何か読めば、何がしか生まれる

純文学からラノベまで、文芸メインの読書感想文です。おおむね自分用。

水谷彰良『サリエーリ モーツァルトに消された宮廷楽長』の感想


(2018年8月読了)

 初夏の頃、Twitterを眺めていたら、絶版となっている本書についての復刊をめぐっての呟きが幾つかあり、興味を惹かれた。ちょうど仕事を手伝った知人が持っていたので、奇縁を感じ、拝借して読むことにした。
 本書が話題になったのは、スマートフォンゲーム『FGOFate/Grand Order)』にサリエーリをモチーフにしたキャラクターが登場するためのようである。私は、まだ冬木市で第4次聖杯戦争が行われていた頃に、知人がそれを読み解くのを横で見ていた程度の知識しかない(それでも、人類史上の英傑や偉人が「サーヴァント」として主人公たちに喚び出されるという基本構造は知っている)。そのため、以下の記述ではゲームへの言及はほぼゼロで、本書に関する要約と感想が大半であるということは予め記しておこう。
 なお、人名・地名などの表記について多少思うところがあるのだが(「ヴィーン」や「ベートーヴェン」など)、それらは本書に倣うこととする(数字表記のみ、漢数字からアラビア数字に変更)。

概要

第1章 誕生から宮廷作曲家就任までの歩み(1750~1774)

 モーツァルトを「光」とすれば「暗」の領分に甘んじていたサリエーリを、再評価しようとの機運が高まっている。
 アントーニオ・サリエーリ(Antonio Salieri)は、1750年8月18日、当時のヴェネツィア共和国の辺境レニャーゴに生まれた。早くに両親を亡くしたが15歳の時に音楽の素養を見出されて教師を得ると、やがてヴィーン宮廷作曲家フローリアン・レーオポルト・ガスマンの内弟子となる。ほか数人の音楽家の知遇を得て、19歳で最初のオペラ『女文士たち』を作曲し、その後の『アルミーダ』が出世作となって、気鋭の音楽家として注目を集めるようになった。
 恩師ガスマンが亡くなると、サリエーリは24歳に満たずしてそのポストの一部を継ぎ、ヴィーン宮廷室内楽作曲家およびイタリア・オペラ指揮者となった。

第2章 オペラ作曲家としての名声の確立(1774~1782)
 宮廷作曲家となったサリエーリはキャリアを重ね、私生活では結婚して父親となる。しかし、君主ヨーゼフ二世の行なった劇場改革により、ヴィーンの劇場事情はドイツ語文化に傾斜。イタリア人であるサリエーリはしばし不遇をかこつが、オラトリオ『イエス・キリストの受難』や、宮廷から休暇を得てミラノのスカラ座で『見知られたエウローパ』を発表するなど各地で活動し、名声を高めた。
 ヴィーンに戻ったサリエーリは活動を再開する。この頃、既にモーツァルトとの関係は微妙なものとなっていた。

第3章 モーツァルトとの確執とサリエーリの円熟(1783~1786)
 モーツァルトは、自分の出世を妨げるためにサリエーリが陰謀をめぐらせている、とする書簡を残している。しかし、その説は合理性に欠け、彼の性格的にも置かれていた状況の面からも、判断材料とするには限界がある。
 ヨーゼフ二世がイタリア歌劇場を再開したことで、サリエーリの仕事には順風が吹き始める。大先輩グルックとの「共作」という形で初めてのフランス・オペラ『ダナオスの娘たち』を成功させ、オペラ『トロフォーニオの洞窟』も大ヒットとなる。モーツァルトとの単幕オペラ対決も、『はじめに音楽、次に言葉』で優勢に終わった。
 モーツァルトの代表的オペラの1つ『フィガロの結婚』の上演に際しても、サリエーリが妨害工作を行なったとの説がある。しかし、劇場改革に伴う“ドイツ語オペラ組”と“イタリア・オペラ組”という構図、台本作者の間の対抗心など、背景には複雑な事情があった。

第4章 モーツァルトとの和解とオペラ作曲家としての危機(1787~1793)
 オペラ『タラール』は、専制君主を打倒する内容もあり革命期のパリで受け、サリエーリにとってパリで最大の成功を収める。これをイタリア語に合わせて改変した『オルムスの王アクスール』もまた大成功するが、それに先だち、先達グルックの死を悼まねばならなかった。
 オスマン・トルコとの戦争に備え、ヨーゼフ二世は再び劇場改革を行ない、劇場や歌手団は縮小された。そんな中、サリエーリは新たに宮廷楽長に任ぜられ、オペラを発表し、家庭も安定して幸福な期間を過ごしている。
 貴族制度を擁護するオペラ『花文字』は成功に終わったが、ほどなくヨーゼフ二世が死去する。後を継いだヨーゼフ二世の弟レーオポルト二世は、サリエーリら先帝の息の掛かった者を嫌い、解任や解雇を推し進めた。
 新帝への反感もあったか、ここでサリエーリはモーツァルトの楽曲を重用。かつては競争関係だった両者は、ここに至り和解した。それから間もなくモーツァルトは他界し、間接的に2人が和解する空気を作ったレーオポルト二世もあっけなく死去した。
 次の皇帝フランツ二世は音楽に興味を示さず、サリエーリは宮廷楽長の地位に残りはしたが、事務的に職務を遂行するに留まった。次なるオペラの準備を進めつつ、モーツァルトの遺した弟子や遺児に教育を施した記録が残っている。

第5章 オペラ作曲家の終焉(1794~1813)
 モーツァルトや娘の死などでしばし停滞していたオペラの創作意欲も次第に復調し、『ペルシャの女王パルミーラ』、『ファルスタッフ』といった成功作を発表した。しかし、もはやロマン派歌劇が到来しようという時代、サリエーリのオペラは次第に時代遅れという評価が下されるようになっていく。イタリア語のテキストについて声楽を作曲するため、ベートーヴェンがサリエーリの教えを受けるようになったのは、1795年頃とされる。
 1804年の『黒人』をもって、サリエーリはオペラ作曲に終止符を打つ。34年間、未上演3作を入れて全41作の製作実績となった。同じ頃に作曲された『レクイエム』は、自身のオペラ作曲家人生に手向けたものだったのかもしれない。
 ナポレオン軍がヴィーン入城を果たし、また妻テレージアが亡くなるが、サリエーリは職務を遂行し、宗教音楽の作曲も続けた。次第にヴィーンの音楽界全体を見渡すようになっていたサリエーリは、弦楽器の奏法について意見を寄稿し、クロノメーターメトロノームの前身)を評価するなどもしている。

第6章 教育者としての活動と晩年の日々(1814~1820)
 ヴィーン会議、それに続く戦争の下でも、サリエーリは職務に励んだ。1816年には、シューベルトを含む弟子たちによってヴィーン生活50周年を祝われてもいる。作曲・演奏、あるいは声楽においてサリエーリは多くの弟子を持ったが、数が増えすぎたため歌唱学校の設立を思い立ち、実現に尽力。これは後のヴィーン音楽大学の前身となった。
 いまやサリエーリは70歳を目前にしていた。身体の不調を覚えながらも、彼は弟子を教え、貧しい音楽関係者を助け、旧作を改訂するなどの仕事に注力した。
 74歳でその生涯を終えたサリエーリだが、その最晩年を汚した一件があった。モーツァルト毒殺疑惑である。

第7章 モーツァルト毒殺疑惑に汚された最晩年と死(1821~1825)
 映画『アマデウス』によって流布された疑惑は、これまで見てきたサリエーリの姿から、そして種々の証言から事実ではないことが分かる。背景にあったのは、イタリア人作曲家ロッシーニのイタリア・オペラがヴィーンで大流行したことによって危機感をつのらせた国粋主義的な勢力の画策であり、老齢かつドイツ語に堪能でなかったサリエーリ自身の言動がこれを助長したものと思われる。ただし、彼の死までの1年半について、自殺未遂、罪の告白、精神錯乱などがあったという事実は確認できない。
 先行する文献は、各人によるサリエーリ擁護の言説を各個に独立したものとして扱ってきた。しかし、既に警察国家であったヴィーンにあって、それらはモーツァルト毒殺容疑が刑事事件として捜査されたことを示す。
 そうした文脈から、サリエーリ弁護の論陣が張られたものの、ほどなく当のサリエーリは死去した。その後も疑惑は人々の関心を集めたが、モーツァルトの遺族は信じなかったと思われる。
 およそ10年後、ロッシーニにサリエーリと同じような疑いがかけられ、これは明確に覆された。今日に至っても、サリエーリが被ったような冤罪の構造は失われていない。

補章 現代のサリエーリ復興
 忘れられていたサリエーリのオペラは、作曲者生誕200年を迎えた1950年を契機に復活することとなった。生誕250年に当たる2000年には、故郷レニャーゴで彼にちなむ催しも行われている。
 サリエーリに関する近代以降の主要な研究書としては、以下のものがある。
○アンガーミュラー『アントーニオ・サリエーリ、生涯とその作品』(1971~74)、『アントーニオ・サリエーリ、事実と史料』(1985)、『アントーニオ・サリエーリ、その生涯の記録』(2000)
○デッラ・クローチェ/ブランケッティ『サリエーリ問題』(1994)
○ライス『アントーニオ・サリエーリとヴィーン・オペラ』(1998)

感想

 …件のゲームだけでなく、映画『アマデウス』も観ていないので、それらでの印象は分からないのだが、本書を読んで浮かび上がってきたサリエーリのイメージは、基本的には穏やかで、真面目に職務に励む男、というものだった。幾つかの要素ごとに細かく述べたい。

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オペラ作品たち
 音楽家の評伝から音楽を抜きにはできないだろう。特にオペラはサリエーリの代表的な仕事として差し支えないと思われる。
 どんな好打者でも打率10割が有り得ないように、サリエーリのオペラも成功と失敗を繰り返している。私が特に気になった演目は、以下の3つである。

 まず、『はじめに音楽、次に言葉』はストレートに面白そうと感じた。本書の記述(p.123~124)によれば、詩人と作曲家のオペラ作りにまつわる風刺喜劇という内容で、現代で言えば三谷幸喜の作品のような味わいだろうか。ぜひ観てみたい。
 パリで初演された『タラール』も、フランス的な様式にイタリアの喜劇的要素や軽妙な旋律を取り入れたという(p.145)点が気を引いた。専制君主が倒れるという内容を承知しながら、ヨーゼフ二世が親族の祝賀会で上演しようとした(p.151)経緯も含め、興味深い作品である。
 また、これは演目に対する興味とは少し違う気もするが、フィレンツェで『ヴェネツィアの市』の稽古をした際、合唱団員の殆どが商店務めの副業であるため人が来なかったというエピソード(p.78)には笑いを誘われた。大衆が気軽にオペラに関わっていたということであり、これは現代の人々がエキストラ募集に応じるようなものだろうか。
 その他、性格が反転してしまう洞窟という仕掛けが面白い『トロフォーニオの洞窟』も楽しめそうである。どちらかと云えばコメディタッチなオペラの方が、私には興味深いらしい。

 上記を含む演目の内容が詳述されており、同時代のオペラ案内としても興味深いのだが、オペラ用語については特に注釈もなく用いられているので、私のように全く素養がない状態で読むと意味が取りづらいかもしれない。以下3点は、気になって調べたものである。
 まず、オペラ歌手の紹介箇所で頻出する「創唱」という言葉。辞書的には「それまで言われなかったことを初めて唱えること」であり、学説の提唱などを指すようだが、オペラの文脈では「その演目の初演で歌うこと」という意味のようである。その後のオペラ歌手が初演時の歌い方を参考にするのは明らかだろうし、それゆえ初めて歌う者が特別視されて用いられるようになった言葉なのだろう。
 オペラの一形態らしい「ジングシュピール」も注釈が欲しかった。ドイツ語の言葉と思われるが、ここにはドイツ語によるオペラというだけでなく、大衆演劇的なニュアンスがあるようだ。空想的でコミカルな演目が多く、悲劇が題材にされることは少ないという。
 「オペラ・セーリア」と「オペラ・ブッファ」も断りなしに登場する用語である。前者はシリアス、後者がコミカルな演目だという理解で、とりあえずはいいようである。

 以上のような用語を交えつつ、オペラや曲のキャストや公演地といった情報が記述されているのだが、そうした情報は、本文ではなく表の形にすればいいのに、と思わないでもなかった。誰が演じたか、どんな都市で何回公演されたか、などの情報を本文で書き連ねられると、どうしても目が滑ってしまう。巻末には念の入った作品目録などがあり、そちらとの兼ね合いかとも思うが、それにしても、簡単な表か箇条書きにした方がよかったのではないだろうか、と思う。

啓蒙的君主の肖像
 オペラに限らず、サリエーリの出世は自身の才能によるところが最も大きいのは無論だが、彼を後押しし、長く重用したドイツ皇帝ヨーゼフ二世の存在も重要だろう。この皇帝についても、本書はそれなりの分量を費やして描き出している。
 彼の発言や書面の訳文の雰囲気がそう感じさせている面もありそうだが、記号的な「皇帝」ではなく、味わいある「人間」として描かれている点が興味深い。特に、その前後の記述を読む限りどれほど本気だったかは不明だが、なかなかヴィーンに帰らないサリエーリに、いじけた感じの伝言を伝えた(p.81~82)あたりなどは微笑ましさすら覚えた。
 華美に走っていた宗教音楽に対して抑制しようとする勅令を出す(p.133)など、芸術に一家言を持ち、革新的な政策を打ち出す一方で、オスマン・トルコとの戦争に自ら出陣する(p.154~155)など、古来の君主としての務めを全うしようとする様子は錯誤的だが、その錯誤が先述の人間味と相まって魅力的でもあるように思える。後を継いだ皇帝たちについての記述は少なく、そのため彼の魅力が増して見えるという気もするが、ともあれサリエーリにとっては、単なる主君に対する以上の尊敬を抱くに足る皇帝だったことだろう。

先達・教師・名士として
 若い頃のサリエーリの活躍の記述もそれなりに面白いのだが、単調な印象も否めない。それよりも面白みが増してくるのは、中盤以降、相応の地位を築いたサリエーリが、モーツァルトベートーヴェンといった後輩あるいは弟子たちとどのような関係を築いていったか、という部分だと思う。
 特筆すべきは、やはりモーツァルトとの関係だろう。読んだ印象では、模範的で地位のある先輩と、そんな先輩に勝手に対抗意識を燃やす後輩という感じで、「あとがき」にある「モーツァルトがサリエーリを毒殺したなら話は分かる」と語ったとある研究者と同様な思いを抱いたのは確かである。
 ただ、両者は峻烈な対立をしていたわけでもないようである。モーツァルトとの和解がなされた、とする場面(p.173~176)には著者も思い入れがあるようで、印象的だった。敢えて2人がサラリーマン的な立場であったように解釈すれば、これまで上司(ヨーゼフ二世)のもとで出世争いをしていた2人が、上司が変わってどちらも干されてしまったという感じだろうか。同じように干された歌手カヴァリエーリも一緒に、くさくさして酒を飲んだのかと思うと、得も言われぬ身近さを感じる。

 サリエーリは多くの生徒を教えており、後半はそうした記述も増えていく。ベートーヴェンシューベルト、リストといった名だたる作曲家が、サリエーリの薫陶を受けたとは知らなかった。
 ベートーヴェンは、30代という遅い弟子入りだったためもあろう、モーツァルトと同じような心持ちから、いささか師に反発的なところがあったようだ。その点シューベルトは割に素直だった印象を受ける。彼がサリエーリのヴィーン生活50年を記念して贈った「祝典カンタータ」の歌詞(p.235)は、あまりに手放しにサリエーリを讃えていて笑ってしまった。しかし、ここまで素直な賛意というのは現代では失われた美徳と言うべきかもしれない。
 サリエーリ最晩年の弟子リストは割と好きな作曲家だが、本書の主題からは外れているためそれほど記述がなかった。この師弟の間にはどんなエピソードがあったのか、もう少し知りたい気もする。

 地位も財産もあったためということもあるだろうが、サリエーリは音楽関係者を支援する篤志家としてもなかなか熱心だったようである。自分が早くに両親を亡くしたために、同じような境遇にある者を助けようという考え方は、とても善良である。
 こうしたサリエーリの行動は、モーツァルト毒殺疑惑を否定する傍証とも言えると思うのだが、どうだろうか。とはいえ、本文中でたびたび言及される慈善演奏会の開催頻度を考えると、そのような支援が当時の常識の範疇だった可能性も無いではないが。

「理解された秀才」と「理解されなかった天才」
 そして、著者が本書を書いた最大の理由であろう“サリエーリがモーツァルトを毒殺した”との疑惑に対する検討と結論は、もちろん本書のクライマックスと言っていいだろう。最後の第7章で展開される証拠の提示と推論は、にわかにミステリ小説のような味わいを醸し出している。
 そうして出された結論をここで繰り返しはしないが、モーツァルトの死が35歳だったことは、「当時のヴィーン人の平均寿命は男性が36歳から40歳、女性が41歳から45歳だった」(p.251)という情報からすると、それほど奇異な印象を受けないということは付け加えておきたい。

 疑惑がなぜ流布したか、という問いについて、著者は以下のように述べている。

「映画『アマデウス』の筋書きは、プーシキンの劇詩『モーツァルトとサリエーリ』(1830)で示された「神に愛でられた天才と凡人の相克」という基本図式の延長上にあるが、直接の原作に当たるシェファー劇がサリエーリの容疑への最終的判断を観客一人一人に委ねていたのに対し、フォアマン監督はあたかも事実であるかのようにサリエーリの有罪を描いたことに問題がある。」(p.255)

「合理的と信じられている説明や了解事項の根源に、きわめて非合理な動機や無意識の思考が隠されているという事実を、私たちは理解しておく必要がある」(p.299)。

 まことに頷ける記述である。
 現代において、サリエーリの時代よりも客観的情報を得る方法は増えているし、情報自体の精度も高いはずなのに、彼やロッシーニが被ったような疑惑が生じるのを防ぎきれていないのは、その根本的な原因が人間の心にあるということを示している。容易に解決できない以上、そういうものであるという前提に立って考える他ないだろう。

 それはそうと、プーシキンが『モーツァルトとサリエーリ』を書かなければ、映画『アマデウス』も存在しなかったであろう。作家的想像力を責めるわけにはいかないのは無論だが、もしもサリエーリがプーシキンに一言いいたいとしても、私は止めようとは思わないだろう。
 ただ、プーシキンが創始した「神に愛でられた天才と凡人の相克」という構図が、「理解されなかった天才」と「理解された秀才」の対比だとすれば、興味深い。サリエーリが長く宮廷楽長に留まった「理解された秀才」だとすれば、出世を望むもなかなか認められなかったモーツァルトのような「理解されなかった天才」の方が、苦しむのだと思う。

本書の周辺
 本書の後、サリエーリ関連の文献はどのようなものが登場したかと少し調べてみたが、少なくとも国内では有力なものはないようである。12月ごろに本書の復刊がなされそうだが、その際に行われると目される著者の増補・改訂が、一般人が触れられる最新の情報ということになりそうである。

 「あとがき」から、もう少し情報を拾いたい。まずは著者の前著『消えたオペラ譜――楽譜出版におけるオペラ400年史』が興味深い。

 本書でもしばしば言及されているが、どうもサリエーリたちの時代には、楽譜の売上げが人気の指標だったようである。現代のCD売上げや楽曲ダウンロード数のような位置付けだったということだろうか。上述の本が、その辺りの事情について詳述したものだとすれば、出版に関する歴史の1ページに触れられる、ということにもなりそうでもある。
 また、水谷氏が脱稿直前に触れ「励まされた」と付言しているチェチーリア・バルトリの『サリエーリ・アルバム』も気になるところである。動画サイトなどを巡ればサリエーリの楽曲を聴くことは簡単だが、この新録音はまた違った味わいをもたらしてくれることと思う。

サリエリ・アルバム

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 最後に、本書の絶版と復刊をめぐる流れを受けて、私見を少しばかり書いておきたい。
 本書のような本を印刷し、在庫として持っておくのには、なかなか覚悟がいることと思う。復刊はされそうではあるが、だとしても、電子書籍化は検討されるべきではないだろうか。在庫を持つ必要はないし、奥付の記載を見ればDTPで作られているようなので、校了データさえあれば、電子書籍用のファイルを作ることはそれほど困難でないはずである。
 そうした問題をクリアしていても、書店や取次などとの関係を思うと、踏み切れないという会社もあるだろう。しかし、求めている人がいるという点からも、研究者の立場からも、不利益よりも利益が勝るように思うのだが、どうだろうか。

サリエーリ―モーツァルトに消された宮廷楽長

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