本文中にも触れましたが、個人の生命・身体・財産を守るという重大事案の場合には法理として事情が異なります。
以下、釈迦に説法の教科書的な言い方になって申し訳ありません。
近代法治国家の法理は、個人が政治に参加できるなどの様々な権理(この表記は福沢諭吉が用いた表記を踏襲します)を得られると同時に、その権理が他人を侵害してはならず、それを犯した場合には相応の義務と責任を負うというコインの裏表のような不可分の関係として構成されています。
参政権適用年齢と刑法適用年齢とは、このコインの裏表がまさしくそのまま現実への反映として現れたものと解釈できます。

ちなみに私は、参政権年齢の18歳引き下げの議論が起きた時、公的な場で考えを述べたことはありませんが、いろいろな理由でこれに反対でした。
いまそれについてはここで言及しません。
しかしそう決まってしまった以上、上に書いた理由からして、刑法適用年齢もそれに合わせるべきだということになります。

次に、Fさんは、「国民全員に国政参加の権利を与える選挙法の場合」と、「恵まれない環境で一般の少年よりも精神的成長が遅れてしまった」ために「ごく一部でしかない非行を犯した少年を対象として健全育成をはかる少年法とではその目的が異なる」と述べています。
これについて反論します。
「恵まれない環境で精神的成長が遅れたために非行を犯したごく一部の少年を対象とする」ということが少年法のどこに書かれているのですか。
たとえ実態の大部分がそうであったとしても、少年法の目的はあくまで「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」(第1条)ところにあります。
この目的に照らせば、この法には、たとえば金持ちのドラ息子が凶悪犯罪を犯すケースも包含されています。
現に酒鬼薔薇事件の犯人や佐世保の女子中学生殺人事件の犯人の家庭は、どちらかと言えば裕福な家庭の子女でした。
また、有名大学の売春あっせんグループや「スーパーフリー」のようなチームの事件も、当事者が18歳か19歳なら、本来この法律の対象になるはずですね。
それに、現在「恵まれない少年たち」が少年院の中核を占めるからと言って、今後もそうだとは言い切れません。
たとえば、移民の大量受け入れを決めてしまった日本では、今後の情勢次第で治安の悪化が進むということも大いにあり得ます。
ヨーロッパでは現にそうなっていますね。
ちなみに、かつて高福祉国家として日本人の憧れの的だったスウェーデンは、あっという間に世界第三位の犯罪大国になってしまいました。

さらに、もともと私の当該部分の記述は、少年法に引っかかってしまった少年たちの「実態」がどうかについて述べたものではありません。
文脈からわかる通り、これは、学校で勉強する意欲を持てない中高生(大ざっぱに言って意欲を持ているのは3割に満たないでしょう)、「悪友」とつきあうことにしか学校に通う意味を見出せなくなった少年たち、親が敷いた生活規範に素直に従わなくなった少年たち(これはこの年齢であれば当然ですが)、街に出てあまり感心できない遊びに集団で熱中する少年たち、学校から社会へ、という具体的な連続性を喪失している少年たち、家出少年たち、そして引きこもりなど、こうした若者の大量発生に、社会としてどのように対処すべきかについて述べたものです。
ですから前段で、高校全入の廃止と、それに代えて勉強意欲のない者たちには、むしろ早くから手に職をつける道を用意すべきではないかと述べています。
つまりここの部分は、文明社会全般の爛熟に伴って起きた学校幻想の崩壊による、「だらしない若者群」問題一般を論じているので、その一環として、刑法適用年齢の引き下げも、「工夫の一つ」として挙げているにすぎません。
いわば法に触れて検挙された「非行少年」を的にしているというよりは、あえて言えば、大量の「非行予備軍」への対処について考えたもので、Fさんが的を絞っている「少年院での実態」とは、その問題意識のありどころがまるで違います。

次に、Fさんは、「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まるはずです」という私の言葉を引いて、これを、非現実的な願望だとしています。
しかしここでもFさんは、現に「非行に嵌ってしまう」少年だけを拙論の対象として考えているようです。
ここでの「非行少年」という概念は、文脈からして、やはり違法行為を犯して検挙された少年という意味に受け取れるからです。
しかし、そもそも扱っている対象に大きなずれがあるのですから、私の提案の有効性如何に関しても食い違いが生ずるのは当然ですね。
そのことを踏まえた上で、「非現実的な願望」に過ぎないかどうかを検討してみましょう。
もとより、おっしゃる通り、「非行に嵌ってしまう少年」に対して、「君は今日から大人である」と言うことで責任意識が芽生えるなんてことはありえないでしょう。
しかし、私の提案は、若者一般に対する一種の象徴効果を狙ったもので、それは成人式と似たようなものです。
成人式は形骸化が叫ばれて久しいですが、一部の狼藉者は別として、大多数の当人たちにしてみると、そうでもないようですよ。
ですから、この「工夫の一つ」も、ある程度の効果はあるのではないか。
ただしその場合には、参政権が広く認知されたのと同じ程度に、大々的に認知させる必要があるでしょう。
また、これだけではたいして意味がないので、学校制度の根本的な見直しやこれに接続する社会組織のあり方、少年の逸脱行為をなるべく少なくするような環境の整備などと連動させるのでなくてはならないでしょう。
もちろんこの提案に効果があるかどうかは、死刑に犯罪抑止効果があるかどうか実証できないのと同じように、実証できません。
刑法適用年齢を現行のままにした場合と下げた場合との比較ができませんからね。
ただし、やってみるだけの値打ちはあると私は思っています。
というのも、学校を中心とする現行の社会制度は、その設計思想があまりに時代遅れとなっていて、制度疲労を起こしているからです。

次に、Fさんは、成人の事件の場合、起訴されて実刑判決を受ける容疑者・被告の割合の少なさについて具体的な数字を挙げて、これを18歳、19歳の「少年」に適用すれば、少年院での適切な教育(更生プログラム)を受けられないままに放任されてしまうと警告されています。
ここの部分は、一見とても説得力があって、最も強力な反論に思えます。
しかし私の疑問は払拭されません。

一つは、少年院でどのような教育を受けているかについて知らないので、果たしてその効果がどれほどあるのかどうかについて確証が得られないということがあります。
一般に教育と称するものは、そういうものです。
これは、少年院の院長や教官から「こういう教育をしている」というサジェッションを受けたとしても、現場をちょっとばかり見学しても同じです。
だからサジェッションや見学によって、その効果を実感しろと言われても、あまり納得はしないと思います。
というのは、組織の管理者は、どこでも自分の仕事の問題点を赤裸々に暴露するはずがないからです。
そこで、効果を測定するには、少年院を出てからの再犯率がどれくらいかという数字に頼るほかはありません。
ちなみに、次のようなデータはいかがですか。
これは、平成7年(1995年)から平成26年(2014年)までの少年一般刑法犯検挙人員中の再非行率
(茶色の線)です。

検挙人員が激減しているのは、成人の場合も同様(あるいはそれ以上に激減)ですから、少年院での教育の成果と見ることはできません。
しかし再非行少年率(ある年の全体に対する「再犯者」率であり、個人の「再犯」率ではない)が、34.9%と高い数字を見せて漸増しており、検挙人員程には減少していないのを見ると、少年院での教育成果に対して疑問を抱きたくなります。
ただし、これは検挙人員のグラフなので、このうちどれだけが少年院に送致されたのかはわかりません。
そこで少し古いですが、次のようなデータはいかがでしょう。
少年院出身者の25歳までの「再犯」率は約4割
https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG0903L_R11C11A1000000/
刑務所出所者の再犯率(たとえば20歳で出所してから5年間)については、正確なデータを見つけられませんでしたが、刑務所に再び戻ってくる率については、次の記事が参考になります。
出所5年以内に刑務所に戻る確率
https://www.news-postseven.com/archives/20180903_751528.html
この記事では、初めの「綾瀬コンクリート詰め殺人事件」についての記述はおくとして、次の記述に注目してください。
『犯罪白書』(平成28年版)によれば、出所から5年以内に刑務所に戻る確率は、覚せい剤49.4%、窃盗45.7%、傷害・暴行36.1%に達する。強姦・強制わいせつ(24.1%)や殺人(10.3%)という凶悪犯罪でも、1~2割は刑務所に戻ってくるのだ。
これを見ると、刑務所出所者の再犯率の高さを強調している文章になってはいますが、数字を追えば、前述「少年院出身者の25歳までの『再犯』率は約4割」と大して変わらない印象を受けるでしょう。
以上、再犯と言っても、それぞれどんな犯罪を犯したのか明らかでなく、また、少年院出身者の再犯者が果たして少年院または刑務所に戻ったのかどうかも明らかではないので、厳密な比較はできません。
しかしFさんが言うように、少年院が「うまく機能していた」とはとても結論づけられないことだけは確かでしょう。
もしFさんが、少年院がうまく機能していることについての厳密なデータをお持ちでしたら、どうぞご教示ください。
ただし、煩雑な図書を提示されても、すっきりとわかることはあまりなく、また初めに結論ありきの本は巷に溢れていますので、数字を用いて簡潔に提示していただければ幸いです。

次です。
Fさんは、ある学者の発言を引きながら、次のように決めつけています。
「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張は、私には上述の「困った問題を個人の責任にして無理やり決着をつけようとする」態度にしか見えません。
どうしてこんな解釈が成り立つのか、理解に苦しみます。
先に述べたように、私は、若者の成熟困難という一般的問題を、特定の個人の問題としてでなく、彼らを取り巻く制度的、社会的なシステムの機能不全としてとらえています。
しかも「ラベル貼り」は、その機能不全を少しでも克服するために、いくらかは効果が見込めるのではないかといった程度のニュアンスで書いたつもりです。
そう受け取っていただけないとすれば、それは4年前の私の筆の至らぬところでしょう。
ですので、改めてこのことを強調しておきます。

最後です。
Fさんは、次のように述べています。
私は小浜さんがその著書『13人の誤解された思想家』の中で、カントを「痩せた人間認識に基づく道徳主義者」と評している箇所を読んでなるほどと思いましたが、小浜さんの「君は今日から大人であるという社会的なラベルを貼ることによって、責任意識の芽生えなどの社会的・心理的な大人化は早まる」という主張の背景には、どのような人間認識、さらに現状分析があるのでしょうか?
カントと比較していただいて光栄ですが、カントの道徳論の根本的欠陥は、彼が人間の傾向を「自愛」に与する者と「他愛」に与する者とに単純に二分割して、前者を否定し、もっぱら後者を称揚している点にあります。
これに対して私は、人間を徹底的に関係存在としてとらえます。
純粋な「自愛」も純粋な「他愛」もこの世には存在しません。
ある自愛が、彼自身を形成している周囲の関係性に他愛として波及することもあれば、逆もまた真です。
社会的なラベルは、日々、お互いに貼られています。それがこの社会の中で生きる関係存在としての人間の宿命です。
だからこそ、一般の未熟な若者に自立心と責任意識を芽生えさせるためには、年長者が若者に適切な関与をするしかないのではありませんか。
もしこの年長者から若者に対する関与の仕方の一つが、若者に対してうまく働く場合には、社会にとって好都合であるばかりでなく、彼ら自身の人生にとっても生きやすさにつながるのではないでしょうか。
もっとも言うは易く行うは難しで、私の「ラベル貼り」提案がどこまでも正しいと固執するつもりはありません。
また、現状分析については、これまで述べたところで十分だと思います。

なお、これ以上、このサイト上で議論を続けると、あまりにしつこくなり、ローカルな話題と化し、読者の方をうんざりさせてしまう危険が無きにしも非ずです。
申し訳ありませんが、もし再反論のご意思がある場合には、別の場所、別の機会に譲ることを提案したいと思います。
悪しからずご了承ください。



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