~今回の記事は、以前書いた沼尻墨僊の記事に少し文章を手直しして、再投稿した物です。


かつて幕末の土浦には、『沼尻墨僊』という町人学者が存在しており、当時の土浦にこの人ありと言わしめた天才学者でした。

墨僊の名は常治と言い、墨僊は号になります。

土浦田宿町(現在の茨城県土浦市大手町)の旧家であり五香屋という屋号を持つ中村治助の九男として生まれますが、間もなく中城天神町(現在の茨城県土浦市中央一丁目)の町医者・沼尻石牛の養子に入りました。

墨僊は多芸多才な人物で、地理学・天文学に長けており、26歳の時に「地球万国図説」という本を著していて、それによれば「傘式地球儀」と呼ばれる、折りたたみ式の地球儀を制作し、他にもエレキテルも制作していた様です。

彼は中城町の不動院に「時習齊」という寺子屋を開いており、上記の「地球万国図説」や「傘式地球儀」を使い、子弟達に初等教育を含めた、世界地理や天文学の指導をしていました。
(後に「時習齊」は「天章堂」に改名)

記録によると、「天章堂」には享和1年から安政3年までの間に、男子が515人・女子67人・合わせて582人の門弟がいたそうです。

更に墨僊は土木技術に関しての知識や技術も豊富で、彼が23歳の時に中城町不動院前を初めとして、土浦市内11カ所に井戸を掘っています。

井戸掘りには、およそ90人くらい動員されていた模様です。

彼は絵図にも長じていて、24歳の時に「鑿井図」という絵巻の中に、井戸掘りの様子を描いています。

また、墨僊は温厚な性格で養父母に良く孝行したので、土浦藩から二度に渡り褒賞されました。

後にも寺子屋教育の功績により御給米を受け、更には帯刀も許される等、彼が能力・人格共に非常に優れた人物だった事が解ります。