うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

うたよみセラピー【しなやかな心、どんな苦しみも受け容れられる心に”おのづから”なってしまふブログ】

歌をよむこと、それは古(いにしへ)よりやまとの国に伝はれる道です。
道とは、生き方のこと。
「いかに生くべきか?」を”考へる”必要はありません。
歌とともに生きること、それだけで人も社会も、望ましいあり方に近づいてゆくのですから。
ようこそ、うたの森へ。

【いま、なぜ歌なのか?(初めてのかたへ)】

やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。
いまの日本社会はこころを病んでゐる、と言はれます。
物質的には恵まれてゐるだけに、なほさら心の問題がクローズアップされてきますね。
だとするなら、心からうまれ出づるといふやまと歌は、いまの病んだこころを癒す可能性を秘めてゐるのではないでせうか?



世の中にある人、ことわざ繁きものなれば、心におもふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり。
うたは、その人のこころを映し出します。
こころが感じておもふことを樣々な物事にたくして表現するのが、歌であるからです。
といふことは、歌をみればその人がどんなひとか、いま何を考へてゐるのかがわかります。
おのれの歌をかへりみれば、今のおのれの心のありさまもわかります。
うたは心をうつす鏡、こころのチェックシートでもあるのです。



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【うたをよむメリット25】

・五感がするどくなる

・観察力がたかまる

自他のちょっとした変化によく気づくやうになる

・季節の移ろひとともに、無理せず生きられるやうになる



・みづからの心の動きを感じやすくなる

・心の自己観察ができるやうになる

・素直になる

調子のよしあしにかかはらず、おのれを受け容れられるやうになる



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【特記:こころの病と歌よみとの関係】

こころの病が治るプロセスは、ひとりひとり異なるものだと思ひます。

ただ、「必ずココだけは通る!」といふポイントはあるのではないでせうか。

思ふにそれは、


みづからの心のありさまを、できるかぎり客観的にとらへる


といふポイントです。

ここを通りはじめたときから、こころの病は恢復にむかひます。



心理療法のなかにも、このポイントの通過を狙ったものがたくさんあります。

たとへば「論理療法」「内観」「ゲシュタルト療法」などです。

とくに、ゲシュタルト療法の“エンプティー・チェアーEmpty Chair”あたりは、歌よみのプロセスにも通ずる方法かと思はれます。紀貫之は、

「男の私が、女になったつもりで書く。」

と言って、『土佐日記』をしるしました。(ちなみに、貫之は歌の名手でもありました。)



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別れのくちづけ


くちびるにきみが残り香まとひつつ笑みいつはりて往くがかなしさ




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お忙しいところわがブログにお越しくださり、いつもありがたうございます。
この長い記事をわざわざ読んでくださる御厚意、けっして忘れません。




恋の歌をよんでゐるときが、もっとも生き生きする私でございます。
なぜかはわからないのですが、燃えるんですよね。
色好みさんたちなら、わかっていただけるかも(笑)。

さういふ刹那を表現したいとき、歌はもってこいです。
短いからこそ、瞬間を表現できます。
世界でも、そんなことが当たり前のやうにできるのは、わが日本だけでせう。



それと、これは好みの問題かもしれませんが、歌は“ちょっとしたエロス”の表現をめざすのがよいと思ひます。
あまり露骨なやつは、かへって興ざめするのではないでせうか?
それに、そもそも日本的つつしみを欠いてゐます。
わざわざ短歌にしないでも、別な世界でやっていただいた方がよいと思ふのですが・・・・・・。

まあ、けふの歌がそもそも露骨だと言ふ人があるかもしれませんしね。
そのあたり、線引きはあいまいです。



いまの歌をみると、感情をすなほに表現する歌のすくなさに、驚かされます。
こころの奥を表現するかはりに、外側をきらびやかなしゃれた言葉でかざらうとしてゐるやうに見えるのです。

なんでもありなのが歌だから、それはそれでよいとは思ひます。
ただし、“こころの癒しとしての歌よみ”から見た場合、さういふ詠ひかたはおススメできません。

いまの人は、ただでさへうはべをつくり飾って生きてゐます。
それが心の病のもとであることも知らず・・・・・・。
知ってゐても、さうせざるをえない人もゐるかもしれません。

だから、せめて歌よみに向きあふ時くらゐは、おもてを飾りたてるのはやめませんか、と言ひたいのです。
かはりに、こころの内側の表現をみがいていただきたいのです。


やまとうたは、人のこころを種として、よろづの言の葉とぞなれりける。


たびたび引用してゐますが、『古今和歌集』仮名序のはじめのふみです。

そのふみからわかるのは、やまとうたは内側から生まれ出づるものだ、といふこと。
お日さまの光や雨水や土のこやしは要るにせよ、それはあくまで“こころの種”があってこそ。
なにより大切にすべきは、“こころの種”なのです。
歌よみにおいては、それを忘れるべきでないと思ひます。



いまの歌は、外側を飾ることにばかりとらはれてゐる気がしてなりません。
もちろん、作品としての形の整へるのは大切ですよ。
でも、そちらに気を取られすぎると、はてわたしは何を表現したかったのだらう、と分らなくなってしまひます。

或る人は、おのれを偽りに偽って生きてきたため、本当は何がしたいのかわからなくなってしまひました。
いまの世に、さういふ人は意外と多いのではないでせうか?

おのれをすなほに表現することをゆるしてもらへない環境にある人は、かならずいらっしゃいます。
それはどうしようもないことですから、そこから脱け出すことを祈りつつ生きるしかありません。

そんなかたでも、せめて歌をよむときだけでもすなほに心を表現するなら、おのれを見失ふことはないと思ふのです。
“こころの切替”の大切さでございます。
オンとオフ、公と私、緊張と弛緩、戦ひと安らぎ。

私は、歌よみを“こころのオアシス”だと思ってゐます。
いつもは砂漠をさまよってゐても、疲れたらそのオアシスに立ち寄って、ひとやすみ。
で、また砂漠に戻ってゆく。

砂だらけの砂漠のなかにある、緑と水のいこひの園。
そのふたつにギャップがあるからこそ、こころの切替ができるのです。

しかし、いまの多くの歌よみがやってゐるのは、そとの砂漠の砂をせっせとオアシスに運びこんでゐること。
泉を埋めたて、緑に砂をかぶせてゐます。
外を飾らねばならぬ浮世のならひを、歌よみにまで持ちこんでゐるのです。

それはやめませんか、と言ひたい。
すくなくも、私がみなさんにオススメしたい“うたよみセラピー”は、さういふものではないのです。
それは“現代文学”としては価値があっても、生きてゆくための癒しにはなりえません。



終りに、けふの歌の言葉について。

第5句「往くがかなしさ」といふ表現は、『万葉集』でよく使はれてゐました。
“・・・が~さ”といふ表現のことです。
「見るが貴さ」とか、「見るがうれしさ」とか、「来るがかなしさ」とか。
歌の終りを感情表現でしめくくるので、それをつよく示すことができます。

さういふ、こころを表現する言葉をたくさん憶えてゆかれると、その時々のこころを正しくとらへられます。
なほ、あへて感情表現の言葉をつかはないで、歌全体の雰囲気でそれをあらはすといふテクニックも、たしかにあります。
が、それは高等テクであって、癒しのための歌よみには必須でないと思ふのです。
すくなくも、初めにめざすものではありません。

嬉しいときは「嬉しい」。
かなしいときは「かなしい」。
すなほに認めて言葉にすることは、癒しの基本です。



こころをあらはす言葉は、奥が深うございますよ。

たとへば“かなし”といふ言葉。
それを古語辞典(岩波)でひくと、初めにかう書いてあります。

かなし【愛し・悲し】
自分の力ではとても及ばないと感じる切なさを言う語。・・・・・・》

そして意味として、
1、どうしようもないほど切なく、いとしい。かわいくてならぬ。
2、痛切である。何とも切ない。
3、ひどくつらい。
4、貧苦である。貧しい。
5、どうにも恐ろしい。こわい。


2以降の意味は、現代人からみても頷けますね。

問題は、1です。
どうして“かなし”に「いとしい・かわいい」の意味があるのか?
みなさんは納得できますか?
ちょっと考へてみてください。



ちなみに私は、それこそ痛いほどわかるのです。

想像してみませう。
たとへば、恋人とふたりきりでゐる時。
愛しくて愛しくて、どうしようもなくなる時がありませんか?
愛しさがつのって、胸がせつなくつらくなってしまったりしませんか?

或いは、ちいさなわが子を前にして。
すやすや眠る顔をみてゐると、可愛くてしかたがなくなったりしませんか?
胸がつらくなるほど、愛しくなりませんか?

私は経験こそすくないものの、さういふ気持をよ~く知ってゐます。
だから、むかしの日本人が“かなし”を【愛し・悲し】の2通りに書いたわけを、しみじみと実感できます。



やまと言葉は、とても感覚的な言葉なのです。
哲学的な思考から生まれてきたのではなく、感じるこころから生まれてきたのが、やまと言葉であります。

恋人やわが子を切なくも愛しくおもふ気持は、文字の無い時代を生きた先祖も、いまを生きる現代人も、みな等しく持ってゐるこころなのです。
切なくなるほど愛しいこころは、“かなし”といふやまと言葉によって、古代から現代にまで橋渡しされます。

やまと言葉といふと、なんだか洒落た言ひ回しばかりが想像されますが、それは狭く考へすぎ。
やまと言葉をまとめた本に頼らずとも、やまと言葉に通ずることはできます。
古歌を読み、みづから歌を詠むといふ行ひによって。



宇多田ヒカルの「幸せになろう」といふ曲が好き、とどこかに書きました。
もの悲しい雰囲気が、むしろ幸せの本質をつかんでゐる、とも。

幸せには、或る種のせつなさを伴ふのです。
愛しさつのって胸がつらくなることからも、それはわかります。

幸せと聞いて「ハッピー!」としか思はないのは、ちょっと違ふ気がする。
私は、いまどきの流行歌の多くに虚偽のにほひをかぎとってゐます。
歌詞にせよ、音にせよ、うすっぺらな感じがしてなりません。
すくなくも、私のこころには響いてこないのです。

ああいふ歌を、たとへばカラオケで歌って、癒されるのだらうか?
試してみる気もおきない。
世のなかに「癒し! 癒し!」の言葉があふれてゐるところから思ふに、たいして癒されてゐないのです。
せいぜい、大声を出したことによるスッキリ感があるのみでせう。



おのが心をつねに見つめてみると、さまざまな発見があります。
こころの癒しはまづ、おのがこころを見つめるところから始まります。
そして、それはセラピストにやってもらはなければできないことではありません。
やる気さへあれば、どんな人にでもできることです。

歌よみを、こころを見つめる営みとしても、オススメいたします。
日々うたよみをするのは、“こころの日記”をつけるやうなもの。
具体的な事実の描写がなくても、読みかへせばそのころの心持を思ひだせますから、歴とした日記なのです。

どんなに忙しい時であってもスキマ時間でできる、うた日記。
ぜひ、やってみてください。
(終)



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怒り・かなしみ・さびしさ・うらみ・後ろめたさ、などなど。
ネガティブな感情くんたちです。

かれらに苦しめられてゐるかたも少なくないと思ひます。
そんなかたに、朗報です。
かれらに離れていってもらふ奥義を、御教へしませう。

それは、

ネガティブな感情を、しっかり味はふこと

です。




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みなさまの温かい励ましのおかげで、忙しいながらもブログを書きつづけられてゐます。
ありがたうございます。




「なーんだ。」
と思ったかた、ハヤトチリは禁物ですぞ。
そもそも”味はふ”ことについて誤解してゐるかたもいらっしゃいますからね。

チェックさせていただきます。



お天気を例にとってみませう。

去る12月11日(金)、東京の朝は大雨でした。
その一日の始まりを、
「あ~、雨か・・・・・・。いやだな~。」
と思ひましたか? それとも、
「まあ、雨は雨でわるくないかも・・・・・・。」
と思ひましたか?

おそらく、イヤだな~と思ふかたがほとんどでせう

もうひとつ、お天気の例を。

このごろ冬本番をむかへ、晴れても寒い日がつづくやうになりました。
そんな冬の朝、しんと冷える朝を、みなさんはどのやうにむかへられますか?
「あ~、また今日も寒いのかあ。イヤだなあ・・・・・・。」
ですか? それとも、
「寒いは寒いで、気が引き締まっていいよね。」
でせうか?

これもおそらく、イヤだなと思ふかたの方がずっと多いかなと。



さて、はっきり言はせていただきますね。

いやだな~と思ったかたは、お天気を味はってをられません!

たとへ話つづきで恐縮ですが、ものを食べる場合において”味はふ”といふとき、ふつうは好きなものを指しますよね。
「好き」が言ひすぎなら、すくなくも”嫌ひぢゃない”ものを食べるとき、味はふことができます。

思ひ出していただきたいのは、嫌ひなものを食べる時のこころです。
なるべく味を感じませんやうに感じませんやうにと祈りながら、食べませんでしたか?
息をしないとか舌をちぢこめるとか、さまざまな手を尽くして、すこしでもまづい味を感じないやうにして、くちを動かしてゐませんでしたか?

すでにおわかりかと思ひますが、さういふ食べ方は、あきらかに味はってないですよね?
むしろ避けてゐます。逃げてゐます。
および腰で、隙あらば逃げようとする心です。


お天気においても、話はまったく同じであります。

イヤだな~と思って雨や寒さにのぞむと、自覚のあるなしに関はらず、それらを避けようとします。
目をそむけようとします。
すこしでも感じまいとして、感覚入力の感度をさげようさげようとするのです。

これは、まったく味はってゐませんよね?

今までさうやって過ごしてこられたかたは、このあとの話をちゃんと聴いてくださいね(笑)。
感情を味はふとはどういふことなのか、書いてゆきますので。



雨や寒さといったお天気を、
「それはそれで、わるくないな。」
と思へる人は、ネガティブ感情を味はふことのできるかたです。
ここに、そのための大きなヒントが横たはってゐます。

それはそれでいい、と思へるのは、或る種の”ひらきなほり”であります。

「しかめ面したって、雨がやむわけぢゃなし。」
「嫌だ嫌だと言ったって、どうせ冬は寒いんだ。」
そんなひらきなほりの心があれば、どんな天気でもそれなりに楽しめます。
味はふことができます。

ひとつ前の記事に、ネガティブな感情があっても、それを嫌がるのと嫌がらないのとでは心のありかたが違ふ、といふことを書きました。
ここでもまったく同じで、寒さを感じても、それを嫌がるのと嫌がらないのとでは、心持がちがふのです。

その違ひを、しかとわきまへてくださいね。



ときどき話題になりますが、末期のガン患者が治療もなにもしないのに治ってしまったりします。
そのわけはさまざまあるでせうが、おそらく共通してゐるのは、或る種の“ひらきなほり”の心だと思ふのです。
みづからのガンや死を受け容れた、とも言へます。

「苦しいのは、ガンなんだから当たり前。いちいち気にしてたって仕方ないよね。」
「どうせ死ぬんだから、それまで思ひきり好きなことをして楽しまう。」
そんなひらきなほりの心が、ガンを治してしまったのではないでせうか?

何らかの痛みや苦しみにたいして顔をゆがめてしまふのは、受け容れたとは言へません。
どこかに避けよう逃げようとする心があるから、そんな顔になってしまふのです。

受け容れたときの顔は、もっと穏やかで、安らかです。
周りがびっくりするくらゐ。
「えっ、そんな苦しみがあったの?!」
と。

冬の寒さで言へば、つめたい北風が吹いてきて縮こまるのは、北風を味はってゐません。
マフラーなんて、もってのほかです(笑)。
むしろ首もとをバッとあけて、風をクビで受けるくらゐでないと、味はったうちには入らないと思ひます。

私は、知る人ぞ知る、薄着の人間なんです。
と言って、真冬に半袖半ズボンまではさすがにゆきませんが(笑)。
寒い日は縮こまるかはりに、背筋をのばして首もとを開けます。

とくに、冬のピンと澄んだ朝の寒さは、格別ですよ。
あれは味はふに値する寒さ。
もちろん寒さは感じてゐるのですが、それが嫌だとは思はないんです。

むしろ心がひきしまって、気持いい。
この感じがわかるかたは、ネガティブ感情を味はふことができるでせう。



なほ、ネガティブ感情を好きになるところまではゆかなくてかまひません。
「好き!」までゆかうとすると、心に無理がかかります。

そんな無理はしなくてよいのです。

よく、あらゆる出来事をポジティブに解釈しようと躍起になってゐる人がゐますが、その手の努力は、おそらく徒労に終ります。
なぜなら、「ポジティブにならう!」「好きにならう!」と、“頭”でこしらへてゐるからです。
理性のチカラで何とかしようとしてゐるからです。

こころは、こしらへようとするとヘソをまげます。
動かさうとしても、動いてくれません。
縛らうとすると、暴れます。


これ、“こころの物理法則”ですから、憶えておいてくださいね。



こしらへるでも、動かすでも、縛るでもない。
では何なのか?

あらまほしきは、“しみじみとした実感”です。
つまり、こころがおのづから動いてくれるのを待つ、といふこと。


寒さを味はふうちに、おや? と気づきます。
「寒いけど、それもまんざら悪くないかも・・・・・・。」
そんな感じかたでよいのです。
好きにまでならなくていい。

冬の寒さを味はへる私といへども、寒いのが好きなわけではありません。
寒くないにこしたことはない、とは思ってゐます。
でも、どうせ冬は寒い、と開きなほってもゐます。
だからこそ、寒さを味はへるのです。

「寒いと思ふから、寒いのだ。あったかいと思ひなさい!」
などと言ふ人もゐますが、的を外してゐます。
北風がビュービュー吹いてる空のもとで、どうやったらあったかいと思へるのか?
教へてほしいくらゐです。

むしろ「寒い!」と認めてしまひなさい、と言ひたい。
寒さを認めて、味はふ。
さすれば、寒くても嫌にならない心が手に入ります。

寒いをあったかいと思ふのは、努力。
寒いを寒いと認めるのは、まったく自然なこころ。


がんばらなくていい。
ただ認めて味はへばよいのです。
それは“怠惰のススメ”ですから、まことは楽なんですよ。



終りに、おもしろい話をひとつ。

「瓢鮎図(ヒョウネンヅ)」といふ水墨画があります。
如拙(ジョセツ)といふ室町時代の画僧の作です。

この絵は、禅におけるひとつの悟りをあらはす、とのこと。
池の鯰(ナマヅ)を、男が瓢箪でつかまへようとしてゐる絵に見えますね。

男の試みは、明らかに無謀ではありませんか?
ヌルヌルして生きがよささうな鯰を、よりにもよって、口のほそい瓢箪に入れる。
誰がどう見ても、「無理!」と思ふでせう。

でも終ひには、鯰は瓢箪のなかに収まるのです。
なぜなら、鯰がみづからすすんで瓢箪に入るから。
「???」



謎解きをすると、この絵における鯰は、おのが心をあらはします。
瓢箪は、こころを制御しようとする理性をあらはします。


理性でこころ(感情)をおさへようとしても、おさへられません。
たとひその場はおさへられたとしても、その感情はこころの奥深くに入って、あとあと悪さをします。

冬の寒さを理性のチカラで「温かい」と思はんとするのは、感情を制御しようとしてゐます。
だから、うまくゆきません。

かたや、寒さをすなほに「寒い!」と認めて味はへば、ふと、
「あ、冬の寒さもわるくないもんだな。」
と感じるひとときが訪れます。
それこそ、鯰が瓢箪にみづから入った瞬間です。


鯰くんがわかりづらければ、猫ちゃんでイメージしてみてください。
で、瓢箪は紙袋にかへて。

紙袋をかざして猫をつかまへようとしても、まあ無理ですわな。
瞬時に逃げられるのがオチでせう。

でも、紙袋をそのへんに置いておくと、いつしか猫がその中に入って寝てたりします。
猫は狭いところを好む習性がありますからね。
気づけば、猫が紙袋に入ってゐる。

つかまへようとするうちは入ってくれないけれど、放っておくと入ってくれるのです。



こころの学びについては、西洋は東洋にかなひません。
仏教は“こころの科学”といふがごときもので、キリスト教とはまったく異なる宗教です。
キリスト教は“陶酔”をめざしますが、仏教は“覚醒”をめざします。
目的地からして、そもそも違ふのです。

西洋の心理学はわかりやすいけれど、だからと言ってたやすくできるわけではなりません。
そこを勘違ひしてゐる人が多いやうな気がします。

わかりたいだけの人なら、西洋の心理学どまりでかまひません。
しかし一歩すすんで、できるやうになりたいのなら、ぜひとも東洋の智慧を借りなければならないのです。
西洋の心理学にしても、ユングなどが東洋をパクってゐるのは、有名な話。



むかしから、俳句を禅とむすびつけて理解する人たちがゐました。
その理解は、まんざら外れてはゐないでせう。

私がおススメしてゐる歌よみも、こころを向上させるものとして捉へなほすことができます。
ただ風流に身をまかすだけの趣味ではないのです。

かなしい出来事を歌によむ。
それは、かなしみを味はふことです。

「かなしんではならない!」
「泣いてはならない!」
それらは、こころを抑へようとする理性の働き。
すなはち、瓢箪で鯰をつかまへることに似た無謀です。

わが歌よみセラピーは、かなしみを歌にして、歎いていただきます。
「かなしい時は、かなしむ。」
「泣きたい時は、泣く。」
これはたやすいことですよね。
しかも、歌ができた後、なぜかかなしみがつらくなくなってゐる。
かなしみは今だにあるんだけど、それがつらくない。

鯰が瓢箪に、猫が紙袋に、入ってくれたからです。



「わたし、不幸だわ。」
と思ふ人ほど、うたよみの癒しを・・・・・・。
(終)



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人のそっけなさに、心痛めてよめる歌


はるけくも照る月にいざ言(コト)問はむ君のこころはいづくにありや




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いつも御運び、ありがたうございます。
すこしでもみなさんのお役に立てれば、私は幸せです。




恋愛において、相手のこころがわからなくなってしまふことがあります。
いったい、真意はどこにあるのか、と。

好意的にふれあってくれたと思ったら、にはかにそっけなくなったりする。
好きと言った舌の根も乾かぬうちに、いや違ふ、みたいなことを言ふ。
どっちなんだ、と。
困りもするし、切なくもなります。

その気持は、プラスに転換しようがありませんね。
ポジティブに捉へなほすことは、ほとんど無理でせう。

そんなとき、歌よみは大活躍してくれます。
マイナスな気持をマイナスのまま、受け容れさせてくれるのです。
私のやうな“恋多き乙女”には、まったくもってありがたいこと。



ポジティブな気持になりきれず、もどかしい時であっても、そのもどかしさのまま歌を詠む。
すると、不思議なことに、気持が晴れてくるのです。

はっきりと理性的に論理的にまとめられなくて“もやもや”してゐる時は、その“もやもや”を歌にしてみる。
すると、気持がまとまってこころが定まってくるのです。

藝術行為の奥深いところですね。
心理学の“し”の字も無かったころから、ヒトがやってきたことであります。
だから、藝術療法を科学的にすっかり解明してしまふことは、おそらくできないと思ひます。

しかし、それはなんら藝術療法の汚点にはなりません。
むしろ、ヒトの浅はかで“さかしら”な頭には及びもつかない、無限の可能性を秘めてゐることのあかしになりえます。

論理的につきつめられることには限りがあることを知りませう。
西洋的思考にどっぷりつかってゐる多くの人にとっては、科学的証明こそがすべてかもしれませんが、証明されないことを“無いもの”として扱ふなんぞは、傲慢もいいところだと思ひませんか?

かの西洋の一流科学者、たとへばニュートンやアインシュタインでさへ、
「科学がすべてである。」
などとは言ってないのですよ。
彼らは超一流だったから、みづからの手に負へることと負へないこととの区別が、ちゃんとついてゐました。

藝術療法は奥深いからこそ証明がしづらい、と考へませう。
そしてこの療法は、心理学者や精神科医やカウンセラーの独擅場ではなく、みなに開かれてゐます。
むしろ、彼らの方が後からやってきた新参者なのです。
まはりに遠慮することなく、藝術表現からこころの癒しを得ませう。



名にし負はばいざ言問はむ都鳥わがおもふ人はありやなしやと(古今411)


けふの歌は、在原業平のこの歌の“本歌取り”みたいになってゐます。
私としては、自覚的にそれをやったわけではなく、すらすら出てきた言葉をまとめたら、結果としてそんな感じになったのです。

業平は、いまの私がもっとも尊敬する歌人ですから、知らず知らず影響されるのは仕方のないところかもしれません。



けふの歌。

「いづくにありや?」
と、私に問はれた月からすれば、
「そんなの知るか!」
でせう(笑)。
しかも月にむかって、月ではない“きみ”のこころを訊ねてゐるわけですよ。
まったく論理的ではありませんね。

でも、いいんです。
歌は論理的でなければならない決まりはありません。



けふの歌は、私の“なげきの歌”。
文字だけながめると、たいしてつらくも無いやうに見えますが、この31文字に私はおもひをたっぷりこめてゐます。

だからこそ、言ひたかったことが言へて、吐き出したかったことを吐き出せて、まことにすっきりとした、い~い気持になるのです。

しかも、ひとつの歌といふ“作品”になって、手元にのこります。
いつか歌集や文集に載せられるかもしれない。
いつか誰かにプレゼントできるかもしれない。
歎きそのものは本にもプレゼントにもなりませんが、“歎きの歌”ならそれも夢ではありません。

何よりも、私みづからがこの歌を気に入ってます。
たからもののひとつです。

嘆かはしい出来事があったからこそ生まれた、私のこの歌。
愛しいったらないですよ。
大切な私の一部でございます。



私よりもマイナス感情を受け容れられる人がゐるなら、お目にかかりたいものです。
私の肯定感は、かたちある作品への愛しさといふ“実感”にもとづきます。
頭のなかだけで受け容れようとする人とは、レベルも質も違ふのです。
と、ここはあへて自信たっぷりに誇ってみますね。
文句のあるかたは、いつでもどうぞ(笑)。

頭のなかで“捉へなほし”をしてマイナス感情を受け容れるのは、マイナスをプラスに転換して受け容れてゐます。
ですから、厳密に言へば、マイナスを受け容れてゐるわけではないのです。

私は、そもそもプラスにしようとも思ってゐないし、受け容れようとも思ってゐません。
考へるはただひとつ、歌をよむこと、それだけです。
にもかかはらず、結果としてはちゃんと受け容れられてゐます。

この癒しのメカニズムの不思議は、ぜひ憶えておいてくださいね。



つらい出来事を歌によむとき、そのつらさを味はひなほしつつ、言葉を考へます。

で、ひとたび歌が出来あがってみると、つらい気持は、どこかへ消えてしまふのです。
状況じたいは変ってゐなくとも、こころがその状況をつらく思はなくなるのですね。
かなしみが今だに存在してゐたとしても、心はしんどくないのです。

これぞ、まことの“マイナスをマイナスのまま受け容れる”であります。

マイナス感情があったとしても、それをつらいと感じるか、さほどでもないと感じるか。
そのふたつはまったくの別モノですから、わけて考へてくださいね。
(この違ひがわかるやうになれば、しめたものです。)

マイナス感情をマイナスのまま受け容れられるやうになれば、日々やすらかな気持ですごせます。
どんなことがあってもオッケー、といふ自信にもつながります。

そんな自信を、ぜひ歌よみによって、つけていただきたいと思ひます。
では、ごきげんよう。
(終)



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