8年前のフクシマ原発事故をめぐり、東京電力の旧経営陣3人が強制起訴された裁判で、東京地裁は全員に無罪を言い渡した。朝日新聞は9月20日付の社説《原発事故判決 釈然としない無罪判断》でこの地裁判決をとりあげ、これを「釈然としない」判決だとしている。「未曽有の大災害を引き起こしながら、しかるべき立場にあった者が誰一人として責任を問われない」というのでは、大方の国民、とくにフクシマの被災者は納得しないだろう、と考えるからである。
この社説の論調の、その根底にあるのは、正義の実行を求める強い処罰感情である。そもそも東電の旧経営陣3人を強制起訴に持ち込んだのも、「あいつらがのうのうと暮らすのは、許せない。あいつらを刑務所にぶち込んで、臭い飯を食わせるべきだ」という被災者の怒りの声だった。
3人の強制起訴が被災者のルサンチマン(怨恨感情)の所産だったとすれば、地裁の判事が「津波の襲来を予測できたかどうか」を裁判の主な論点にすえた時点で、この裁判は(被災者の)期待から外れたものになってしまっていたと言えるだろう。
3人に対する裁判は、あくまでも、被災者の心の痛みに向きあうものであるべきだったのではないか。3人を有罪にしても、それで被災者の心の傷が癒えるものではない。3人に有罪判決が下されることで、一時的には被災者の溜飲は下がるだろうが、それでは避難生活の困苦は解消されないと私は思う。
避難生活にともなう困苦と、心の傷の解消を主眼にすえるなら、判決は、企業としての東京電力に、それなりの賠償金の支払いを命じるものであるべきではなかったか。「正義が問題なのだ。カネの問題ではない!」という声も聞こえてきそうだが、カネが問題になる正義もある。そう私は信じている。
この社説の論調の、その根底にあるのは、正義の実行を求める強い処罰感情である。そもそも東電の旧経営陣3人を強制起訴に持ち込んだのも、「あいつらがのうのうと暮らすのは、許せない。あいつらを刑務所にぶち込んで、臭い飯を食わせるべきだ」という被災者の怒りの声だった。
3人の強制起訴が被災者のルサンチマン(怨恨感情)の所産だったとすれば、地裁の判事が「津波の襲来を予測できたかどうか」を裁判の主な論点にすえた時点で、この裁判は(被災者の)期待から外れたものになってしまっていたと言えるだろう。
3人に対する裁判は、あくまでも、被災者の心の痛みに向きあうものであるべきだったのではないか。3人を有罪にしても、それで被災者の心の傷が癒えるものではない。3人に有罪判決が下されることで、一時的には被災者の溜飲は下がるだろうが、それでは避難生活の困苦は解消されないと私は思う。
避難生活にともなう困苦と、心の傷の解消を主眼にすえるなら、判決は、企業としての東京電力に、それなりの賠償金の支払いを命じるものであるべきではなかったか。「正義が問題なのだ。カネの問題ではない!」という声も聞こえてきそうだが、カネが問題になる正義もある。そう私は信じている。