沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

この国の終わり 何がこの国をだめにしたか? 終章

2022年08月09日 10時50分06秒 | 政治論

 今から77年前、1945年8月6日午前8時15分、米機B29エノラゲイに搭載された原子爆弾リトルボーイが、抜けるように晴れた夏空の下、直下600メートル、広島市細工町(現:広島市中区大手町)の島病院の上ですさまじい光線を放ち炸裂した。焼失面積13.2 km2、死者118,661人、負傷者82,807人、全焼全壊計61,820棟の被害をもたらした。

 昭和20年8月9日(木曜日)午前11時02に、アメリカ合衆国は枢軸国日本長崎に対して原子爆弾ファットマン]」を投下した。この原子爆弾が人類史上において2回目かつ実戦で使用された最後の核兵器である。原爆の投下により、当時の長崎市の人口24万人(推定)のうち約7万4千人が死亡、建物は約36%が全焼または全半壊した。

 人類史上最初で最後?(8月9日の長崎も含め)の大量無差別殺傷兵器が、現実に無辜の市民の惨たらしい阿鼻叫喚・地獄絵図を我々の前に開陳した瞬間だった。それは戦争の早期解決と自国米兵の犠牲を最小限にする(という言い訳)目的で米国大統領トルーマンが言わば禁忌の核のボタンを反知性的に押したからだった。現今あらゆる米国民は一部を除いてかかる歴史認識のもとその判断を是とすることに加担している。従って、彼らは原爆資料館を見た後も「それでも」と言ってそのように感想を述べるのが一般だ。日本人は、彼らの、国家を背にして無感情な言葉で締めくくるその態度に満腔の憎悪をもって対すべきであろう。

 キューバ革命の英雄エルンネスト・チェ・ゲバラは戦後、革命政府の要人として来日、このとき予定を変えてまでして広島を訪問、原爆記念館を視察し館の案内者に「きみたち日本人は、アメリカにこれほど残虐な目にあわされて、腹が立たないのか」と英語で問いかけたという。

 「はだしのゲン」の作者中沢啓治氏は生前「なんで怒りをぶちまけて、戦争を起こした奴を追及しねえんだと。戦争がなかったら原爆まで落とすことはなかったじゃないかと。それをしなかった。この日本人の曖昧さというのが大嫌いなんです」と語っている。

 一人の政治屋があれだけ「悪いこと」をやって何らの断罪もされぬまま、「強盗を見す見す目送する」形質で歴代最長在位まで許した日本人は、政教分離原則を何食わぬ顔で無視しつつ(反社的集合にほかならない連中を)集票マシーンとして利用する政治家たちなど永らく野放しにし、結局自公系政権として、割に合わない数の論理(全有権者数に対して2割程度の政権)で不当な多寡の権力の座に就かせ(圧倒的過半の議席献上)、就かせ続けるこの不可思議な在り様は、俄かに一国民として承服するわけにはいかない、ということ。戦後日本人は押し付け民主主義のまやかしに満ちた詐欺的横行の中でその日暮らしの「政治的無関心」層が半数を占め、残りは「他に適当な者がいないから」という、理由にならない理由で自公系候補に貴重な票を投げやり、結局、己の首を自ら締める行為を続けてきた。

 国土の中の多くの僻村に58基もの原発を造作すべく推進したのは自(公)系保守政権であった。但し、正確にはアメリカが作れと言った(1953年ドワイト・D・アイゼンハワー大統領国連総会で「平和のための原子力演説を行った)からそうしただけで、その功罪と安全性等の検証は当初から見過ごされていた(安全神話)。アイクの演説は自国が真っ先に開発した原子力エネルギーの使い道が戦後核兵器以外になくなることを懸念し、併せ原子爆弾の最初の使用者としての罪悪感を糊塗するためなされたとしか言えない。

 あの福島第一原発事故はどう言い訳しようが、被害の規模からして間違いなくこの国が、自公系保守政権が、推進した原発政策そのものの犯した国家犯罪であり、その時点で裁かれて然るべき状況にあったが、第2次安倍政権は原発セールスさえためらうことなく、国勢は再稼働やあろうことか新設まで実施しようとしている。つまりこれがこの国の在り様なのだ。当然原発から出る使用済み核燃料(プルトニウム)は核兵器の原料そのものだ。つまり世界の非核化に逆行する事実であり、これに唯一の被爆国日本は加担している、こういう本質からすれば一度の悲惨な体験くらいではこの国は何も感じない、学ばない、自己の先行きを考えられない、まさに精神年齢12歳程度の幼弱さということになろう。

 先の大戦に至る近代化後の日本という国を国民レベルで何ら検証せず追及せず、敗戦に至る過誤を断罪もしない戦後日本の国民は、「民主主義」など本質的に諒解してない国民そのもので、本土決戦をもって最後の一人まで玉砕覚悟で対すべきところ、天皇裕仁一人のための国体護持を約定せしのちは大和民族の矜持などどぶに捨てて顧みない(ポツダム宣言受諾、無条件降伏)、この醜悪な民族的在り様を一体どれだけの人が悔いたのだろうか?

 沖縄も広島も長崎も、この国の近代化を推進し結局のところ愚劣な敗戦に至らしめたこの国のえせ指導者たちに、特に昭和天皇に彼らの罪は決して許せないと声高に叫ぶ以外ないおのれの無力をこそ嘆くのだ。

 

 

 

 

 

 


この国の終わり コロナ禍第7波その他 その1

2022年07月21日 08時46分58秒 | 政治論

 ここ数か月、筆者自身の病態により浮世を離れて完全看護の病床(コロナ禍で面会禁止)に就いたり、その後ひたすら養生したりしている間に、この世は様々な変容を遂げているわけで、その故にほぼ純粋培養された精神の態様は次のような在り様を示している。

 心房頻拍という不整脈を発症し、6月3日入院した循環器病棟で2週間経過観察したがその後何も起こらずに6月18日退院。心房頻拍は1分間150回ほどの頻脈が連続して止まらない不整脈(頻脈)で、AED(除細動器)で一度心停止し、電気ショックで回復させるという荒業が施された(通常は薬物で簡単に正常化する)。

 筆者の場合、3月に3回目のワクチン接種後4日ほどして心筋梗塞を発症、カテーテル手術により梗塞した動脈をステント(金属のチューブ)処理しバルーン(風船)で血流回復という病態を経験していたので、不整脈処置後なお経過観察が必要とされたもので、今月末には不整脈起生個所の排除のため更にカテーテル手術が予定されている。

 ところで何度考えても何故心筋梗塞を発症したかわからない、多くの場合何らかの強いストレスが一時的に集中したようなときに起こると言われ、思い当たるのは、その数日前に実施したファイザー社の3回目のワクチン接種以外ないのだった。

 既に巷間では4回目のそれが検討されているのだが、今は到底受ける気にはなれない。接種で起こったとしか言えないかつてない筋肉の微妙な痛みも気になる。その後の何らかの不具合が気のせいか皆そこにつながる。所謂ワクチン副作用だ。

 コロナ感染者に起こる後遺症もまた、よりひどい症状で数か月も苦しめられるという事例が後を絶たず、菅前首相があの時期ワクチン至上(ワクチンさえ打てばの掛け声)を謳ったのはいかにも全体主義者の単純すぎる発想であり、波打つ感染者数を経済主義(経済活動優先)で軽視し、結局一定数の重症後遺症者や接種後死亡した者に負担を強いた格好だ。軽度の感染でも後遺症を免れないというのに、世界中がどうやら感染可能性への警戒感を薄める方向へ流れ始めている。

 感染力の強いオミクロン株BA.5により第7波が生起しているが、沖縄では国同様何らの対応策も出せぬままで医療関係者や専門家が警鐘を鳴らし続けている。このような事態は、どうやら神がかりの奇跡でも起こらぬ限り好転する気配がないらしく、人事を尽くしてさえなお目に見える効果というものが望めそうもない、つまりはお手上げ状態であり、結局のところ無為無策、国も他の行政機関もあってなきがごとく、何となく個人の責任に転嫁(菅が言った「公助」なき「自助」)して、これまで通り5項目程度の単純な回避策の実行遵守以外には方途がないわけだ。しかもこれをひとし並みに各自が徹底すれば徒な感染拡大は間違いなく防げる。

 さて安倍君は7月8日、得意げに(そう見える)応援演説している背中方向から数発の銃弾を浴び、事実上即死状態(心肺停止)でその67年の生涯をその日のうちに終えた。晩年は、漸く翳り気味の権勢を自ら惜しむかのように、追随する女性議員やネトウヨ系議員、極右的政治家の後押しや何やら画策を続けていたが、ある日突然、非現実的白昼夢の中に現代的で奇怪な死を遂げたという印象だ。思い出されるのは森友事件で自死した赤木氏とその家族の無念さ、あるいは加計学園事件、桜を見る会事案と、彼の在任中の明らかなグレイゾーン案件が放置されたまま闇に葬られたという印象が、一般国民の脳中には間違いなく渦巻いており、到底安閑と哀悼追悼適わぬ心境に落ちるのだ。そういう意味で彼の死は一人の人間のありふれた死(死はありふれたものだ)とは決して言えないものがある。岸田の「国葬言上げ」などは、どうしても神経逆撫での、丁度あのコロナ禍の東京オリパラのような、時宜を得ない非政治的暴挙としか言いようもない。

 参院選は自公維等改憲勢力の圧倒的勝利(安倍氏憤死の弔い合戦などと言われている)で終わり、向後誰が何を言おうがほぼ絶対的に動かない平和憲法への無駄な攻撃が繰り返される。敵基地攻撃なる物騒な議論も防衛費2%への拡大という好戦的にして野蛮な思惑も、到底国民に向けてまともになされるべき話ではない。コロナ禍でも議員報酬返上さえ誰一人言い出すものもなく、共闘すべき野党が、ああでもないこうでもないと言っては無様に与党の組織力の前に敢え無く潰える、その愚かしさは目も当てられない。

 現在の野党には確かに政権担当能力はないだろう。共産党以外は自公系の保守停滞主義と大差なく、れいわの「正論」がどこまで打倒与党への武器として有効かを見定めねばならない。群小多党状況には時代閉塞の突破口は見いだせない、だから(国民の)代議員を選ぶ現行公職選挙には半数近くが「絶望」して棄権し(と思われる)、残りの半数にあって組織集票能力ばかりに長けた自公系政治集団が全有効有権者数の中の2割程度の支持で、絶対安定多数などという茶番劇がどこまでいっても絶えないわけだ。

 「葉隠れ入門」に「武士道とは死ぬことと見つけたり」とある。安藤昌益並みに物申すなら、所詮無為徒食の「武士」などに生や死の本当の意味がわかろうはずもないが、もし武士道という理念的な「道」というものがあるとすれば、この階級的不公平を身に戴した有閑人種に残された真面目が唯一「死」であろうことは直ちに納得できる話ではある。三島由紀夫は彼自身戦時において最も近しく感じた「死」を通して考えないあらゆる現代思想を否定する。一方で今、戦争体験もない我々が「死」を想起するとき、どうしても(生死のやり取りが現実にあった)先の大戦と敗戦という歴史的経験に立ち戻らざるを得ない。そこにしか我々の生(せい)のリアリティが見いだせないということを実感する。どういうことか?

 不確実性の時代に自然の脅威(地震、洪水、噴火、コロナ禍など)に怯えながら、拠所ない不安を抱えて動物的に死を恐れるというような、虚無感に満ちた生を生きなければならない我々現代人は、おのれらの生や死が何一つ意味を持たないと考えることには耐えられない霊長類として、その生と死へ精神的にアプローチするのだが、周辺を俄かに見渡してさえ何らの「義」のきっかけすら皆無と来ては、無差別殺人や自殺(死刑)願望の道連れ人殺しも「理由なき反抗」として時代を象徴しているとさえ思いたくもなろう。

 安倍君のああいう死に方(決して英雄的でなく悲劇的でもない、ただ白昼夢のように無意味な死に方)はこの時代の閉塞性を暗示している。ある意味我々の誰もがそういう生き死にを味わうことになるかもしれない。

 ネトウヨ、時代的モブ(社会的劣悪部分の集合)、日本会議、極右勢力らの非論理的「新自由主義」の横行。歴史修正主義。世の中あげて滅茶苦茶なposttruth現象が渦巻き、魑魅魍魎跋扈。人知が到底追いつかない自然界の襲撃に右往左往。何ら責任所在が問われない統治機構。国が国民をスラップ裁判にかけ、一民族に限って虐待する。

 どこをとっても「義」は見いだせない。「国民のための政治」はなく、権力者の脳漿に宿った「妄想」から出る稚拙な「国家主義」が国民をないがしろにし国民は生活苦にあえぐ。「日本!死ね」は恐ろしいほどに現実的なうめき声ではないか。

 あの戦争の敗北以来大和民族は死んだ、民族的矜持は潰えた。しかしそれはどうみても階級的上層部分の話であって、平たく言えば国民には何の関係もないことだったと思われる。このことを忘れてはならない。

 天皇大権と知的選良階級(帝国官僚機構)----明治維新の歴史的跛行性と決定的な責任媒体の欠如、並び超国家主義的飛躍、神国幻想、非科学的観想、非論理的覇権的暴走---が織りなした度し難い玉砕性がこの国の敗戦までの国柄であり、その国は、盲目に皇国国体を死してさえ護るべく生きよとその民に強い、沖縄、広島、長崎を集中的に生贄とし、かつは、本土決戦など全く為す気概もなく、天皇国体護持が約束されたとたんもろ手を挙げてぶざまに降伏した。この瞬間大和民族の民族的矜持はかなぐり捨てられ、「死」と「生」は無意味な日常的雑事と化し、意味もなく「義」もない、動物的獣的在り様に堕したのだった。

 安部君の死はそういう戦後日本の国柄を彷彿させる。アベガー(安倍氏批判媒体?)が悪いと言い出した文化人がいたが、事実は真逆の内容だったらしく、ここにも思い上がった非論理的な風潮を感じないわけにはいかない。

 

 

 

 

 


筆者過去記事援用 詩616 宮森小学校米軍機墜落激突児童等殺傷事件 1959年6月30日 

2022年07月01日 11時35分06秒 | 政治論

 1959年6月30日、沖縄(このとき米国占領下にあり日本国での行政単位が存在しないので県ではなかった)の石川市(現うるま市)にあった宮森小学校に、操縦不能となった米空軍機F100Dジェット戦闘機が民家35棟をなぎ倒した後激突炎上、死者17人(小学生11人、一般住民6人)、重軽傷者210人、校舎3棟を始め民家27棟、公民館1棟が全焼、校舎2棟と民家8棟が半焼する大惨事となった。

沖縄宮森小学校への米軍機墜落大惨事(1959年)と沖縄の心 (youtube動画)

https://www.youtube.com/watch?v=NoVCCKRGdfc

 

 この同型戦闘機が事故前年に起こしたクラスAの重大事故件数は実に168件に上ると言われる。事故原因とされた「操縦ミス」は大嘘で1999年になって「整備不良」が原因だったことがわかった。つまり使用してはならない機種だったのだ。しかも墜落直前に50kg爆弾を海上投棄していたのだった。そのまま激突していたら被害はもっと大規模になっただろうと言われる。

 筆者はその頃小学生でこの事件の報道にはメデア等一切接してない。同年9月には確か、紀伊半島から東海地方を中心としてほぼ全国規模で甚大な被害を受けた伊勢湾台風があった。こちらは学校の児童委員会で、義援金とか救援物資とかが議題に上ったという記憶がある。その2年前1957年に那覇市長瀬長亀次郎氏が米国民政府、高等弁務官ジェームズ・ムーア中将布令によって追放され被選挙権を剥奪(1967年回復)された。これは瀬長氏の一連の、反骨精神に満ちた不屈の闘いが、いかに米国政府をして恐懼させたかを象徴する事件だった。(つづく)

 

 

 

 


この国の終わり 6月23日「慰霊の日」が沖縄にとって意味するところ

2022年06月22日 13時37分13秒 | 政治論

 6月23日、この日は条例で、沖縄県および沖縄県内の市町村の機関の休日となっている。勿論祝日、と言う意味でそうなのでなく、沖縄戦等で没した日本の軍官民と異国人(全戦没者)に対し慰霊の意を全県挙げて体し、併せ追悼の意を表する日とされる(そのあとの永遠平和を祈念するというのは付け足しか?)。当然先の大戦と15年戦争で死没した人々に世界中の国々が関わっているわけで、この慰霊の意には沖縄という日本国における一地域の、特別に限定された含意が込められているというものでもない。これが本土の日本人には誤解されやすいところでもある。

 しかしながら、歴史的客観に付された「沖縄戦」は戦略的には「無駄な戦争」であり、「本土防衛の捨て石」「本土決戦の時間稼ぎ」と言いながら結局勇ましかるべき大和民族の「本土決戦」自体がなかったし、ポツダム宣言受諾は天皇の身の安泰が約された結果として、無様な無条件降伏を呑んだ意味としかとられず、「沖縄戦」で無差別に殺された沖縄県民はいかに糊塗しようと本土国民と天皇の「人身御供」「人柱」つまりは犬死にだった。そのためには県民の4人に1人が、鉄の嵐の艦砲砲弾と容赦のない戦闘機爆撃の下、無数の死者たちの血と泥の中で悶死しなければならなかった。

 つまり本来なら沖縄戦で死没させられずにいなかった沖縄県民、一般市民の慰霊祭であるべきところ、戦後様々な経緯の中で広島原爆や長崎原爆の慰霊祭同様、何か重要な核となるべき「問題点」や声を上げるべき真実が希釈され、一過性の約束事のようにこの日を過ぎれば「はい、解散」とでも言いたげな扱いに堕していったというのがこの国の、先の大戦にまつわる殆どすべての事案の成れの果て、意味も礼節も何もない空しい空砲という運命を辿った。

 最も罪が重いのは昭和天皇裕仁であり、沖縄県民の言わば不倶戴天の敵と言える。彼が例えば近衛文麿の進言を受けて敗戦間近のこの戦争を「沖縄戦」なしに終わらせられたら、そして戦後マッカーサーなどの覇権的言辞に惑わされず西側陣営の極東の防波堤論などに加担せず、沖縄軍事要塞化を拒否するメッセージこそ発していたなら、戦後沖縄の悲劇的悲惨な境遇は聊かでも緩和できたろうに。しかし彼は日本国憲法で言うところの「政治的発言」を沖縄島嶼に関してわざわざ、異国への「売り渡し」実質で発したという歴史的事実は、今でいえば間違いなく憲法違反、従って直ちに削除訂正すべきものだと言える。戦後巡行が沖縄に及ばなかったのは彼の見え透いた罪悪感のせい以外考えられない。

 勿論、この天皇の罪悪は根本的に免責できない質にあり、東京裁判などという、戦勝国復讐裁判の茶番劇では決して「本質」を穿つことはできず、司法取引などで済まされるような質の犯罪ではなかった。一国の国民全体が完全に巻き込まれ従わされた結果としての戦争行為であり、統帥権以前の問題が厳然としてあったのだ。最高責任者としての大権、統帥権は軍部の暴走などという言い訳じみた話などとは関係がない、実際に御前会議は都度開かれ、参謀たちが言上するところ黙って見過ごしたはずはない。1941年12月東条が「開戦の詔勅」というとき、それはまさに天皇の意思が戦争を進んで望んだとしか解せず、全責任は明らかに昭和天皇裕仁にあったと証明している。

 国民は「おおきみの辺にこそ死なめ」という玉砕精神に逆上させられ、「生きて虜囚の辱めを受けず」などと、最後は自決しろという教訓を教え込まされた。「悠久の大義」に生き死にすべきは軍人でしかないのに、沖縄第32軍司令官牛島は自決の夜に言わば一般市民に他ならない沖縄県民に対してそれを押し付けたのだ。この司令官の中には軍官民共生共死の沖縄戦が既に総力戦のめちゃくちゃな戦争だという認識しかなかっただろう。こうして沖縄県民は狂った国の「大義」のために県土中を這いずり回り、あるいは集団で自決させられ、スパイ呼ばわりされて背後から銃殺され、食料も奪われ、壕を追い出され、投降さえままならなかったわけだ。

 勿論本来、こういう死に目に合わせた張本人である本土、ヤマトウの日本人の代表が、内閣総理大臣が、その他の閣僚たちが、「辺野古唯一」以外何も言えない連中が、この慰霊の日にわざわざ来沖して県民の神経を逆撫でする行為というのは、三流ドラマによく顔を出す「お代官様」やその他の悪党たちのそれと大差ない。県民は怒声を浴びせて怒っていいのだし、「二度と来るな」と言い募って構わない。ここにあるのは、通常理念的理想主義的文言を出ない「平和主義」「反戦思想」というのが、動かしがたい現実性を帯びて存在する事実だ。多くの首長たちが、政治家が、変節し右寄り、本土すり寄りを見せているが、残念ながら彼らはおのれの保身のために県民を裏切っている、どうしようもない忘恩のやからで、例えば歴史的真実は彼らのことを決して高くは評価しない。わかりきったことだ。

 ただ、彼らの裏切り、変節、経済主義が現代沖縄の若年層をじわじわ汚染し、理由なき事大主義を標榜し始めるご時世になってきた。かつてしばらくは8割がた反対していた日米安保体制を逆に肯定する県民が増殖し、今では何も知らずに容認する意見に支配されるようになってきた。

 この沖縄の現状はそのまま日本の現状に裏返され、日本国はあの敗戦とともに「終わったのだ」と実感させられる。その終わった国にへばりついて誇り高き非武の邦、琉球民族は一体どんな輝かしい未来を夢見ているのか?筆者にはまるで見えてこない。

 


この国の終わり 返還後50年、今更ながら沖縄移住者の沖縄観 その2

2022年05月14日 15時31分27秒 | 政治論

 明治のころ沖縄学の泰斗伊波普猷(1876年~1947年)は、琉球人について次のように感想を述べている。https://www.aozora.gr.jp/cards/000232/files/60236_73043.html

 沖縄人の最大欠点は恩を忘れやすいという事である....御都合主義はいつしか沖縄人の第二の天性となって深くその潜在意識に潜んでいる....彼らは自分らの利益のためには友も売る、師も売る、場合によっては国も売る、こういう所に志士の出ないのは無理もない....この大欠点をうめあわす事が出来ないとしたら、沖縄人は市民としても人類としても極々ごくごくつまらない者である

 こういう批評は、るるぶ系情報しかない現代人にはおおきに首をかしげるようなものとして見えてくるだろう。忘恩、事大主義、ご都合主義、裏切り、密告、志の低さ、などなど。しかしながら、同時に自身もまたそういう精神性に落ちているはずだと考えたとき、33歳の伊波には将来する沖縄の姿が見えていたのかもしれない。勿論戦後間もなく死んだ彼には現在の沖縄のことはまるで知らされてない。

 現在の沖縄。コロナ禍の沖縄。国があれだけ嘘とまやかしの「辺野古唯一」を繰り返しても正当に反抗できてない県民性。仲井真や島尻、多くの首長たちの変節、取り込まれ、地元名護市民の挫折、オール沖縄の「河童の川流れ」的腰砕け、......

 一方で軟弱地盤、活断層、飛行経路上の障害建造物、大浦湾の生態系破壊、特異な県民意識に対する逆撫で国家行為、戦略上の海兵隊無用論、地政学の大嘘、核の傘は張子の虎、日米安保体制の空洞化、ミサイル諸事情からくる現代戦争における陸戦部隊の存在性、....どう贔屓目に見ても間違った国策に落ちた日本国。従米主義の三流国家、三流民族、その弊害を犠牲の質で身に受ける琉球。

 沖縄は全国一のコロナ陽性率で、5月10日も2265人の新規感染者数だった(11日は2702人、12日2330人、13日2242人、東京も大阪も増えている)。数値が表すところはここが観光立県で、GWからみのクラスタが多く発生している現状を示している。なだれ込んできた制約なしの他県観光客が全域でまき散らしたものが数値にはっきりと示される。移住者の目からすると、沖縄の特殊性がこういうところにも如実に見られると慨嘆する以外ない。数値が上がればその効果うんぬんするより先にまずもって規制がかかる。病院や介護施設などは例外なく面会禁止等のバリアが張られ、公共施設や観光施設は軒並み中止や規制でがんじがらめとなり、結局は元の木阿弥だ。この2年以上にわたり同じことの繰り返しで、「ええじゃないか」心性はノーマスクやSDなしの濃厚接触がそこら中蔓延する。米英並みに右倣えが明治以来のこの国の在り様で、そのうち感染者数の公表もなくなるのだろう(既にこうした数値的機械的情報に懐疑的な市民が増えている)。感染リスクの悪しき例(後遺症)が底の方に沈んで、ワクチン副作用(かなりの数の死者で、推定1500人以上とみられる)も無意味にかすむ。

 しかし、問題はコロナ禍ばかりで済む話でないことだ。齎された自然界の警告はいつも暫くは人の耳や目をそばだてるがそのうち沙汰止みになり、やがて無限のかなたに忘却し、真逆の方向へ狂気のように走りだす。大震災もゲリラ豪雨も大地震も大洪水も崖崩れも、いつの間にか実感のない過去に追いやられる。地震と津波が齎した原子力発電所の暴発は今後日本国中どこでも起こりうることだとどうしてわからないのか?一時的に停止してほとぼり冷めぬうちに再稼働へ前のめり、結局米国支配の洗脳で、麻痺した為政者たちの飾り物の脳漿では、おのれらが自ら律すべき政治や外交がまるで目に入らず、敗戦処理に過ぎなかった戦後体制を未だに後生大事に抱きかかえ、連合国の「敵国」扱いに永続的に据え置かれては頓珍漢な政治外交に明け暮れている。

 ネトウヨ他、現代日本を悪くするだけのモブ(悪質な烏合の衆)たちに決定的に欠けているのは民族的矜持、国士的憤怒、憂国的激情であり、かかる右翼が狂喜しそうな情念の奔騰がそもそもないので、彼らのどうしようもない下卑たレイシズム、便乗的亜流の軍国礼賛、権力阿り、偽悪趣味、あてこすり、空虚な絶叫、劣等児的チンピラまがいのカツアゲ行為、などなど、口にするも憚れる在り様がむしろ公道を我が物顔で野良ついている。

 本土復帰、沖縄返還50年、50年記念フェアだって。

 伊波普猷が100年以上前に喝破した沖縄人の大欠点は、移住して15年以上が過ぎた人間にも何となくうっすらと見えてくる。彼にあったであろう愛郷心は、愛すればこそ憎まざるを得ない自身の自家撞着に脂汗を流したかもしれない。いやな汗だ。

 この移住者が人種的民族的に琉球民族と異なるのなら、ここに住する矛盾はいかに解決するものなのか。わからない。

 

 

 

 

 

 

 


返還後50年、今更ながら沖縄移住者の沖縄観 その1

2022年05月09日 12時00分07秒 | 政治論

 この5月15日は沖縄への施政権返還50年なのだが、この鳴り物入りの返還は実は「基地付き核つき」のまがい物で決して祝典に値するものなどではないということを、今更ながら沖縄県民は勿論日本国民すべてがはっきりと見極めておく必要がある(復帰も返還も真に当時の県民が望んだものではなく、日本国憲法理念への参加、以外ではなかったはずだ、このことは日流間のここまでの歴史が物語っている)。

 所謂「構造的差別」という、到底抜きがたい時空の中に否応なく差し置かれた明らかな異民族(対大和民族)としての琉球民族(国連人種差別撤廃委員会勧告--対米・対日--では明確に、沖縄の基地偏在実態を人種差別としている)https://ryukyushimpo.jp/news/entry-794147.html

 21世紀においてこの差別構造は、勿論時間(日琉間歴史と琉球処分)と空間(日米安保体制による地理的支配)が必然に築き上げたものとしてあり、現況の在り様を造出した経緯は、抑々日本という国の400年来(徳川幕藩体制以来)の在り様と軌を一にして、その国家的功罪がそのまま反映されていた。と同時に、異国であるアメリカ合衆国の第2次大戦後の一極集中的武断的在り様が、世界覇権的行為の一環で、この国を敗戦国として永続的に凌駕する(防共構図の中の西側世界の傀儡として)過程で、日琉間交錯構造の上に非論理的に君臨する結果を生んだと言える。

 全く部外者として沖縄問題を見た場合、例えば「辺野古問題」に関して言うなら、「沖縄戦」とその激越な戦禍の座視しがたい印象(事実としては県民の4人に一人が沖縄戦の犠牲になっている)からして、かかる自治体に戦争のための異国の軍事基地を実質新たに構築しようという話は、まことに人を食ったような甚だしい違和感を禁じ得ないというのが正直なところであろう。しかしこの国の主に2+2外交の主体となっている外務防衛官僚にその感覚は皆無らしい(旧民主政権で普天間基地の代替施設は「国外、最低でも県外」と公約した鳩山政権が空しく辺野古回帰で瓦解したとき、後日談で当の元首相がそういう官僚の「嘘」に騙され実際他県他地域に移設することを断念した話を告白している)。以後「辺野古唯一」は思考停止の金科玉条となって梃子でも動かない国家然と澄ましかえっている。

https://www.tokyo-np.co.jp/article/174853

12歳少女が3人の米兵に暴行され…それでもアメリカに物言えない政府

(2022年5月1日付東京新聞記事)

 普天間基地返還、という文言が一つの沖縄的基地公害排除の先駆けとして立ち現れたのは、上記1995年9月の無残な米兵による凶悪犯罪に「日米安保体制」の危機(彼らにとっての危機は何時でも彼ら自身の利害関係に関連して生じ、人道的な意味合いを必ず希釈し、なし崩しに曖昧化するよう働いてきた)を感じずにいなかった日米外務防衛関係者と為政者が、当時の沖縄県知事大田昌秀が抱懐した「沖縄の米軍基地を全面返還させる」という根本計画を横目で見ながら、取り敢えず考慮された「世界一危険な基地」(2003年ラムズヘルド国防長官談)としての普天間基地の返還という交渉の席についてからであった。つまり、この問題の最大のモチーフはあくまで「危険性の除去」であり、沖縄の実質的な負担軽減が焦点でなければならない

 このあと何年にもわたる返還交渉の詳細を今敢えて省略しつつあらゆる論理的思考の可能性を最大限許容するとしても、我々第三者の目はどうしても必ず次の矛盾に逢着する。

 2+2日米外務防衛官僚による交渉の結果は、普天間基地返還はその代替施設の造作を条件とするというもので、しからば、基地公害と存在性そのものの危険性を、日本国内国民居住の他地域にそのまま肩代わりさせるのかということ、しかも、結果としてあろうことか、同一県内である沖縄県名護市辺野古区域に?それで県民が納得すると誰が思うのか?否、沖縄の負担軽減はどこへ行ったのか?

 我々は既に辺野古移設の本当の意味を明らかに見出だしている。1960年代に米国米軍が画策していた新基地建設の場がまさにここだったと。つまり普天間基地代替施設などというのは真っ赤な嘘で、実際は沖縄北部地方に、現存キャンプシュワブと合体して一大新基地を構築するための言い訳に過ぎなかったわけだ。しかも不要となった北部訓練場の一部を返還して(恰も負担軽減の実を上げたかのように印象付けて)新たにオスプレイ発着のヘリパッドを高江に造作し、これと連動連関させる強力な軍事基地として辺野古が選ばれたというのが真相だ。

 ここに普天間返還問題の人道的偽善(危険性の排除という努力目標は雲散霧消し、5年内返還なる安倍・仲井真約定もとうに空文化し、今では向後何十年も据え置かれ剰え改築さえ取りざたされている---安倍政権の知事籠絡が如何に詐欺的手法で行われたかが暴露されている)、まやかしに満ちた日米合作の自治体自治権侵害実質がはっきりと見えてくる。

 1609年に始まる島津侵攻では、主に当時の琉球王国が有していた中継貿易利権の奪取が目論まれている。勿論江戸幕府の意向に沿ったもので、ほぼ無血で侵攻成ると以後琉球王府は謝恩使・慶賀使による定期的江戸参勤を義務付けられ、独立性を保ちながら一方では幕藩体制に否応なく組み込まれたという史実が判然する。

 他国に侵攻するという野蛮な国家行為が既に豊臣秀吉の朝鮮出兵で先鞭をつけられ、この国の為政者の何らかの血の騒ぎと見えないこともない話になり、通観してこういう事実を現代へまで引き延ばすと、どうしても先の大戦のことを考えざるを得ない。

 四方を海で囲まれた天然の要塞としての島国日本国は、偶々時宜を得て襲った台風なる「神風」のため巨大な制服国家、大陸の覇者元(モンゴル、蒙古)をさえ水際で蹴散らし二度にわたって救国を成就したわけで、神の業は確実に神国日本を印象付けたようだが、このあと、近代化し日清日露戦役にも不思議に勝利しいよいよ大和民族にある意味根拠なき自信を植え付けることに成功したのであろう。根拠なき、という意味は、精神論が勝って具体的現実的方策に手薄となった、という結果が、先の大戦の敗北だったということだ。そしてこの神の業が下しただろう日本国、大和民族の敗戦の痛手は、どのようにこの国と国民に前向きの心性を齎したかと考えるとき、残念ながら真逆の心性ばかりかむしろ後ろ向きのそれさえ促したとしか思えない。この場合、その国民自体のことはまだ希望がありとはいえ、指導者、為政者、代議者たちの中には歪んだ国家的野心さえ立ち現れてきたということ。 

 琉球処分と銘打った明らかな琉球王国併合の蛮行は、1872年に琉球藩とし1879年沖縄県とする、大和民族による身勝手な行政行為で、近代化した日本帝国が朝鮮併合と同様武断的に弱小国家を属国化した話以外ではない。

 朝鮮半島は日本の手を離れたあと、不幸にも大戦後5年(1950年)もすると東西陣営の覇権争いの餌食となって南北に分断され、今もって戦争状態を脱していない。取り分け南は米軍の駐留を余儀なくされ、日本同様パクスアメリカーナの支配下に置かれている(但し基地問題にあっては日本ほど自律性が欠けているわけではない)。

 日本の近代化は残念ながら跛行性を帯びた偏頗な改革(人民や民衆の、下からの改革ではない)であり、江戸幕藩体制は浦賀湾に現れたたった4隻の米軍艦隊に右往左往し、あっという間に大政奉還、王政復古の大号令の下瓦解、権力者側の生き残りが牛耳るような階級的矛盾を抱えたまま国際社会に放り出された。(つづく)

 

 

 

 


この国の終わり コロナ禍という自然界の警告が意味するところ

2022年04月17日 08時47分59秒 | 政治論

 オミクロン株の更に変異、ステルスオミクロンBA.2なる変種のコロナウイルスが既に世界60数か国に見られ(3月時点。現在はBA.1とBA.2の組替え体XEが既にみられる)、その現行ワクチン効果の不可測性やら感染力の強さなど明らかに見られ、今後益々複雑なパンデミック状況を予感させる事態(既にオミクロンBA.1系は高止まりし、更に追い打ちをかけるBA.2感染が急拡大するとみられている)へ移りつつある2022年半ば、この期に及んで暫く世は先の北京冬季オリンピック(どうでもいいルールの偏頗な適用やおよそ下らない薬物問題が幅を利かせているが)などにうつつを抜かし、日本国政府、東京都(維新に乗っ取られた大阪の惨状は目も当てられない)などは無為無策の極みに陥っているにも拘らず、白紙委任状を自公系政治へごみを捨てるように!投げかけ、愚策悪策無為無策玉虫色の政治を何となく容認して、自ら墓穴を掘る(国民側の)愚民馴れがじわじわとこの国を浸潤している(これがこの国の抜きがたい国情というものなら言うことはない)。

  元々国家安全保障思想が戦後その土性骨を失っている(敗戦による負け犬根性が染みついている)ので、(本来的な)危機管理という概念の核として最悪の事態を前もって想定することに置いていないこの国には、結局は、いつ何時でも現実に目を覆う事態が起こりうるのだと、国民の方で今更だが肝に銘じる必要がある。

 M9以上の大地震が2011年3月11日に三陸沖で発生し、かつてない大津波(遡上高40m超え)が太平洋沿岸各地に、稀にみる激甚さで襲い掛かったあの大事件のことは、自然が人類に与えた警告という意味でも、日本人はじめ人類が、安全保障上の重大な貴重な教訓と受け止め、かつあの時福島原発がこれにより、深刻で計り知れぬ放射能被害を齎した事実と真摯に向き合い、少なくとも戦後、科学的根拠なき安全神話で国民の目を覆った、責任上到底免れようもないこの国の為政者たち(ほか所謂原子力マフィアたち)には、必ずその罪過を洗い直し、逃すことなく断罪すべきと国民自身が決することだ。それは未だ、過ぎ去った時代の遺物であろうはずはないし、「のど元過ぎれば」のありきたりな扱いで見送れるような、特殊に想定外で例外的な事象でもない、今後いくらでも起こり得るし、現に世界中で脅威としか言えない自然現象(大洪水、大地震、噴火、殺人寒波)がこれでもかと起こり続けている。

 その自然現象の最たる現在進行形が、この世界的パンデミックのコロナ禍にほかならない(如何に楽観視して馴れ合いの心情に支配されても事実は脅威と恐怖をそこら中にまき散らしてことに変わりはない)。

 そのコロナ禍が2年越しで繰り返される現状は、(オミクロン株は)「重症化しにくい」「死者数がインフル以下」などという、当初の甘々な見立てで軽易に扱いきれない惨状(感染後遺症やワクチン接種による事故の報告も多々あり)を呈しているわけだ。何故か?その禍に実際見舞われない者には所詮対岸の火事としか受け止められず、幸運にも感染地獄から恐らく偶然に免れている非感染者の恣意が勝って、数値上に少しでも収束傾向が見られれば、それだけで何らの科学的解析も明示せずに、「コロナの特性(一定の周期性で単純な波形を示す自然現象)」から、そのうち止むだろうといった短絡的結語に安んじる根拠なき楽観主義が多く蔓延しているのだろう。

 この楽観はそのままこの国の国防思潮にも当てはまるのだが、この場合は逆に、即時即決では決して機能しない日米安保体制に関する盲目的な支持と不合理な軍拡政策(自衛隊の国防軍化と米軍用兵化)が、憲法理念の打ち壊しを旨として「敵基地攻撃能力」なる物騒極まりない議論とともにまことしやかに為され、大いなる貧窮国ロシアの自暴自棄なウクライナ侵攻事件をとらまえて、さまざまに愚論、火事場泥棒的言上げ、跳ねっ帰りの飛躍をネトウヨ的自由主義者たちは、水を得た河童並みに喧々囂々、暇人的な大騒ぎを繰り返している。

 少なくとも我々人間の視点は、「戦争」の実態が必ず無辜の民、老人、婦女子の身の上に降りかかる惨たらしい犠牲の矢弾(やだま)として顕現し、国家や指導者、権力者の全体主義的エゴ、言い訳に過ぎない「正義の戦争」言上げをまことしやかに並べ立てる情報網に乗せられて、真実を見損なうことがないよう、文脈のリテラシに留意することだろう。

 

 

 

 


この国の終わり 米軍基地由来の第6波 その2

2022年01月28日 11時45分40秒 | 政治論

 こと沖縄に関しては、日本国及び米国により地域分断策という植民地政策(軍事植民地扱い)が執られているので、実は何が起こってもおかしくない(この度の名護市長選や南城市長選のように)というのが実情で、例えば報道ではそのタイトルに必ず「辺野古移設」(実際は同じ県内に北部ヘリパッドと一体化してより強化された新たな軍事基地を造作すること)というキーワードのもと、此れを巡る国と沖縄の駆け引き乃至攻防、というふうに彩るのだが(名護市長選では自公系候補のその争点外しがこれ見よがしに行われた)、本来(正常な国柄であったなら)あり得ない、国と単一地方自治体のゲーム的対立関係が闡明され、結果市民あるいは県民は奇妙な「(望まざる政治的局面の国家による)押しつけ」としかいいようもない、不可能な二者択一を迫られるわけだ(こんな自治体は他にない)。事実上これこそが国の狙いで、まさに地域を民意的に分断し、分散させ、かくして糾合しない民意(オール沖縄は退潮気味など)という構図をでっちあげるのである(ネトウヨどもの恰好の標的、沖縄いじめの好餌となる、ヤフコメなど)。逆に、移設反対派の勝利しようが何しようがこれを無視し、むしろ踏みにじって現行工事(高江・辺野古)を強行させてきたのが特に安部・菅政権の国家主義的やり方だった(何のための民意か)。選挙工作が薄汚く行われる(官房機密費とか)自公政権に限らず、日本国の対沖縄国策は露骨に差別的に執行されてきたし、これからも同様であろう(としか言えない)。このことを沖縄は肝に銘じなければならない。

 元々敗戦後、欧米戦勝国が牛耳る国際連合なるまがい物(連合などという欺瞞的な名称は当初からその実質を確実に損ねてきた)の所為で、永続的「敵国条項」に縛り付けられ、現今(トランプ以来)落ち目のパクスアメリカーナの、思いあがった世界覇権主義にすっかり「傀儡国家」(戦前米国では既にその企みが明確に仕掛けられていたのはよく知られている事実だ)としての欧米圏囲い込みが成った日本国(極東の防共最前線)は、ネトウヨどもが意味もなくがなり立てているように、この「負け犬の遠吠え」以外の在り方を知らない。

 完全な治外法権、二重基準(米国内・外での基準の格差)の地位協定そのものがどのようにいじられても(自公政権では事あるごとに、ゆるゆるの異議申し立て程度で済まされている)、日米安保体制という、即戦性も現実的機能も実質適用されるわけもない軍事同盟(幻想的核の傘)が解消されぬ限り(無条件の軍事用不動産無償提供の奴隷的約定を取っ払わない限り)、日本国そのものはもとより沖縄のこの消化不良な非現代的隷従境遇は永続的に取り残され続けるだろう。

 名護市長選は先の稲嶺氏の落選以来二度続けて移設放任派(論点外し)の渡具知氏が勝った、しかも大差をつけて。茂木などは大喜びだそうだが、ちゃんちゃらおかしい。自らの身に引き替えたら、どちらにしてもアメリカの属国身分が恥知らずに引き継がれているだけなのに。コロナ禍で、ほぼ尋常ならざる精神状況を強いられる市民県民が、国のありように絶望して「なんでもあり」の心理状態で、経済重視などと変質しても仕方がないことはわかりきったことじゃないか?

 茶番としか言いようもない。過去最低?の投票率は、この国のやり方に対する無言の抗議であり、アメと鞭、「米軍再編交付金」という札びら切り(移設反対派が市長になると途端に不交付とされた、これが決定的な事実関係だ)、振興策という名の騙し絵(決して法外な振興予算ではないし、実態は後進県の中で特に突出しているわけでもない)、自治体に対する憲法違反の自治性侵犯(国が自治体を訴えるという話)、いずれにしろ全て沖縄では米軍基地温存推進のための大っぴらな環境整備にほかならない。ただ単に敗戦国として戦勝国に卑屈に媚びるために?

 オミクロン株による第6波は日本ではほぼ確実に米軍基地由来と目された(その後そのことを問題にして何事かが始まった形跡はない)。但し、その後の爆発的感染拡大は国民自身が招いた自業自得の在り様(第5波収斂傾向に踊らされた)で、大元は国家政府の、自公政権の煮え切らぬ、自己保存本能がなせる無策、愚策、悪策、責任逃れの「玉虫色」施策と言える。このような政治集団を(消極的にも)頭にいただいた国民が愚かなのだが、その事実を誰も認めない、この国民性が先の大戦の大きな遠因にもなっていたと考える。(ところで、沖縄人についても同じことが言える、事大主義や裏切り行為などむしろ内地人よりたちが悪い。これを沖縄学の泰斗伊波普猷は、完膚なきまでにこき下ろしていた。尤も彼は明治期のあの時代背景のもと、後進地そのものの琉球を立ち直させようと日琉同祖論など、勢い勇み足的な批評批判を加えたともいえるようだ。)

 人流より人数制限を、とかホームステイは必要ないとかいう尾身氏のよくわからない発言は、経済活動等日常的営み(人流)の制御より、集団化、集合化を避ける行動を、という意味合いらしい。具体的にはどうか、例えば今更だがスポーツイベントなど不作為の観客動員の場合、ソーシャルデスタンスや人数制限を加えることが求められるし、他の大規模イベントでのそれも当然であり、空気感染的な密閉空間等を避ける行動など、常識的に考えられるこれまで通りの感染防止の手立てを忠実に実行することだろう。専門家の意見を総合勘案して適切なメッセージを国民に向け発すべき国家政府が、適宜に存在性を示すまさに事案そのものだ。しかし、世界的posttruth風潮とこれに呼応したアベスガイズムの蔓延で、知的な部分の不可思議な退潮、理念性をこき下ろし、倫理性を欠損し、科学を軽視する態度ではまともな感染対策が講じられるはずもない。その結果的犠牲は必ず国民に落ちてくる。いつになったらその理不尽に気づくのか?

 黒船来航以来、近世近代日本の外交的幼稚さが醸し出してきた国策的無責任体質が、戦後日本の悪癖抜けぬ体たらくを準備していた。諸外国は与しやすしのこの国を、今では3等国並みに扱っているとしか言えない。ドイツや韓国のような対等関係が築けず、一地方自治体に偏頗に過重負担を押し付け、愚民化政策で自己保存にしか興味がない。コロナ禍でも当然のように国費を満額得ている今の国会議員たちの時宜すら弁えぬ税金泥棒地で行く姿は、茶番じみた滑稽さで笑ってしまう。その実彼らを選んだ国民が笑われているのだ。

 日本国憲法の根幹思想としてのカントの「永遠平和のために」の理念は決して絵空事の空虚な理想論ではない。発せられた地盤はまさに国民が立っているその場所だ。例えば戦争は絶え間なく人類の歴史に立ち現われ、すべては戦中戦後(戦争という文言から離れず)の状況でしかない。このことを認めるなら、同時に休戦という考え方も有効なわけだ。休戦状態(平和)を持続させるための手立てを講じるのが人類のすべき唯一の事であり、それが人類の幸福や進歩、所謂平和な生活を実現するための実践行為のはずだ。

 およそ軍事的行為、準備、軍拡、など、これらを国家予算掛けてやろうというなら、内地とは比較にならないほどに反戦、非戦、避戦意識に覆われている沖縄に何故、わざわざ新たな強化された軍事基地を、異国の軍隊のために作ろうとしているのか、よくよく考えてみるがいい。最早議論は地政学など、言われてきた理由の根拠なきこと白日の下にさらされている。「政治的理由」というふざけた言い訳が残されたのだ。現代ミサイル事情は、「殴り込み部隊」米海兵隊の駐留や存在理由を消し去っている。沖縄にいる理由がないのに関わらず、「思いやり予算」なるお恥ずかしい下司な名称の賄賂でご機嫌取り、「大和民族」の名折れとしか言いようもない奴隷根性で、異国の軍隊に我が国の国防を委ねるという無様。

 最早口にするのも不愉快なのだが、「人馬鹿にした話」を沖縄に通用させる本土内地の日本人は、おのれを恥じてよくよく玩味、吟味、咀嚼し、自分たちのしていることの情けなさ、不明、愚かさ、を認知、認識し、誰をたたくべきか誰を擁護すべきか、はっきりと見定めることだ。

 

 

 

 

 

 

 

 


この国の終わり 米軍基地由来の第6波 その1

2022年01月21日 09時02分55秒 | 政治論

 沖縄返還は50年目になる。

 今更言うまでもないが、これまでの本土のメデア・マスコミ・ジャーナリズムが流布する、どう見ても誤解に満ちた沖縄情報など、金輪際全く信用ならないデマゴーグ垂れ流しと断じてやまないものだ。一方、メデア・マスコミ・ジャーナリズムの功罪とはその責任度合いが全く異なる、この国の戦後政治のことは「この国の終わり」と題して余すところなく論じ切らないとどうにも収まりがつかない。

 第一に米軍基地(米軍専用施設)の事だが、戦前戦後通じここまで、沖縄側からこれを誘致したことは一度もない。どういうことか?

旧日本軍が強制接収した土地を米軍が接収した・沖縄戦下と占領下で米軍が接収した・戦後の米軍統治下で米軍が強制的に接収した・日本政府による埋め立て

 以上がその内容であり真相だ。最後(日本政府による埋め立て)は現行辺野古埋め立てのこと。この、日米による接収行為などが沖縄が望まない軍拡を継続させてきた、という事実が、原発に関わる本土自治体の対応とは本質的に異なる、と言われる所以だ。

 また、昭和40年ころ30%近い財政シェアだった基地経済は、平成に入ると5%前後まで低下している。つまり沖縄県は、押しつけにすぎない基地経済などに頼ることなく自律的に経済を回せるし、返還跡地利用実績 

 那覇新都心地区の場合、返還前は年間52億円だった活動による直接経済効果は返還後は年間1634億円となっていて、その倍率は32倍だ。小禄金城地区では返還前34億円に対し、返還後は14倍の489億円桑江・北前地区は返還前3億円に対し、返還後は108倍の336億円だ。三つの地区を合計して返還前後を比較すると返還前が年間89億円なのに対し、返還後は28倍の2459億円に達している。
 雇用の側面から見た数字もある。那覇新都心地区では返還前が168人だったのに対して返還後は1万5560人で93倍となっている。小禄金城地区は返還前159人に対し、29倍の4636人桑江・北前地区は返還前は雇用ゼロ、返還後は3368人の雇用を生み出している。(地元紙記事)

は、本島中枢部を占拠し、陸海空域をほぼ独占的に使役する米軍さえ去ってくれれば、無類の豊饒な地区生産地としても、観光立県としても、(基地就労に拠らない)雇用の健全化とともに驚異的な活性化を図れる自治体と言える(独立への弾み)。

 当然民意は(日米政府の疑似植民地政策による地域分断策が影響しても)住民投票や公職選挙結果にほぼ確実に示されて、(首長たちの思惑に影響する)時の趨勢や争点ぼかしで目に見えない動きがあるにしろ、大概国の方針やり方に異を唱える結果を示している。取り分け日米安保体制には明らかな反意(8割がた)を持っているのだが、これらの民意が政治に反映された明確な事実は絶えてなかった。本土の日本国民の、基地負担不公平事実への公正な疑義は戦後ずっと希薄であり続け、多くの基地公害訴訟は「統治行為論」という司法の言い訳?のもと、県民側の明らかな勝訴も先ず皆無と言える(ヒラメ裁判官や国が自治体を訴えるという転倒現象が頻発する事実は、司法の独立さえ問われる問題だ)。

 さて、第6波の感染拡大は、我々の耳目には先ず日本各地にある米軍基地由来のそれとして捉えられたし、この事実に誰も異論はないだろう(来日米兵の検査はせず、出国して韓国へ行く米兵のそれはするという、ブラックユーモア的で漫画のような事実が暴露された、まさに日韓における対米外交の本質的な違いを露呈している)。

 その後の事は、ありきたりな(場当たりな、これまで通り脆弱外交の傀儡政治で、その場しのぎを恥じない日本国政府に合わせ)ゆるゆるの米国米軍司令部の対応から、事はいつの間にか騙し絵のように、ありふれた日本国内問題に大きく取って代わり、肝心の基地問題の方はまたぞろ本質を外れた愚論冗論へと流される。(ネットに散見するネトウヨたちの見当違いの言いがかりや、ヘイトそのままの聞くに堪えぬ誹謗中傷が所狭しと蔓延りだす、既にヤフコメなどはそういう情けない風潮へ急速な離岸流のごとく傾斜している)

 現在急激に感染拡大し続ける(オミクロン株にほぼ取って代わったらしい)世界の2年越しのコロナ禍は、その現況重症化率の低さ(発現タイムラグはあるし、即断はできない)に関わらず、日本では市中感染も含め濃厚接触者としての医療従事者が休職等余儀なくされ、一般外来対応の通常医療すら覚束ないという一種の崩壊現象を見るに至り、沖縄などはこの第6波襲来というかつてなく急激なパンデミック状況に恐怖し、日常生活が至る所脅威に満ちているという、(沖縄がこれまで経験してきた)これまで通り踏んだり蹴ったりの不運に見舞われているが、勿論、第5波の終盤に見た分析未達の収束傾向から盲目に刺激され、無警戒にノーマスク大騒ぎの羽目を外した日本国民全体が(あるいは世界が)、自業自得の感染爆発に打ちのめされ、またぞろ繰り返される自粛生活に否応なく追い込まれる、ストレスの絶えぬ2022年を迎えてしまった。

 但し、世界は両立論から、偶々軽症で経過しているらしいオミクロン株に乗じて「自由」「通常通り」「罹患を恐れない」行為行動へ流れて行っている(それが在日米軍の感染爆発に当然に現象し、日本に駄々洩れして基地界隈から発した第6波を招来した、という現状か)。

 年初岸田の「辺野古推進」口上(軟弱地盤や航空法的瑕疵を無視し)は、この宰相の行く末など、歴史的に「この国の終わり」として単純に同列化し、戦後自公系政治の「非常識な常識」(幻想的国防策ーー日米安保体制)を踏襲し、日本国民が戦後政治の絶望的行進に無知で無関心な追随を続ける代弁のように受け取らざるを得ない。

 というかそこに一片の対沖縄感情も見出せないという、苦りきった、我々自身の内面を反芻する情けない繰り返しで、この度の名護市長選(現職優位)も、先の衆議院選結果(屋良氏落選)も、いずれにしても「この国の終わり」「琉球独立」という究極へ結論づける傾きだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この国の終わり 暫定「何もわかってないコロナ禍と自公政権を選ぶ日本人」

2021年11月15日 08時56分49秒 | 政治論

 現況、今のところ日本も含め世界中の医学者、専門家らの、日本の急激な感染者数減衰傾向や、現今世界の状況に対する明瞭で明確な状況分析はほぼゼロだということが言える。というより、彼らの科学的推論の多くは素人でもそうだと考えるところのものと大差ない。つまりは「どういうわけか?」日本の第5波は、解析不能の収束傾向に向かった、あるいはワクチン接種が唯一の決め手だがどうもそれも一筋縄ではいかないということになろう。自然界の趨勢に人間の知が追い付いていないわけだ。

 その故に言わばこのコロナ禍は、誰にも正確には実証的に、殆ど解明されてないということ。それは、敢えてここで素人が結論を急ぐと、人間対自然ほか外界の関係上、人知が及ぶ狭い世界での「ああでもないこうでもない」に比すれば、自然及び外界は途轍もなく「不可解」で謎に満ち、それの前にはどんなアプローチも手探りでしか届かない、場合によっては全くの未到に終わるという現実こそ明らかだと言える。従って大向こうが、ワイドショー並みに。多くの専門家らのこの期に及んでの目に見える沈黙を名指して、これを大仰に非難するのは的を射てない話だと。尤も表現の自由は批判的な意見をこそ尊重すべきだともいえる。

 我々は表面的とさえいえる現象界の感覚的感性的なところからしかその知的活動を開始出来ず、しかも並々ならぬ好奇心や切迫した心境と根の深い動機がなければ、物事の真相には到底たどり着きえない。まして切実な医療現場に明日をも知れぬ過酷な労働を強いられてきた医療関係者が、日々業務に追われ、この奇態な感染症について研究的態度で接する機会など到底見いだせないだろうことは火を見るより明らかだ。

 このコロナ禍で、我々一般の人が如何にも有効と心得ているのは所詮、当初から「なんだかよくわからないが」取り敢えず二重にマスクをし、不要不急の外出や3密を避け、手洗いうがいを励行し、ソーシャルディスタンスを保ち、一応治験の在りそうな?ワクチン接種を2度3度心がけて、感染しない、させまいと自問自答し言い聞かせ続けること以外にはない。そして一方で、私家政治に狂いまくった安倍・菅路線のせいで到底許容できない税金が何があっても不本意に無駄遣いされぬよう、自分たちの分は分捕ってでも手に入れ、生活生存の手段を確保すること、そして彼ら権力者の手に渡らぬようあらゆる手段で声を上げ、行動し、阻止すべきこと。

 菅政権が瓦解し、岸田内閣が組閣後ただちに衆議院解散総選挙の、手まわしのいい政治画策で、問題山積の政局打開の挙に打って出たのは、当然に自公政権の永続的存続を執念ぶかく追及するこの国の保守陣営の身もふたもない権力欲のなせる業だということはよくよく見定めておかねばならない。

 ところが最近の朝日新聞の世論調査によれば、相変わらず自民党への国民の、如何ともしがたい自ら「墓穴を掘る」心理が災いして、いきなり単独過半数維持情況が浮き彫りとなりかつ結果は絶対安定多数というていたらく(あれだけ安倍・菅が悪辣な私家政治を国民意識を無視して強行したというのに)。勿論立民の無様な伸び悩みも手伝って、この国の戦後政治環境が愚にもつかない保守性を頑迷に保って、薄汚れた金権賄賂政治と銘打ち雪崩を打ってひた走る、絶望的な、精神性をかなぐり捨てた「魂の抜け殻」的民族的暴走を、間接的に選び取る国民がいる、と明示している。

 だがこれは実に表層の、この国が陥っている絶望的状況を否応なく反映している事実を逆説的に示したという、身もふたもないあり様をのみ意味していることを見誤ってはならない。半数近い有権者が選挙権を行使せずに、現行日本の政治的絶望を表現したというのが実相であり、それは取り分け特徴的に捉えられた現代日本の重大な病根そのものだ。

 しかしながら世界のコロナ禍は欧州ロシア等、またしても感染者数が増加傾向にあると言われる。タガを外した人的交流が盛んになれば、当然に接触機会が増え、減衰したとはいえ残存するそれから徐々に増殖蔓延するという、ごく自然な流れではないか。収束した、という結論は日本も含め今のところ誰にも出しえない。感染症という一種の自然現象が人間に示す何らかの意味を個人レベルでなく社会的世界的レベルで探るべく悟性を機能させねばならない。

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その6

2021年09月20日 07時19分52秒 | 政治論

 東京都の新規感染者数がここにきて激減(9月6日968人、7日1629人、8日1834人、9日1674人、10日1242人、11日1273人、12日1067人、13日611人、14日1004人、15日1052人、16日831人、17日782人、18日862人)している。

 沖縄では9月6日167人(死亡2人)、米軍関係7人、8日413人(死亡2人)、10日301人、11日270人(死亡3人)、12日273人、13日140人と、こちらも減少傾向にある。しかし14日284人、15日255人(死亡3人)、16日229人(死亡2人)、17日185人(死亡4人)、18日176人(死亡4人)と決して急減ではない。但し全国的にも減少傾向がはっきりしていて、「波」の振幅が「谷」に向かっていることは間違いない。あるいは下げ止まり?

 一方東京都の重症者数は6日267人(前日+3人)死亡者16人、となっている。7日260人(死亡者16人)、8日252人(死亡17人)、9日251人(死亡者19人)、10日243人(死亡者15人)、11日233人(死亡者17人)、12日230人(死亡者21人)、13日225人(死亡者12人)、14日208人(死亡14人)、15日198人(死亡20人)、16日182人(死亡24人)17日179人(死亡25人)18日177人(死亡20人)。

 東京都のこの、新規感染者数に比べた重症者や死者の数がさほど減らないし、むしろ死亡者数が増加傾向にあるのは何故か?という問いは国民誰しも思うところだろう。簡単に推測するに、重症者の増減揺れはその重症者の中の死者数が関係し(それでも大幅に減っているという感じではない)、死者数のそれは重症者以外に、急激な重症化を経た自宅待機者、宿泊療養者のケアが追い付かずに時間切れする(死亡する)事情を物語っているようだ。これが、入院できずに訪問等診療が追い付かない医療ひっ迫の現状を数値的に示す一例かと。

 つまりこの(東京都の)新規感染者数の減少、全国的減少傾向は必ずしも直ちに医療ひっ迫状況を改善減衰している話ではないということ。

 一方、人心はいかにももろく、減数流れについタガを外し、「ええじゃないか」狂乱を繰り返すということが考えられ、愚かしい感染爆発をまたしても誘発すると危惧される。

 今更国や都の検査体制のあいまいな在り様に付加疑問の必要はないが、ということは、こういう(新規感染者数の)報道の字ずらに踊らされるのは愚かだということだが、このコロナ禍が何らか明るい兆しの中に入って、収束しつつあるというような安閑とした観測にならないことだけははっきりしているようだ(麻生発言などは小学生以下、身内びいきの嘘っぱちだった)。事態は秋冬にかけて第6波の出来懸念に移り始めた。しかもこれまでの傾向からすると次の波ほど格段に大きくなる様相を見せている。

 ワクチンで得られる免疫力は日数を重ねれば当然減衰する(抗体は絶対無敵ではないし、感染予防や重症化防御に対して、抑々データ的偏りを持っている段階で有意な評価は無理筋だ)。それが3か月くらい、というのは決して根拠のない話ではなく、恐らくだが今後とも、特効薬(感染予防薬であり重症化治療薬ではない)でも見つからない限り!ワクチン接種は繰り返し行う必要があるだろう、というより、ワクチンの効果は現段階では治験の域を出ず、明確なエビデンスに至ってないというのが真相らしい(特に新種の変異株へのそれは、予防にも重症化減弱についても未知数な部分が多い)。シンガポールの、接種率8割以上であっても感染者が急増し重症者さえ増えている現状は、ワクチンオンリーではこのコロナ禍に太刀打ちできない脅威を感じさせる。

 尤も、現段階ではワクチン接種が勧奨される(人間の免疫力に期待する方法)ことは、先ずはコロナ対策の第一要件だとしても、それが永続的効力を有しない(まして決定的エビデンスを保障しない現段階で)以上は、昨年時コロナ禍の最初に自粛の要とされた、不織布マスクの常時的着用(感染しない、させない)、3密回避(感染機会を減らす)、不要不急の外出回避、ソーシャルデスタンス堅持という社会的行動要諦は、これからも継続すべきものと心得ねばならないのだろう(行政側が強調的に発すべきメッセージだ)。

 それは新規感染者を極力減らすという目的、つまりは医療関係者にかかる過重な負担を軽減し、医療崩壊なる重大な危機を回避するために求められる、一種の国民的義務というものでもある(沖縄の惨状は現行日本政府の危機管理機能不全が第一因と考えるが勿論観光立県の痛しかゆしでもある)。勿論感染して治癒してさえ後遺症が残ることは様々喧伝され、軽症だからと感染回避にゆるゆるになるケースのリスクは想像以上に大きいようだ。

 コロナ対応に失敗していた(国民的失望をいよ増しにした)菅氏の退陣は、遅かれ早かれあり得たことで今更論うような特別重大でも重要なことでもない(自民党にとってはそうであっても)。彼は結果的に四面楚歌の裸の王様で、誰にも望まれない宰相として空しくトップの座を追われたという話。しかし昨年夏彼を推した自公の幹部連中が推薦責任を有しないとは誰も思ってない。まして菅のような、安部以来の強圧的恫喝政治が今後必ずしっぺ返しを食らうことは、最早自然の理とさえなった(河野などの強圧的なやりかたは必ず失敗する)。

 菅氏は、最初から、その地位に担がれるべき素質でないことを何故見通せなかったのか、彼の自己認識の甘さはコロナ禍への対応の拙劣さに不幸にも反映していた。不幸は勿論国民側にとってだ。彼が持っていた江戸期的代官気質は前時代的と称すべきものだった(安部のそれは軽薄の一事だが)。

 またその古臭い体質は、例の新学術会議会員任命拒否という非現代的対応に真っ先に示された(滝川事件を持ち出すこともない、彼は彼が拒否した学者の名前さえ知らなかったのだから)。安部同様、時代錯誤は彼らの政治的欠陥そのものであり、そこに通底する強権主義、独裁性、ハラスメント気質、ヘイト体質、ネトウヨ性、反知性、非論理、感情論の勝った独善的私家政治など、その悪質さは結局コロナ禍のような緊急的非常時対応を迫る政治的局面には簡単に空中分解する運命にあったのだ。安部菅タイプは国民が選ぶべきでない最も確定的な政治指導者群の一つだったわけだ。

 しかしかかる政治屋を担ぐような自公政権は今後とも同様の、国民不在のネオ国家主義にのめりこんでやまないだろう。(男社会にしっぽを振る)高市早苗の口だけの「国民寄り添い」や、河野のくだらない自画自賛、石破の様子見(彼は落ち目の自公政権にわざわざ火中の栗を拾う必要はないと踏んでいる)、岸田の(安部案件対応の)中途半端さなど、国民の目には碌な奴がいない自民党総裁選の茶番劇が疎ましい。これを打ち上げ花火のように扱うメデアマスコミの喧騒ほど「この国を悪くする機能」しかないものはない。

 菅を引きずり下ろした民意が今後の政治にどう反映されるかは、政局など無関係な国民側の持ち駒に掛かっている。この持ち駒の「王手」が効くかどうかだ。

 現行選挙制度の不首尾は、結局、国民の過半が選挙権を行使しないという、組織票頼みの自公政権への現状諦念を生み、偏頗な政治的環境を醸成し、かつ、旧民主党に見た戦後保守政治の限界がこれに代わる何物も用意してないという絶望へ国民を誘った。

 1945年8月15日をもってこの国は世界的に見ても無様な敗戦国となってしまった。時間はそこから76年を経過した。この長い時間経過の結果が安倍菅路線だったのか?しかし野党の支持率さえ今やあってないようなものだ。問題は恐らくは戦後政治そのものが継承維持推進不可のものだということ。だからこれを保守する現行政治環境そのものが破壊されねばならないと言える。

 三島由紀夫は昭和30年当時、既にこの国の魂の重大な亡国的在り様を喝破していたが、昭和45年、周知のように自衛隊市谷駐屯地で「聞く耳持たない」群衆の前で空しくアジ演説し、潰えた。国を守り民を守護すべき軍隊に他ならない自衛隊がその隊員が、一億総中流社会の平準化した「士気」なる自己矛盾に陥落して、国防の要たる本分を喪失し、ここにこの国が米国を首魁とする傀儡国家に成り下がったことを証明する瞬間だった。

 憲法違反の軍隊たる自衛隊そのものが逆に全く国防の意を帯しない存在であり、国民が「幻想的に」平和を享受するという奇妙な関係性こそ日米安保の本質(緊急時即応しない米軍に何を期待するのか、彼らの最大の任務は有事の在沖米人救出以外ない、日本人は戦場に取り残されるのだ)だった。土性骨の破砕、腰抜けの田舎侍、大和魂の「魂落ち」(沖縄で言うまぶいおとし)が、戦後日本の正体であり、この事実を回避した一切の主義主張は絶対的に純粋ではない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その5

2021年08月27日 17時50分57秒 | 政治論

 アルファ株(英国)、デルタ株(インド)、ラムダ株、など、変異株の種類はこれ以外にもいくつかある。この3種の際立って感染力の強い変異株は現在ワクチン対応で捕捉される感がある(ワクチン頼みの菅はこれを絶対視するが異論はあるようだ)が、いずれも完全とは言えず、特にこれから最も危険視されているのがラムダ株と言われる、ぺルー発のそれだ。変異とは進化かと言われれば感染力や重症化リスクからすると如何にもウイルス的進化過程というしかないのだろう。つまりより強力な感染力と抗体破壊の威力が増進する形質だ。彼らも生き残るためには様々な変貌を遂げねばならないわけで。

 ワクチンの有効性は現時点では種類によって6~8割程度の重症化(感染予防ではない)防御率を示しているが、変異株の進化は当然に確率に過ぎないこうした有効性の間隙を縫って出来するわけで、現在進行形にあるワクチンと変異株の相克状態には先の見えない現実が歴然としてあると言える(つまりワクチン万能じゃない)。しかし、近来エビデンスができつつあるこのワクチンの接種は取り敢えず急がれねばならない。しかも3回目の接種を示唆する動きも見られる(2回では心許なくなっている)ので、我々は恐らくは、このコロナ禍が始まった当初に示された3密回避、うがい手洗い励行、ステイホーム、2枚重ねマスク着用、不要不急外出の自粛といった心がけによって、少なくとも個々人が自ら感染はしない努力を今後とも怠れない、つまりは新規の感染者を出さないことが最大限要求される、ということだ。オリパラはGoTo同様やってはならない不要不急の感染拡大要因そのものであり、この国の為政者が如何に判断を誤っているかが問われなければならない。

8月25日現在国内
現在感染者数237,358(前日比 +10,386)
新規感染者数24,319(前週同曜日比 +407)
累計感染者数1,368,338
死亡者数
15,757(前日比 +45)
退院者数
1,115,223(前日比 +13,888)
 
世界の新規感染者数
664,610(前日比 +204,812)
累計感染者数
213,050,725
死亡者数
4,448,352(前日比 +8,023)
回復者数
報告なし
 
G7  新規感染者数(直近1週間)における新規死亡者数(直近1週間)の割合

アメリカ  0.49% イギリス  0.32% フランス 0.33% イタリア 0.55% ドイツ   0.29% カナダ  0.25% 日本  0.12% 

その他 ロシア 3.77%   インド 1.35%   韓国 0.35%   インドネシア 5.41% トルコ 0.72%        

 この、日本におけるコロナ新規感染者数に対する直近一週間の死亡者数の割合が世界でもかなり低い水準で抑えられているのは勿論注目に値するが、菅内閣とその政権、政府の対策が功を奏していると立証することは今のところできてないし、あらゆる局面が成果や評価の段階にないことは現状を見れば誰にでもわかろう。つまり、数度にわたる緊急事態宣言の継続は、何をおいても緊急性を確実に保っているのだし、医療ひっ迫崩壊危機は現実に起きているのであり、国家のコロナ退治事案そのものが医療本体の犠牲を余儀なくし一般人が病院前で頓死するはめになる。

 事程左様に、東京オリパラが感染拡大に関係しないという(担当大臣の断言の)立証も当然できるわけがないし、逆に五輪後の感染爆発が尋常でないことの方がより大きなインパクトを持つ。強調すべきはそっちだ。

 問題なのは、自分にとって都合の良い数値的実例のみを挙げて(オリパラ関係者の新規感染者数割合など)殊更国民の気を緩めるような、非常時の臨機な対応ができてない菅・小池体制の方なのだ。取り分けて、「救える命も救えない」実情にある重大な医療緊急切迫様相は政治の機能不全、国家政府の「あってなきがごとき」実態を如実に示している。まさにオリパラどころではないし、菅や小池らは明らかに「国民を見殺しにして」欧米的強圧に屈する、傀儡性に堕した腰抜けでしかない(いかに格好つけてもオリパラはそういう醜悪な本質を露呈している)。

 しかしこの死亡者数の割合等は菅政権のコロナ禍に対する奇妙な楽観視、乃至事あるごとに後手後手の対応の、取ってつけた言い訳に使われているのは間違いない(心裡的に)。ところが実際は、ひっ迫する医療関係の、現場における極度に重労働化する、必死的な対応に依存することでこの数値が辛うじて成り立っていることにこそ留意すべきであろう。医療関係、医療従事者にあっては、現在通常インフルエンザなど問題にならない、悲劇的様相を帯びている。

 おまけに軽症重症問わず新規の感染者が増えれば増えるほど、この医療関係のひっ迫、崩壊がいよいよ進むことは誰の目にも明らかで、(東京都のように)故意に検査数が抑えられ(濃厚接触者追跡の断念など)、隠れ感染者が無症状のまま知らぬ間に巷に溢れれば(取り分け感染力が強く重症化しやすいデルタ株では)、無警戒無防備な市中感染やら、結果的に時を置かない重症化、急な死亡例なども予測を超えるスピードで襲い掛かると考えるべきだ(それが危機管理だ)。

 こういうことに対する基本的な危機管理、厳密な予測と早急な対応など、菅政権や政府、東京都は到底都民国民側が評価できるような体制にないことは、既にはっきりしている(印象としてでも世論は過半がそう思っているようだ)。菅の発する希望的観測は最早大本営発表並みの、事実に沿わない「嘘」「でまかせ」になり了している。

 勿論小池都政も同断であろう。この政治家は計算高くけち臭い、「何もしてないくせにアリバイ作りのパフォーマンス」だけがこれ見よがしにひけらかされる、ここに至っては中身のない政治で食いつなぐ情けなさばかりが目立っている(オリパラ実行者としてコロナ禍での開催につき知事は完全に説明のつかない論理破綻を地で行っている)。しかし都民は、国民は、こういう程度の低い政治屋と相変わらず堕落しきった国柄そのままにただれた(白紙委任状の)代議関係を継続中だ。どこにも自分を守ろう、人々を守ろうという意思が感じられない。我々は、飼い主に飼殺される奴隷である以外立つ瀬がないのか?

 国民にとって具体的に物事が見えてこない状況が続く。政治の効用も何一つ決定的でないことが見えている。政権担当者のみ有する危機管理手段が発揮されず、即応体制から繰り出す具体的な対策が欠如し、あっちでもこっちでも救済網から洩れた命が失われている。彼ら為政者は真剣でない、何故ならこの期に及んでも彼らが顔を出すのは世界大運動会の馬鹿気たお祭り騒ぎ以外にない。国会は開かれないし与野党含めやってることで、効果的な実現性の高い方策が全く論じられてないし、政策提言さえどこからも聞こえてこない。あいつらは本当に「税金泥棒」そのものだ。

 どうしてこんな国になり下がったか?

 安倍晋三が「戦後レジームの破壊」と言上げしたところから敷衍すると、「戦後民主主義の破壊」という方向へ導かれる。民主主義の破壊、ではない、この国の戦後を主導した「民主主義」が実は民主主義でもなんでもなかった、ということ。民主、というような主義はない、憲法にちゃんと「国民主権」と謳っている以上法定的なアイテムであり、主張すべき主義なんて言うものでないことはわかりきったことだ。だから、全ての国民が「主権在民」を法的に順守すれば事足りる話だ。

 主権者である国民がそれぞれに様々な意見を持つのは当然だが、統治機構としてはそこに一定のルールを設えないと収まりが付かないので、「多数決原理」が採用され、代議員選挙(獲得票数競争)と代議員による多数決決議により立法が行われる、という仕組み。

 現行選挙制度の内容について語るほどのデータは持ち合わせないが、先ずいうべきは投票率が過半を超えることは稀だということ、それは最近の公職選挙では顕著にみられる事象だ。つまり、主権が存する国民の半分は代議員の選出に関わらないという事実。これは端的にいうと選挙自体成立しているのか、という当然の疑問にぶち当たる。法的に、憲法上の大原則である主権が行使されたと言い切れないわけだ。

 しかし、これを主権行使の放棄行為と見做すこともできる。権利を行使しなければ権利を放棄したと言われるが、しかしそれは一方的な解釈で、選挙自体に民意反映の実質を認めない一定の塊があり、それが抗議の意味で行う積極的放棄ともいえる。この塊を一種の権利媒体と見做すなら、選挙制度そのものの見直しが要求されていると考えることもできる。つまり、主権の存する国民の意思が選挙制度に異議申し立てをしている、そういう現象だと。この民意反映否定状態で選ばれた代議員による政治が有効な、憲法上の主権在民を反映しているというなら、一体だれが正確にこれを評価するというのか?結局は「物言わぬ民」のせいで現行立法代議員の「恣意」が横行する形質となる。

 

 

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その4

2021年08月11日 21時31分18秒 | 政治論
沖縄、過去2番目に多い638人感染 累計3万人超える【8月11日昼】
https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/802521

 東京オリパラなど、(どう見ても)政治的に画策された時代的雰囲気や印象操作で如何に糊塗し、どうごまかしても、この21世紀という歴史的時代の中で決定的な時代表徴となっているのは、明らかに新型コロナウイルスの世界的パンデミックという事件なのだが(殊更実情にそぐわないような脅威を煽るわけでなく)、人間の中の様々な「煩悩」(欲望には、資本主義社会の成り立ちそのものに関わる本質がある)は時としてこの現実から抜け出し(科学的根拠を度外視してーーこの政権では特徴的な性格ですらある)、むしろ通常世界でこそ行われ許されるべき案件を敢えて「やってしまおう」という、一種の衝動に近い欲動を抑えられずに(あるいは別物の思惑から)、実際に、大掛かりな仕掛けで具体的に踏み切っていくということが起こる(彼らは多分それなりに尽力したのだろうーー但しオリパラに関しては仕組み仕掛けの杜撰さが露呈されていた)。

 しかしこの場合、それ自体が結果的にこのパンデミックに対する負の効果しか齎さない(当事者がいかに否定しようと負の事実は残る)という、そして予後的にはむしろ生活生存をさえ確実に脅かす危険性に満ちている、という酷薄な事実に関しては、人類は、決してこれを未然に正確に展望し十全な対策をし、明確な方向性を用意するということをしない。

 その卑近な一例に戦争があり、それは通常世界の破壊そのものでもあり、時として当事者である人類自体がその実践を積極的に後押しする傾向に落ちていく。こういう翼賛傾向は取り分け事態が黒白はっきりしないような状況ではありがちなことだ。当然現在進行形にあるようなものならば、一層、事は複層化する。日々、時々刻々変異するようなものに襲われているこのコロナ禍は、人々を最も単純な自己防衛のホームステイにのみ危難を回避する壕を見出させる(ワクチンもどうやら決定的なものではないらしい)が、先に述べた人間の欲動には、抑えきれずにはみ出す一方の塊がほぼ必ずある。

 最早終わってしまった事案についてくだくだいう必要は今のところないが、先のGoToキャンペーンや今回の東京オリパラが上記のような性格のものだという認識については言っておかねばなるまい。

 但し、小池都知事はともかく、菅や安部は予後(オリパラ後)に関する考え方につき確信犯そのものだと指摘しておくべきで、それは「未必の故意」以上に極めて悪質だ。

 令和天皇はこの国家的犯罪(東京オリパラ)?につき「仕方なく」開催宣言し、閉会式の秋篠宮皇嗣は顔見せだけでこれに関わらなかった(と一応いえる)。

 先の大戦で御前会議における昭和天皇の在り様は、喧伝されるところまさしく「仕方なく」重臣の意思に従った、というのだが、帝国憲法上は統帥権を有する「大元帥」であり、部下の意思などに従う必要性は全くなかった(つまり開戦に関与したという責任は明確に問われなければならない立場にあった)。現憲法は天皇から一切の政治的権力行使の権限をはく奪し、まさに時の権力の意思(本当は国民の意思)に従わされる立ち位置だから、令和天皇とその皇嗣には逆らう何らの可能性もないことは明らかだ。尤も彼らなりの無言の抗弁は何となくだが感じられないこともない。

 アベスガイズムはその害毒的浸潤性が顕著で、それは主にその主体が持つ性格的人格的傾向に裏打ちされている。

 人類はある一定の期間、極めて抑制の効いた倫理性の高い、教条的でさえある「神との対話」時代を経過するが、それらが持つ協調性よりもっと強烈な競争性、淘汰性に段階的に移行、ついには抜きがたいヒーラルキーを構築して精神の階層なるものを築いてしまう。

 これがきっかけで人間の負の部分が、次第に反発的に一つの暴発的エネルギーを持ち、同時に表面上潜航する形質で悪の土壌を肥やし始める。「神は死んだ」というニーチェの時代表現はヒトラーに悪用されるに十分な根拠を持っていたが、もちろんニーチェの思惑はカソリズムへの絶交宣言に極まるわけで、超人思想における人間の、神への拝跪拒否によるルネサンス(人間復興)的意味合いがあった。

 つまりヒトラー的な発現は哲学的な意味で歴史的必然があったと思える。「神は死んだ」は19世紀的総括での全人類的主張だったらしい。同時にそのあとの20世紀は混濁した価値観の洪水となり、「悪」が極まって古代的古典的な権化として人類の前に惨たらしい光景を展開するに至った。プロテスタンティズムの倫理は今や精神界に対する皮肉に満ちた在り様を晒している。

 我々は21世紀にあって、この悪の為す残虐、無残を目の当たりにしてさえ、未だその現実性に見合った全面的な拒否反応を体現するに至ってない。従って「悪」の相貌は勧善懲悪の一義的象徴足りえず、むしろ正当な主張そのものの顔つきを示すこともある。

 しかし周知のように、20世紀前半に露出したナチスヒトラー・ムッソリーニ・フランコ・ビシー的な悪の表徴(ファシズム)は悲惨な末路を迎え、当然の結果としてその壮大な優生思想的計画は適わぬ夢のように当人たちの死で一瞬消えたかに思われた。

 ところが21世紀の現代、各国の国内的格差化、貧富の差拡大は、いよ増しに増して、現代のヒーラルキーは実に巧みに頭でっかちの様相で地球上至る所でアドバルーンのようにゆらめき始めた。世界は彼らの思惑通りに金権的に牛耳られ、各国政府の在り様を根底から把捉し方向づけ、全ての国策を支配するに至って、資本主義は経済マフィア並みの強権主義に落ちていった。

 ここから彼ら大富豪富裕層、ブルジョア、上昇志向組らは一種の集団的威勢を醸し出し、例のpost truth風潮を蔓延らせ、民衆の上に反知性、非論理、倫理否定、反科学といった反価値を我が物顔に流布せしめ、悪の開き直りを示し始め、排外主義、淘汰主義、優越的遺伝子の永久保存、つまりは20世紀前半に頓挫したあの悪名高き優生思想を密かに潜航させている。

 しかし、驚いたことにIOCやバッハ会長のような組織的実践団体とその長が、かくも利権にまみれたものだったとは、この東京オリパラ強行開催がなかったら、あれほど衆目にさらされることはなかったのであろう。人々は何となくではあるが、漸く世界が何をもって成り立っているかについて、様々な方面に疑いの目を向け始めた。菅が、小池が何故あれだけ国民が反対しても、杜撰な管理体制のまま、たかが世界大運動会の強行開催に踏み切って前のめりに突き進んだか。今にして世界の大勢がある階層の力学的基軸によって動かされる仕組みになっていることを、思い知らされたのは、ほかならない日本人一般ではなかったか。そしてこの国の命運さえそうした外力によって否応なく決せられていくことを。

 

 

 

 

 

 

 

  


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その3

2021年08月01日 19時05分28秒 | 政治論

 急激な感染拡大に至ったコロナ禍は、いよいよ東京オリパラなど津波の猛襲並みに根こそぎ粉砕し、それどころでない様相をはっきりと呈し始めた(7月31日感染状況、東京4058人、神奈川1518人、埼玉1036人、千葉県792人、大阪1040人、福岡502人など)。

 しかし、この菅政権は木を見て森を見ない発言や根拠のない楽観論に終始し、現実の森のすさまじい在り様を全く顧みないでいる。この宰相はその物事に対する認識力が決定的に欠けている(馬鹿なのか頭が悪いのか)か、あるいは自己保身に汲々としていて国家の代表のような自身の立場を全然閑却してしまっているとしか言えない(つまりは宰相の器でない)。

 そういう宰相の言動から出てくる極めて不適切で有効でない、むしろ事実に対する真逆のメッセージを、国民の一定の階層はほぼそのまま、コロナ禍などたいしたことがないと受け止めているかこれまで続けていた自粛モードもタガが外れ、東京都新規感染者数4000人越えも当たり前のように起こったわけだ。この事実はまさにこの菅政権自体が、その危機的メッセージ性の欠如という、感染拡大の明らかな原因の第一となっている証左だ。このことを認めたくないがために、あるいは認めたら終わりだと思っているから、菅の記者会見というのは単なる言い訳と言い逃れと言い抜けの場となって、益々我々の反感を買うのだが、しかし元々世論の正当な局面を無視する政権だから、我々の強度の反感は概してこの政権の何らの障害にもなってないことは残念ながら確かだ。(メデア・マスコミ・ジャーナリズムの特にオリパラに対する翼賛的あり方に対する国民の無力感は尋常ではない)

7月31日沖縄県発表コロナウイルス感染症陽性者の状況

入院中509人 国基準重症者64人中等症267人、入院療養等調整中776人、宿泊施設療養中276人、自宅療養中940人、療養中患者計2513人、死亡236人 累計感染者数24761人

名護市895人(解除776人)、北部保健所管内260人(解除238人)

那覇市7117人(解除6453人)

ちなみに28日の新規感染者数347人、29日は392人で2人死亡、30日382人、1人死亡、31日439人(人口比全国1位)

沖縄の感染者数は「1日1000人に増える可能性も」と医師 感染のピークは見えず

https://www.okinawatimes.co.jp/articles/-/794702

 一般的に言って、国家や公機関が発する国民向け言動は当然に国家規模等で拡散伝搬され、多くの国民の獲得情報の基礎になるわけで、そういう意味で、現行東京オリパラの見るからに強行開催(世論無視、日本のIOC傾斜、IOCの横暴強圧)継続進行形勢は、コロナ禍の折から、どうしても自粛続きの閉塞状況にある国民に、明らかにコロナ軽視、無視のメッセージを与えたと解釈されるような傾向にあると言わざるを得ないようだ。既に3000人越えを想定外とした上層部の感懐は、東京オリパラ強行開催が国策的失政だと白状したも同然であろう(彼らは決して認めないだろうが)。4000人越えの数値を突き付けられてもオリパラ有観客を言い募る都知事の、橋本、丸川の狂気を国民はどう見るのか。

 しかしこの期に及んで菅は(人流は抑制されている、高齢者のワクチン接種が進みその重症者数が減ってきているーー実際は人流の減衰は緩慢で、むしろ接種前の世代には中等症重症者が増えてきている)と、恰も事態は政権の思惑通りに進んでいるかのように装い、この状況を事も無げに扱って(東京オリパラの)「中止はない」と断言した。しかし無邪気に断言できるほど、現状は何らか有効な指標をどこにも全く示していないことは誰でも知っている。つまり菅が楽観的に断言すればするほどそれが実情から乖離し、国民の反感を買い、信用を失っていることを、この裸の王様は知る由もない。あるいは諌止する側近さえ一人としていないらしい。

 但し、よくよく考えれば菅は明らかに確信犯と思われる。「諸外国に比べ数値的に抑え込んでいる」というのだが、失政の言い訳に過ぎない。GoToキャンペーンもこの東京オリパラも、両是論両立論(両方を立てて両方を良くするーー現状はその逆だ)でさえなく、感染拡大重症者増大など織り込み済みの確信犯的、「未必の故意」的殺人計画、不作為の淘汰主義(自分は何もせずに成り行きに任せるーーその結果はじかれるものははじかれ、生き残るものは....)の最たるものだ。何故なら感染拡大や医療ひっ迫の有効な抑制対策を一切やらずにその逆流施策を強引に進めたわけで、「何もしないなど言い過ぎではないでしょうか?」などとおのれの無能無策悪策を一切顧みることなく自己保身だけを言い募るその情けなさは、この危機状態の日本にある我々国民には到底許しがたいものがある。

 この安部菅路線の驚くべき悪質さを目の当たりにしながら、国民は何らの手立てもなくて過ごしている。むしろ、菅の吹いた笛の音に合わせて、我を忘れ踊りだしたではないか。メデアマスコミジャーナリズムはそのお先棒を担ぎ、愚劣にもこうした「ええじゃないか」風潮を自ら煽っている。見よ!TVの中はオリパラ一色、ヤフーニュースは連日そっち(五輪)の方でより多くの行数を割いている。つまり一億総筋肉バカになっているようだ。ヤフコメにも、感染爆発で悲鳴を上げているコメをあざ笑うかのように、体制礼賛、オリパラ万歳の大合唱を恥も外聞もなくがなるネトウヨがひしめいている。

すれ違っただけで感染!? デルタ株、驚愕の感染力が詳細分析で明らかに...?(World Voice)

https://www.newsweekjapan.jp/worldvoice/hirano/2021/06/post-21.php

 人流を止める以外に、人心の警戒感の引き締めが益々求められるようだ。見たところコロナ禍は、いかなる視点からも決して油断ならない感染リスクを抱えており、重症化、感染後遺症、死亡リスク、どこから見ても完全に感染を防ぐ以外脅威や恐怖からは逃れようもない。したがって、特殊集合的一大イベントである東京オリパラは全くのリスク喚起媒体以外ではなく、これを強引に開催するイベント主催者は、明らかに感染リスク増大責任を最後まで持っていると言わなければならない。その責任は人命にかかわることであり、一種の戦犯容疑として見る必要があろう。開催に加担した者は勿論A級(指導的役割)、B級(実行者)戦犯として裁かれる。これは冗談でもなんでもなく、ましてやパロデイではない。我々の人生一般にかかわることだ、黙って見過ごすことなど決してできはしない。

 馴化、同化、あるいは雰囲気への委譲、なるようにしかならない、諦め、....こんなところが個人的にはソフトラゥンデングしそうな形勢ではある。国民の怒りは(沖縄ではふつふつと煮えたぎるマグマと呼称する)いつ爆発するのだろうか?沖縄は琉球国復活という方向が見えている。日本人は、西側陣営組み込み、対米従属、安保体制というくびき、によってアジア的東洋的アイデンティティから自ら疎外され、戦後70年以上を閲してもなおこの不動の対米傀儡実質から脱しようとしない。

 「日本をダメにした」のは、この上記のような戦後日本の体制には違いないが、当然その明らかな因源は「敗戦」であり、「敗戦」に至った近代日本の歩み方であり、総じてこうした歩みをどこかで食い止めるべきシビリアンコントロールの脆弱さで、それは官も民も立ち位置の違いや差異はあったとしてもそれでも、同じ意味で不甲斐ないと言えそうだ。

 

 

 


この国の終わり 何がこの国をだめにしたか?その2

2021年07月25日 19時13分22秒 | 政治論

 この国の国民的なムーブメントは、結局この、「普通ではない」コロナ禍の国際運動会実施の離岸流(民意からの乖離、科学的知見、医学的見地からの離反)をやはり止めることができず、あらゆる負の要素(嘘と差別主義と無神経さ、残虐さ)を満載兼備しながら、ある意味猛然と強行開催しようという菅政権、自公系保守政治集団、当然にIOC(元凶はバッハ会長というアングロサクソン的強圧媒体だった)、JOC、組織委員会、東京都小池百合子(この女史は女流政治家としては鋭敏な方だが都民にとってはどうやらいなくてもいい存在だ)らの「なんだかよくわからない」意思(我々はそこに金権主義やエゴイズム、いじましいほどの自己保存本能などを見る)に従って、7月23日、「水晶の夜」並みのきな臭いような不気味などす黒い光の中で開催されたようだ。

 NHKの実況を見る限り、誰かのお通夜のような重苦しさと不気味な静けさだけが今でも底の方に漂っている。多くの点で正当性に欠ける何らかの巨大なイベントを強行しようとするとき、権力者は彼らのすることに否応なく付きまとう錆や垢、腐臭などを見るはずだが、当然彼ら自身の中から後悔や不本意な本音が洩れることはない。向後この国や世界で起こることは賛否半ばして無責任な連中の言い訳と嘘、強弁に埋め尽くされるだろう。posttruthは続く。

 この東京オリパラはとりわけメデア・マスコミ・ジャーナリズムの商業主義と権力者のこれを利した目くらまし作戦により、コロナ禍のすさまじい現状から目を背けさせ国民をくだらない日の丸礼賛の狂熱に引きずり込み、かつてない非現実的ホロコースト(医療崩壊と死人の山)の惨状を現出させるだろう。のちにこれを顧みて、したり顔に「知らなかった」「騙されていた」というのがこの国の国民の予定された言い訳になる。当然、人身御供を数人でっち上げ、かかる惨状のA級戦犯としてその首を絞める。権力者は敵前逃亡を決め込んで、行方知らずの過去となる。元来た道だ。まさしくオリンピックなどやってる場合じゃない。

 この世を金権で動かしている世界の所謂大富豪等の集う空間と、我々の思考空域とはまるで別世界のような隔たりがある。安倍・菅路線はそういう人類空間における1割程度の経済的上層部のための政治に邁進している(勿論そのニュートン力学的平板さにはどう見ても確かな有意な根拠などはあるはずもないーーオリパラを推進したのはこういう連中だ)ので、コロナ禍に残置されている高齢者、重症患者、中等症者、あるいは入院待機患者、自宅療養者、宿泊施設療養者など、明らかに日々生死をリアルに念頭に置かねばならない人々の事など、数字上の匙加減でしかみることができない(菅が言う「事実」なるものは明らかに総体的には意味がない事実だーー彼は森なしの木を見つけてそれが森と等価だと主張する)。当然、この不遇な人たちに直接間接に重大な影響を与えるだろう多くの新規の感染者に対しても、数値的マジックの中で密かに打算的に対国民的印象だけを操作する話(諸外国に比べ小規模に抑え込んでいるといって)で終わらせている。

 「我が闘争」を渋面とともに読まずにいなかった人なら即座に了解されようが、第一次大戦敗戦後膨大な賠償問題に打ちのめされたドイツ国民の前に姿を現したのは、大ドイツを誇示しゲルマン民族の優秀性を鼓吹する、不遜にして傲慢なアジテーター、国家社会主義、労働者の味方を気取る全体主義の権化、社会の底辺部を底なめずりしてきた劣悪な精神的モブたちだった。その頭目アドルフヒトラーは、民族的出自の卓越性を担保するかのように当時欧州を多くの分野で席巻していた祖国なき彷徨えるユダヤ人を猛然と敵視し、これの廃滅をこそ求めて極端な他者(他国)排外排除思想に固まっていった。これがやがて優生思想となってホロコースト(ユダヤ600万、ロマ、精神障碍者、捕虜、社会的弱者の絶滅)へ凝結し、それが姿かたちを変えて現代に蘇り、世界の富裕層大富豪たちの主流の考え方となり、恐らくはプロテスタンティズムの倫理性が根本的に覆される時代(悪魔の時代)に入って行った。彼ら資本主義の旗手たちは見るからに開き直って、半ば当然のように排他的排外的利潤追求と内部留保のうちに、密かに政治的にある合理主義(適者生存、自然淘汰、優勝劣敗、弱者廃滅)に自らの内面的矛盾を保留する生き方を是とするに至った。

 我々はこうした金権的勢力の蠢きをリテラシーの観点からも明確に喝破しその正体を暴かないわけにはいかない。彼らは恐らくは我々の耳目の及ばぬところで底知れず大胆にこの世の通底音を奏で、密かに確実に「優生思想」という新型のウイルスを仕込み、諸方にじわじわと小規模のパンデミックを発生させている。もしかするとこのコロナ禍もまた彼ら特有の仕掛けが功を奏した一例に過ぎないかもしれない。

 コロナ禍は、緊急事態宣言や蔓延防止等重点措置などで一般人の中から都市やその底辺に生存するいわゆる生活弱者をあぶりだし、彼らを経済的精神的ひっ迫状態に追いやり(コロナ自殺に導き)安倍菅路線により、彼らの生存権さえ奪取するに少しの躊躇いもみせなかった。彼ら自公政権下のこの国の行政機関などは国民のために機能するより、手続きの煩瑣や無意味な建前によって極めて非効率的にしか仕事をしようとしてないために、中小零細企業は明日の命も保障されない奴隷的自粛を強いられている。

 やはりオリンピックなどやってる場合じゃない。日本人はこの国の国家政府の愚策悪策無策によって、望むべくもない、生き馬の目を抜くような生存競争を強いられている。言わば内部留保を残して悠々と生き延びる者らの傍らで、明日をも知れぬ「羅生門」の世界を目にする自身の姿がありありと見えているではないか。