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S20年生、後期高齢ゾーン、人生最終コーナー「遊行期」の
徒然残日写真録

190907 時は「白露」、さわやかな季節になるはずが2年ぶりに蕁麻疹再発!漂泊の俳人、種田山頭火を読む!!

2019年09月07日 | アフターセブンティ

24節気では「白露」大気が冷えてきて露を結ぶ頃、残暑がひいて本格的な秋が訪れるということだが台風の影響か昼間は蒸し暑さが残る。

おまけに去年から今までずっと忘れていた蕁麻疹が再発、二、三日前から足首あたりがかゆかったり、今朝、眼のふちが腫れぼったい。

 

Y皮膚科を訪れる。9時前、駐車場はいっぱい、すぐ隣のスーパーに車をとめ受付へ。20人待ち。なんでこんなに多いのかね。アレルギー体質の人が増えたのかしら。

厄介なのは原因が特定しにくく、薬をいろいろ試して様子をみるという近代医学とは思えない対応をとらざるを得ない。副院長のY女医に前のカルテをベースに薬を処方してもらう。やれやれ!

 お食事処「山頭家」に行った時から種田山頭火という漂泊の俳人(というイメージ)について調べようと思っていた。図書館に立ち寄った時「山頭火と歩く」という本を借りてきた。

 見返しに 「分け入っても分け入っても青い山」大正15年6月、こんな句を詠んだ一人の俳人は行乞流転の旅に出ていた。種田三頭火、酒におぼれ借金を繰り返す男が背負っていた「惑い」とは?その境涯を自由律俳句で表現した真意とは?再評価される異才の軌跡を写真で巡り、新視点の評伝で彼の実態に迫る!とある。

 種田山頭火とはどんな人間?

 明治15年、山口県防府市に資産家の長男として生まれるが11歳の時、母親が衝撃の自殺、父親の信用失墜、家運が傾く。そのころから放浪自由への憧れをいだき、早稲田大学文学部に入るも中退、帰郷して家業の再興をはかるべく古酒造場を買い取り、実業にはげみ、嫁もとって1男をもうける。しかし家庭は彼にとって安穏の場ではなく、心中いらだちを募らせ酒におぼれる。が酔いたい自分と酔うまいとする私が交錯して内部破たんに陥る。29歳の頃、翻訳や定型俳句をはじめる。

 31歳の時、荻原井泉水に師事し、主宰詩「層雲」に山頭火の俳号で自由律俳句をつくりはじめ翌大正3年頃は防府俳壇の中心的存在になる。しかし種田酒造場が大正5年34歳の時、破産、一家離散、妻子と熊本に落ち延び、下通で古書店開業。37歳、文学への夢断ち切れず単身上京、38歳妻サキノと離婚、一ツ橋図書館に勤務、41歳大正12年、関東大震災、焼け出され、社会主義者と間違われ、熊本に逃げ帰る。大正13年、市電通行妨害で坪井の曹洞宗報恩寺に連行され、これを機に禅門に入る。翌年出家、大正14年43歳の時、植木町の味取の観音堂の堂守となる。

大正15年。44歳の時、寂しさに耐えかねて、一鉢一笠の乞食の旅にでる。この年が山頭火の放浪人生の一大転機となった。4月、解く術もない惑いを背負うての乞食流転の旅が始まった。6月、分け入っても分け入っても青い山の名句が生まれた。

この旅果てもない旅のつくつくぼうし

へうへうとして水を飲む・・・酒好き水好き。当時うまい水はいたるところにあったようだ

水のうまさを蛙鳴く

すべってころんで山がひっそり・・昭和4年、福岡英彦山から大分耶馬渓へ下るときの作

いちにちわれとわが足音を聴きつつ歩む・・昭和5年11月大分竹田市。山頭火の日記「行乞記」に竹田というところはトンネルが多い・・

落葉ふる奥ふかく御仏を観る・・山頭火にとっては願いの一つであった。

山へ空へ摩訶般若波羅波羅蜜多心経

熊本、高千穂、宮崎、大分、柳川、徳山へ俳友も尋ねながらの行乞の旅。

山のあなたへお日さま見おくり御飯にする・・高浜虚子を筆頭とする花鳥風月、有季定型派からみれば俳句とは絶対に認められないのかもしれない。

ほととぎすあすはあの山こえて行かう・・めずらしく型に入った歌もある

分け入れば水音・・9文字の短律俳句。禅坊主の気合に通じる俳句。

句聖や句友をたずねたりの乞食の放浪旅が中国、四国、近畿、関東、東北へと続く。

佐渡に行った時も 荒海へ脚投げだして旅のあとさき、平泉でも ここまでを来し水飲んで去る と芭蕉への特別の思い入れもなくあっけらかん。

昭和14年、松山に恵まれて御幸寺境内に草案をえて「一草庵」と名付ける。

ほろほろほろびゆくわたくしの秋

いつでも死ねる草が咲いたり実ったり

ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない

昭和15年。日独伊三国軍事同盟、戦線拡大の一途をたどるニッポン。山頭火58歳、戦争とは無関係に、あくまで山頭火は山頭火、俳句仲間「柿の会」を結成し一草庵で初句会。4月、句集「草木塔」を刊行、俳友への献呈の旅。10月10日帰還。

もりもり盛り上がる雲へあゆむ・・・昭和15年10月の句

脳溢血で死去。本人が望んでいた俳句の確立とコロリ往生を達成しての大往生であったとか・・・誰もマネのできない山頭火だけの世界ということか・・・

 今朝の西日本新聞に粕屋町の元教師のYさんが「山頭火の放浪・山頭火の旅」を出版されたとの記事。昭和の初め、山頭火のような非生産的な人間は生きにくかったはずだがそんな中で珠玉の句を残した。生きにくい今こそ魅力と言っておられる。

 

 


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