土浦の荒川沖には、水戸街道沿いに『宿場町』がしかれていて、荒川沖宿は水戸街道20宿の一つであり、千住宿から数えて九つ目の宿場町でした。

荒川沖の所在地は土浦になってますが、名前の由来は隣町の『稲敷市阿見町荒川本郷』と関係があります。

慶長九年に水戸街道が開通した際に、阿見町の荒川本郷から移住してきた有力農民七戸が宿場を形成したのが荒川沖の宿場町の起こりで、江戸時代以前にはこの辺り一帯『荒川野』と呼ばれていて、乙戸川・霞ヶ浦・牛久沼が頻繁に氾濫して、この辺一帯が水浸りになっていたそうで、この様子から『荒れる川の野』『水に荒らされた野』と呼ばれたのが始まりで、荒川本郷から遠くに見える事から、『荒川の沖』と言うことで、荒川野を沖に見る地区が現在の荒川沖という事です。


宿場町だった通りには、今もその頃の建物が数件残っていて、当時の様子を偲ぶ事が出来ます。



この建物は凄い門構えで素晴らしい造りですが、個人宅の民家なのかな?
荒川沖宿には本陣が無いと聞いたので、本陣では無いと思うんですが…



此方の茅葺き屋根の建物は、宿場町だった頃に旅籠屋だった『佐野家住宅』で、今も此処で住んでいる方がいるそうです。


外装だけですが、旅籠屋の様子を伺う事が出来ますが、ブロック塀がある為に一階部分が余り見る事が出来ないのが残念です。



茅葺き屋根の建物が近くにもう一軒あって、此方は『鶴町たばこ店』で、現役のたばこ屋として続いてると聞いたけど、まだたばこ屋やってるのかな?




因みに荒川沖の宿場町はWikipediaによれば、『南北に数百メートルの範囲で広がっていた。小さな宿場町で、本陣は置かれていなかった。宿場町としての役務は隣の牛久宿と分担して行っており、荒川沖宿のみで完結したものではなかったという。正規の宿場町ではあったものの、継ぎの宿という位置づけであったとされるとの事です。


それでは荒川沖にある『荒川沖天満宮』の写真で、今回の記事を締め括ろうと思います。