おひるねウサギ~不登校かまへんかまへんマイペース♪

ADHD母ダッチェ。小2で不登校のマシュは小5フリースクール、中2地元中学高校→他府県専門学校→社会人独り暮し3年目

2023年春。

2023-03-13 15:45:55 | 不登校
こんにちは。ごぶさたしておりました。
前回から約1年たってしまいました
 
ダッチェ家の近況は、ゴリさんは体力落ちたものの元気に過ごし、洗濯、買い物夕飯作り、ダッチェのお弁当も作ってくれています。
ダッチェは半年前からまたフルタイムパートに行き始めております。忙しいけど働きやすいところ。
姉カシュは引っ越し&転職で1人暮らし、
そしてマシュは社会人4年目で店舗異動もありつつ、同じところに勤め1人暮らし継続中
 
先日関西に遊びに来たついでに1泊だけ実家によったマシュ(約1年ぶり)
ふだんほとんど連絡取り合ってないけど、普通に仕事のことや、出来事などお互いに話したりして、あらためてもう大人やなって思ったり、でもすでにこういう価値観的な感じは高校生くらいにはもう身に付き始めてたなって、しゃべってると学生の頃となんら変わってない感覚になる
 
マシュもいろいろ経験してるせいか「もうめちゃくちゃ長いこと生きてる気がする」とか言ってた
ダッチェが「お母さんのブログほとんど更新してないけど、今も見てくれてる人いたり、コメントくれる人もやはるんよ」って言うと
「もう時代が違うのに」とマシュ。
 
ダッチェ「でも、あの頃はそれが良いこととも限らないけど、いろんな先生や周りの人が、どうしたらいいかって一緒に考えてくれたりかかわってくれたけど、今は無理に来させない方針に変わったし、学校自体もいろいろルールが増えて今のほうが大変な感じ受けてる」
 
マシュ「そっかー孤独になっちゃうんか」
 
さすがマシュ
んー2人でこんな話ができるようになったかってやっぱり大人やん
 
と思ってたら行きたいスイーツのお店があるとか雑貨屋さんに行きたいとかで、普段1人で頑張ってる分、上手に甘えられた
 
 
近況報告長くなっちゃったけど、
 
 
また春が来て、学校つらくなる子が増える季節やな・・・なんて思ったりして
 
でも、つらくなるってことは無理して合わせてて無理が来ちゃったってことかなってやっぱり思う
 
自分のペース以上の速さでずっと走り続けてたらダウンして当然やもの
 
学校行けなかったら遅れるとか社会に出れないとか、周りに言われるより誰より自分が思ってたけど
 
 
そんなことなかったよ
 
 
 
好きなことをたくさんしたらエネルギーたまるとか、
 
自分はどういうことに興味があって、どういうことをやってみたいのか
 
 
学校から離れてみて、その間に学べたこともたくさんあった
 
 
 
学校行けなくなった時って、自分に自信なくしちゃってるから
 
学校に戻ることより、自信つけてくほうが優先かなって思う
 
 
自分の力を信じれる力がついてきたら、人の言動に振り回されることも少なくなる
 
 
これは大人になっても、活きる力になる
 

寛大でありたいものだけれど

2022-03-01 16:09:43 | 不登校
子どもが学校行けなくなった後、学校生活での問題は横におくとして
家での暮らしでエネルギーたまらないと意欲もわかない

今もマシュが、どうして元気になっていったのか聞かれたりして

なかなか言葉にできてなかった気がするけど


『アメリカインディアンの教え』を読み返していて
少しわかった気がした

この本結婚する前から持ってて
子育てのバイブルにしようと思ってた本

今はもう子ども達は成長したけれど

あらためて読むと目につく箇所も違う感じ

こんなに子どもをコントロールするなって随所に書いてあったんかって( ̄▽ ̄;)

今回読んでて思い当たってあちゃーってなったのが

『子どもを励ます』

ということについて

『子どもがしたいことを励ますのであって、親が子どもにさせたいことを、やるように励ますのではない』

それは子どもを自分の望むように変えるための励まし

これ、やっちゃってたなーって

特に小さい時ね

これは
『心が寛大な人の中で育った子は我慢強くなります』

の章で書かれてたことやけど

心が寛大って、どういうことかというと
『他人の考えなどに寛大なことであり、また他人の間違いなどを我慢すること』

であり子育てにおいては
『子どもが自分の期待と違った望みを抱くことを許せる』ということ


子どもが学校行けなくなって、そんなことは想定外で
早く学校に戻さなきゃとか
学校行ってなくても勉強だけはさせなきゃとか

いろんな『べき』に囚われてたり
こうして欲しい
ああして欲しいの中をもがいていろいろやってたけど

あれは全部自分の望みやったんやなって痛感する

前に我慢の袋の話で
我慢をたくさんして膨らむんじゃなくて
心の貯金で膨らむって話したことあったけど

あの頃してたと思ってた心の貯金の中にはコントロールのための誉めたり励ましたりもあったかも(-_-;)

今ならわかる
コントロールすることをやめて

子どもが自分の人生を生きることを、自由に選べることができるためのサポーター的な立ち位置に立てた頃から

どんどん元気に前向きになってった気がする

なんか抽象的やけど

とりあえず、子どもが学校に行ってないことを認められた時点で寛大路線に変更ウインカー出せてると思うのよ

で、親のほうも自分の育てられた環境と葛藤しながら少しずつ道幅広げてく
自分が許されなかったことを許すこととか葛藤しながらやから
これもまたしんどい作業やけど気づけて良かったなって思う

越えられたら景色が変わって見えるし
今は初夏の北海道の道くらい運転楽になった感覚

今は子ども達のことは案じてはいるけれど
それぞれの道を歩んでくれたらいいなって穏やかに思える毎日


 

はじめましてのかたに。

2022-02-27 12:39:05 | はじめまして
縁あってお越し下さったみなさま、こんにちは。
小学2年生の終わりに突然不登校になっちゃった娘との日々や不登校になってからわかった軽度の発達障害、アスペルガー症候群、自閉症スペクトラムのことなどを綴っています。
 
「どうしたら、もとのように学校に行けるのか」から「何か困っていることがあるのではないだろうか」「本人に合っている場所があるのではないか」という思いへ。
 
放課後登校、保健室登校、支援級通級、そして在籍。小4~小6は文部省認可の私立のフリースクールと学校の両方に通いました。高校で園芸を学び、園芸療法を学びたいと、親元離れて他府県の専門学校に行き、今春卒業。
現在社会人1年生、東京で1人暮らしをしています。
 
中1は春から徒歩15分の公立中学校に通い、秋からフリースクールに。
中2、中3はずっと学校行き、部活も頑張ってました。
小学校の保健室から出れなかったり、人のたくさんいる講堂に1歩も入れなかった数年後に、大きなホールでマイクを持って発表していました。
 
思えば、小学校で学校に行けなくなった時に、中学は通わなくても卒業できるから、高校を見据えて暮らそうって思い、
 
その思いも、また途中で変わり、いろんな生きかたがあるし、道はたくさんあるって思えるようになりました。
 
小学校3年から5年の授業ってものをほとんど受けてませんが、なんとかなるもんです。
「勉強しなさい」っていっさい言わなくなって6年後。中2あたりから家でも結構な時間やるようになりました。「そんなに勉強して大丈夫?」って、普通の受験生の親なら言わないセリフをつい口にしちゃったり。
遊ぶことも、勉強のことも、寝る時間も自分できめてるマシュ。
世間一般とは違う歩みをして、一番育ったのは自律心かなと感じます。
自分を律する心。ダッチェより遥かにあるもの。
 
今、振り返って、「不登校には意味がある」つくづく思います。
一度立ち止まって、暮らしかたや考え方、一緒に模索するよいチャンスだったなって思います。
その時はつらいって思ってたこともあるけど、その末に得た考えや生き方は、のちの人生に生かされます。
 
忘れっぽい性格の母が、不登校時代のことを忘れてしまわないようにと始めたブログですが、最近は大人になったマシュに、あの頃の気持ちを聞いたり、思い出となりつつある体験のことを振り返ったり、時がたってあらためて伝えたい思いなどが時折むくむくとわきあがってきたことなど書かせていただこうと思います。
 
 
 
 
☆自閉症スペクトラム『選択』
 
☆支えられた本
 
☆ぼちぼちマイペースにやってます。
 
 
☆失敗、勘違い、いろいろあるけど
 
☆片付けられない母のつぶやき
 
☆発達障害
 
☆マシュ本人より
 
 

13年目に思うことと近況報告

2022-02-17 10:33:46 | 不登校
このblog、はじめてから13年になる
最初の投稿は2009年1月

当時マシュ9歳だった🐥

今は22歳🐔
あらためてビックリ

カシュ12歳→25歳
ダッチェ45歳→58歳
ゴリさん52歳→65歳

すっかり老夫婦やん


正直言うと、今はマシュが学校に行ってなかった時期があったことも普段は忘れてたり『そういえばそうだったわ』くらいの感覚になってる

学校に再登校したから不登校解決したからでしょ

って思われるかもしれないけど

私の中では真逆っていうか

長い不登校期間の間に、人生において何を大切に生きるかということを学んだから

とにかく、自分をよく知り(親も子も)まず自分を大事にすること

その上で人の話を聞いたり、他人のことを理解しようとしたりして、自分も他人も認めることができると、社会生活を送りやすい

学校には行っても行かなくてもいいし、行きたかったら行けばいい

こう書いていると、不登校ってつくづく症状で状態なんやなって思う

人生の軌道修正必要ですよって

親にとっても子にとってもね


最後にダッチェ家近況報告

マシュは、かわらず東京のお花屋さん
カシュは転職して東京で事務職に

ゴリさん1月に癌見つかる

ダッチェ 2年半のホテルのレストランでのパートを辞める決心をしたところ

ゴリさんの癌の話は、Twitterでぼちぼち呟きながら頑張っていこうと思ってます
アカウント分けたりできないし不登校の話もADHDの話もごちゃ混ぜに書いてるけど、よかったら覗きにきてね


Twitterにも書いたけど

ゴリさんは今食事取れない状態で栄養を点滴で入れてるんやけど、食事取れない家族と暮らしながらビュッフェの仕事行くのが

不登校の子が家にいるのにPTAやってたあの頃を思い出しちゃって

介護のためだけじゃなく、
早めに今の仕事辞めたほうが自分のメンタルのためにも良さげやなと思ったり

またこちらもぼちぼちで更新しますね🍵



ADHD母ダッチェの話

2021-11-19 12:39:57 | ADHD
久しぶりに自分の話してみる

母ダッチェは来月で58歳
ムナシ先生にADHDの診断もらったのが46歳の時

子どもの頃から忘れ物の多い子だった

ツイッターなどで、今の学校の決まりごとの多さや、提出物、忘れ物指導の話なんかを目にすると

今の学校なら行けてなかったかもなーと思ったりしてる

最近忘れ物少なくなってるのは経験や工夫もあるけど

投薬によるところが大きいと思う

薬のおかげで本来の自分の実力以上の能力を発揮できてる(それで人並み)

だからとても疲れる

社会生活送るために仕方なく飲んでるけどね


ぶっちゃけ、もともと脳のキャパがちょっとしかないのだと思う

1度に活動できるキャパね

ワーキングメモリーとかいうらしいけど

それが少ない

例えば誰でも、仕事などで新しい環境に身を置かれた時に、トイレの場所から更衣室、物の置場所なんかを結構いっぺんに言われて、初日どっと疲れる

みたいなのあるでしょ

あれがね、日々延々続く感じなのよ

1個入れたら1個出ていくトコロテン族なもんで

記憶として定着するのに時間がかかる

けど、いわゆる場面記憶にはわりと強くて、自分が目にしながら経験したことは、写真のように残ってて

良いことも悪いことも瞬時に引っ張り出せて来ちゃったりもする

反面、耳からの情報に弱くて、電話だと聞きながらその場面を絵に転換して想像して…となるので、たまに追いつかなくなったりする


人との境界線も弱いので、誰かの辛かった話を聞くと自分が体験したような気になってしまう
みんな何かしら抱えてるもので、コロナ以前は年間定期的に会う友人が数名いて、帰ると寝込んでたな

おお
このまま書いてたら明日になっちゃいそう

なんでこんなこと書き出したかと言えば

子どもの頃のダッチェは、恐ろしく気の散りやすい子で

黒板の字を手元のノートに写す作業とかめちゃくちゃ苦手だったなとか

授業中、ふと目にした何かから空想の世界に行っちゃったり

そもそも30人もの子どもと一緒に受ける授業で勉強に集中すること自体がキツかったなって思う

少人数での塾の勉強は楽しかったし、本を読むのも好きだった

今の学校の制度に合わない子いるやろうなって

自分の困り感を言葉にするなど、当時の自分はできなかった

自分の努力不足なんかなと思ってた

もちろん、忘れっぽいから立ち直りは早いのよ

だから懲りてないように見えるんやけどね

どうか温かく見守って欲しい

最近、学校の求める人物像なるもののハードルあがってる気がしてね

どうか合わない環境で無理を強いられて、よいところが見逃されませんように

社会に出たら、いろんな働きかたあるから


社会人マシュと再会~2年ぶりの巻

2021-11-17 12:02:14 | Weblog
先月、マシュとカシュの住む関東に行ってきた

カシュはこの春に上京したばかりだけど

マシュとは実に2年ぶりの再会だった

普段、電話も全くしてこないし、安否確認のためのLINEをちょこちょこするくらいだったけど

夏の終わり頃に、今年いっぱいで関西に戻るかもみたいなことをダッチェにだけ知らせてきてた

1人で暮らすのは大変やろうし、職場もとても忙しいところ。そろそろ限界なのかな
そう思いながら新幹線に乗った🚄

久しぶりに会ったマシュ
もう22歳
1人暮らしも3年目

綺麗な図書館や落ち着いた雰囲気の街並み。ついた日は平日だったけど穏やかで緑も多く、駅前には何でも揃ってて暮らしやすいらしい。

昼はカフェ、夜は焼き鳥を食べながらたくさん話をした

主に仕事の話
3年の間に本当にいろいろあったんやなあと
よく頑張ってるなと眩しく感じる

つらかった時期には、住んでるマンションの屋上で空見上げながら1人でカフェラテ飲んでた

なんて話を聞いた時は
うっかり泣きそうなった

いつの間にか
母と娘で仕事の愚痴を言い合える間柄に成長してることに嬉しさも覚えた

ダッチェが働いてるホテルで
「疲れたな、辞めたいなって思ってる時にお客さんの「ここに来て良かった、また来ます」って言葉に救われる」って話をした時に

花屋さんで働くマシュも
「そうそう!ホンマに。」
「もう無理ってなってる時に『この間作ってもらったの本当に良かったです』」っお礼を言いに来てくれはったりするねん


こんな話ができる日が来たんだなとか
上司と仕事の方針でぶつかった話聞いたりすると、今更ながら学校行ってなかった頃のこと思い出したりして

やっぱりどんな経験も後に生かされるんだなと

特にマシュは学校行ってなかった時代に、相手の気持ちとか、違う方向から物事を見るとかいうことを学んだように思う

学校から離れることで、感じたり知ったこと
きっとその時は辛かったり孤独を感じたりすることもあると思うけど

多様な生きかたや、価値観に若い時に触れることができたことは強味になってる気がする

ダッチェだって40代で知ったこと、そこからの人生にいかされてるって感じてるし

話がまたそれたけど
結局マシュは上司と話して気持ちが変わって

あと1クールは頑張ってみるらしい
1クールって何よ
季節1つなの、それとも行事から行事なの、もしかして母の日から母の日(1年で1番多忙な日)って聞いたけど

本人も「さぁね」て笑ってた

以上、久しぶりの再会のご報告でした

寒くなるとなんだか淋しい気持ちも3割り増しくらいになるけど、自分への小さなご褒美でなんとかやり過ごしましょ
ちなみにダッチェは今は和菓子とKiriチーズで乗り切る



夏の終わりに

2021-08-25 10:31:38 | 不登校
学校無理していかなくていいよって言葉が今年も聞こえてくる今日この頃
 
親御さんに向けて学校のほうから言ってくれる時代なかなか来ないっすね
 
 
 
うちは校長先生じきじきに「少し休ませてあげたら」と言ってもらえたので(見るに見かねて言わせたのかもだけど)
 
学校休んでも大丈夫ですよ
 
って言ってもらえるのは、自分で動いて児童精神科に繋がってからだもの
 
そこのところが歯がゆい
 
 
 
 
子どもが学校行けなくなった時、まず思ったのは
 
学校行かなかったら勉強が遅れる
学校行けなかったら社会に出れない
このままずっと家にいるんじゃ
 
不安が先に立った
 
でもそれってまだ小学校低学年だった娘も思ってたことだった
 
わけわからなくて不安で外に出るのも怖くて泣いて抵抗しながらも、自分はどうなっちゃうんだろうって
 
もちろん、先の不安を言葉にして出せるのは学校に行かないことを親が認め始めてからのこと
 
だって、そう思うなら行きなさいモードの親に言えるわけないもんね
 
 
 
だから親御さんの気持ちが少し落ち着いたら情報集めて欲しい
 
大人になるまでにはいくつも道があるってこと
 
学校行かなくても勉強はいつからでもやろうと思えばできるし、学べる場所もある
むしろ、1度学校から離れたらこそ経験できることもあって、それが社会に出た時に役立ったりする
 
親自身が家から出れない精神状態のこともあると思う
 
ダッチェ自身「今、娘学校行ってないんですよ」って状態の時に役員したり、近所のスーパーで誰かに「マシュちゃんどう?」って声かけられたり
そういう時に心乱されず、応対できるまではずいぶんかかったし、それまではやっぱりネットの掲示板や先輩ママさんのブログにずいぶん励まされたし
 
自分が太陽でいなきゃなんて思わなくていいから
 
少しずつ少しずつ希望をためて親自身が楽になること大事
 
親がまず、いろんな道があることを知って安心することは
 
子どもにとってはとてもいいこと
 
たくさん選択肢をもっておくと長いスパンで見れるようになり、子どものちょっとした意欲に気づけたり成長を感じられたりするようになる
 
最初の頃、学校に戻すことばかり考えてたから
遠回りしちゃったけど
 
それって子どものほうを変えようとしてたんだな
 
何かで読んだけど、自分を変えるドアのノブは内側にしかついてないんだって
 
無理やり人を変えることはできないんだ
 
ノックはできるけどね
 
優しくトントンってね
 
ドンドン!って叩かれたら耳塞いじゃうもんね
 
 
アドラー書きたかったことやっとかけたので
 
これからはふと思ったことをまたぼちぼち綴ってきますね
 

アドラー目的論(アドラーこれで終わる)

2021-08-21 13:23:34 | 支えてくれた人・本
ようやく今年も決算業務終わりまして

その後いろいろあり(なかったことなどかつてないけど)
しばらく放心してました

さてアドラーの中で1番、目からウロコだったのは

これです『目的論』

人は感情を目的のために使ってるとのこと

最初は反発を覚えた

だって
『不登校は学校に行きたくない
という目的を果たそうとしている』

な、なんですって

行きたくても行けないのよこちとら

って感じだった

でもよくよく読んで理解しようとしてみた

『行けなくなった原因を探るのではなく、何の目的を果たすために不登校という状態を選んでいるのか』

という視点にたってみることで対処が変わるとな

アドラーさんちょっと回りくどかったりするので、理解しにくいけど

それは確かにそう

例えばマシュのようにすっかり自信をなくしちゃって不安でいっぱいになってた子に

なんで学校に行けないか聞いても、その時は本人もわからないし「先生が怖い」などと口走ろうものなら

親は「先生のせいだー」なんてなっちゃう(実際なった)

だけど、その後時間をかけて自信を少しずつ、つけていって、自分を知って自分のペースも知って、自分を守る術なんかも身につけて

そしたら多少理不尽な目に遭っても大丈夫になる

そういうこと
(自分だけわかってるのかも)


そんな感じで、もっと人に認めてもらいたかったり、親にもっとかまってもらいたかったり目的はそれぞれだけど、それを果たすのには学校は関係なくてその子の成長過程の話であると捉える
いじめなど原因のはっきりしている不登校じゃなければ、このように考えるほうが確かに建設的だと思った


例えばもっと簡単な例で言うと
職場で上司に怒られて泣く人がいる

一見恐くて泣いてしまった
ように見える
涙って勝手に溢れてくると思ってた

でもそれは自己防衛で
もうそれ以上叱られないために感情を使ってるということ

確かに。ダッチェがそれまで、職場で見せてた涙は、そういわれると相手をコントロールするためのものだったかも

自分の主張を通すためだったり、優しくしてもらいたかったり

大いに反省した

それ以来、嬉し涙やお別れの涙は出ても
職場では、ほとんど泣かなくなった

もともとの涙腺の弱さも幼い頃から身に付けてしまってた自己防衛だったのかもななんて思う

だから感情的に怒ったり悲しんだりして伝える人を見て

前は動揺したりしてたけど

今は『こういう伝えかたをすることを選んで何を達成しようとしてるのかしら』
と、少し冷めた目でというと聞こえは悪いが、その感情の奥にあるものを感じようとしたりしてみてる

そしたら不安や恐れや、わかって欲しい気持ちなど違うものが感じられたりすることもある

こともある

ってのは、こっちに気持ちの余裕がないと、なかなか出来ないことなんすよ
と、改めて書いてて思う

なんかダラダラ書いてしまった
いつも思い立った勢いで一気書き

ワケワカメだったらすみませぬ

アドラー自己決定性とみつをさんの詩

2021-07-19 11:28:56 | 支えてくれた人・本

梅雨から梅雨明けの季節、皆様お元気でしょうか

毎年、軽度の熱中症になるダッチェは水分とらなきゃ水分とらなきゃでバテバテモード

で、お腹タポタポなって、食欲落ちて、汗いっぱいかいて、うっかり水分不足になるという何年このカラダやってますねん状態、毎度な夏です

そして、ずっと読んで下さってるかたはご存じADHDダッチェの天敵地獄の決算会計業務の季節

というわけで、間あいてしまいました

アドラーの続き。

ここからがかなり影響受けて、そしてある程度身についてからの人間関係が楽になった

『自己決定性』と『目的論』

これがまたなかなかまとまらなくて、ぜひ詳しくは本や漫画などがたくさんあるので読んでみられたら良いと思うんだけど

もう思いつくままに書いちゃいます

『自己決定性』はつまり『人間は、自分の行動を自分で決められる』という理論

それって当たり前やんとも思った。何時に起きてとか、どこに出かけて何を食べてとかね

いわゆる衣食住の話かと思いきやそうじゃなくって

例えば「心が折れた」ってよく言ったり聞いたりするでしょ

それも

『心が折れた状態を自分で選んでいる』ってことなんだって

心が折れている時は、それを自分で選択して決定しているってこと

環境や、過去の出来事は関係なく。

ダッチェはマシュの不登校をきっかけに、今まで自分が『こうだ』って思ってたことが、そうじゃなかったことに気づいて以来

本を読んだり、人から聞いたりして気になったことは試してみようと思ってて

でも、これを最初読んだ時は

「逃げ場のないこと言わはりますやん、アドラーはん」

って気持ちだった

ちょうど心折れてた時だし。

つーか、あきらかに『折られた』と思ってた時だったし。

でも

自己決定性についてのアドラーの言葉

『人間は、環境や過去の出来事の犠牲者ではなく、自ら運命を想像する力がある』

過去にあった出来事は変えられないし、環境もまた然り

けれど、それをどう解釈し、どういった行動を選ぶかは自分が決めている

で、なるほどと思った

かといって、常に冷静に生きていけてるかっていうとそんなことは全然なくて

人間関係の中で、自分の感情がとても揺れることは多々ある

でも、そういう時も『あ、私はなんでこんなに悲しい気持ちでいっぱいになっているのだろう』と早い段階で振り返ることができたり

心が弱った時も『無理をしないための自己防衛なのかな』と受け入れることにしたり・・・つまりなんかちょっと変わった感がある

特に職場なんかでは

アドラーのいう自己決定の判断基準

建設的か、非建設的かを軸に考えるようにしてる

確かに好き、嫌い、良い、悪い は個人の主観で、感情を主軸に置くと本人も周りも

振り回されるし(超世の中あるあるだと思うけど)

なんか、こうやって書いてると自分を抑えてる感がいなめないけど、

自分も他者が気持ちよく過ごすことって人数が増えれば増えるほど難しかったりするし、

結局はこういう風に考えることで、自分も相手も大事にできる気がする

ああ

なーんかやっぱり堅っ苦しい文章になっちゃうな

なので最近読み返した「育てたようにこは育つ」から詩を紹介

肥料

あのときの

あの苦しみも

あのときの

あの悲しみも

みんな肥料に

なったんだなあ

じぶんが自分に

なるための

ご存じみつをさん

この本は佐々木正美さんが文章を添えていて

この詩にはこんなことが書いてあった

『存在する意味や価値のない人間はひとりもいない。ということは、誰にとっても意味のない時間はないということである。

あらゆる時間のあらゆる営みに意味があり、それぞれの人間の歴史を刻んでいく。

怠けているように見える時間は、大抵は心のエネルギーの充足のために必要な休息の時間なのだ。

休息のあとに続く活動や思索のために必要な、本当に必要な休息の時間なのだ。

どんなに長く続く休息に見えたって、本当に必要な時間なのだ。

そのことは、本当に十分の休息を与えたあとになってみるとよく分かる。

分からないのは、不十分なうちにせきたてて次の活動に追い込むからである。』

これ、今になって読み返してつくづくそう思う

子育ては

悲しみや苦しみを乗り越えて生き抜く力をこどもに与えること

そのためには自分の価値が大きいものであることを常日頃から教えておくこと

自分の価値を信じる力。深い静かな自信。

巣立ったこども達にはそれがあるかな。

あるといいな。

と思いながら遠くから見守る



アドラー認知のメガネ

2021-06-25 14:31:15 | 支えてくれた人・本
アドラー心理学にはいくつかの象徴的な考え方がある
 
認知論・自己決定性・目的論・全体論・対人関係論・共同体感覚・勇気づけ
 
全部解説する力は、もちろんないけれどこの考え方が身に付くと問題がおこった時に解決に向けての道筋が見えたり
 
まわりに影響されやすいタイプの人は生きやすくなると思う。
 
 
さてさてアドラーとの出会いをめでたく果たしたダッチェがまず食いついたのは
 
『認知論』
 
すべての人は事実を自分だけの主観を通して認識している
 
それぞれが自分の『認知のメガネ』を通して物事を見て解釈している
 
 
確かに確かに。
 
不登校状態の子がいる我が家を見て
 
「大変そう」って思う人がいたり「学校行けなくて可哀想」や「甘やかしてるのね」と思う人もいる
それはその人のかけてる認知のメガネがそういうことなだけで
 
そこにあるのは
「不登校」という状態だけなのだ
 
上司や家族が不機嫌そうにしているだけで
 
単に寝不足なだけなのに「自分のせいかも」と思ってしまうとかね
 
 
こういう認知のメガネの歪みを
『ベイシックミステイクス』という
 
  • 決めつけ
 
事実ではなく可能性でしかないのにレッテルを貼ってしまう
 
  • 誇張
 
ほんの1回、もしくは数回のレアケースを何倍にも増幅して認識してしまう
 
  • 過度の一般化
 
ある一部分の問題であるのに、全体の問題だと思い込む
 
  • 単純化
 
完璧もしくは満点でなければ、まったく意味や価値がないと切り捨てる
 
  • 見落とし
 
物事の一側面だけを見て、ほかの面にきづかない
 
  • 誤った価値観
 
非建設的な価値観で物事を捉える
 
 
いやいや、あてはまるっしょ
 
誰でもこうでしょ
 
って感じではあるけれど
 
 
確かに特に職場などでは問題がおこった時に
 
これを基盤に持ってるのと持ってないのとでは大きく違うし
 
人間関係のもめごとはだいたいが認知の歪みによっておこってるんだな・・・とあらためて感じる
 
時には自分もその波に飲み込まれそうになったり、実際どうしても好きになれない上司などにはダッチェ自身もサングラスかけて見てるとこあるかもって思う
 
なので、できるだけ話をする時は『建設的に建設的に』と呪文のように言い聞かせているのだけど、横からいきなり土台に亀裂を入れられたりすると気力奪われて
 
まだまだ未熟だなぁ・・・って
 
そうそう身につかないものだ
 
こうやって書いてるのも「おすすめよーアドラー」って感じじゃなくて
 
どっちかというと
 
「アドラーの考えは本当にすごいし素晴らしいんだな
 
アドラーになれない わたし」
 
とみつをさん的な感覚(あまりに下手すぎてたぶん一部の人にしか伝わらないかと
 
そんなこんなで
 
認知のメガネを知ってからは1つの事実に対してもいろんな捉え方をする人がいて、この人はどんな認知のメガネをかけてるのかなって思うようになった
 
人生は「そ、そんなつもりじゃなかった」の連続であったりもするから
 
伝えたいことが伝わるように
自分の目に見えてる景色が
相手も同じように見ているとは限らない
片づけ苦手で忘れっぽいけど、このことは常に頭の片隅にセットしておきたい
 
 
 
学校行ってない子が家でゲームばかりしていて
 
「ゲームばっかりして嫌なことから逃げてる」
と感じる人もいれば
 
「ああゲームできるくらい元気になったな」
と感じてる人もいる
 
不登校時代にアドラー知ってたら、人のアドバイスにいちいち振り回されなくてすんだかもなー
 
「あ、あなたのメガネにはそういう風にうつってますのね、わざわざ教えて下さってありがとう」と大きな心で感謝も伝えられたかもしれないのに
 
ほんと、マジで「学校行ったほうがいいよ」っていうアドバイスだけはいらないんで
どうしても言いたかったら「行ったほうがいいと自分は思う」と一人称でお願いします
ありがたく頂戴して家に持ち込まないように致します
 
 
と、最後にちょっこし毒吐きダッチェでまた今度