25歳からの海外サッカー

25歳からの海外サッカー

前十字靭帯断裂から約1年のリハビリを経てモンテネグロでのプレー。
そして2014年からは微笑みの国タイへ!

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毎年3月11日が来ると感じる思いがあります。

 

それは後悔のような、情けない気持ちです。

 

 

地震発生から1週間ほど経った頃だったと思います。日時ははっきりとは覚えていませんが、グルージャ盛岡の一員としてまだ復旧作業が始まったばかりの釜石、山田町を訪れました。船や車、瓦礫がそこら中に散乱し、町中が磯の香りがし、そして雪がぱらぱらと降っていたのを覚えています。

 

そこで僕らは瓦礫の撤去作業や、ヘドロだらけになった商店の復旧作業を皆で手伝いました。

 

商店の復旧作業は全員で取り組んでも全く終わりが見えず、海水を含んだ泥や瓦礫は思ったよりも重く大変な作業でした。

 

半日ほど作業の手伝いをし、暗くなる前にはバスで盛岡へと帰りました。

 

撤去作業を一緒にした現地の方々は口を揃えて『ありがとう』と言ってくれました。しかし、盛岡に帰れば一息つける自分たちとは違い、到底終わりの見えない復旧作業、雪がちらつく、冷たい海風の吹く、そして電気も食事も十分にないこの場所で、彼等はこれから生活していかなければならない。

 

盛岡へ戻るバスの中、被災した方達を思うと、申し訳ないような気持ちに襲われました。それと同時に、なぜもっと早く来れなかったのか、と思いました。

 

 

3月11日の震災発生当時。自分は岩手県の盛岡市にいました。練習が終わり、お昼ごはんを食べた後、車で信号待ちをしていた時に今まで感じた事のないような激しい揺れを感じました。

 

そのあと自分が住んでいる街に戻ると、ほとんどの建物が停電していて、発電装置を持っていた観光協会の建物にチームの選手や近所の人達が集まっていました。

 

そこで集まって見たテレビの映像は衝撃的でした。

 

濁流に飲み込まれていく街。どんどん膨らむ被害者の数。自分達がいる盛岡から車で1〜2時間の距離で起きていることだとは分かっていても実感が湧きませんでした。

 

自分が今、被災地に行けば助かる人はいるんじゃないか。そんな事は全く頭に浮かびませんでした。

 

寒い、電気ない、ガソリンもなくなる、食べ物もない、電話もインターネットも通じない、サッカーもできなくなるかも。

 

自分の力でできる事なんてたかが知れている。でも震災発生直後のあの時なら、自分ができることはあったはずでした。でもその時自分にあったのは不安な気持ちだけ。自分が被害者みたいな気持ちになって、その瞬間に本当に助けが必要な人たちのこと考えることが出来ませんでした。

 

 

その時自分が本当にすべきことは何なのか、それを全く考えていなかった。

 

 

自分が本当にすべきことは何なのか、そしてそれを行動に移せるかどうか。それは本当に大事なことだと思います。普段の生活でもそう、何でも。

 

 

6年前の3月11日。自分はそれが全く出来なかった。後からチームメイトと一緒に被災地に行き、復興のお手伝いをさせてもらった。ただそれだけでした。

 

 

悲しさはもちろん、3月11日が来るとそういった感情を感じます。

 

自分の周りでも友人や家族を亡くされた方達はいて、そういう人たちの気持ちを考えるとあの震災で感じた自分の気持ちなんて本当に小さいものです。

 

でも、もし、決断が必要な時に今度はちゃんと自分で考えることができるか。行動に移すことができるか。そういうことを思います。

 

そしてたくさんの人を失くし、たくさんの人たちが悲しい思いをした、忘れてはいけない日だと。

 

そして今日があることは当たり前じゃない。

 

この日が来るたびに改めて思います。