この遺言教室として3回目ですが、正直何を書こうか迷いました。

と言いますのも、この3回目の内容は、相続全般に関わることであり、そもそもこのブログを始めるきっかけもこの内容を伝える(自分も勉強する)為だとも思いますし、簡単に一回の教室で語られるものではないと思います。

 

でも、まずは自分の思っていることを書いてみます。

 

前回2回目で、思いを手紙に書くことで伝えたいことの本質が見えてくるという話をしました。

 

確かにそうだとは思うのですが、これは手紙を書く自分が生きている自分なのか、それとも既に死んでしまっている自分の立場から書くのかにより、その内容が変わるような気がしています。

 

例えば、多くの時間とお金をかけて作成した立派な遺言であっても、今日一日で貴方は死にますと神に宣告されたとしたら、今の心境とその遺言の内容に齟齬は無いでしょうか?

 

 

戦争の特攻隊の遺書などは、家族への感謝の言葉と、国や家族を守ると言う忠義が際立ちます。

 

人間死を覚悟すると、我欲が消え、ある意味悟りの境地に達するものなのかとも思います。

 

諸行無常の現世です。

 

大切なものも常に変化します。

 

なまじ時間があると、あれもこれもと引っ越しの荷物のように捨てられず、遺言に詰め込んでしまうものなのかも知れません。

 

遺言はもっとシンプルにしなければならないのかも知れません。

 

もっと言いますと、究極の遺言は「書かない事」であるのかも知れません。

 

天皇は恐らく遺言は書かないと思います。

 

釈迦やキリストの遺言が仏典や聖書であるなら、釈迦やキリストも遺言を書いたことになると思いますが、遺言という認識は無いと思いますし、それは宗教であり遺言とはちがいます。

 

そもそも遺言を書くということは、生きているうちに、無意識のうちに、争いの種をまいてしまった後始末の意味合いがあるのかもしれません。

 

思い伝えるなどとカッコつけて言っていますが、裏を返せば争いの火種の鎮火作業なのかもしれません。

 

論語為政編に「父母はただその病をこれ憂う」とあります。

 

親が子に望む事が「子の健康」ただそれだけだということです。

 

五体満足に生まれてきた子供に何を遺すのでしょう?

 

お金ですか?

 

お金より、お金を生み出す方法を伝授するほうが大切なのではないか・・・。

 

それから、勇気と優しさを持って真っ当に生きることの大切さかな・・・。

 

争い事や様々な困難を取り除くより、むしろ遺した方が子は成長するかもしれません。

 

遺言を書かない事に決着すると、このブログも閉鎖です。

 

私も相続で飯を食っていく夢は消えてしまいます。

 

でも、まだ自分の中でこれでいいと思っていないので、まだ続けて行きます。

 

 

今日未明、あの世に旅立った高校時代の友達に思いを馳せてこのブログを書いています。

 

 

 

 


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