Blog~続・トイレの雑記帳

鉄道画像メインの「ゆる鉄写真ブログ」のつもりでしたが、
政治社会の事共について記したくなり、現在に至ります。

中曽根元総理大臣回顧

2019-12-02 13:26:56 | 国際・政治

令和元年も、もう最終月を迎えた。今月も、拙ブログを宜しくお願い致します。先月末近く「戦後政治の総決算」を標榜、戦後 5番目の長期政権を築いた中曽根康弘・元総理大臣が逝去された。享年 101とは大いなる長寿に映るが、以下の事共からも 少なくとも常人の 2人分かそれ以上の働きを示した大人物の視点からすれば、まだ時間不足だったのかも知れない。今は一言の弔意と共に、同元総理の軌跡を静かに振り返られればとの想いもある所。

1918=大正 7年群馬県出身。戦前の内に内務官僚や海軍士官を歴任、戦後間もない 1947= 昭和22年の衆院初当選を皮切りに今世紀初頭まで半世紀超の国会議員人生を通された。功罪相半ばとの声も強いが、拙的にはやはり 中曽根内閣当時のレーガン米政権との同盟強化と、旧国鉄の分割民営化に関しての大きな決断が強く記憶に残る。「中曽根元総理の決断があったから、国鉄民営化はなし得た」と 当地の JR総帥、葛西敬之 JR東海元社長・現名誉会長も振り返られている様だ。

中曽根内閣当時の風聞だが、ワインをよく嗜み 今でこそ一般化したカラオケに早くから親しまれていたとかで、当時は入浴中にまで歌の練習に及び、それが過ぎたせいもあって、浴槽に機材を落として修理のやむなきとなった 人間臭い面白話にも接した。当時中曽根元総理は左派的視点から、戦前回帰志向的危険人物のレッテルを貼られた様な不当な見方をされる事も多々あり、拙視点もそうした方向の影響を受け易かった事も事実だ。今振り返ると、同元総理にそうした危険は些かも見られず、至って知的で冷静な人物だったと捉え直せるのだが。以下、一昨日ので恐縮だが全国紙 Y新聞社説を引用して「振り返る」事としたい。

「戦後史に刻む『大統領的』首相」

戦後政治史に刻まれる一時代を築き、強いリーダーとして内政、外交の両面で確かな足跡を残したと言えよう。1982= 昭和57年11月から 5年間、首相を務めた中曽根康弘氏が死去。101歳だった。首相としての在職年数は、戦後 5番目に長い 1806日に及ぶ。中曽根氏は 1947= 昭和22年の衆院選で初当選した。若手の頃は、吉田首相を厳しく非難し「青年将校」と呼ばれた。岸内閣で初入閣して以降、要職を歴任した。1966= 同41年に中曽根派を結成し、当時の自民党実力者 5人を称した「三・角・大・福・中」の一角を占める様になった。1982= 同57年に田中派の協力を得て、首相の座を射止めた。

政権運営で特筆すべきは「戦後政治の総決算」を掲げ、多くの改革を成し遂げた事だろう。内政では「聖域なき財政改革」に取り組み、国鉄、電信電話、専売の 3公社民営化を断行した。トップ・ダウンの手法で政策を決定しつつ、時に民間の有識者も活用した。大統領的な手法はその後、多くの政見が踏襲しているる外交面で、今日に至る強固な日米同盟の功績は大きい。首相就任当初から「日米は運命共同体」と強調、当時のソ連邦に対し、日米が共同歩調を取る姿勢を鮮明にした。当時のレーガン米大統領とは親密な関係を築いた。「ロン」「ヤス」と日米首脳がファースト・ネームで呼び合う様になったのも、この頃からである。三木内閣が定めた防衛費の「国民総生産 GNP比 1%枠」を取り払い、防衛力の強化に努めた事も注目されよう。

中曽根氏は 1986=昭和61年、所謂「死んだふり解散」で衆参同日選挙に臨み、衆院で 300議席超の大勝を果たした。この結果、自民党総裁の任期が 1年延長された。長期政権の最終盤では、教育改革に力を注いだ。2003= 平成15年まで議員を続け、当選回数は 20回を数えた。会長を務めた世界平和研究所で政策提言を重ね、憲法改正に情熱を傾けた。2018= 同30年に発表した政策論集では、政府に安全保障のコストを積極的に分担する様求めていた。初当選の頃から首相を目指し、政策やアイデアを大学ノートに書き綴った。これが政策構想の土台となった。確固とした信念を持ち、政策の実現を目指した。「政治家とは、歴史という名の法廷で裁かれる被告である」が口癖だった。多くの議員に噛みしめてもらいたい至言である。(引用ここまで)

当日の Y新聞には同紙の特別編集委員・橋本五郎さんも秀逸な評伝を寄せられていた。それによると、中曽根元総理は

① 権力を最大限に行使しながら、その魔性も自覚されていた事。「権力は決して至上ではありません。それは本来、文化に奉仕するものです。文化創造の為の奉仕者・サーヴァントなのです」と自省録に綴られていた。5年近い総理在任中、毎週日曜夜 東京・谷中の全生庵での座禅を常とし、その数は 167回に上った。これが前述の至言への自覚に繋がった由。

② 人脈を大切にした。昭和 20年代末から毎年、手帳の最終項に「結縁、尊縁、隨縁(縁を結んだら、その縁を尊び、その縁に随う)」と書いてきた由。中曽根さんの周りには、地元の支持者、政治家、マスコミ、学者など様々な輪が幾重にもあった。

③ 事を成すにあたって大きな戦略を描き、周到な準備を重ねた事である。1983= 昭和58年 1月の電撃的訪韓と訪米などその典型である。国鉄民営化を断行する為 反対する総裁以下の首を斬ったのも同様である。強烈なまでの使命感の背後には、絶えざる勉強の日々があった。中曽根内閣時の故・藤波孝生元官房長官は同元総理を「生涯一書生」と呼んだ。その姿は終生変わる事がなかった。

一連の記事を拝読して拙者は、この中曽根元総理の達し得た境地は、己には死んでも到達し得ない事を自覚した次第。「功罪相半ば」との辛い評価もある様に、中曽根元総理の軌跡は、確かに「良い事づくめ」とは参らないのは事実も、他の歴代政権に比して秀でていた所多いのも 又事実である。安倍現政権も、中曽根元総理の軌跡から少しは学ぶ姿勢も見せてはいる様だが まだ追いつくレベルにさえない所だろう。まして、特定野党側は 中曽根元総理をあくまで悪玉側に置き続ける故に、政治家として、人としての優れた所さえ学ぶ意思を持ち得ないというのが実態ではないのか。同元総理の軌跡は、亡くなられたこれからにこそ意味を深め、多くの人々に振り返られるべきと心得るものだが。今回画像は、故人となった中曽根元総理の地元も経由の 北陸新幹線列車の様子を埼玉・大宮駅構内から。                                                            


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