ダーリン三浦の愛の花園

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明日のためにその483-ohエド日記

2020年08月19日 | 音楽
昔のバンドマン事情の知れる貴重な話。

以前にもこのブログで紹介した、エド山口がYouTubeで放送している「ohエド日記」。
最近まで、とても興味深い内容を放送していた。
「バンド屋物語」と題した、16回に及ぶ内容である。
昭和40年代初期からの、エド山口が経験した、クラブ等でのライブ経験の物語である。
またこの話の内容が濃い。彼自身の経験が元であるので、普通の人には全く知りえない内容なのだ。
彼は最初、バンドのベースから始めたのだが、そのビートの打ち方をバンマスに教えてもらったくだりにはじまり、自身が最後のバンドを解散するまでを語っている。
ちなみに、彼の最後のバンドには「グッチ裕三」と「モト冬樹」が加入していた。

やはり驚くのは、エド自身の音楽知識と感覚である。これについては、業界広しと言えども、彼の右に出る者は少ないと思しい。
昭和40年代当時存在した、様々な踊れるクラブ。そこで腕を磨いてきたバンドマン達。どの話も、思わず身を乗り出して聴いてしまった。
中でも驚いたのは、当時のクラブ専属バンド(箱バンと呼ばれたらしい)は、曲の頭のカウントを入れれなかったというのだ。
通常、どんなバンドでも「ワン、ツー、スリー」と言う、通常はドラムのステック音で始まるのだが、それを入れれなかったという。
もし入れようものなら、そく「クビ」になったというから恐ろしい。
しかしそこは練習の賜物で、彼らは全く入りのカウント無しで、曲を演奏していたという。
今では考えられない事だ。
そしてギャラの面でも驚いた。当時の事を調べてみると大学卒業者の初任給が5万円ていどだが、彼らはバンド全体で100万~120万のギャラを手にしていたという。
バンドメンバーは5人だったので、一人当たり約20万円もらっていたのだ。なんと、大卒初任給の4倍以上である。
しかし、機材の購入等で結構経費もかかったと言う。

箱バンはいつも早い時間に来て、練習を繰り返したと言う。そこで培われた技術、知識は並大抵のものでは無かったのだろう。
エドは夢叶い、念願の新宿「ムゲン」と言うクラブに出演する。
そこに出演したバンドは、当時「最高のバンド」と称され、バンドマンのステータスになったと言う。
そして、彼らに初めてマネージャーが付き、いよいよレコーディングができる手筈が整った時、バンドは解散をしてしまう。
詳しくはYouTubeの彼のチャンネルを観ていただきたい。
若干話に難があるのは、物語の舞台が東京なので、彼の話すクラブ等のロケーションを理解し辛いところか。
しかし、音楽好きな人には、洋楽ロック等の語り部となって、彼が話してくれている内容には、とても満足するはずである。

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