沖縄を考える

ブログを使用しての種々の論考

詩の終わり 日本という国の構造悪ー沖縄から見る雑論

2020年01月02日 10時13分35秒 | 政治論

 明治維新は、かつて高校日本史教科書の記述に「跛行的近代化」という文字が見えたように、所謂民衆(国民)レベルの意識的幼弱さを胚胎(上からの改革)しながら、欧米に追い付き追い越せを旗印として急速な資本主義的発展を実現しようとした、国家レベルの歴史的転換点ではあった。

 問題は、その「近代化」の集中的基本的担い手を所謂(伊藤博文が画策定置した)「官僚体制」に結局し、上意下達の「官尊民卑」を感性的基調とした、頭でっかちの、不健全でアンバランスな国家体制としたことであった。

 殖産興業、富国強兵、欧化主義、といった国家方針、方向性は勿論近代化の過程では国威国勢を諮るに必要なアイテムでないことはない。しかし「持たざる国」の悲哀は当然に(海外進出という形質の)市場開拓、資源確保という、「帝国主義的」覇権的行為に移行させざるを得ない。その口火を切ったのは陰謀と刺客暗躍による朝鮮併合(や琉球処分)であり、その後、日清日露戦役にはからずも勝利した挙句、国全体が上滑りし、思いあがった「軍部の暴走」という名の、大陸への進出による対中戦争及び端緒から到底勝利の公算がない米英への宣戦という、奈落への道をまっしぐらに突き進んだわけだ。

 この近代日本の執った悪路行を如何にしても食い止めえなかった「秀才」たちの罪過は、勿論単なる行き過ぎた国家主義的破綻などいうものでは済まされない、国民民衆不在の犯罪的過誤であり、手っ取り早く言えば、こうした歴史的失策を敢えて犯した明治以来の「官僚組織」「官僚機構」「官僚体制」というものは、戦後真っ先に解体粉砕し尽くすべきものだったということになろう。ただ、戦後占領GHQはこの組織機構の解体を敢えて行わず(その官僚体制を踏襲し)、又誤った国策の創出者たる旧官僚たちへの戦犯的処罰等も殆どなかったといえる。これが戦後日本に禍根を残す結果となったことは目に見えてわかろう(桜を見る会追及本部公開ヒアリングを見よ、そこに居並ぶこの国の官僚たちは、行政権を振りかざしてまともな回答をするものは一人もいない、まさに「官尊民卑」を地で行っているとしか言いようもない)。

 一方、其れとは別に国民側にとっての問題は、この国の「近代化の失敗」「近代化の誤った方向性」という歴史評価が、大団円としての15年戦争とその敗北という結果から、必然に反省的な意味で引き出されるという動かぬ事実だ。これは国家としては国際社会における戦争の敗北という外交的失策と侵略という犯罪に極まっているが、その国民としては如何に処すべき話なのか、少しく解読困難な文脈を提示しているといえる。

 国が、官僚が、秀才たちが造ろうとした近代日本は、国民を置き去りにして暴走しかつ勝手に空中分解した。その歴史的事実の前に独立的自律的に、国民国家の担い手である国民が意識的に歴史の主役として行動するという、戦後の大前提基盤を、果たして日本人は能う限り自由にかつ本意において効果的に、使いこなしえたかというと、周知のように旧態依然の「官尊民卑」官僚が主導する亡国的国策がまかり通る国家に堕した(現今安倍政権ではそのかつて主導たる官僚の人事権が官邸に極限した結果、国民にとっては恐るべき奴隷的官僚を多く生み出すこととなった)。

 恐らくは、戦後民主主義あるいは平和憲法という絶対的な柱において経過した戦後70数年というものが、主権の存する国民にとっては、いずれにしろ(国家が、この不可逆な歴史的過ちを総括しかつ反省するしないに関わらず)本質的に前時代を完全否定し、主権在民の実を上げるべく着々と建設的に推移するはずのものだった。

 ところで大日本帝国が犯したとはいえ、その国民であったものの我々には何一つ責任がなかったかといえば、無罪を無邪気に信ずるような能天気なものは考えの外だとしか言えない。戦後この国の民は期せずして、「知らなかった」「騙されていた」と言い抜けた。この戦後日本人にあった一種の「無責任体質」は、実はこの国の長い2000年ほどの歴史にはしばしば見られたものだった。取り分け為政者、権力者、上部構造にあっては必ずと言っていいほどその(無責任な)正体が暴露されてきたのだ。

 日本的な意味の改革という視点でいうと、明治維新は「旧支配階級である武士階級と公家たちの中から出た急進的な人物群が率先進めた」改革であり、基本的には支配階級の首のすげ替えにほかならず、その新しい支配者こそ天皇だったわけで、言い換えると「外からやってきた力である諸外国」が迫った「開国」という体制更改の国事を、旧支配者(幕府、武士階級)が新しい支配者(天皇)に丸投げしたという話だ。「王政復古」「大政奉還」とはそういう意味だ。ここにもこの国の国柄に現れる基本的な「無責任体質」を見ることになる。

 さて話は飛ぶが、沖縄から見ると、かの「沖縄戦」は本土内地ヤマトゥのヤマトンチュがのたまう「本土決戦の捨て石、時間稼ぎ、防波堤」などではなかった。何故なら、第一に本土の日本人は、彼らの言う本土決戦「最後の一人まで」闘うような話には結果としてならなかったわけだ。おまけに大元帥昭和天皇ヒロヒトは、連合軍によって天皇制護持の護符を得たのちに、そして、沖縄広島長崎の残酷な犠牲を戦略的戦時体制維持という愚劣で犯罪的な判断により招来してのち、ポツダム宣言受諾という無様な無条件降伏を宣した。つまりは、沖縄戦(と原爆被災地)の本質は明らかに天皇制国体護持のための人柱だった。

 

 

          

 



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