季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

間抜け

2018年09月14日 | 音楽
YouTubeでヨウムの動画を見ていた時期がある。鳥は実際に不思議な生き物だ。研究者からは次々と報告が上がっている。

もっとも僕はヨウムが人の言葉をよく真似できるなぁと、いつもながらの単なる興味本位で見ていたのであるが。言葉を真似するばかりではない、声色まで真似できるのだ。興味本位とは言え、これは大変面白く思った。

電話の呼び出し音が鳴る。これまでリアルに真似するのだ。もしもし〜 はい〜 うん
うん そうなの〜

こんな調子で飼い主を真似するのだが、他の時に聞こえる当の本人(飼い主ですよ)の声と区別するのが困難なほど似ている。

さて、そんな事を思い出してしまったのも、以前紹介したことのあるコルトーの公開講座のCDに改めて間抜けだと痛感したからである。

ピアニストのペライアがコルトーの息子に会った折この講座の録音がある旨を聞いたのだという。ペライアは公開するに値すると思い一任を取り付けた。そのような経緯により陽の目を見たCDらしい。

以前紹介したし、その折にも書いたがここでは生徒の演奏はきれいさっぱりカットされコルトーの話と演奏だけが聴かれる。この一方的な感じが前述したヨウムの電話芸を思わせるのである。

君の演奏は少し速すぎる、なんて言われたってどのテンポに対して言われたのか?それが分からなければこの言葉など何処にも有難い点なぞ有りはしない。

ソクラテスは人の言葉を受け取る他人はその人の流儀でしか受け取らないということを熟知していた。そこで彼は一行も書き遺さなかった。自分の思考はどうやっても一種の誤解から免れることはないのだから。

プラトンはそれはあまりに残念だと、ソクラテスと他の賢人との対話という形式でソクラテスの思考方法を書き遺そうとした。

簡単に言えばそのような次第だ。それがどうだ。折角生徒が弾いて、それは恐らくはよくありがちな演奏だろうに、そちらはカットされているのでは貴重なコルトーの判断も我々は知る事が出来ない。

カザルスの講座のビデオもある。ここで若い女の子がバッハのある曲をあろうことか倍くらい遅く弾いた。カザルス先生、珍しい虫を見たような顔をしてしばし凝視した後、ニッコリ笑って一言も言わず自ら演奏する。

これだって二人の反応があって初めて意味をなす。

音楽家が音楽の世界で間抜けではならないのである。







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