「神様からの贈り物」

~扁平上皮癌との闘い~

まだ数年は続くと思っていた、愛猫「ぺい」との平凡な日常。
しかし、その後の誤診と突然の癌宣告...。
それでも、再び元気になれる奇跡を一緒に夢見た記録です。

猫を人と同じように愛せる理由

それにしても不思議だ。冷静に考えてみると、どうしてこんなに悲しいのか?命が永遠でない事ぐらい分かっていた。少しぐらい心の準備もしていた。癌で旅立ったから突然の別れでもなかった。それと、そもそも旅立ったのは人間ではない。人間とは種族が違う猫だ。もし、どんなに悲しくても、それが、同じ人間に対してなのであれば、特に疑問を感じる事もなかったように思う。それは、人を愛する事には自分の子孫を残すことに繋がるという側面もあるし、例えそうでなくても、ごく自然の感情として受け止められるからだ。しかし、人間ではない猫の旅立ちに対する長くて深い悲しみは、どのように理解すれば良いのか?悲しみの深さは、愛した深さに比例するというのも分かる。ただ、悲しみのストレスで自分自身の命を失うのなら仕方ないとまで思えたし、そもそも、それで命を落とすぐらいなら本望とまで思った。そこで、私は、どうして人間ではない猫に対して、ここまで思えるのか?その理由や意味を知りたくなった。そして、もし、それらを理解出来たなら、もっと、悲しみを上手く受け止められる。もっと、ありのままに悲しみを受け止められる。そうすれば少しは楽になれると思ったのだ。

 

そこで、まず、深い悲しみの理由を考える糸口として、人と猫との違いについて考えてみる事にした。まず、一番分かり易いのは外見の違いだ。次に、その他の違いについて考えてみると、人は言葉を話したり文字を扱うことが出来るので頭脳も違う。でも、改めて何が違うのかについて整理してみると、どうしても、この二つの事しか思い浮かばない。そこで、外見の違いと頭脳の違いに焦点を絞って考えてみる事にした。まず、あの世が存在するものと仮定した場合、あの世ではどうか?最初は、外見の違いについて考えてみる。この世では、確かに外見は異なっている。でも、もちろん、あの世に肉体を持ってゆくことは出来ない。そうすると、外見の違いについては、この世だけに限った、それも些細な違いに過ぎないという事になる。次に、もう一つの違いである頭脳の違いについてはどうか?頭脳の違いとは、脳細胞が活動して得られることの差だ。頭脳の違いによって、人は人なりに、猫は猫なりに、色々なことを感じたり考えながら生きている。もちろん、頭脳が優れているほど幸福感を、より多く感じられるという訳でもないだろう。しかし、いずれにしても、そんな脳細胞も身体の一部にしか過ぎない。だから、頭脳の違いも、あの世には持っていけないという事になる。そうすると、あの世では、人も猫も全く違いがないという事になる。結局、人間と猫の違いである外見も頭脳も、それらは全て、この世限定の本当に些細な違いに過ぎない。しかし、あの世も含めて考えると、肉体という物質には依存しない魂というものが、人間と猫では、違うという考え方もあるだろう。しかし、魂の世界が、仮に本当に存在したとしても、それは、我々に備わっている五感では認識出来ない世界。だから、幾ら議論を尽くしても妄想でしかない。ただ、私自身、個人的には、仮に魂というものが本当に存在したとしても、人と猫で魂が異なるという価値観は、人間に都合の良い自己愛に満ちた考え方のように思えてならない。なぜなら、どんな命であっても、目には見えない命、そのもの自体の尊さに差などないと思うからだ。だから、もし、命というものが、魂というものに変わったとしても、元々の命の尊さ自体に差がないので、魂自体にも差など生じるはずがないという考え方だ。そういった訳で、私は、人と猫の違いの本質は、この世で全うする役目が違うだけだと思うようになった。

 

ここで、役目の部分について少し考えてみたい。我々人間は、基本的に人間として生まれてきて一番幸せで良かったと思っている。だけど、実は、猫だって、猫の価値観によって、猫に生まれてきて一番良かったと思っているのかもしれない。役目が違う事で、喜怒哀楽の量や質に違いは生じても、結局、自分の境涯に幸せを感じられるかどうかは、自分自身の心で決めるもの。役目が違うからといって、人と猫のどちらの方が幸せかなんて決められないように思う。だから、そういった意味においても、魂が人間と猫とでは異なるという価値観は、人間の自己愛に満ちていると感じてしまうのだ。

 

では、ここからは、そんな猫を、どうして人と同じように愛せるのか?について考えてゆきたいのだが、その前に、まずは、人と猫との違いと同じように、我々、人間同士の違いについて少し考えてみたいと思う。最初に外見の違いについてだ。人間同士だって性別によって外見は異なっている。では、頭脳の違いについてはどうだろうか?頭脳だって、人それぞれに記憶力や思考スピード、着眼するポイントや価値観が異なっている。それと、猫は、人の言葉を話すことが出来ないから人間との間で意思の疎通に不便があるけれど、同じ人間同士であっても、自分の意思や気持ちを上手く表現出来ないこともあれば、そもそも自分の意思を正直に表現出来ない事だってある。もちろん人間同士の違いは、人と猫との違いに比べれば些細なことかもしれない。でも、一旦、我々、人間同士の違いに視野を狭めて考えてみると分かる。それは、程度の差はあっても、人と猫の違いと、違いの本質は同じだということだ。

 

それと、もう一つ。愛せるかどうかという視点で、極端な例を考えてみたい。それは、蚊に対して猫への愛と同じ思いが生まれるだろうか?という事だ。蚊だって人と猫の違いと全く同じで、外見と頭脳が違うだけではないのか?それなのに、なぜ、人間や猫に対する思いと全く同じ思いが、蚊に対しては生まれないのか?そんな事も全部ひっくるめて考えると、やはり、愛するという気持ちの源は、例え無意識であったとしても、自分自身に何らかの精神的にプラスになる作用があるからだという事になってくる。

 

では、猫という存在は、一体、人間にどんな精神的にプラスになる作用をもたらしてくれているのか?そもそも人間という生き物は、他の生き物より頭脳が圧倒的に優れている。それが、紛れもなく人間の一番の特徴だろう。でも、だからこそ、他の生き物と比較した時に圧倒的に劣っている事がある。それは、過去のことを反省したり、未来のことを心配したりして、ストレスという不幸を自らの力で生産してしまうということだ。でも、これは、人間の頭脳が優れているがこその特徴であって、人間の宿命ともいえる。そこで、我々は、そんなストレスを和らげてくれる存在を欲していて、それこそが猫であったりするのだと思うのです。では、猫は、どのようにストレスを和らげてくれているのか?それは、きっと、人と猫の違いによるものからもたらされているはずだと思うのです。

 

猫は、人間の言葉を喋ることが出来ません。だから、人間は猫が、どのような心理状態なのかを推察することになります。そして、猫の方も、人間の言葉は分からないから、お互いが相手の心理状態を敏感に感じ取ろうとします。そうすると、時間の経過とともに魂と魂の付き合いみたいになってゆくのではないでしょうか?そして、さらに年月を重ねてゆくと、言葉がなくても明確に猫の気持ちが理解出来るようになる。でも、その一方で、人間同士のコミュニケーションについてはどうでしょうか?文字があったり、言葉を喋ったりして、意思や感情を伝えることが出来ます。それはそれで、凄く良い事ではあるけれども、我々は、人間社会で生きてゆく為、その部分に過度に依存し過ぎたり、影響され過ぎていて、実は、本当に大切にしたいものを見失いがちなのではないでしょうか?そして、我々は、そんな人間社会で無意識のうちに蓄積してしまっている社会的ストレスを解消したくて、それで、そのようなストレスを中和してくれる猫の存在を、人と同じように、時には、人以上に愛せると思うのです。

 

我々は、決して一人では生きられません。もちろん、地球上に人間だけでも生きられません。仮に、もし、地球上に人間だけが生きていても意味がないように思います。それは、我々、人間は、数知れない動植物の存在があったからこそ、今まで生きてこられた訳ですし、これからもそのように思うからです。それと、我々、人間同士であれば、違いは、それぞれに生まれ持った強みや弱みだと理解し合いながら生きています。違うからこそ生まれる助け合いや思いやり、そして、違うからこそ生まれる愛。未来は、違うからこそ創造され、違うからこそ継続してゆくと思うのです。

 

これから先の未来、我々に求められている事は何でしょうか?私は、これからも、頭の良い頭脳を使って共存共栄の精神で、動植物の存在を大切にする事こそに、我々、人間特有の存在意義があるように思えるのです。また、これこそが人間の役目だと思うのです。