古事記・日本書紀・万葉集を読む(論文集)

ヤマトコトバについての学術情報リポジトリ 加藤良平

仲哀記の「是以知坐腹中国也」について

2018年08月11日 | 古事記・日本書紀・万葉集
 仲哀記の「是以知坐腹中国也」という一文は定訓を得ていない。

 帯中日子天皇坐穴門之豊浦宮及筑紫訶志比宮治天下也此天皇娶大江王之女大中津比売命生御子香坂王忍熊王二柱又娶息長帯比売命是大后生御子品夜和気命次大鞆和気命亦名品陀和気命二柱此太子之御名所以負大鞆和気命者初所生時如鞆宍生御腕故著其御名是以知坐腹中国也此之御世定淡道之屯家也

 「是以知坐腹中国也」という文について、新校古事記に、諸説の整理と問題点がまとめられている。

……左に示すように、兼の傍訓をはじめとしてさまざまな試訓があるが、定解を得ない。
①兼 是を以て知る、みはらししよりみくにをさめたまむこと。
②寛 是を以て知る、はらししよりみくににさだめたまんこと。
③頭 是を以て知る、腹の中にいまししより国を知らしめさんと。(「知2」は意補)
④訓 ここ腹中みはらぬちましましてくにさだめたまへりしこと知らえたり。(「定」は意補)
⑤訳注 ここを以ちて腹ぬちにましまして国知らしめしき。
⑥大系 是を以ちて腹に坐して国にあたりたまひしを知りぬ。
⑦全書 ここを以ちて、腹中はらぬちに国をらししき。
⑧白帝 是を以ちて腹の中の国に坐ししを知りぬ(全注も同じ)
⑨神道 腹中はらぬちいまして国を知らしめししをちてなり
⑩思想 ここちて、腹中はらぬちいましてくにらす。
⑪修訂 ここちて、腹中はらぬちいまして国をらしめしき。
⑫新編 ここて、知りぬ、はらいまして国をたひらげつることを。(「平」は「中」を意改)
⑬角川 ここはらうちいまして国を知りたまふ。
これらを「知」字の解釈に即して大別すれば、A領有・支配するの意に解するもの(⑤⑦⑨⑩⑪⑬)と、B認識・理解するの意に解するもの(①②③④⑥⑧⑫)とに分かれる。ところで、Aの領有・支配する対象は「所知高天原」(上181)「所知大八島国」(中369)「知天津日続」(下431)などのように、国や日継など比較的単純な語が「知」に連接して記述されるのに対して(「天津日継所知」(上505)などのように和語の語序に従って構文される場合も同様である)、Bの認識・理解する対象は「知神子」(中222)「知薬方」(下169)などのように単純な語から、「知与吾族孰多」(上306)「不知孰檝而立船」(中653)「不知其少王遊殿下」(下227)などのように、句を形成するものまで多様である。当該例の「知」が、仮に領有・支配する意であるとすれば、その対象は「国」と考えられるが、その「国」は通例のように「知」に連接せずに、「知」を修飾するはずの副詞句「坐腹中」が間に挿入されるという異例の構文となっている。そもそも「知」を修飾する副詞句が「知」の下に置かれること自体、不審といわねばならない。
 構文的には「知」を認識・理解する意と捉えるのが自然で、その場合「坐腹中国」が認識・理解し得た内容ということになる。『日本書紀』の「胎中之帝」(継体六年十二月条)、「胎中天皇」(同二十三年四月戊子条)などに引かれて、「腹中」を一つの意味単位として捉えるのが一般的であるが、そうした捉え方を前提とする限り「坐腹中国」はほとんど意味をなさない。③④がそれぞれ諸写本にない「知」「定」を国の上に意補するのはそのためである(⑧は諸写本の様態に即して捉えようとしたものであるが、意味不明といわざるを得ない)。⑤⑦⑧⑨⑩⑪⑬が「知」字を領有・支配する意に解するのも、同じ問題の異なる解消法といえる。この後に語られる新羅征討の物語を通じて、大鞆和気命(品陀和気命)が征討時、息長帯日売命の胎中にあったことが知られるが、そのことは「坐腹」で十分に表されており、「坐腹中国」を「坐腹中」と「国」に分節して捉える必要はない(中520・中521にはそれぞれ「坐汝命御腹之御子」「坐其神腹之御子」とあって、特に「腹中」という表現は用いられていない)。結局のところ、残る「中国」二字の解釈が問題となる。①②⑥は「中」を動詞と捉え、それぞれヲサム、サダム、アタルと訓むが、⑥のアタルを除き、「中」の訓としては無理がある。⑥にしても「国にあたりたまひしを」と訓んで、胎内にいながら国政に当たられたの意と解するのは「中」の字義から逸脱していよう。なお、「中」を「平」に意改する⑫は今日的な校訂態度とはいえない。
 用字に即して、しばらく「はらにして中国なかつくにいまししことを知りき」と訓んでおく(注1)。(289~290頁、傍訓については書き下し文に改め、誤植と思われるカギ括弧を句点に改め、漢字の旧字体も改めた。)

 「腹中」とある個所を、ハラヌチ(「腹の内」の約)という訓み方をするのは、「胎中誉田天皇」、「胎中之帝」、「胎中天皇」(継体紀)の書陵部本傍訓にハラノウチニマシマスとある点と、紀28歌謡の「波邏濃知」のハラヌチは腹の内の意であると解したことによっている。しかし、紀28歌謡の「波邏濃知」のハラヌチの意は、「らぬ」と解すべきである(注2)。また、継体紀のハラノウチニマシマスという傍訓は紀のもので、それも「腹中」ではなく「胎中」である。記の用字法において、「中」はウチやチとは訓まず、ナカと訓むべきである(注3)。新校古事記の指摘にあるように、「坐腹中国」は「ほとんど意味をなさない」からそう訓まないのではなく、上代語に確認されず、太安万侶の用字法にも当たらないからそうは訓まないのである。
 筆者は、①~⑬ならびに、新校古事記の訓みの努力に浅さを感じる。「知」を「A領有・支配するの意に解する」ことが否定されるとしているが、(仮にそうでなくても)直前の「是以」の意味するところへの配慮が見られない。「是を以て」の「是」とは、前文のことである。「知」を「B認識・理解するの意に解する」とすれば、この文章は、「此太子之御名所以負大鞆和気命者初所生時如鞆宍生御腕故著其御名」を以て「坐腹中国也」という意味である。
 「太子ひつぎのみこ御名みなを、大鞆和気命おほともわけのみことおほせたまひし所以ゆゑは、はじまれまししときに、ともごとしし御腕みただむきひてありき。かれ御名みなけたまひき。」と訓んでいる。この解釈について異論はない。「この太子の御名みなを大鞆和気命と付けた理由は、初め、生んだ時に、とものような肉が、御子の腕にできていた。それで、その名を付けた。」(新編241頁)、「この皇太子のお名前に大鞆和気命という名をお付けになったわけは、初めお生まれになった時、とものような肉がお腕にできていたので、そのお名前にお付け申したのである。」(全集233~234頁)、「この太子の御名を、大鞆和気命と名付けられているわけは、初め、この世にお生まれになった時、弓を射る時にまくとものような肉がおうでにできていた。その聖なる表徴しるしにより、その御名をお付け申した。」(角川368頁)などと訳されている。これらの訳で、大きな誤りはない(注4)
 赤ん坊の腕に鞆のような肉腫ができていることは稀である。鞆とは、弓を射る際、左手の肘につける防具である。新撰字鏡に、「鞆 止毛とも」、和名抄に、「𤿧 蒋魴切韻に云はく、𤿧〈音は早、止毛とも、楊氏漢語抄、日本紀等に鞆の字を用ゐ、俗に亦、之れを用う。本文は未だ詳らかならず〉は臂に在りて弦を避く具なりといふ。毛詩注に云はく、拾〈今案ふるに即ち捃拾の𤿧なり、玉篇に見ゆ〉は襚なりといふ。礼と弓矢図に云はく、禭〈音は遂〉は臂の𤿧にして、朱の韋を以て之れをつくるといふ。」とある。一般に動物の革製で、丸くふくらんだ形をしており、弓弦がはね返って直接腕に当たり傷つかないようにするとともに、弓弦が鞆に当たって高い音を響かせ、威嚇や儀礼の効果音となったとされている(注5)。一石二鳥の道具だからトモと呼ぶ。左手に一つしかないのにトモである。たいへんな造語力といえる。現在残る鞆は、音を発する機構が袋状をしているにすぎないが、もとはクラインの壺状の形を理想としていたのではないかと考える。トモという語に名づけられていることを鑑みた時、語学的見地から筆者はそう考える。通常、一つのものをトモと呼ぶことはかなわない。一緒にいるから共・供・伴であり、人が二人いてはじめてトモという。
左:鞆(正倉院宝物復元模型品、橿原考古学研究所附属博物館展示品)、右:クラインの壺(Mr.Sci science factoryHP、https://www.mr-sci.net/)
 膨らみが赤ん坊の左腕についている。「如鞆宍生御腕」としか記されないが、鞆は必ず弓手の左腕に着けるもので、右腕には着けない。右腕に肉腫があった場合、それを「如鞆宍生」とは表現しない。ヒダリ(左)という語の語源は明らかではなく、またヒの甲乙、タの清濁も不明である。無文字文化の爛熟した飛鳥時代、音声言語の機知に戯れて、ヒダリ(一人、ヒは甲類)、ヒタリ(養・日足、ヒは甲類)という語などとの関係から洒落を言っているとすれば、一人放っておいてもヒタ(直・頓、ヒは甲類)に育っていくことが確実視されていることを表していると考えられる。これらは語源意識の反映ではなく、語感、音感の愉しみである(注6)

 吾妹子わぎもこは くしろにあらなむ 左手ひだりての 吾が奥の手に きてなましを(万1766)
 えみしを 一人ひだり〔毗儾利〕 ももな人 人は云へども 抵抗たむかひもせず(紀11)
 …… 何時いつしかも 日足ひたらしまして 十五月もちつきの たたはしけむと ……(万3324)

 そして、この「如鞆宍」がひとりでに養育されると、それは肘に一体である。和名抄に、「臂 広雅に云はく、臂〈音は秘〉は之れを肱〈古弘反〉と謂ふといふ。四声字苑に云はく、肘〈陟柳反、或に䏔に作る、比知ひぢ〉は臂の節なりといふ。」とある。赤ん坊の四肢はぷっくり膨らんでいて肘以外にもくびれているのが常態であり、肘や膝が尖り立っているものではない。そんな赤ん坊の左腕の中ほどに、鞆のような宍があったとは、生まれた時にすでに大人のように肘がはっきりしていた。「是以」とは、赤ん坊に肘があるという不思議なことを以てして、という意味である。それ以後の構文は、「知」と「坐」という2つの動詞が連続して現れている。それぞれに目的語を持っているものとして捉えられる。
赤ちゃんの腕(grape編集部様、https://grapee.jp/168024)
 是以、腹中也。

 同様の構文は、記のなかに確認される。

 故、此大国主神、胸形奧津宮神、多紀理毘売命生子、阿遲鉏高日子根神、……(記上)
 故、此の大国主神、胸形の奥津宮おきつみやいます神、多紀理毘売命たきりびめのみことを娶りて生みしみこは、阿遅あぢ鉏高すきたか日子ひこ根神ねのかみ、……
 爾其矢、自雉胸通而、逆射上、天安河之河原天照大御神・高木神之御所。(記上)
 爾くして其の矢、きぎしの胸より通りて、さかしまに射上がり、天安河あまのやすのかは河原かはらいます天照大御神・高木神の御所みところいたりぬ。

 古事記のなかの「坐」の用例は 200例近くに及ぶ。動詞として存在を表わす用法は100例ほどあり、神や天皇、皇族がいることを尊敬語で表わす例がほとんどである。ほかに貴人の子が何人いたのかを表わす場合にも「坐」字は用いられている。つまり、身分が高い存在者の存在を表す際に「坐」字が用いられ、マス、イマス、マシマスなどと訓まれている。上の2例では、連体修飾語として該当する神を修飾している。
 万葉集の用例を調べると、マスとイマスに明瞭な差異が認められるものではなく、語調によるところが大きいと考えられている。日葡辞書に、「Maximaxi,su,xita.マシマシ,ス,シタ(ましまし,す,した)…がある,…である,…にある,来る,持つ,など.デウス(Deos 神),サントス(sanctos 聖人たち),貴人などのことを言うのに用いられる.文章語.」(390頁)とある。マシマスは文章語で、地の文において、かしこまって用いるのが慣用の傾向にあるようである(注7)
 この個所で「国」が「坐」すことになっている。記のなかでは、人や神以外に存在の尊敬語として「坐」を使う例も見られる。

 此刀者、坐石上神宮也。(神武記)
 此のたちは、石上神宮いそのかみのかみのみやいます。

 無生物の「刀」が「坐」すとされている。神格性が付与されて貴いものと扱われている。本例も同様に、腹の中にある「国」が神格的な国であって、「坐」す対象になっていると考えられる。そもそも、皇后の胎内に「国」があるとするなら、その「国」は尊敬の対象になるに決まっているようなものである。畏敬の念を覚えずにはいられない。

 是を以て、腹のなかいます国を知れり。

 このように訓めるのは、生まれてきた子にすでにヒヂ(肘、ヒは甲類)があったからである。ということは、腹の中でもヒヂがあったことになる。腹に身籠っているとき、胎児は羊水に浮かんでいる。「国」となるべき土地はないはずである。ところが胎内でヒヂが形成されていたとすると、胎内にヒヂ(泥、ヒは甲類)があったに違いないと知れる。和名抄に、「泥 孫愐に云はく、泥〈奴低反、和名は比知利古ひぢりこ、一に古比知こひぢと云ふ〉は土の水に和ふるなりといふ。」とある。記上に、「須比智すひち邇神にのかみ」とあるのは、「土煑ひぢにのみこと」(神代紀第二段本文)に同じく、「沙土、此には須毗尼すひぢと云ふ。」(同訓注)で、ス(砂)+ヒヂ(泥)の意をいうそのヒヂ(泥)である(注8)。泥が固まって国は形成される。まさしく、腹の中に国があるのである。海を渡った西方にも国がある。三次元空間で仮構したクラインの壺で説明がつく事柄である。外にある泥が中に吸い込まれて肘を形成することができる。
 仲哀記では、神のお告げを何回か聞いている。はじめに、海の向こうの西の方に金銀財宝の多い国があるから征服したらいいと告げられている。仲哀天皇はそれを信じず、高いところに登っても国は見えないと言って神の言うことを蔑ろにしていたら薨去してしまった。そこでもう一度お告げを聞くと、その国(新羅)は、「御腹坐御子」が知らす国であると告げられている。これが話の本筋である。その話の伏線として、皇統譜に「是以知坐腹中国也」とある。腹の中の羊水ばかりだと思えるところに国があるのだから、西の方の大海ばかりと見えるところにも国はあるものだという流れになっている。話(咄・噺・譚)の完成度が非常に高い。結果、ヒヂ(肘・泥)の駄洒落のような、その実、何か共通するところがあるからそのように名づけられたかと憶測を呼んだ言葉が上手に活用されている。ヤマトコトバを使っていた人たちの頓智の才の躍如たるところである。
 以上、従前の訓ならびに解釈の誤りを正した(注9)


(注1)新校古事記記載の諸書は次で見ることができる。
①兼 兼永本、『卜部兼永本 古事記』勉誠社、1981年。
②寛 寛文版本。
③頭 鼈頭古事記、『神道大系古典註釈編1 古事記註釈』神道大系編纂会、1990年。
④訓 訂正古訓古事記、『本居宣長全集 第八巻』筑摩書房、1972年。
⑤訳注 武田祐吉訳注『古事記』角川書店、1956年。
⑥大系 倉野憲司校注『古事記』岩波書店(岩波文庫)、1963年。
⑦全書 神田秀夫・太田義麿校注『日本古典全書 古事記』朝日新聞社、1962年。
⑧白帝 尾崎知光編『古事記』白帝社、1972年。
⑨神道 小野田光雄校注『神道大系古典編1 古事記』神道大系編纂会、1977年。
⑩思想 青木和夫・石母田正・小林芳規・佐伯有清校注『日本思想大系1 古事記』岩波書店、1982年。
⑪修訂 西宮一民編『古事記 修訂版』おうふう、2000年。
⑫新編 山口佳紀・神野志隆光校注・訳『新編日本古典文学全集1 古事記』小学館、1997年。
⑬角川 中村啓信訳注『新版 古事記』角川学芸出版(角川ソフィア文庫)、2009年。
(注2)拙稿「神功紀、紀28歌謡のハラヌチについて」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/47b140e79aff019d76ae923572985139参照。
(注3)拙稿「古事記の用字、「中」と「内」をめぐって」https://blog.goo.ne.jp/katodesuryoheidesu/e/103bb491041c263a95185170b9bb704f参照。
(注4)腕にある肉腫が聖なる表徴であるかどうか、書いていないことを決めてかかるのは芳しくない。三浦2002.に、「……この御子がそう名づけられたわけはの、生まれ落ちた時に、弓を射るときにひじにあてがうとものごときししの固まりが、そのかいなに付いておったからじゃ。それで、その御名みなをオホトモワケとしたのじゃった。こうして宍があるのは神の子のしるしでの、そのあかしに、母君オキナガタラシヒメの腹の中に坐した時から、すでに国をべたもうたものよ。」(219頁)とある。肉の塊のある奇形に神聖性を感じていたとしたならば、どこかの一般民にそのような子が生まれ特別扱いされていたはずである。しかし、例えばその子を天皇家の養子にしたとする記事は見られない。
(注5)ますらをの ともの音すなり 物部もののべの 大臣おほまえつきみ たて立つらしも(万76)

 大嘗会の儀礼の歌とされている。このときの鳴弦は矢を放つときにピチカート同様に発する音ではなく、鞆を打楽器として弦が叩く音であったことと考えられる。鞆というものそのものが平安時代後期にはなくなってしまっているので、後代のそれとは異なると推測される。
(注6)この文が本稿で述べているような高度な口承文芸であるならば、ヒダリ(左)のヒは甲類と推定される。
(注7)仲哀記の続く記事に、「西のかたに国有り。」と神のお告げがある。紀でも、「善きかな、国の在りけること」(神代紀第四段一書第二)、「まさに国有らむや」(神代紀第四段一書第三)などと軽く口に出している。ここで「まします国」と訓めないことはないかもしれないが、無理にマシマスとかしこまって訓まなければならない理由は思い当たらない。
(注8)記上に、須比智邇神の対として「宇比地邇神うひぢにのかみ」のウの意は未詳である。「次に神有り。埿土煑尊埿土、此には于毗尼うひぢと云ふ。・沙土煑尊〈沙土、此には須毗尼すひぢと云ふ。亦、埿土根尊・沙土根尊と曰ふ。」(神代紀第二段本文)とある。
(注9)稗田阿礼はおもしろいお話をしてくれていて、それを太安万侶もきちんと記し伝えてくれている。今日の学界では、新校古事記の補注にある①~⑬ならびに新校古事記のように、笑い話なのに誤読したうえで理屈づけて考えている。その結果、古事記は古代天皇制の正統性を主張する作文であるなどと、大上段に愚考をめぐらせている。ものの考え方が近代の枠組みに絡めとられて少しも近づけていない。

(引用文献、注1にあげたものを除く。)
新校古事記 沖森卓也・佐藤信・矢嶋泉編『新校古事記』おうふう、2015年。
三浦2002. 三浦祐之『口語訳古事記 完全版』文芸春秋、2002年。
日葡辞書 土井忠生・森田武・長南実編訳『邦訳 日葡辞書』岩波書店、1995年。

※本稿は、2018年8月稿を、2024年2月にルビ形式にしたものである。

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