私たちは五感で感じ取れる世界を中心として活動しています。
この目に見える世界、触覚で感じ取れる世界を「現象界」と言います。
この世界での現象は「五感で観察できる事実」で成り立っています。
ただ、人類発生して間もない原始生活の時代は、もしかすると気や経絡を感知できる五感以外の感覚をもっていたのかもしれません。
現象界に対して、五感以外の感覚でなければ認知できない世界を 〈裏に潜む〉〈象(かたち)〉の〈世界〉、すな わち「潜象界」と言います。
ただし、現象界は、潜象界の一部に重なって存在してるため、現象界は潜象界の中で五感が通用するという位置づけになります。
ただ、この潜象界の部分は五感では捉えられないため、自然科学の立場からは「ないもの」として扱われています。
逆に潜象界での現象であろうと推察される気や経絡に関しては、五感では感知できず、五感以外の原初感覚が必要であると考えられます。
五感以外の感覚の例をあげると、渡り鳥が正しい方向に旅することなどが身近な例として挙げられます。渡り鳥は地形や星座の位置などのほか、地磁気なども利用して方向を確認していることが分かっています。これらの現代の常識では理解しにくい行動には、五感以外の感覚が関与していると推察されるのです。
このような原初感覚としての能力は、はるか以前の古代 人は持っていたのではないでしょうか。そして病人を治療する際には、人体においてその異常な情報を発している箇所の状態を治療のよりどころとしたのではないでしょうか。
この異常個所がいわゆる「気滞」と呼ばれるところであり、その気滞を解消するポイントが経穴、その経穴を結ぶルートが経絡です。
古代人の医師はこの見えない気や経絡をある種の事実としてとらえていたのではないでしょうか。
古代においては現代の医薬品はありませんから人が病気になると自然界のあらゆるものを利用します。温熱や草木、物理的な刺激が指圧・鍼灸・漢方薬を形成していったのだと思われます。
このような治療方法が独特の医術(東洋医学)を形作ったのではないかと考えられます。
また、これら古代の治療法は宗教や信仰儀式と密接に結びつ いており、治療者は多くの場合「シャーマン」や 「巫女」であったりしたはずです。
しかしやがて、集団生活から農工芸技術の発展にともなって、原初感覚がしだいに失われていったことが想像されます。
目に見えて、実感できる技術の台頭です。
また原初感覚による施術は術者の技量によってかなり左右されることになり、思い込み、ひとりよがりの施術にも繋がりかねません。
そこで、誰もが同じように実践可能な医術の体系化が図られたのでしょう。
それが現代にまで伝わっている東洋医学です。
そこでは「望診」も本来の技術は失われ、視覚で判断できるものを基準として再構成されていきます。すなわち顔色やシミやほくろの位置などです。
しかし、ダイレクトに経絡の動き、気の動きを観察することが可能であった古代の望診はその存在価値そのものが失われたわけではありません。
この技術によって東洋医学が本来の医療技術としての価値を取り戻すことができるのではないかと考えています。
では、いまはその価値はないのかと言うと、とても「ある」とは言えない位置づけにあるのが東洋医学です。
なぜなら、現時点では西洋医学に対して、東洋医学はあくまで代替医療だというのが一般見解なのですから。
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