沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 「自助」とは、国家は何もしないのでよろしく、ということ

2020年11月14日 01時41分46秒 | 政治論

 菅という人物は、日本国の憲法や法律がその権限と地位を定めるところの内閣総理大臣(内閣の長、三権のうちの行政府の長で内閣に属する国務大臣の一人)であり、国内はともかく?対外的には世界に向かって国(又は内閣)の「代表者」のイメージで対する者である。イメージだから実体が伴わなくともよい。問題はこの者の権限だが、当然に他の二権、司法と立法府に対してその長足りえず、二権に対して何らの権限も有しないと解される。つまり、「元首」という古い言い回しの権力者というよりは、どちらかと言えば頭一つ抜けた国会議員の一人と言わねばならない、それほどにその権限は限局されているといえる。むしろ限局されている故にこそあらゆる独裁的な権力的横暴は国家体制自体を揺るがすことになるといえる。どういうことか。

 例えば総理大臣が、その口ずから明確に「説明のできない(説明したらぼろが出る)」権力的采配を振るった場合(日本学術会議会員任命拒否案件)、先ずその法的裏付けについていえば、既に過去に中曽根元首相がこれを「形式的任命」と位置づけた先例があるのにかかわらず、現学術会議会長のあずかり知らぬところで勝手に事務方で(形式的任命権というものは)「任命義務とまで言えない」と解釈変更の謀議(というしかない)を凝らし(勿論、ある権力的上位者の支持なり命令に添って)、これに基づいて任命権者である首相、でない者(官房副長官で間違いない)が事前に6名を排除し総理大臣にあげた、という、まさに「説明のできない(説明したら必ず追及される)」経緯を辿ったということだった。

 事実関係は誰が見てもそういうことだが、ここで問題になるのは菅義偉という人物が内閣総理大臣で、その権限が局限されているにもかかわらず、専門性の高い独立機関という位置づけの、一般国家公務員と同列にはない日本学術会議の、専門的にしか評価のしようがないはずの会員に関する選任内実を、たかだか一介の国会議員に過ぎない見識(客観的評価に値しない)で一方的に決めつけ権力的に不当に評価した(官房副長官の意見に従って総理大臣が最終決裁をした)という一点で、その評価の「説明のできない」部分こそ、時の権力に批判的な意見の持ち主に対して、不当で非民主的な、時代錯誤の、結果的にはかつて横行した思想的弾圧というものを試みた(学問の自由に対する挑戦というほどのものではない)ということになる。菅他、官房長官などがしどろもどろにでたらめ答弁しても彼らのしていることは明らかに戦後民主国家体制への明白な背信行為、代議員に過ぎない輩の途轍もない越権行為、一種のテロといえる。

 一方今回の行政管理に関する越権行為の確信犯そのものであるこの杉田官房副長官は、まさに警察庁上がりの老獪で高圧的な「特高並み」のナチスヒムラー亜流であり、秘密警察並みの陰険さで官僚等支配の現体制を仕立て上げ、アベスガイズムの権力維持・独裁体制構築の立役者(陰の実力者、隠れた総理)と目されている。排除すべきはこの男だ。この男にある暴力団のドン的強権主義は、この国の戦後の悪しき保守主義路線が醸成した利権構造そのものの土台であり、post truth風潮をパンデミック化すべく機能する毒虫以外ではない。

 果たして論点すり替え学術会議攻撃は定めて様々な国家的民族的歴史的悪臭を放っているが、ネトウヨ、政治家ジャーナリスト等彼ら自身の軽薄で底の見えた正体を曝け出している。コロナ禍でも仕事をせず、おのれらの責任を「自助」責任にすり替えて専ら空虚な「反対の反対」論をでっちあげて悦に入り、そこにある答えのない答えに自己満足するていたらく。トランプといううつけの愚行に無意味な喝采を喚きたて、本来的価値を蔑ろにして倒錯した熱狂を喜ぶ。かつてナチスドイツの国民が陥った、理由のない、従って説明する論理的筋立てのない「ある声」に溺れたように、「何故熱狂したのかわからない」未来を先に立たぬ後悔とともに迎えることだろう。国民の猛省が求められている。彼らを選んだのはほかならぬあなただ。(つづく) 



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